11.開店(1)
白いワイシャツに腕を通し、黒のスラックスを履く。髪をまとめて、きゅっとお団子に結い上げた。
鏡の前に腰を下ろし、まずはスキンケアで肌を整える。化粧下地を丁寧に馴染ませ、ファンデーションを薄く重ねていく。仕上げにポイントメイクを加えれば、心の中でカチリと音が鳴ったように準備完了と思えた。
最後に茶色のエプロンを身に着け、姿見の前に立つ。髪よし、化粧よし、身だしなみもよし。鏡に映る自分に、そっと小さく頷いた。
部屋を出て、星見亭へと続く扉の取っ手に手をかける。
ぎぃ、と少し重い音を立てて扉を開けば、差し込んだ朝日が店内をまばゆく染め上げた。窓から射し込む光に舞い上がった埃が、細やかな粒子となって宙を漂い、まるで小さな星々が瞬いているみたいにきらめいていた。
胸の奥が高鳴る。今日から、星見亭が再び動き出す。
祖母が大切にしていた場所。懐かしさを残した、不思議な場所。その扉を今、私が開き、再び灯をともすのだ。
「よし……!」
私は両手をぎゅっと握りしめ、胸の前で小さく気合を入れる。
磨き上げたカウンター、椅子を並べた客席、奥に控える厨房。まだ誰もいないのに、不思議と賑やかな気配が漂っている気がした。
想像するだけで胸が熱くなる。お客さんが笑ってくれる顔、香ばしいコーヒーの香り、温かな食事の湯気。
「絶対、素敵な喫茶店にしてみせる」
言葉にした瞬間、背中に羽根が生えたみたいに心が軽くなった。社畜時代の疲弊も、長い夜も、ここから先へ続く物語のためにあったのだと思える。
私はカウンターに立つ。準備は整った。――星見亭、再開。
◇
コトコトと鍋の中で卵が踊るように茹でられていく。その間にカウンターへまな板を出し、ミックスサンド用の下ごしらえを始めた。
畑から収穫したばかりのキュウリを斜めに薄く切り、整然とトレイに並べていく。次にトマトのヘタを取り、半分にしてから薄くスライス。洗ったばかりのレタスは水を切ってザルにあけておいた。
これで野菜の準備は完了だ。
ちょうどその時、タイマーの澄んだ音が響く。コンロの火を止め、鍋のお湯を流し台に捨てると、代わりに水を注ぎ込んだ。
「そういえば……おばあちゃんは、ここで冷やす魔法を使ってたっけ」
思い出した途端、胸が少し温かくなる。私も真似をして、鍋に手を当て意識を集中させる。
すると、じわりと魔力が広がり、触れていた鍋が一気に冷えていくのが分かった。
「……あ、ほんとに冷たくなってる!」
指先に伝わる感触に驚きながら、茹でたての卵を取り出す。すっかり冷えて、殻も簡単に剥けた。
殻をむいた卵をみじん切りにし、ボウルに移して塩コショウで下味を整える。そこへマヨネーズを加えて混ぜれば、なめらかな卵のタネが完成だ。
最後にハムを切ってトレイに並べると、下ごしらえは一通り終わった。あとは注文が入った時、パンに挟んで切るだけでいい。
「……すごい。経験なんてないのに、こんなに手際よくできるなんて」
驚きと同時に、胸にじんわりとした喜びが広がっていく。おばあちゃんから受け継いだ力は、確かに私の中で息づいていた。長年の経験を借りるように、自然と手が動く。
この調子なら、コーヒーを淹れる時もきっと大丈夫。そう思うと、改めて受け継いだものの大きさを実感し、心から感謝の気持ちが湧き上がった。
「アカネ、おはよう」
声に顔を上げると、カウンター席にちょこんと腰かけたハイドの姿があった。
「ハイド、おはよう」
「下ごしらえは済んだみたいだな。……だったら、そろそろ開店の時間だ」
ハイドが視線を向けたのは、壁に掛けられた時計。針は六時五十八分を指していた。
「うわっ……どうしよう! 一気に緊張してきた!」
その瞬間から胸の鼓動が速くなり、体の奥がぞわぞわと落ち着かなくなる。手のひらには汗がにじみ、不安が広がって、体が小さく縮こまってしまった。
そんな私を見て、ハイドはふっと目を細める。
「仕方ないな。……ほら、俺を抱きしめてみろ。落ち着くぞ」
宙に浮いたハイドがふわりと目の前に寄ってくる。
思わず両腕でその小さな体を抱きかかえた。毛並みはやわらかく、手に吸い付くようにしっとりとしていて、ふわふわの感触が心を優しく包み込む。
ギュッと力を込めるほどに、不思議と心が穏やかになっていった。
「……なんだろう。懐かしい。この感じ」
「小さい頃のアカネは、いつも俺を抱きしめていたからな。懐かしく思うのは自然なことだ」
「でも……やっぱり思い出せない」
「大丈夫だ。記憶は少しずつ戻ってくるさ」
おばあちゃんに封印されたと言われた記憶は、まだ霧の中にある。
けれど、ふとした瞬間に胸をよぎる映像がある。そのたびに、懐かしさと共に私は確かにこの世界にいたのだと実感できる。
――私は今、帰ってきたのだ。この場所で再出発するために。
「ありがとう、ハイド。もう大丈夫」
「よし……なら――星見亭の再開だ」
ハイドをカウンターに戻し、私は胸の奥の鼓動を抑えながら扉へと歩み寄った。ドアノブを握る手が小さく震える。深呼吸をひとつして、思い切って扉を押し開けた。
眩しい朝日が差し込み、視界が白く染まる。思わず目を細めたその先に――。
「アカネ、おはようニャ!!」
弾けるような声とともに、笑顔のチャルカが飛び込んできた。昨日、開店を約束したあの元気な猫獣人だ。
だが、立っていたのはチャルカだけではなかった。
「待っていたよ」
「はじめまして、新しいマスターさん」
「ほう……君がチコさんの孫か」
穏やかな声の杖をついたおじいさん。宝石のように輝く衣装をまとった華やかなお姉さん。そして、逞しい体躯を持つトカゲ顔の獣人。
朝の光を背に、思いがけず多くの人が集まっていた。その光景に、私は驚きと嬉しさで目を大きく見開いた。
「あ、あの……は、はじめまして。星見亭の新しいマスター、アカネです!」
思わず声が裏返り、わたわたと頭を下げる。
チャルカ以外にも人がいるなんて思わず、胸が早鐘を打つ。けれど、その不器用な挨拶に、お客さんたちはふっと笑顔を見せてくれた。
ああ、なんだろう。その笑顔で少しだけ肩の力が抜けていく。
そうだ、ここで立ち止まっていたらダメだ。私は扉に掛かっていた札を「営業中」にくるりと裏返し、扉を大きく開いて両手を広げる。
「お待たせしました。星見亭、ただいま再開です!」
朝の光が差し込み、店の中に温かな輝きが広がる。その瞬間、まるで祖母の笑顔が背中を押してくれるように感じた。
ここから始まる。私と、星見亭の新しい日々が。




