昨日の雨と、本音の端
ドアが閉まった瞬間、 蓮はエントランスで足を止めた。
エレベーターの鏡に映る自分は、 いつもと変わらないはずなのに、 どこか落ち着きがなかった。
――まさか、あの場所で。
昨日の夜の光景が、 頭から離れない。
雨。 人通りの少ない歩道。 俯いて、傘もささずに歩く女。
転びかけた、その瞬間。
「危ない!」
反射的に手が出ていた。
触れた腕は冷たくて、 思ったよりも細くて。
顔を上げた彼女――
光莉は、 驚いた目をして、 まるで「助けられる側」に慣れていない顔をしていた。
……あの目。
自分を責めるようで、 それでも必死に耐えている目。
蓮は、胸の奥がざわついた理由を、 その場では認めなかった。
「……」
エレベーターが一階に着く。
いつもなら、 もう仕事モードに切り替わっている時間。
なのに。
(放っておけるわけ、ないだろ)
昨日、 光莉を部屋に入れたのは、 衝動じゃない。
彼女が、 「遠慮して、消えようとする」気配を、 はっきり感じたからだ。
「……何もしなくていい」
あの言葉は、 半分は彼女のためで、 半分は――自分のためだった。
これ以上、 追い詰められた顔を見たくなかった。
スマホが震える。
『社長、本日の会議ですが——』
画面を一瞥して、 短く返信する。
『予定変更。午後に回して』
部下が驚くのは分かっている。
でも今は、 どうでもよかった。
蓮は、 もう一度だけ、 マンションの上階を見上げる。
(名前を呼んだとき)
光莉が、 少しだけ目を見開いたのを、 ちゃんと覚えている。
――ああ、そうか。
「……俺は」
無意識に、 答えを口にしていた。
守りたいんだ。
理由なんて、 今は要らない。
彼女が、 自分を「迷惑」だと思わずに 息をできる場所を、
ただ、 用意したかった。
「……それだけだ」
そう呟いて、 蓮は車に乗り込んだ。
けれど胸の奥では、 もう分かっていた。
これは、 一晩で終わる関係じゃない。
昨日の雨は、 たまたまじゃなかった。
――光莉を、 ここへ連れてくるための雨だった。




