静かな時間
部屋の明かりが、少し落とされた。
光莉は、瞬きを一つしてから、
ゆっくり息を吸った。
(……落ち着け)
泣かない。
騒がない。
怒らせない。
——ここまでは、できている。
圭介は壁にもたれたまま、
スマホをポケットに入れている。
鍵の音はしなかった。
でも、出入口は一つしかない。
一人で考える。
蓮はいない。
助けは来ない。
——だからこそ。
頭の奥が、不思議なほど冷えていく。
圭介は、こっちを見ていない。
監視している、というより、
「いるのを確認している」だけ。
(この人……)
光莉は気づく。
見張っていない。
縛っていない。
閉じ込めている自覚が、薄い。
——油断。
それは、逃げ道になる。
「……喉、渇いた」
試しに、言ってみる。
声は、震えなかった。
圭介が、ぴくっと反応する。
想定外だったのか、一瞬、間が空いた。
「水ある」
そう言って、キッチンに向かう。
——背中。
完全に、背中を向けた。
(今じゃない)
ここで立てば、全部、壊れる。
冷蔵庫の開く音。
コップに水が注がれる音。
足音の距離。
逃げるなら、一回。
成功しなければ、次はない。
その頃。
圭介は、水を注ぎながら、
胸の奥の違和感に気づいていた。
……おかしい。
怯えているはずだ。
もっと、黙ると思っていた。
なのに。
要求をしてきた。
喉が渇いた、なんて。
(……余裕?)
違う。
余裕じゃない。
その事実が、じわっと胸を刺す。
——俺の知らない顔だ。
昔は、困るとすぐ表に出た。
黙るときは、完全に折れているときだけだった。
でも今は。
静かで、視線が定まっていて、
頭が、ちゃんと回っている。
(……変わったな)
それを、認めたくなくて、
圭介はコップを持つ手に力を入れる。
変わった、じゃない。
変えられた。
あの男に。
——それが、気に入らない。
戻ってきた圭介から、水を受け取る。
指が触れそうで、触れない。
その距離に、圭介は一瞬、苛立つ。
「逃げること考えてるだろ」
唐突に、言った。
光莉は、水を一口飲んでから、
ゆっくり顔を上げる。
「……考えちゃ、だめ?」
否定しない。
それが、圭介の胸を、
さらにざらつかせる。
「無駄だよ」
言い切る声が、
自分でも少し強すぎると分かる。
光莉は、何も言わない。
ただ、
「そう」
とだけ、返す。
——その返事。
諦めでも、反抗でもない。
受け止めて、
その上で、先を考えている声。
圭介は、自分の中で何かが
ずれるのを感じる。
取り戻したはずなのに。
戻ったはずなのに。
光莉の目が、
一瞬だけ揺れる。
その揺れを見て、
圭介は、後悔する。
光莉は、コップを置いた。
(……この人)
完全には、私を支配できていない。
逃げられるかどうかは、分からない。
でも。
——考える時間は、ある。
圭介は、光莉から目を離せなくなっていた。
逃げられたら困る。
でもそれ以上に、“逃げようとする光莉”を
見てしまったことが、なぜか、怖かった。
取り戻したはずなのに。
ちゃんと、戻したはずなのに。
——それでもまだ、
彼女は、
自分の外にいる。
その事実が、圭介の胸を、
初めて不安で満たしていく。




