触れないで、でも逃げられない
車が止まった。
エンジン音が切れた瞬間、
世界が急に静かになる。
「降りろ」
圭介の声は、
さっきまでと変わらない。
変わらないことが、
怖い。
外は、知らない場所だった。
住宅でも、店でもない。
灯りの少ない、古い建物。
「ここ、どこ……」
「前に使ってた部屋」
さらっと言われて、
意味が分からなくて。
でも。
——“前に”。
それだけで、
嫌な予感が背中を這い上がる。
部屋は、驚くほど普通だった。
ソファ。
テーブル。
カーテン。
生活の匂いが、まだ残っている。
「座れよ」
言われて、座ってしまう。
——従っている自分が、
一番、気持ち悪い。
圭介は、向かいに座らない。
少し離れた場所に立ったまま、
光莉を見下ろす。
「……触らないで」
先に言った。
自分でも、必死だったと思う。
圭介は、一瞬だけ眉を上げた。
「触らねえよ」
すぐ、興味なさそうに言う。
「俺、暴力嫌いだし」
——それが、安心材料になると思ってる?
「じゃあ、帰してください」
「それは無理」
即答。
理由すら、言わない。
光莉の喉が、ひくっと鳴る。
「……私、蓮さんの家に」
「知ってる」
被せられる。
「だから?」
圭介は、初めて少し笑った。
「いつまで、
借り物の人生やるつもり?」
胸が、ぎゅっと潰れる。
「お前さ」
一歩、近づく。
でも、触れない距離。
「俺が迎えに来るって、
思ってなかっただろ」
言い返せない。
——思ってなかった。
泣いて縋って、
拒絶されて、
終わり。
そうなると、
どこかで思ってた圭介。
「泣かなかったよな」
圭介の声が、低くなる。
「最後の日」
忘れたくて、
何度も頭から追い出した記憶。
「俺さ」
「……もうやめて」
遮る。
圭介は、
そこで初めて苛立った。
「やめねえよ」
声が、強くなる。
「お前が勝手に次行こうとしてるのが、
一番ムカつくんだよ」
空気が、張り詰める。
「俺は」
ゆっくり、
言い聞かせるみたいに。
「お前が壊れるまで、
そばにいるつもりだから」
——逃げられない。
この人は、帰す気がない。
その事実が、
ようやく、腹に落ちた。
光莉は、膝の上で手を握りしめる。
(……逃げなきゃ)
「スマホ」
圭介が、視線を落とす。
バッグを、見ている。
「それ、預かる」
声が、優しい。
——終わった。
光莉は、何も言えなくなった。




