一人で何とかする、、はずだった
その日は、
最初から間違っていた。
蓮が家を出る前、
少しだけ迷った顔をしたのを、
光莉は見て見ぬふりをした。
「……本当に、一人で大丈夫ですか」
その問いに、
反射的に頷いてしまった。
「はい。平気です」
——平気なわけ、なかったのに。
玄関のドアが閉まってから、
光莉はしばらく動けなかった。
鍵をかける音が、
やけに現実的で。
(……今日は、ちゃんとやろう)
一人で外に出て、
一人で用事を済ませて、
一人で帰る。
それができたら、
少しは“自立”に近づける気がした。
夕方。
人が多い時間帯を選んだ。
人気のない時間は、避けた。
——慎重にしているつもりだった。
帰り道。
マンションまで、
あと五分。
「……光莉」
背後から声がした。
心臓が、
一拍、止まる。
振り向く前に、
分かってしまう。
(……来るなって思ってたのに)
圭介。
逃げようとして、
足が止まった。
「偶然だな」
その距離、近すぎる。
人はいる。
でも、誰も見ていない。
——“見えない場所”を選ばれている。
「……何の用ですか」
声が、
自分のものじゃないみたいに震える。
「心配してさ」
圭介は、当たり前みたいに言う。
「最近、連絡もないし」
「……もう、関係ないです」
一歩、下がる。
でも。
同時に、圭介が一歩、詰める。
距離は、変わらない。
——逃げられない距離。
「一人?」
核心。
光莉は答えない。
答えない、という選択が、
最悪だった。
圭介の口元が、わずかに歪む。
「やっぱり」
低い声。
「今日は、いないんだな」
(……なんで知ってるの)
頭が、真っ白になる。
圭介は、
光莉の横に並び、歩き出す。
勝手に。
「……やめてください」
止まらない。
「ほら、こうやって」
声が、耳元に近い。
「一人で何とかしようとして」
「結局、こうなる」
人の流れから、
少しずつ外れていく。
——自分で、外れている。
(違う、違う)
「……離してください」
初めて、
“お願い”に近い声になる。
圭介の手が、
光莉の手首を掴んだ。
振りほどこうと思えば、できるはずなのに。
(……今、声を出したら)
周りの視線が、一斉に集まる気がして。
「……離してください」
声は、ほとんど息だった。
「だからさ」
圭介は、苛立ったように言う。
「騒ぐ話じゃないだろ」
そのまま、自然な動きで方向を変える。
一本、通りを横に逸れる。
——気づいたときには、遅かった。
「……どこ行くんですか」
「車」
短く答える。
(……車?)
「話すだけだ」
圭介は、光莉の反応を確かめるように、
一瞬だけ歩調を緩めた。
「ここで騒ぐ?」
そう言われて、足が止まる。
騒げない。
説明できない。
誰かに助けを求める言葉が、浮かばない。
——“元彼に話しかけられただけ”。
そう見える自分が、
頭に浮かんでしまった。
「……はい」
このまま、逃げていても仕方ないと思う自分と
驚くほど、弱い声を出す自分。
圭介の口元が、
わずかに上がる。
「ほら」
手首を離す。
でも、
離れたのは一瞬だけ。
次の瞬間、
背中に手が添えられる。
押しているわけじゃない。
誘導。
それが、一番、逆らえなかった。
駐車場。
圭介の車は、目立たない色だった。
ドアが開く音。
「……乗らないなら、ここで話す?」
周囲を見回す。
人はいる。
でも、誰もこちらを見ていない。
(……違う)
ここで拒否しないと、
本当に取り返しがつかなくなる。
分かっているのに。
足が、前に出た。
ドアが閉まる。
——音が、やけに大きく響いた。
車のドアロックがかかる。
カチ、と乾いた音。
車が、走り出す。
「どこに行くんですか」
「落ち着けるとこ」
(……蓮さん、帰ってきます)
嘘じゃない。
でも、助けを呼ぶ言葉でもない。
圭介は、一瞬だけ黙った。
「一人で頑張る日、だったんだろ?」
ハンドルを握る手が、やけに安定している。
——最初から、分かっていた。
「なあ、光莉」
赤信号で、圭介は初めてこちらを見る。
「お前、俺が何もできないと思ってた?」
視線が、絡め取る。
「選ばれなかった女が、
次に進めると思ってた?」
言葉が、刃みたいに突き刺さる。
「俺はさ」
青に変わる。
車が、また動く。
「お前が幸せになる未来、
一回も想像できなかったんだよ」
光莉は、シートに深く沈み込む。
窓の外は、知らない道。
一人で、何とかしようとした。
その結果が、これだ。
「大丈夫」
圭介が、優しい声を出す。
それが、一番、怖かった。
「ちゃんと、話そう」
——その言葉が、
檻の扉みたいに響いた。




