選ばれなかった名前
シャワーを終えて、
ベッドに横になる。
部屋は静かで、
エアコンの音だけが、一定のリズムを刻んでいた。
(……落ち着かない)
安心していいはずなのに、
体の奥が、ずっと緊張している。
スマホを手に取った、そのとき。
——画面が光った。
表示された名前を見た瞬間、
胸が、ひくっと縮む。
『圭介』
……元彼。
指先が冷たくなる。
出なくていい。
もう関係ない。
そう思っても、
画面を伏せることができない。
——ピッ。
通話が繋がる。
「……もしもし」
『あ、出た』
軽い声。
それだけで、昨日までの生活が一気に戻ってくる。
『生きてた?』
喉が詰まる。
「……何の用?」
『用件は簡単』
一拍置いて、続けられる。
『お前の荷物、
まだ俺んちに山ほどあるだろ』
……やっぱり。
「……すぐには行けない」
『は?』
『じゃあ、いつ来るんだよ』
圭介の声が、少し苛立つ。
『正直、邪魔なんだよ。
次の彼女も来るし』
胸の奥が、じわっと痛む。
「……分かった。
近いうちに、取りに行く」
『あー、あとさ』
嫌な予感がした。
『金のこと。
少しずつでいいから返せよ』
「……」
『逃げんなよ』
逃げてる。
その言葉が、
ぐさっと刺さる。
『どうせ今も、
誰かの家に転がり込んでんだろ』
言い返そうとして、
言葉が出ない。
『楽な方、楽な方に行くの、
昔から変わらねぇな』
……知ってた。
そう思われてたことも、
そう言われる日が来ることも。
『正直さ』
圭介は、
吐き捨てるように言った。
『今の彼女の方が、
ちゃんと“女”だし』
その一言で、
頭が真っ白になる。
「……用件、それだけ?」
声が、震えないようにするので精一杯だった。
『うん。
連絡待ってるわ』
通話が切れる。
スマホを握ったまま、
しばらく、動けなかった。
(……やっぱり)
私は、
選ばれなかった。
住む場所も、
荷物も、
居場所も。
全部、置いてきたまま。
「……ここを出よう」
小さく、そう呟いた。
これ以上、
迷惑をかけないために。
期待してしまう前に。
ベッドを出て、
そっとドアを開ける。
リビングの灯りが、ついていた。
「……?」
蓮さんが、ソファに座っていた。
スーツの上着を脱ぎ、
ネクタイを外している。
「……起きてたんですか」
声をかけると、
蓮さんはすぐに顔を上げた。
私を見るなり、
表情が変わる。
「……電話、ありました?」
——やっぱり、気づかれてた。
「……元彼です」
そう言うと、
空気が、少しだけ冷える。
「何か、言われましたか」
低い声。
感情を抑えている。
「……私」
言葉が、続かない。
「ここを、出ようと思います」
そう告げた瞬間、
蓮さんが、はっきり立ち上がった。
「それは、あなたが決めたことですか」
「……」
「それとも、
誰かに言われた言葉のせいですか」
図星だった。
「……私、ここにいる資格ないです」
やっと、口にできた。
「無職で、
太ってて、
お金もなくて……」
「それで」
蓮さんは、
静かに、でもはっきり言った。
「誰かに、
雑に扱われていい理由になりますか」
「……」
「なりません」
即答だった。
「少なくとも、俺の前では」
胸の奥が、痛い。
「元彼が何を言ったかは知りません」
一呼吸置いて、続ける。
「でも、あなたがここにいる理由は、
“逃げ”じゃない」
視線が、まっすぐ向けられる。
「俺が、
いてほしいと思ったからです」
……ずるい。
そんな言い方。
「今は、出ていかなくていい」
逃げ道を塞ぐ声。
「その話は、
あなたが落ち着いてからにしましょう」
沈黙。
耐えきれず、
涙がこぼれた。
「……選ばれないって、言われました」
声が、震える。
「ずっと、
そうでした」
蓮さんは、
すぐには何も言わなかった。
ただ、
少し距離を保ったまま、そこにいる。
「……今日は、眠りましょう」
昨日と同じ言葉。
でも、
支える意味が違う。
部屋に戻る前、
背中越しに、蓮さんの声が届く。
「光莉さん」
呼ばれる。
「あなたを選ばなかった人の言葉で、
あなたの価値は決まりません」
その一言で、
胸の奥が、音を立てて崩れた。
——この夜、
光莉はまだ知らない。
“置いてきた荷物”が、
近いうちに、
避けられない再会を連れてくることを。
そしてそれが、
蓮の立つ世界を、
はっきりと浮かび上がらせる引き金になることを。




