4話
父を説得しないまま数日が過ぎた。教科書を眺めても何もできないから、近くの中古本屋に寄って、安くなった参考書を探していた。それもできれば書き込みの多いやつ。優秀な人間が書き込んだ本なら、重要なことも書いてくれているはず。適当に見繕って、100円で売られている本を5冊買った。中身までしっかり見てはいないけど、多分できる。そう信じ込んで。
気が抜けていたと言われれば、そうだったと思う。学校を辞めたからって出会わないわけではないのだから。
まさか、帰り道に村山と前田に出くわすとは、思ってもいなかった。 目が合った瞬間僕は逃げ出そうとしたけど、運動音痴な僕なんかより、元運動部の前田の方が断然足が早く、僕は即座に捕まった。
「おいおい。何逃げてんだよ。じろじろと俺たちを見て気持ち悪いやつだな」
「ご、ごめんなさい……い、急いでいるので……」
「安心しろ。俺たちは暇しているんだ」
そうだ。前田は言葉の通じない相手だ。何を言っても前田にとって都合のいいようにしか解釈されない。
でも、少し安心材料がある。こいつ、バカだから僕のことを忘れている。適当に目が合ったやつだと思っている。目が合っただけで絡んでくるのもどうかと思うが、解放されるまでの時間が短い方がいいな。
「武尊、何やっているんだ。面倒なことするんじゃねえぞ。誰だよそいつ」
村山、お前も僕のこと忘れているのか。これは好都合だ。前田のことを操れるのは玉野と村山の2人だから。早くどこかへ行ってくれ。
「さあ、知らねえけど、俺たちのこと見ていたから、何で見ていたのか聞いてんだよ」
「そんなことだけでいちいち絡むな。俺までまた中川に怒られるだろ。あいつの話長いから嫌いなんだよ」
「マジでな。中川話長すぎるんだよな。今のままじゃまともな大人にはなれないとか。いつの時代のセンコーだよ。いつまでも昭和を引きずっているんじゃねえってな」
高らかに笑う前田であったが、僕を掴んでいる手は離してくれることはなく、いつになれば僕は解放されるのかと待ち侘びていた。 だが、前田は端から僕を解放するつもりなんかじゃなかったみたいだ。
「それじゃあ、あっちの方行くか。村山、人がいないところってどこだ」
「お前本気かよ。面倒なことにならねえよな」
「大丈夫大丈夫。言ったらどうなるのかも教えといてやるから」
何だ、初めからこうなることは決まっていたのか。神はつくづく僕に試練を与える。というか、僕に味方はしないのだな。
天気が悪いだなんて知らなかった。何回か殴られた後に空から雨が降っていた。
これじゃあ、目撃者もいなくなるじゃないか。どうして神はこいつら人間のクズばかりに味方するんだ。
コンクリートで囲まれた狭い路地。僕はこの辺りが地元だから知っている。ここはほとんど人が通らない場所。だから、舗装してある道路にも草が生えてある。おかげでガタガタになっている地面には、降っている雨でいくつもの水たまりができていた。
前田に殴られて、そのまま転ばされて、水たまりに顔の側面から入った。幸いにも泥に濁った水じゃなかったから、泥に汚れることはなかった。だけど、生きていく気力は失った。
「何だこいつ。動かなくなったぞ。死んでいるのか。面白いな」
前田はまた高らかに笑っていた。
何が面白いんだ。散々人を殴っておいて、本当にこれで死んでいたらどうするんだ。
こいつらのことだから多分どうもしないな。そのまま放置して、最悪警察に捕まっても反省なんかしないんだろう。
「武尊。そこまでにしておけ。本当に死んだら面倒なことになる。それだけ殴っておけば、誰かに話すこともしないだろうから、もう帰るぞ」
「何でだよ。まだ殴り足りねえよ」
「時間をかけたらそれだけ人に見つかる心配も増える。それに、光もそろそろ来る頃だ。待たせるとまた怒られるぞ」
「へいへい。光、怒ると怖いからな」
「お前が怒らせなければいい話だ」
これでやっと解放される。
気がつけば荷物がどこかに消えているが、もうどうでもいいや。
無心に雨を降らせている雲を眺めていた。黒に近い灰色の雲で、しばらくは止みそうにないくらい空いっぱいに広がっていた。
とそこに、傘を差した1人の男が現れた。玉野だった。
「武尊。こいつ、つい最近学校を辞めた不登校のやつだよ」
「そんなやついたっけ?」
「原が言ってただろ」
「俺あいつの話嫌いだから覚えていない」
「武尊はいつもこれだから」
村山と前田の話を背に、玉野は水たまりに浸かっている僕を胸ぐらを掴みながら引き上げた。そして耳元でこう囁いた。
「逃げたって、どこまで追い詰めてやるからな。今度は逃げるなよ」
起こされた状態から手を離されたせいで、僕は水たまりにまた入った。
しかし、どういうことだ。“今度は”って。まだ、この世界では玉野にいじめられてないのに。いや、今日が始まりか。
辺りはすっかり暗くなって、いつの間にか雨も上がっていた。鞄から荷物から全てを失った僕は、また市営住宅に来ていた。
夜だから下を見ても暗闇で、前ほどの怖さはなかった。
死ぬなら今しかない。
荒れる心臓の音を鎮めるために何度か深呼吸をして「よしっ」と呟いた。落ちる瞬間ってどんなものかな。バンジージャンプがまさしくそれだけど、やったことないから感覚がわかんないや。
落ちようとしたその瞬間。僕は見知らぬ少年に話しかけられた。
「お兄さん、何しているの?」
少年の方に視線を向けると、少年はランドセルを背負った小学生だった。
「お兄さん。こんなところで何しているの? このマンションの人じゃないよね? それに、和田さんなら最近引っ越してそこにはもういないよ」
さすがに小学生を前に自殺をすることはできなかった。




