07-2 お前のおかげだよ(2) 黒き瘴気
黒い瘴気が壇上を覆い始めた。
まるで蛇のようにうねり、観衆の間に恐怖のどよめきを走らせる。
「な、何だ……?」
「呪いだ! 殿下を狙っている!」
「逃げろ!」
群衆の一角が混乱し、押し合いへし合いで悲鳴が上がる。
壇上にいた護衛兵がすぐさま剣を抜き、ユリウスの前に立ちはだかる。
だが、その刃は黒いもやに触れた瞬間、音もなく溶けてしまった。
「きゃっ!」
「剣が……!」
兵たちの動揺をよそに、エドマンドは両腕を大きく広げ、狂気の笑みを浮かべる。
「我こそが真の王! 貴様らの信仰も忠誠も、すべて無意味だ! この身に眠る血脈の力を解き放ち、我が軍勢を呼び戻す!」
そう叫ぶと、彼の足元に黒い魔法陣が展開された。
石畳が割れ、深淵の闇が口を開ける。
そこから、異形の腕や牙が次々と現れ、壇上を侵食していく。
「召喚……魔獣を呼んでいるのか!」
ロイが顔を青ざめさせる。
「あ、あれは、禁呪だ……あれは古代に封じられた儀式……」
ユリウスも息を呑む。
父からも学んだことがある。
王家の者でなければ行えぬ、禁忌の儀式――「血の継承」を使った召喚術。
「そんな……叔父上、正気じゃない……!」
だが、エドマンドの目は狂気に染まり、理性のかけらも見えない。
「民の信頼など要らぬ! 忠義も不要! 力こそが王権を証明するのだ!」
その叫びに呼応するかのように、魔法陣から巨大な影が這い出した。
翼を持ち、牙を剥き、赤黒い瞳を光らせた魔獣。
見るだけで魂を凍りつかせる存在が、現実の地へと姿を現す。
「う、うわあああっ!」
「魔物だ! 逃げろ!」
群衆は一気に崩れ、広場は阿鼻叫喚の地獄と化した。
壇上に立つユリウスは、震える足を必死に踏ん張った。
心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。
それでも、彼は王として叫んだ。
「兵を下げろ! 民を守れ! ――ここは私が……私と、聖者が止める!」
声は裏返っていたが、確かな意志があった。
兵たちは一瞬迷い、次に「はっ!」と声を揃え、広場の民を守るために動き出す。
その横で、ルカが必死にユリウスを守ろうと立ち塞がる。
「殿下、危険です! お下がりください!」
「だめだ、逃げられない。私が逃げれば、誰も守れない!」
ユリウスの瞳は揺れていたが、その奥には確かな炎が宿っていた。
エドマンドはその姿を見て、またしても嘲笑した。
「王の真似事をするか! だが、貴様に民など守れはせぬ!」
魔獣が咆哮し、壇上を揺らす。
衝撃波で石が砕け、空気が震えた。
ユリウスの身体は思わず後ろに仰け反る――。
だが、その背を支えるように、強い腕が伸びた。
「安心しろ、子猫ちゃん」
耳元で低く笑う声。
ユリウスが振り返れば、レオンハルトがそこに立っていた。
余裕をまとった笑み。
しかしその眼差しは鋭く、迫り来る魔獣を射抜いていた。
「お前が王として立ってるだけで十分だ。後は俺が――拳で片をつける」
その言葉に、ユリウスの胸が熱くなる。
恐怖がすべて消えたわけではない。
だが、隣に立つこの男がいる限り、自分は倒れないと確信できた。
広場の群衆が見守る中、レオンハルトがゆっくりと壇上の前に歩み出る。
巨大な魔獣の咆哮を受けても、一歩も怯まない。
「……さあ、暴れるなら俺が相手してやる」
その拳が、静かに握られた。
 




