05.銃声は幕開けの合図
週末の帰宅ラッシュに巻き込まれて、帰り道はなかなか進まなかった。
助手席でわたしがイライラと貧乏ゆすりしていると、隣から手が伸びてきて膝を押さえられる。
「なに」
『貧乏ゆすりやめろ』
「だって全然進まないんだもん。なに?事故?」
文句を垂れるわたしに、蓮は珍しく穏やかに『そういうときもあるだろ』なんて返してくる。
……えーなにそれ。意外なんだけど。
変なところだけ優しいっていうか、鈍いっていうか。
そんなやりとりをしながら、ようやく屋敷の近くの駐車場まで戻ってきたころには外は真っ暗になっていた。
「すっかり遅くなっちゃったね」
そう言いながらシートベルトを外しかけたとき、運転席から低い声が響く。
『待て』
「え?」
振り向くより早く、蓮が手を伸ばしてわたしの腕を掴む。
『まだ降りんな』
「……なに? どうかした?」
返ってくるのは無言。
蓮はフロントガラス越しに屋敷をじっと見つめていた。
その目が、いつものそれじゃないと気づくまでに時間はかからなかった。
静かすぎる——
屋敷の中に、人の気配がまったくない。
灯りはついているのに、あまりに静かすぎる。
『連絡、来てた?』
「え……来てないけど」
スマホを確認するけれど、通知はひとつもなかった。
……それが、逆におかしい。
たかがカフェによってただけといえばそうなんだけど、ここまで帰りが遅くなっているのに、誰からも連絡が来ていない。
いつもなら、“今どこ?”“何時に帰る?”なんて連絡がうるさいくらい来るのに。
過保護で面倒くさいと思ってたあの連絡が、今はまったく来ていないのだ。
それに気づいた瞬間、じわっと背中に冷たいものが這った。
『……様子見てくる』
「一人で行くの?」
『置いてくわけねえだろ。来い』
車から降りた蓮が助手席側のドアを開けてわたしの手首を掴んで引っ張る。
「ま、待ってってば。せめて誰かに連絡とか…」
『もうかけてる。誰も出ねぇ。つーか俺が送った文に既読すらついてねえ』
低い声に、空気が一気に張りつめた。
歩きながら蓮が幹部たちに電話をかけているのが耳に入る。
舌打ち。何度目かのコール音。……やっぱり誰も出ない。
「……蓮」
『静かに。喋るな』
なんだかただならぬ雰囲気。足が震えてくるのが自分でも分かった。
いくらやくざの娘とはいえど、こんな状況、慣れているわけがないのだ。
怖さを紛らわせたくて、蓮の腕に思わずしがみつく。
歩きづらくなったのか、蓮は少しだけ顔をしかめたけれど、すぐにわたしの体をそっと引きはがして、代わりに手を繋いだ。
そういうところに、昔の蓮の面影が滲んでいた。
駐車場を抜けて、屋敷を囲む塀の外側を、二人で裏から正面に向かって静かに進んでいく。
妙に静まり返った空間が、緊張感をどんどん高めていった。
心臓が、ドクン、と強く脈打つ。
その音さえ、あたりに響きそうで。
そして——
正面の通りに出る手前で、蓮がぴたりと足を止めた。
「え、なに……?」
不安が口から漏れる。
彼は咄嗟に手を伸ばして、わたしを自分の背後に隠した。
『ちょっと黙っとけ』
すぐ前を覗き込む蓮の目は鋭い。
……緊張の糸がピーンと張り詰めたその瞬間。
——バンッ!!
何かが弾けるような音が響いた。
反射的に身をすくめるわたしを、蓮が強く引き寄せる。
『走れ……っ!!』
「なに!? なんなの!?」
蓮に手を引かれたまま、わたしは来た道を全力で走って引き返す。
何が起きているのかもわからないまま、ただ彼の背中を追いかけるようにして必死で足を動かした。
「ねぇ、なんで……っ!」
問いかけようとした言葉は、すぐに遮られる。
『いいから走れ!!』
いつも冷静な蓮が、こんなふうに叫ぶなんて。
それだけで、この状況がどれほどただならぬものか嫌でも理解できた。
でも、わたしにはまだ一発の銃声しか聞こえていない。
何が起きたのか、どうしてこんなことになったのか、何ひとつ見えてこない。
説明が欲しいのに、それすら与えられないままとにかく走る。
だけど。
「ちょ、……もう、無理……」
足の速い蓮に引っ張られながら走るのも限界で、足がもつれそうになる。
そんなわたしの背後で不意に声が上がった。
「いたぞ……っ!!」
男たちの怒鳴り声。複数の足音。
追われてる。
ようやくそれが現実として突きつけられた。
「え、ほんと、待って……走れないってば……!」
息も絶え絶えになりながら、振り返って様子を確認する。
どんどん迫ってくる気配に、全身が強張る。
このままじゃ、二人とも捕まる。
「蓮……先に行って……!」
繋いでいた手を振りほどこうと、力を緩めたその瞬間。
『あー、くそっ』
低く呟いた蓮が、わたしの身体を一気に抱きかかえた。
「えっ、!?」
そのまま彼はスピードを緩めるどころか、まるで重さなんて感じていないかのように加速していく。
軽い段差はひょいっと飛び越え、通路の邪魔になりそうな植木鉢や脚立を後ろに蹴倒しながら、息も乱さず走り続ける。
後ろで追ってくる足音があっという間に遠ざかっていく。
こんな状況、不安と恐怖で、頭が真っ白になってもおかしくないのだろう。
なのに、どうしようもなく、わたしは胸の奥がざわついて仕方なかった。
彼の足の速さも、判断力も、圧倒的な力強さも、
全部がすごかったのだ。それはもう、感動してしまうほどに。