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02-01,灯す火

――今でもよく覚えている。


風はまだ穏やかで、ただ静かに、世界を覆っていた。


あのまま通り過ぎていたら、きっとすべては違っていただろう。

でも僕は、足を止めた。

ただ、そこにある命を見捨てることが、できなかった。


ほんの小さな火種のような命に目を奪われて。

どうしようもなく、手を伸ばしていた。


あれが、僕たちのすべての始まりだった。





―――――――――――






雪が、降っている。

風はなく、世界はただ白く静かだった。

林道の奥、踏み固められた道筋をひとり歩いていたトウヤは、ふと足を止める。

積もりかけた雪の中、わずかに違和感のある膨らみが視界の端に映った。


少し近づいてみると、それは人だった。


黒い髪が雪に濡れ、頬に張り付いている。

手足は小さく、身体は瘦せて軽そうに見えた。

顔は反対側に向けられていて表情は分からなかったが、微かに胸が上下しているのが見えた。

生きている――かろうじて、そう判断できる弱々しい呼吸だった。


「……こんなところで、どうした」


当然、返事はない。

もうすでに、返せる状態ではないのだと、すぐに分かった。

服は薄く、あちこちに擦り傷のようなものもある。

薄赤く染まった指先が雪に埋もれ、もう、自分で動けるだけの力が残っていないのだと、判断した。


トウヤはしばらく立ち尽くしていた。

目を細めて、空を見上げる。

灰色の空、湿った冷気。

風はまだ穏やかだが、重たい雲の向こうに、吹雪く気配がある。

――急がねば。


「……死ぬには、まだ早いよ」


呟いたのは、自分に対してか、目の前の少女に対してか。

それさえも曖昧なまま、彼はしゃがみ込み、両腕で少女を抱き上げた。

軽い。

あっけなく壊れてしまいそうな、そんな重みだった。


歩き慣れた道を引き返し、見えてきたのは木々に隠れるようにたたずむ古びた廃屋。

旅の途中、数日間の滞在先として目を付けていた場所だ。

扉は軋みながら開いた。

中には埃と古い木の匂いで満ちていた。

だが、幸い壁と屋根はしっかりしている。

備え付けの簡易的な炉もあり、少女を抱えた避難先としてはとても心強かった。


粗末な寝台に少女を寝かせると、トウヤは荷から毛布を出してかけた。

炉に火を入れ湯を沸かし、冷ましたあと、布に含ませて顔や手足をそっと拭う。

擦り傷には手持ちの薬を塗り、布を薄く巻いた。

薄赤くなった指先には、湯で浸した布を絞り、温める。

何度も、何度も繰り返した。


炉にくべる薪が乾いた音を立てる。

やがて部屋に、仄かな橙色の灯が満ちていく。


少女は目を開けなかった。

どうしてこんなところで倒れこんでいたのか、分からない。

ただ、確かに生きている。

それだけが事実だった。


「誰だって、あの状況なら……きっと助けた」


ぽつりと口にして、薪をくべ直す。

けれど――と、胸の奥にひっかかりが残る。

誰でもそうしただろう。

それでも、自分がこうして抱き上げ、運び、手を尽くしているこの事実は、「誰でも」では済ませたくない衝動だった。


火がぱち、と小さく爆ぜた。


窓の外では、風が強くなり始めていた。

気配は、確信に変わりつつある。

今夜から、本格的に吹雪く。


幸い、日常に必要な食料や消耗品は六日分ほど余裕があった。

トウヤは、寝台の脇に膝をついた。

少女は生きてくれるだろうか。

分からない、けれど。


――この火が灯っている限りは、死なせたくない。


そう、彼は心の中で誓った。





―――――――――――






部屋の隅でぱち、と小さな音がした。

炉の火が静かに揺れて、炭がひとつ、崩れたのだ。

夜は深く、外の吹雪はだいぶ収まっていた。

トウヤはその音に耳を傾ける。

だが、すぐにまた少女へと意識を向けた。


布団にくるまれている細い身体。

あの雪の中で、よく助かったと思うほど、少女の命の灯は微かなものだった。

けれど、今――その胸は、確かに上下していた。


目元が微かに動いた。

呼吸が浅くなる。

瞼の奥で光を探すように、睫が揺れる。


「……っ」


息が、こぼれた。

トウヤは火ばさみを置き、少女の傍に膝をつく。


「……聞こえるか?」


しばらく返事はなかったが、布団の中で指先が小さく震える。

もう一度、少女が掠れた息を吐いた。


「……っ、あ」


声とは呼べない声。

けれど確かに、言葉を紡ごうとした痕跡だった。


「起きなくていい。水を持ってくるから」


少女が返事をしようとする前に、トウヤは立ち上がり、炉の上にかけた鍋のそばに戻る。

木椀に湯をすくい、少し水を加えて温度を下げた。

それを少女のそばに持ってくると、慎重に口元に添える。


「少しずつ飲むといい」


少女は首を動かそうとしたが、うまくいかないのか、目元をわずかに歪めた。

トウヤが片腕を差し入れて上体を支え、もう一度木椀を傾ける。

唇にぬるい水が触れると、少女はようやく、ごくりとひと口だけ飲んだ。


「……ありがとう」


それは、ほとんど息のような声だったが、トウヤにはちゃんと聞こえた。


「無理に話すな」


トウヤなりの気遣いだったが、少女には気になることがあるようだった。


「……ここ……どこ、ですか」


「古い廃屋だよ。林道を南に進んだ場所だ」


少女の眉がほんの少し寄った。


「……わたし、どうして」

「雪の中で倒れていた。とても歩けるような状態には見えなかったよ」


目を伏せた少女は、ゆっくりと瞬きをした。


「……あなたが、助けてくれたの?」

「……たまたま、本当に偶然通りがかっただけだ」


その言葉に、少女は少しだけ表情を緩めた。


「あったかい……」

「炉の火を絶やさないようにしてる」

「……うん、ありがとう」


少女ははっきりとした声音でそう言った。

その姿を確認したトウヤは、木椀を下げ、少女の枕元に座りなおした。


「名前は?」


その問いにしばらく黙った少女は、小さく首を横に振る。


「わからない……」

「……そうか」


トウヤの手が、思わずあやすように少女の背中をさすっていた。


「気が付いたら、雪の中にいて……寒くて、怖くて、でも、どうしても歩かなきゃいけない、って思って……」


睫がわずかに涙に濡れ、震える。


「どこに向かっていたのかも……どうして、ひとりだったのかも……」


トウヤは黙ってそれを聞いていた。

少女の目は、炉の火を向いている。

けれど、炎の灯りを映しているはずの瞳は、どこか別のものをみているようだった。


「私、何も思い出せなくて……自分が誰なのかも、なんでここにいるのかも」


やがてトウヤのほうに顔を向けた。

薄藤の瞳が、トウヤを見据える。


「……でも、あなたの顔は……初めて見る気がする」


トウヤはふわりと微笑む。


「それが普通だ。君と会ったのは、三日前のことだよ」

「三日……?」

「そう。吹雪いてくると思って、急いでここまで来たのが、三日前」


少女は何かを確かめるように、目を閉じる。


「……私のこと、助けてくれてありがとう」


炉の火がぱちんと弾ける。

トウヤはすぐに言葉が出てこなかった。

一拍の間、やっと口を開く。


「お礼はいらない。君が、まだ生きていたかったなら、それで十分だ」


そう言うと、トウヤは少女の顔を見やる。

迷いのない目だった。

怯えも警戒も、そこにはほとんどなかった。


「あの。……あなたの名前を、教えてもらってもいい?」

「……トウヤ、だよ」

「トウ、ヤ。うん、ありがとう。トウヤ」





―――――――――――






炉の火がゆらりと揺らめいている。


温かな湯気が立ちのぼる木椀を、トウヤは慎重に少女の前に差し出す。

中には、薬草と干し肉、そして少しの塩で煮込んだ簡素なスープ。

香りは淡く、見た目も派手ではないが、空腹を慰めるには十分だ。


「少し、口にしてみるといい」


少女はこくりと頷くと、手を添えて椀を受け取った。

両手で包むようにしながら、慎重に口を付ける。


「……あ」


目を丸くして、少女はしばらく口元を押さえた。


「あったかい……あったかくて、おいしい」


その声に、トウヤは少しだけ肩の力を抜いた。


「味がするなら、我ながら上出来だな」


そう言って、小さく笑ったトウヤを、少女は驚いたように見つめていた。

今までの彼は、どこか遠いところに意識を置いているような顔ばかりだったから。

その横顔が少しでも近づいたような気がして、少女はふわりと微笑みを返した。


しばらく、ふたりは静かにスープを啜りながら、ぽつぽつと言葉を交わした。

少女は思い出せないこと、分からないことをなんとでもないように話し、トウヤはそれに軽く相槌を返す。

言葉の合間に薪がくべられ、火がぱちぱちと歌っている。


ふと、少女が言った。


「……ねえ」

「ん?」

「私、名前がないんだよね……」


スープを飲み干し、器を膝の上に置いたまま、少女は自分の胸のあたりをそっと押さえた。


「呼ばれてた気がするの。でも、思い出せない。誰が……どんなふうに、ってことも全部。まるで、名前も記憶も空白になってるみたいで」

「……」

「だから、お願いしてもいい?」


トウヤが目を細めた。


「私に、名前を……つけてほしいの」


その言葉に、トウヤはゆっくりと瞼を閉じる。


「名前か」

「あなたが呼んでくれるなら、なんでもいい。呼びやすいものでいいよ。……変なのでもきっと、気にしないから」


そう言って、少女はくすくすと笑い肩をすくめた。

だがトウヤは、首を振った。


「呼びやすいかどうかより、君に合ってるかどうかだ」

「……そういうの、分かるの?」

「わからない。でも、考えてみる」


暫くの沈黙。

トウヤは再び火に薪をくべ、その炎の揺らぎを見つめながらやっと呟いた。


「ミヤ……というのは、どうだろう」


少女が顔を上げる。


「……ミヤ?」


「うん。君を拾って、今日で三日目の夜だ。ようやく目を覚ました。だから……三夜。少し、軽すぎかもしれないけど」


「……軽くなんか、ないよ」


少女――ミヤは、小さく笑った。


「ミヤ。三日間、私が生きようと頑張った証なんだよね。あなたが、守ってくれた時間」


トウヤが少し目を伏せる。

ミヤは続けた。


「もしかして、あなたの名前は……」


トウヤは火の向こうを見つめ、静かに答えた。


「……十夜。僕は十日目の夜に拾われたんだ、だからトウヤだよ」


ミヤはその名前を、そっと心の中で繰り返すように呟いた後、目を細めて笑った。


「じゃあ、お揃いだね」


「……え?」


「だって、三夜と十夜。なんだか響きが似てるし……ふたりとも、夜の名前」


ミヤがあまりに嬉しそうに笑うので、トウヤの表情もつられるようにやわらかく崩れた。


「お揃いか……そうかもな」


ミヤはその笑みを見つめながら、小さな声で囁いた。


「……あなたとお揃いなの、嬉しい」


炉の火が、再びぱち、と音を立てた。

名をもらったことで、ようやく少女はこの世に足を付けた気がした。

見えない不安にとらわれていた自分が、ようやく“生きている”と感じられる名前を持った。


三夜。ミヤ。


火の灯る夜に生まれたその名は、ふたりのこれからに静かに刻まれた。





―――――――――――






昼下がりの光が、ひび割れそうな窓越しにそっと床を照らす。

吹雪はおさまり、辺りにはしんとした静けさが戻っていた。


ミヤは布団を半分まで折り返し、ゆっくりと身を起こした。

まだ少しふらつくけれど、足元は思ったよりもしっかりしていた。


「立てる?」


低く優しい声が、背後から届く。

ゆっくり振り返ると、トウヤが炉にかけた鍋をのぞいていた。

湯気の向こうの横顔は、どこか落ち着いていて、それでいてほんの少しだけ寂しげに見える。

それは光の加減のせいだろうか。


「うん。少しなら、もう歩けると思う」

「そうか、でも焦らない方がいい」


トウヤは微笑み、そう言って薬草の束を摘み、湯に落とした。

室内にふわりと苦みのある香りが立ちのぼる。

ミヤはその匂いに鼻をひくつかせた。


「これ、薬湯?」

「そう、身体を温めるやつ。苦いけど、効く」

「苦い……かぁ」


ミヤは少しだけ渋るように返すと、立ち上がって数歩、ふらつきながらもゆっくり足を進めた。

窓越しに見えるのは、白一面の森と、その先にうっすら広がる青空。


「ねえ、ここってどこ?」

「ちょうど、北の山を抜けた辺りだよ。元々は小さな集落があったはずだったけど、今は誰もいないな」

「トウヤは、旅をしてるの?」

「いろんな場所を歩いてるだけだよ」

「旅、なんだね」


ミヤは納得したように頷いた。

自分がどこから来て、どこへ行こうとしていたのか、何ひとつ思い出せないけれど。


「ここ、あったかいね」


それだけは、はっきりわかる。


トウヤはミヤのために用意した薬湯を差し出し、ミヤは素直に受け取って椅子に腰かけた。

木の椅子は少し冷たかったけれど、じんわりと届いてきた火のぬくもりが心地よかった。

薬湯の湯気に鼻を寄せると、少しつんとするような匂いがした。


「いただきます」


ゆっくりと一口、ふた口と嚥下する。


「あったかい、けど……苦い」

「薬湯だからな」


トウヤは穏やかにそう返し、薪をくべながら火を見つめた。

ふたりの間に会話は多くなかった。

でも、沈黙は居心地の悪いものではなく、むしろふたりの間にちょうどいい間合いのようだった。


「こうしてるの、なんだか不思議。なんにも思い出せない、なのにここであなたといるのは、怖くない」


トウヤは少しだけ息を止めて、それから火を見つめたまま、ぽつりと答えた。


「なら、よかった」


やさしく、けれどそれ以上は何も語らなかった。

日が少し傾き、部屋の灯が再び強くなった。





―――――――――――






雪はすっかり止み、地面にはまだ白さを残しながらも、ところどころに土や枯れ葉が顔をのぞかせていた。


小さな廃屋の一角で、ミヤは自分の靴の裏を確かめるように指でなぞっていた。


「だいぶ、歩けるようになったな」


炉のそばで、道具袋の整理をしていたトウヤが声をかける。

視線を上げたミヤは、静かにうなずいた。


「うん。たぶん、遠くまでは無理でも、休みながらなら結構歩けると思う」

「……じゃあ、明日。ここを出よう。少し南にいくと、小さな村がある。そこならしばらく身を置けると思うから……」


あくまで穏やかに、当たり障りなく。

けれど、その言葉にミヤは小さく瞬きをして、指先の動きを止めた。


――そう、だよね。やっぱり、ここまでだ。


なんとなく、最初から分かっていたことだった。

助けてくれた、看病もしてくれた、名前までくれた。

でも、それ以上を望むのは。

きっとわがままだ。


けれど、そのわがままを今、口にしようとしている自分がいる。


「……ねぇ、トウヤ」


火の灯が、ミヤの頬に微かな朱を落としていた。


「うん?」


「迷惑じゃなければ、私も旅してみたい。一緒に。……だめかな?」


その言葉は、ごく静かに、けれど確かに部屋の空気を変えた。

トウヤは返事をしなかった。

いや、できなかった。


一瞬で、いくつかの言葉が頭を掠めた。


“旅は、楽じゃない”

“見知らぬ土地には、危険も多い”

“きっと今の君には、重すぎる”


けれど、どれも、決定打にはならなかった。


――どうしても止める理由が、見つからない。


彼女はすでに、命をつなぎ、言葉を持ち、自分の足で歩き出している。

そんな彼女を止める権利が、自分にあるだろうか。


「……なあ、ミヤ」


トウヤはやや苦し気に言葉を紡いだ。


「旅は、君が思っているより過酷かもしれない。寝床も食べ物も、常にあるわけじゃない。痛い思いをすることもある」

「うん」

「君は、まだ記憶も……」

「うん、それもわかってる。でも」


ミヤは目を逸らさず、まっすぐに言った。


「“だからやめなさい”って言われても、多分私、納得しないと思う。それに……私、トウヤと一緒に外の世界を歩いてみたいって思ったの。理由は、分からないけど」


トウヤは言葉を失った。

彼女の言葉は、理屈でも情でもない。

“確信”に似た、何かだった。


「……そうか。君が決めたなら、わかった。止めても来るだろうし、ね」


それが、彼にできた最大限だった。

ミヤは目を丸くした後、ふわりと微笑んで両手を上げて喜ぶ。


「トウヤ、ありがとう」


炉の火が、ぱちんと音を立てる。

ふたりの影が壁に揺れた。

その淡い輪郭は、やがて重なり合い、ひとつの灯に溶けてゆく。

今夜、決意は小さな火種になり、夜明けを待っていた。






―――――――――――






朝の空は淡く霞み、夜の名残をうっすらと引きずっていた。

雪はとうに止み、寒さの中にも春の気配がわずかに混じっていた。


廃屋の扉の前。

ふたりは並んで立っていた。


トウヤは、傍らの少女――ミヤに問いかける。


「……寒くないか?」


差し出された外套を、ミヤは小さく首を振って受け取る。


「もう、春だよ」

「うん。旅立ちには、ちょうどいいな」


ふと、どちらからともなく笑いあう。

それはほんの些細なことなのに、なぜだか嬉しくなるような、あたたかな笑いだった。


扉の前に並ぶ、ふたりの靴。

旅の支度は簡素だが、しっかりと整えられていた。

トウヤの足元には丈夫そうな、大きな革の荷袋。

一方のミヤは、小さな肩掛けの鞄、ひとつ。


「それだけか?」


旅の出発にしてはあまりにも粗末な荷支度に、思わずトウヤはミヤに聞く。

けれど彼女は嬉しそうにそれを持ち上げてみせる。


「うん。重いものはトウヤが持つって聞かないし……なら薬草くらいは、ね!なんでか薬草のことなら私、分かってるみたいだし」

「うん、そうか」


肩をすくめ、トウヤは微笑み、合わせるようにミヤも小さく笑う。

トウヤは視線を廃屋の中に向ける。

炉の火が、まだ静かに燃えていた。

旅の支度で忙しくしていたせいか、最後の薪がちょうど残っていたようだった。


「火、消してから行く?」


ミヤの問いに、トウヤは一度だけ頷いた。


「そうだな、もう、十分だろう」


炉の前にしゃがみこみ、残った薪を崩して、丁寧に火を消していく。

橙の灯が静かに、名残を惜しむように揺れ、やがて白い煙を一筋上げて、消えた。


燃え残った灰のぬくもり。

それは、ここで過ごした数日間の証のようだった。


「ありがとう、って言っておこうかな」


ミヤがぽつりと、呟いた。


「うん?」

「この場所に。温めてくれた火に。それから、トウヤにも」


その言葉に、トウヤは返事をしなかった。

けれど黙って、炉の中を見つめていた。

もう燃えていないのに、そこには確かに、暖かさが残っていた。


やがてふたりは、扉を開ける。

新しい風が、冷たくも澄んだ空気を運んできた。


「行き先は、まだ決めてないけど」


トウヤが呟くように言う。


「それでもいい。トウヤと一緒なら、どこでもいいよ」


ミヤは言うと、まっすぐに前を見ていた。

その横顔をちらりと見てから、トウヤは頷いた。


雪解けの道を、ふたりは並んで歩き出す。


過去に別れを告げ、灯りを胸に。

これは“はじまり”の物語。


心に灯を連れて、彼らは旅に出る。

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