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02,ひとつ屋根の下、ふたり

朝、目を開けるたびに思う。

ここは、わたしの居場所なのだろうかと。


天井の木目を見つめながら、息を吸う。

埃ひとつ混じらない空気が、肺にすっと入っていく。

窓の外からは鳥の声。

どこかで水音もする。

小屋から遠くない場所に、川が流れているらしい。

けれどそれを、わたしは知らない。


というよりも、思い出せない。


ここがどこなのかも。

どうしてここにいるのかも。

わたしが誰だったのかさえも。


そうして今日も、曖昧なまま朝が始まる。


掛け布団を脇に寄せ、わたしは静かに身を起こす。

木造りの床が少し冷たくて、足先がわずかに震えた。

ベッドの横にある棚の上には、きちんと畳まれた上着が置かれていて、その隣にはまだ湯気のたつ湯呑がある。


「……おはよう」


誰にともなくそう呟いて、わたしはまだ温かいままの湯呑に手を伸ばす。

薬草の匂い、優しくて、どこか懐かしい。

けれど、やっぱり思い出せない。


この数日、ずっとこんなふうだ。


朝になれば目を覚まし、窓から見える広い空を見て、どこか知らない景色に胸をざわづかせる。

食卓には、あらかじめ用意された食事がある。

まだ湯気の立っていることもあって、作った人はついさっきまでここにいたのだとわかる。


「無理に思い出そうとしなくていい」

「今、ここには僕しかいないから、君の好きなように過ごすといい」


そう言ったのは、彼だった。

彼が誰で、どうしてわたしと一緒にいるのかは教えてくれない。

わたしも、聞くのが怖くて、聞けないままでいる。


けれど不思議なことに、彼のそばにいると、身体の奥が静かになる。

知らないはずの人なのに、知らないはずの声なのに。

心が、ほっとする。

そんな感覚だけが、まるで祈りのようにそこにある。


名乗られたのは「トウヤ」という名前。

わたしのことは「ミヤ」と呼んでくる。

多分、それがわたしの名前なのだろう。

まだ聞き慣れないけれど、呼ばれるたび、胸の奥が小さく揺れる。


この小屋の中には、ひとり分ではない生活の痕跡がたくさん残されている。

編みかけの籠、使い込まれた茶器、古びた毛布、壁にかけられた外套。

どれもどこか“ふたり分”で揃っていて、わたしがそのひとりだったのだろうか、と推測するしかない。


何日かが、そうして過ぎた。

一日の大半は、静かな時間だ。

彼は時々薪を割ったり、庭の手入れをしたりしていて、わたしは台所の手伝いをするようになった。

手は自然と動いた。

何もかも分からないはずなのに、包丁の使い方や、火加減の見極めには不思議と迷いがなかった。


――わたしは、昔からこうしていたのかもしれない。


そんなふうに、手が、身体が、記憶を補う。

誰かの手元で覚えた動作。

どこかの暮らしの中で染みついた習慣。

それらがわたしの輪郭を、かろうじて繋ぎとめてくれている。


「……あの」


ある日、意を決して声をかけ聞いてみた。


「わたし、どうしてここに?」


彼は少しだけ黙って、それから微笑んだ。


「君が倒れていたんだ。森のはずれで。――それだけだよ」


「助けてくれたの?」


「さあ。どうだろうね。僕はあまりできた人間ではないから」


冗談のように言いながら、彼はそれ以上何も言わなかった。

本当のことかどうかは分からない。

でも、彼の声は優しかった。


それだけで、わたしはそれ以上を問えなくなった。


わたしはここにいても、いいのだろうか。

なにも分からないわたしが、それでも“今”を生きている。

そんなことを考えながら、目の前の温かな湯呑に口を付けた。


この朝も、静かに始まっていく。

知らない場所で、知らない誰かと。

けれど、わたしはどこかで、この日々を愛おしく思い始めていた。





―――――――――――





「……ミヤ」


そう声をかけると、彼女はのんの少しだけ、振り返った。

庭先にしゃがみこんでいた膝に土がついていて、ほどけかけた三つ編みが肩先で揺れている。


「はい」


返ってきたその声は、まだ遠慮がちだ。

けれど、確かに“応えてくれる”ようになった。


――それだけで、もう十分だと思う。


トウヤは手にしていた水桶を土間に置き、小さく笑う。

春の風が古びた屋根をなぞり、庭の草木をやわらかく揺らす。

遠くで水車の回る音が、かすかに耳に届いた。


彼女が目を覚ましたのは、十日ほど前のことだった。

あの朝、名前も思い出さないまま、こちらを見つめて「……ここは?」とやっと呟いたときの顔が、今も脳裏に残っている。


怯えていたわけではなかった。

けれど、不安と空白に包まれた表情。

どんな言葉で返すのが正しかったのか、今でも分からない。

だから結局、嘘も真実も言わなかった。言えなかった。

ただ、そこにいる彼女を、迎え入れただけだった。


名前は――「ミヤ」と呼んだ。


本当の名前なのだと、彼女に伝えたことはない。

けれどその名は、過去の彼女が確かに持っていたもので、今の彼女もまた受け入れてくれた。


言葉の意味は、きっと分かっていない。

けれど「その名で呼ばれた」という事実だけを、彼女は受け止めてくれている。

彼女を呼ぶ自分の声に応えてくれること、それがどれほどの救いになっているかを、彼女は知らない。


台所の窯に薪を足しながら、トウヤはもう一度、彼女の方を見る。


ミヤは庭の隅で薬草の仕分けをしていた。

手つきはおぼつかないが、動きそのものには迷いがない。

不思議と、身体が覚えているのだろう。

そういうものが、きっとたくさんある。

彼女が自分の中に気づかずに持っているものが。


だからこそ、彼は無理に何も求めない。


過去を追わせない、記憶に縋らせない。

彼女がこの世界に再び馴染むまで、そっと隣に居るだけでいい。


「ミヤ、こっちはもう火が入ってるよ。そろそろ焼くかい?」

「うん、すぐ行くね」


たどたどしくも、確かな声だった。

この日々に慣れ始めている。

それは良いことだ。

でも、同時にどこか胸が軋むような感覚もある。


記憶を失っても、人は生きていける。

それでも、失ったものが本当に“無かったこと”になっていく過程を見守るのは、苦しい。


トウヤはその痛みを、彼女には見せないようにしている。

代わりに、笑う。

静かに、暖かく。

彼女のためであり、自分のためでもある。


その笑顔が、彼女にとって“安心”になるのなら――それだけで、いい。


台所の棚から香辛料を取り出しながら、ふと、トウヤは思う。

自分は、本当は何を望んでいるんだろう。

考えても、考えても分からないことだった。

けれど、はっきりしていることもある。

彼女が目の前にいる。

それが、今のトウヤには一番大切なことだ。


「ミヤ、火のそばは熱いから気を付けて」

「うん、ありがとう」


その笑顔もまだ、どこか少し遠慮がちだ。

けれど彼は、その距離さえ愛しく思えていた。


今日も、また静かな一日が始まる。

彼女がここにいることを、ただ、何度でも確かめるためのように。





―――――――――――





小屋の中には、生活の音がゆるやかに流れていた。

湯が沸く音、薪が爆ぜる音、風が窓辺を通り過ぎる音。


ミヤは、ふとした拍子に棚の上に目を向けた。

小さな薬草瓶、継ぎ目の甘い陶器、角の丸くなった木箱。

どれも使い込まれていて、そこにあるのが当たり前のように感じられる。

――けれど、やっぱり思い出せない。分からない。


この器は、誰が選んだのだろう。

薬草の並び方は、誰の手癖なんだろう。

この小屋の空気はどれもどこか懐かしくて、優しくて。

けれどやっぱり、わたしの知らないものばかりだ。


暖炉の火が揺れる頃、ふたりで食卓を囲んだ。

ミヤは湯気の向こうのトウヤを見つめながら、口を開く。


「この煮込み、わたし好きかもしれない」


するとトウヤは、ほっとしたように目を細める。


「そうか、ならよかった」


それだけの会話。

けれど、そこには言葉以上の温度が宿っていた。


ぱち、という音とともに、炭が小さく跳ねる。

しばらくふたりとも言葉を発さず、ただ匙を進めていた。


ミヤはふと、目の前のトウヤを見つめる。

いつもと変わらないはずの彼の横顔。

けれど、どこかほんの少しだけ、寂しそうに見えた。


それが、なぜなのかは分からない。

でもその寂しさを、わたしも知っているような気がした。


知らない日々。

けれど、確かに“知っていたような気がする”感覚。

言葉にならないその曖昧さだけが、ずっと胸の奥で燻ぶっている。





―――――――――――





暖炉の炭が微かに音を立てているのを背に、トウヤは本棚の整理をしていた。

読み終えた本を戻し、崩れかけた薬草の束をまとめる。

日々の繰り返しの中に埋もれた、少しの整頓。


ふと、上段に手を伸ばしたときだった。

乾いた紙の感触とともに、一枚の束ねられていない紙片が、ひらりと宙を舞った。


「あ……」


ミヤがそっとそれを拾い上げた。

紙はくたびれていて、端がわずかに焼け、ところどころ茶色く染まっている。

広げてみれば、それは手書きの地図のようだった。

太い線、細い線、丸印。

ところどころ、見慣れない記号のような文字もある。


「……これ、地図?」


ミヤがそう呟くと、トウヤも本棚の前から身体を返した。


「ああ、それ……」


彼はそのまま、ミヤの隣で地図を覗き込む。


「昔、旅をしてた頃に使ってたやつだね。もう、ずっと前のことだ」


ぽつりと呟いたトウヤの声には、少しだけ懐かしさが滲んでいた。

ミヤは地図に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。

それは、知らない世界だった。

けれど、不思議と目が惹きつけられる。

ひとつ、丸のついた地点に目をとめる。


「……この場所、なんだろう」

「ああ、そこは川沿いの集落かな?今もあるかは分からないけど」


地図の紙を、ミヤは静かに両手で押さえた。

その手つきは、まるで大切な何かに触れるような仕草だった。


「……わたし」


ぽつりと、言葉がこぼれる。


「外の世界を、見てみたいなって思ったの、今。何となくだけど、この小屋の外に何があるのか、知りたくなった……」


トウヤは一瞬だけ、驚いたような顔をした。

けれどすぐに、優しく目元を緩めて微笑む。


「そう思えるなら……それは、いいことかもしれない」


ミヤの視線が彼に向く。


「……一緒に、行ってくれる……?」

「うん、いいよ。君となら、どこへでも行ける」


そう返すトウヤの声には、静かな決意のような温度があった。


ミヤはふっと息を吐いて笑った。

それは、ごく自然な笑みだった。

誰かに言われたからじゃなく、自分の中から湧いた気持ち。

地図を抱えるようにして、ミヤはもう一度その紙を見つめる。


「じゃあ、旅に出ようか」


――その言葉は、かつてここでの生活で交わした言葉とよく似ていた。

けれど今、ミヤの口から自然とこぼれたその響きは、まるで最初から決まっていたような確かさを帯びていた。


トウヤは、あの時のミヤの笑顔を思い出していた。

記憶をなくす前、旅の果てに辿り着いたこの場所での生活で、小さくつぶやいたミヤの声。


――また、旅に出ようか。


今の彼女は、それを“思い出した”のではなく、“もう一度”口にした。

似た言葉を、同じ響きで。

記憶の外側から、言葉だけがふたりを繋いでいた。


暖炉の炭がまた、ぱち、と鳴いた。

先ほどとは変わらない小屋の中に、でも、確かに小さな風が吹いたような夜だった。


ふたりは肩を並べて、もう一度地図を広げた。

何も決まっていない。

けれど、行き先は今この瞬間から、ふたりで描いていける。


ミヤは思う。

わたしはまだ、何も知らない。

どこから来て、どこへ行くのかもわからない。

でも、隣にこの人がいるなら。

――多分、歩いていける。

そう思えた。


目の前にある地図には、まだ誰も描き入れていない空白がある。

その余白こそが、ふたりがこれから描く旅路かもしれなかった。





―――――――――――





――旅に、出る。


彼女が失ったもの、その代わりに手にしたもの。

祈りと呼ばれる何かの真実を、静かに辿ってみる。


――君は、何も知らなくていい。

でも、僕は知らなければいけない――


誰のためでもない。

ただ、自分自身のために。

彼女の傍に居続けるための、覚悟として。


真実だけを、知りたい。

感情ではなく、祈りの在り方を。

君が生きた証を、正しく見つめるために。





―――――――――――






朝の光が、ドアの隙間からやわらかく差し込んでいる。

足元にはふたつの靴。

少し泥の染みた方がミヤの、革のくたびれた方がトウヤのものだ。


戸口の前に並んで立つふたり。

薪の香りが残る家の中は、すでにひっそりと片付いていた。

食器は棚に収まり、薬草は瓶ごと袋に詰められている。

旅に必要なものだけを選び、残していくものには「ありがとう」と呟いて。


「寒くないか?」


隣でトウヤが言いながら、折りたたんだ外套を差し出してくる。

ミヤはそれを受け取りながら、首を振って笑った。


「ありがとう。でも、もう春だよ」

「旅立ちには、ちょうどいいな」

「うん」


肩と肩が、触れるか触れないかの距離。

言葉はそれ以上、必要なかった。


トウヤがドアに手をかける。

少しだけ重たい音を立てて、それは外へ開かれた。

光が差し込む。

少し眩しいが、風はまだ少し冷たかった。


家の前の小道には、雪の名残がまだわずかに残っている。

でも土はやわらかく、芽吹きの気配がどこかにある。

ふたりはゆっくりと一歩ずつ、並んで歩きだした。


背後でドアが静かに閉まる音がして、ミヤが振り返る。

あの小さな家。

わたしが彼と出会い、助けられ、しばしの間寝食を共にした場所。


「また、戻ってこられるかな?」


その呟きに、トウヤはしばらく黙って、それから静かに答えた。


「戻れたらいいね。でも……君が望むなら、どこだってそこが家になる」

「――……そっか」


ミヤが笑う。

ほんの少し、風が頬を撫でた。

春の気配。


ふたりは歩き出す。

どこへ向かうのかは、まだ決まっていない。

でも、その隣に確かに“誰か”がいるというだけで、前を向けるような気がした。


――ありがとう。

トウヤは心の中で、小屋を想う。

壁も、床も、暖炉も、ベッドも、ふたりの生活を支えてくれたすべてに。


――ここで暮らせたこと。君と“穏やかな日常”を積み重ねられたこと。すべて忘れない。


音にはならない想いが、春の風にまぎれて後ろへと流れていく。

ふたりの歩幅は、いつの間にかぴたりと揃っていた。


次に描くのはきっとまた、ふたりの“はじまり”の物語だ。

燻ぶる想いを抱えながら、トウヤは再び前を向いた。





―――――――――――






――いつだって、僕こそが君に救われているんだ。

あの日、手を伸ばしたのは僕からだった。

でも本当は、見捨てられなかっただけかもしれない。

誰だって、あんなふうにぼろぼろで倒れていたら、手を伸ばしたと思う。

それは君だったからじゃない。

多分、他の誰でも僕はそうしただろう。

けれど、それが君だった。


僕はただ、生きていることに少しでも意味があると、信じたかった。

だからあの夜、君を拾ったんだ。

それが、その時の僕にできた、ささやかな祈りだったのかもしれない。


あの小さな呼吸に、確かに繋がっていた命に、手を伸ばしたその瞬間から。

僕の世界は少しずつ変わり始めていた。


想いを馳せる。

あの火が灯った夜を。

僕と君が出会った、すべての始まりに。

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