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01-06,夢を編む日々

トウヤの鼓動が、耳の奥にふんわりと響いていた。

小さく、規則正しく、でもどこか頼りなくて。

まるで編みかけの毛玉みたいに、不揃いな優しさが胸の奥でほどけていく。


私は今、彼の隣に居る。

もう何度目か分からない朝を、この人のぬくもりのそばで迎える。

夜はすっかり明けかけていて、でもまだ、光が差し込むには早すぎる。

窓の外は深い灰色のまま、暖炉の火もとうに落ちて、部屋の中は静かだった。


こういう時間が、一番好きだ。

何も起こらず、ただ鼓動と寝息だけが、私の世界を満たしている。


「……トウヤ」


呼ぶ声は、小さすぎて自分にも届かない。

声に出していないのかもしれない。

ただ、心の中で彼の名を撫でるように、繰り返しただけかもしれない。


すぐそばで、彼は眠っていた。

たまに、この人は寝たふりをする。

私が目を覚ましたと気づいて、黙って目を閉じたまま、眠っているふり。

でも、今は違う。

鼓動がゆっくりで、呼吸が深い。

ちゃんと眠っているんだって、分かる。


布団の間に漂うのは、薪の煙と乾いた草の匂い。

洗いたての寝間着に残る、優しい石鹸の匂い。

全部混ざって、私だけが知っている“トウヤの匂い”になる。


世界がほどけて、また編みなおされる気がする。

彼の寝息がひとつ落ちるたびに、昨日までのざらつきが洗われて、今日が少しやわらかくなっていく。

何も言わなくても、何も触れていなくても、ここに居られる。

それが、きっと“しあわせ”ってことなんだと思う。


私は目を閉じる。

もう一度眠ってしまってもいいし、このままずっと目覚めていてもいい。

この時間が続いてくれれば、それでいい。


トウヤの指先がぴくりと響いた。

その音だけで、世界は優しく繋がっている。

こんな風に、今日もまたふたりで朝を編んでいく。


まどろみの中で、私の指が無意識に、ゆっくりと動いた。

布団の上でそっと彼の袖口を撫でるように。

生きているぬくもり。

優しくて、温かくて、確かだった。


そのぬくもりに惹かれるように、私はそっと指を止める。

ただそこにあることを確かめるように。

そして、何も言わずトウヤが目を開ける。

まるでずっと前から起きていたように、穏やかに。


「おはよう、トウヤ」


私がそっと囁くと、彼は目を細めた。

眠りの余韻をまといながら、ゆっくりと手を伸ばし、指先で私の長く伸びた髪を梳く。

力の抜けた、癖のない髪を何度も、丁寧に優しく。


言葉はなかった。

けれど、それで十分だった。

そう思っていた時、不意に彼がぽつりと言った。


「君がここにいる朝が、一番好きだ」


その言葉に、私の胸の奥がほんのりと熱を持った。

何かを返そうとして、でもうまく言葉にならず、ただ彼の肩に額を寄せる。


変わらない朝。

見慣れた天井、いつもと同じベッド。

けれど今日もこうして、お互いがここにいると確かめ合えることが、どれだけ特別なことかを知っている。


今日も、ここから始まる。

あなたが、私の隣に居る。

それだけで、世界はもう、十分に暖かい。







―――――――――――







暖炉に火を入れると、ぱちりと小さな音を立てて炭が跳ねた。

朝の空気はまだひんやりとしていて、吐いた息がほんの少し白い。


「もうすぐで、お湯沸きそうだよ」


ミヤの声が、火の粉の音に重なってやわらかく響いた。

パンの焼ける香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がり始めている。

台所の小さな棚に手を伸ばして、香辛料を取り出す。

刻む音が、木のまな板に軽やかに響いていた。


湯気がふわりと立ちのぼり、その向こうでミヤの髪が揺れる。

濡れ羽色の美しい髪が朝の光をやわらかく透かし、首筋の白さを際立たせていた。


トウヤは湯気越しにその姿を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。

何気ない一瞬に、胸の奥がふっと熱くなる。


するとミヤが手を止め、背後を振り返ることもなく言った。


「……もー、トウヤ」


肩で笑うように声が揺れる。

からかうような軽やかさに、湯気の中の空気がほんの少し和らいだ。


何かを察したように、ミヤはちらりとトウヤを見やる。

朝の光がその輪郭をふわりと照らし、どこか照れたように言葉を紡いだ。


「見てるの、わかるんだからね?」


パンの表面がきつね色に焼きあがる。

薬草を煮出した湯が静かに湯気を立てて、ふたりの間の空気をほどいていく。


「今日は、何する?」


ミヤがふと問う。

窓の外に目をやりながら、曇りのない声で。


「何もしないってのも、悪くない」


薪の爆ぜる音が、ふたりの間にふわりと落ちる。

ミヤは「あはは」と笑って、パンをふたつの皿に分けた。


日々の始まりは、いつもこんなふうだ。

特別じゃない、でも大切な時間。

ふたりが同じ空間にいて、同じ火を囲み、同じ朝を味わう。


言葉を交わさなくても、温度が重なる。


日常という名の織物を、今日もまたふたりで編んでいく。

ひと目ひと目、確かめるように、ゆっくりと、丁寧に。







―――――――――――







昼の少し前、ふたりは森へ向かった。

乾いた薪がそろそろ切れそうだと気づき、朝食の後、籠を手に外へ出た。


森の中は、木漏れ日がさやさやと揺れている。

葉と葉の隙間からこぼれる光が、地面に小さな模様を織りなしていた。


「久しぶりだよね、こうしてふたりで森に入るの」


ミヤが言うと、トウヤは隣でふっと微笑む。


「君はすぐ拾いすぎるからね、今日はちゃんと乾いているものを選んで」

「えー、ちゃんと選んでるもん」


口を尖らせながらも、ミヤは枯れ枝を足先で転がし、しっかりと乾いているものだけを拾っていた。

ふたりの籠が、ゆっくりと重くなっていく。

歩くリズムが合っていることに、誰も気づかない。

けれど、確かにふたりは、同じ歩幅で、同じ光の中を進んでいた。


そのとき、ミヤの足が木の根に引っ掛かって、わずかにバランスを崩した。


「わっ」


軽い声が上がると同時に、トウヤの手が彼女の腕をすっと支えていた。


「ありがとう、転ぶところだった」


小さな声で、けれどしっかりと伝えるように、ミヤはそう言った。


ふたりの視線が、一瞬だけ重なる。

トウヤの手はすぐに離れたが、支えられた掌の温度がまだ、ミヤの腕に残っていた。


「籠、貸して。重くなってきたでしょ?」


ミヤから籠を受け取ると、ふたりは再び歩き出す。

森を抜ける手前、少し開けた場所に出る。

遠くに、うっすらと小屋の屋根が見えていた。


そこでミヤは立ち止まり、空を仰いだ。

雲が、ゆっくりと流れている。


「ねえ、また旅に出ようか」


ぽつりと、風にまぎれるようにしてミヤが言う。

言葉に意味を詰めすぎず、ただ、ふとこぼれたような声音だった。


トウヤは彼女を見つめて、ほんの少しだけ目を細める。


「君となら、どこへでも」


それは、約束というほど大げさではなく。

けれど、確かに未来に向かって糸が結ばれる音がした。


ふたりはまた歩き出す。

重なった影が、静かに揺れていた。







―――――――――――







暖炉にくべた薪が、ぱちりと弾けた。

淡い火花が一筋の軌跡を描き、跡形もなく闇に溶けた。

外では。昼の光を追いかけてきた風が軒先をくぐり抜け、遠くで木の葉を揺らしている。

けれど小屋の中は熱と匂いで満ちていた。

鍋の中で煮込まれた根菜と、脇に添えた乾いたパン。

皿も匙も素朴なものばかり。

――だが、ふたりには十分だった。


「いただきます」


湯呑の縁が触れあい、微かに音を立てた。

乾いた音はすぐ湯気に吸われ、暖炉の炎の揺らぎと混ざって小さくなる。

ミヤは湯気越しに目を細め、トウヤはその視線を受け止めながら、静かに微笑む。

熱い湯吞を口に運ぶたび、薬草の香りがゆるく鼻へ抜け、喉の奥がほどけていくようだった。


「あっ、熱い」


ミヤが舌を出しながら笑うと、トウヤが肩を揺らして笑い返す。

笑い声が静かに途切れ、残ったのは薪が崩れるやわらかな音と、鍋の奥で泡が静かに弾ける音だけだった。

言葉は足しすぎない。

けれど沈黙は、決して隙間ではなく。

――ふたりで編んできたやわらかな布のように、身体の上をするりと覆っていく。


パンをちぎり、煮汁に浸し、口へ運ぶ。

味は素朴で、どこまでも普通だ。

それでもミヤには贅沢だった。

目の前にトウヤがいて、湯気を分け合い、同じ火を囲んでいる。

その事実以上のごちそうはない。

ふと視線が重なり、ふたり同時に「ん?」と笑う。

それだけで、言葉の代わりになった。


やがて鍋の底が見え、湯呑の湯も残り少なくなる。

火はまだ赤く灯っているが、窓の外には夜の気配が濃くなってきた。

それでも恐れはない、焦りもない。

炎の橙が壁に投げる影を、ただ眺める。

手はつながなくても、肩が触れあっているだけで暖かかった。


「消そうか」


トウヤが立ち上がり、灯芯をそっと捻った。

暖炉の火を落とし、ランタンの光だけになる。

夜を招き入れた小屋は、蒼い静寂を帯びるが、ふたりの間にある温度は変わらない。

片付けは明日に回してもいい。

そう合図するように、空になった皿を布で覆い、卓の端に寄せる。

あとは眠りに向けた身支度だけ。

けれど、それさえ言葉にしなくてもわかる。


灯りを落とすと、世界がひとつ小さくなった。

ふたりの呼吸だけがその小さな世界を満たし、外の闇を遠ざける。

ベッドに潜り込み、トウヤの背中に胸が重なった瞬間、ミヤの心にぽうっと明かりが灯る。

昼間に編んだ糸が、夜の闇の中で暖かな毛布に変わるようだった。


呼吸がそろうたび、胸の内で“ありがとう”がほどけていく。

声にすれば壊れそうで、けれど言わずにはいられない。

だから心の中で繰り返す。

ありがとう、今日という日、今という瞬間。

それに答えるように、触れたトウヤの手が触れ返してくる。

きっと彼も同じことを思っていると、触れた背中が教えてくれた。


明日がどうであれ、この一日が確かにあった。

それだけでいい。

私たちが愛したものは、今日の中に全部詰まっている。

まだ見ぬ明日を怖がる必要はない。

――きっと明日も、こうして繋がる日だ。


ミヤは目を閉じた。

布越しに伝わる鼓動が、先ほどより少し遅くなる。

外の風が軒を揺らし、暖炉の残り火が燻ぶる。

その音を子守唄にして、ふたりは静かに眠りへ落ちていった。







―――――――――――







例えば、こんな日々が夢だとしても。

目覚めてしまえば、消えてしまうとしても。

私は願うだろう。


何度でも、こんな日々を、もう一度編みたいと。


朝が来て、パンを焼いて、ふたりで笑って。

時には言葉もいらないくらい、静かに時が流れていく。

そんな何でもない日常のひとつひとつが、私たちにとっては何よりの祈りだった。


夢を編む、というのは。

多分、こうして今日を生きていくことなのだと思う。

失うことを恐れながらも、それでも大切に積み重ねていくこと。


――この日々が、いつか終わってしまうその時まで。


私たちはきっと、明日もまた、ささやかな糸を手に取る。

そして世界にひとつだけの夢を編みながら、今日と同じように明日を迎えるのだろう。


この物語が終わっても、ふたりの“日々”は終わらない。

ふたりが望む限り、ずっとずっと続いていくだろう。

そう信じられる今を抱きしめていられることが、何よりの幸せだと思う。

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