01-05,祈りは地に宿る
私には、思い出せない時間がある。
それを思い出したいのかどうか、自分でもよく分からない。
ただ、ふとした瞬間に、胸の奥がざわめくことがある。
例えば“祈り”という言葉。
理由もないのに、涙が出そうになる。
まるで昔、誰かと交わした約束のように。
例えば、薬草の名前を自然と口にしているとき。
誰に教わったかも覚えていないのに、迷いなく選び、手が動いている。
例えば、古い文字を目にしたとき。
とうに滅んだ読めるはずのない言葉が、まるで当たり前のように頭の中に浮かぶ。
思い出せないのに、どこかで知っている。
私の中に、ずっと前から在ったもののような気がする。
そして今日もまた、ひとつの“なにか”が、私の中で目を覚ましかけている。
―――――――――――
今朝の風は、少し湿っていた。
昨夜の雨がまだ地に染みているのか、草むらからは冷たい水の匂いが立ちのぼる。
小屋を出てしばらく、ミヤは繋がれた手のぬくもりを感じながら、歩いていた。
トウヤの手は、相変わらず大きくて温かい。
何かを確かめるように、ミヤは指先に力を込めた。
すると、隣を歩く彼もほんの少し、指を絡めて握り返してくれる。
「町までは、ひとりで大丈夫か?」
ぽつりと、歩調に合わせて落ちてくる声。
その言い方は何度も聞いたものなのに、今日は少しだけやわらかく響いた。
「うん、この前も行ったし。それに今日はそんなに買うものも多くないから」
ミヤはそう返しながら、手の中のぬくもりを惜しむように見つめた。
もう片手には籠ひとつ。
中には折りたたんだ布袋と、使い慣れた旧通貨が少しだけ。
彼女は一歩、足を止めた。
「水車小屋、点検してくるよ。この間直したばかりだから、今のうちに見ておきたい」
「うん、分かった。また壊れても面倒だもんね」
トウヤはわずかに目を細めて、「ありがとう」とだけ言った。
口に出す言葉よりも、繋いでいた手の温度がそのまま、彼の返事のように思えた。
分かれ道に差しかかる。
町へ向かう道と、小川沿いの水車小屋へ続く細い坂道。
その場で立ち止まったふたりの手が、ゆっくりとほどけた。
「夕方前には戻る。帰り道、気を付けて」
「うん、トウヤこそ。またあとでね」
笑顔でそう告げると、ミヤは小さく手を振った。
トウヤも軽く頷き、背を向けて坂を上っていく。
残されたミヤの耳に、風が草をすべる音と、小川のせせらぎが届く。
どこまでも静かな朝。
――それなのに、胸の奥が少しざわつく。
ミヤは微かな胸騒ぎを振り払うように、呼吸を整え、町へ続く道へと歩き出した。
掌に残るぬくもりだけが、確かに、彼と別れたことを教えてくれていた。
―――――――――――
町の石畳は朝露を乾かしきれぬまま、まだひやりとした感触を残していた。
角を曲がるたびに香る干し草や、干物を炙る匂い。
ミヤは籠を手に、必要な品をひとつひとつ丁寧に詰め込んでいく。
布地と保存食、薬草の束、乾いた芋。
ひとつたりとも、無駄にはできない日常の糧。
――この町にはもう、何度も来ている。
けれど今日は、なぜだかほんの少し、足が遠回りした。
一通り買い物を終えた後、小さな広場の方へと足を向ける。
そこには、町の子供たちが輪になって、老女の前にちょこんと腰を下ろしていた。
灰色の外套をまとった、その老女の顔は皺に埋もれてよく見えない。
けれど声は不思議と通っていた。
「……あるところにね、祈りを力に変える一族がいたんだよ」
ミヤはふと、立ち止まった。
「その人たちは、夢の前に祈った。願いを、ちゃんと胸の中で唱えて……そうすれば、どんな願いも叶った」
子供たちは笑い、首を傾げ、誰かが「ほんとー?」と声を上げた。
老女はそれには答えず、どこか遠くを見るような目で、ぽつりと言葉を重ねた。
「……でもね、祈りには代償があったそうだよ。忘れ物をするんだ。大切なものほど、ぽろっと落としていく」
風が吹いた。
話し声と笑い声が混ざり合って、さっきの言葉はもう誰にも届かない。
ミヤはその場から視線を逸らせずにいた。
けれど、老女が再び口を開いたときには、もう別の話をしていた。
空から落ちてきた火の玉の話、海の向こうにいる三つ目の怪物の話。
子供たちがはしゃぐにつれ、語りもさらにあやふやになっていく。
――……さっきの、祈りの話。
胸の奥が不意にざわついた。
聞いたことがある気がした。
けれど思い出そうとすると遠ざかる。
それは夢の中のように曖昧で、けれど確かに“どこかで知っていた”。
広場を背にして歩き出しながら、ミヤは頭の中で言葉をなぞった。
――夢の前に、祈りを捧げよ。願いを、その心で告げよ。
誰が言ったのかも知らない、けれどどこか温かく怖くもある言葉。
それはまるで、自分の中に根付いているもののようだった。
籠を抱えなおし、足早に歩く。
道は町を抜けて森へ、そして水の音がかすかに聞こえる小屋へと続いていた。
ミヤは振り返らなかった。
老女の語りも、子供たちの声も、いつの間にか風の中に溶けていた。
まるで、何もなかったかのように。
―――――――――――
小屋のドアを押し開けた瞬間、ほんの微かな木の香りと、まだ仄かに残る朝の火の匂いが鼻を掠めた。
トウヤはまだ戻っていないようだった。
水車小屋での点検が長引いているのだろう。
ミヤは籠を机に置き、手早く荷物を片付け始めた。
買ってきた乾いた芋と薬草、荒布に包まれた保存食。
必要なものを必要な場所に。
ひとつひとつ棚にしまいながら、ふと指が止まる。
――……あの言葉、なんだったんだろう。
広場で耳にした老女の語り、いや、それよりも前、もっと前に。
自分の中にあった気がする言葉。
心の奥底に、ずっと沈んでいた響き。
――夢の前に、祈りを捧げよ。
その一節が、頭の中でふわりと繰り返される。
意味は分からない。
けれど、それでも何かが胸を騒がせる。
遠くにあったはずのものが、今この場所で唐突に呼吸し始めたようだった。
ミヤは棚の奥にしまっていた、皮綴じの束を引っ張り出した。
旅の途中手に入れた古文書のうちのひとつ。
黄ばみの残る紙片のひとつひとつを、指先でめくっていく。
「確か、このあたり……」
ぱら、とめくった瞬間。
目に飛び込んできたのは、墨の滲んだ、けれどはっきりとした文字だった。
「夢の前に、祈りを捧げよ」
「叶えたい願いを、その心で告げよ」
「代償を捧げ、祈りたまえ」
「さすれば願いは叶えられん」
息が詰まりそうだった。
言葉の形、語順、結び。
自分が心の内で唱えかけていたものと、寸分違わない。
――どうして私、これを知っていたんだろう……。
ミヤはその文を見つめたまま、冷たくなった指をそっと膝の上で握った。
頭の中に、光と音のない風景が過る。
誰かの声が聞こえた気がした。
優しい声、母の声、かもしれない。
あるいは、もっと昔の自分自身の声かもしれない。
けれど確かに、その言葉は心に灯っていた。
「……なんで?」
ぽつりと、言葉が落ちた。
誰に問うでもなく、ただ空気の中に溶けていくように。
かつての自分のことは、ほとんど思い出せない。
拾われる前の記憶は、まるで夢の底に沈んでしまったみたいに曖昧で、触れられない。
けれど今、こうして目の前にある文字は、何よりも強く、自分の中に“宿っていた”もののように感じた。
――この感覚は、どこから来るんだろう。
誰にも、答えは分からない。
けれどミヤは、ただ静かに、古文書の文字の上に手を重ねた。
まるでその文字の鼓動を、掌で確かめるかのように。
―――――――――――
木のドアが、ぎい、と鈍く開く音がした。
ミヤがふと顔を上げると、夕暮れに染まった影が玄関口に立っていた。
「ただいま。ごめん、遅くなった」
トウヤだった。
肩に小さな油じみが浮かび、額には薄く汗が滲んでいる。
「おかえりなさい。水車、小屋ごと流されたりしてなかった?」
「それは、さすがに困るな」
そう言って靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
暖炉の火は燻ぶる程度に保たれていて、部屋の空気は暖かかった。
ミヤは卓の上の文書に手を伸ばし、それをそっと古布に包んだ。
「ね、今日ね」
言葉の調子が少しだけ変わる。
「古文書の中から、こんな言葉を見つけたの」
そう言って彼女は、覚えていた文字を、ゆっくりと言葉にする。
「夢の前に、祈りを捧げよ。叶えたい願いを、その心で告げよ。――代償を捧げ、祈りたまえ。さすれば願いは叶えられん」
トウヤは手を止めた。
その響きに耳を澄ませながら、ぼんやりと視線を落とす。
「……それは、伝承か?」
感情を交えず、ただ言葉だけを返す。
けれどその声には、ごく僅かな引っ掛かりがあった。
ミヤは、宅の角に手を置きながら、ふっと目を伏せる。
「不思議とね、懐かしい気がしたの」
声は控えめだったが、その奥には確かな温度が宿っていた。
「懐かしいって、ミヤ……記憶が」
「ないよ」
言葉を遮るようにして、ミヤは小さく笑った。
「ないけどね、感覚って、消えないのかもって思った。景色とか、言葉とか……」
トウヤはそれに何も言わなかった。
ただ、隣に腰を下ろし、ミヤの言葉を受け止めるように肩を抱いた。
しばらくの沈黙の後、ミヤは呟くように続けた。
「私、なんで自分が古文書を読めるのかも、分からないんだよ。教わった記憶もないのに」
「……そうだったな」
それ以上、トウヤは何も言わなかった。
けれど胸の奥で、かすかに何かが波打っていた。
――知らないはずのものに、迷いなく手を伸ばす。まるで心だけが、何かを覚えていたみたいに。
それは偶然だろうか。
それとも、もっと深いところで繋がっている何かだろうか。
トウヤには分からなかった。
ただ、答えの出ない問いが、静かに彼の胸の奥に落ちていった。
そしてミヤは、そんな彼の沈黙に気づきながらも、問いただすことはしなかった。
ただ、小さな笑みを浮かべて、彼にそっと抱きついた。
言葉にならないままに、でも確かにふたりの間には、ひとつの“何か”が宿り始めていた。
―――――――――――
夜の帳が小屋をすっぽりと包んでいた。
暖炉の火はすでに消え、部屋の中は仄かな灯りさえない。
けれどそれが、不思議と寂しくはなかった。
ミヤは、ベッドに横になったまま隣で寝息を立てるトウヤの背に、そっと手を添えた。
布越しに伝わる体温が、微かに上下する呼吸の波が、確かに“生きている”ことを伝えてくれる。
「……ありがとう」
声には出さず、ただ唇の動きだけで呟く。
祈りにも似たその想いは、言葉にしてしまえば壊れてしまいそうだった。
――この人が、一緒に生きていてくれますように。
その願いが、叶うかどうかは分からない。
けれど、それを願わずにはいられない心がここにある。
それは願いではなかった。
祈り。
――そう呼ぶしかない、静かな衝動だった。
代償があってもいい、ただ、生きていてほしい。
目を閉じる。
心の奥に、ひとつの言葉が沈んでいた。
“夢の前に、祈りを捧げよ”
老女の声でもなく、古文書の文字でもない。
それはもう、彼女の外にあるものではなくなっていた。
この胸の内側に、確かに根付いている。
どこで聞いたのかもわからない、けれど懐かしいようなその言葉が、今はただ優しく灯っている。
――私はどうしてこの言葉を知っているんだろう。わからない、でも……。
それでも今、確かに祈っている。
たったひとりの人を想って、何度でも、静かに。
祈りはどこか遠くにあるものではない。
誰かの心に灯ったその時、きっとそこに宿るのだ。
地に、血に、そして私のこの胸に。
ミヤはそっと、目を閉じたままトウヤの背へ額を寄せた。
耳に届くのは、彼の規則正しい寝息と、自分の鼓動。
どちらも静かに、静かに、夜の中へ溶けていく。
祈りの名のもとに、世界が少しだけあたたかくなった気がした。
―――――――――――
私が知らなかったように、誰かもまた、知らずに祈っているのかもしれない。
それでも――それでいい。
祈りは、きっとこうして、世界に根を張っていくのだから。