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01-04,星のない夜に

雲が空を深い灰に染め、夜が輪郭を失くしていた。

今夜は、月も星もない。

窓越しの闇は、冷えた墨を一面に流したようで、わずかな光さえ吸い取ってしまう。

ミヤは手のひらで窓硝子をそっと押さえ、外気の冷たさを確かめた。

指先が静かに痺れる。


「今日は、星が見えないね」


声は囁くほどの大きさで、部屋の木壁に溶け込んだ。

暖炉の火はほぼ炭になり、残る橙の灯が床板を照らす。

ぱち、と細い火の粉が跳ねるたび、闇が瞬きを返す。


奥の作業台では、トウヤが小さな歯車に油をさしている。

細い金属が灯を弾き、細い影をその手へ落とした。


「ミヤ、寒くない?」


振り向くことなく投げられた声は、どこか遠くけれど、優しさに満ちていた。

ミヤは軽く首を横に振り、微かな笑みを浮かべた。


「平気。ねえ、雲の向こうでは、きっと今も星が光ってると思わない?」


トウヤは布で指先を拭い、ちらりと窓を仰いだが、返事は笑みだけだった。

口の端がわずかに上がる。

言葉の代わりに、淡い灯だけが揺れた。


彼女はその静かな笑みを受け止めつつ、胸の奥で小さく息を整える。


――見えなくても、あるって思えたら、きっと大丈夫。


窓硝子をなぞる指先から、祈りにも似た熱がじわりと伝わる。

ミヤはそっと暖炉へ戻り、残る炭の上に乾いた小枝をそっと置いた。

炎がゆっくり蘇り、橙の光がふたりの間をふわりと繋ぐ。

星のない夜でも、ここには確かな灯がある。

そう信じるように、小さく微笑んだ。


「あ、そうだ……」


ミヤは火の前にしゃがみ込み、暖炉の傍らにあった木箱の中からひとつの小瓶を取り出した。

掌に収まるほどの透明な硝子瓶の中には、光を蓄える石がいくつか、ころんと入っている。

淡く緑がかったその石たちは、暖炉の火を受けてほのかに輝いていた。


「ねえ、これ」


そう言ってミヤは瓶を両手で包み、トウヤのもとへと歩み寄る。

トウヤは手元の工具を置き、彼女の差し出すものに視線を落とす。

瓶の中の石たちは、まるで夜のかけらを閉じ込めたように、微かに瞬いていた。


「星の代わりに、って。この前町で、道具屋のおばあちゃんにもらったの。もう光が弱いから処分するって言ってたけど、かわいそうで……もらってきちゃった」


ミヤの頬が、照れたように少し赤らむ。

トウヤはその小瓶を受け取り、室内の光にかざす。


「……きれいだね」


それだけを呟いたトウヤの声は、静かで、どこか触れないような響きだった。

ミヤは少しだけ表情を崩し、けれどそれ以上は何も言わず、トウヤの横に座った。

ふたりの間に、瓶の星がぽつりと揺れる。


「ほんの少しだけでも光ってるなら、それで十分じゃないかなって。夜が真っ暗でも、たとえ見えなくても、そこにあるって思えれば……」


そう言いかけて、ミヤはそこで言葉をのんだ。

何を言いたいのか、自分でもうまく言葉にできなかったから。


トウヤは瓶の中の石を見つめたまま、小さく頷く。


「……うん、そうだな」


それが、彼にできる精いっぱいの返答だった。

それでもミヤは笑った。


この人の夜が、ひとりぼっちじゃありませんように。


心の中でそう祈りながら、ミヤは立ち上がり、暖炉の火にもう一度小枝をくべた。

橙の灯がふたりの影をやわらかく重ねた。





―――――――――――





暖炉の火がぱちりと音を立てる。

ミヤがくれた瓶は、今も手の中で微かに明るい。


――思えば、星を数えた記憶がない。


いつだったか、まだミヤと旅をしていたころ。

昔のことを聞かれ、こう答えたことがあった。






―――――――――――





空を見上げる余裕なんて、なかった。

屋根も壁も中途半端な小屋で、風が吹けば隙間から砂が入ってくる。

年長者が木切れを燃やして粥を作り、小さな子供たちに匙を運ぶ。

自分も、どこかのだれかにそうしてもらった。

けれど、その顔も名前も、もうほとんど思い出せない。


ただ、ひとつ。

よく覚えている夜がある。


寂しくて泣いていた子がいた。

どうにかしてあげたくて、けれど何も持っていなかった。

だから、口から出まかせにこう言った。


「大丈夫。星が見てるから」


焚火の火の粉が空に舞っていたけれど、あの空に本当に星があったかどうかは分からない。

自分でも信じていなかった。


でも――あの時、信じたいと思っていたのは、自分の方だったのかもしれない。


星が見てる。

誰かが、どこかで、自分を見つけてくれる。

そんな嘘が、どうしようもなく、欲しかった。


孤児院というにはあまりにも粗末なあの集落を出たのは、身体が急に変わり始めたころだった。

熱もないのに、汗が止まらない。

寒くないのに、震えが止まらない。

痛みも、重さも、輪郭を失っていくような感覚。

「何かがおかしい」と、そう思いながら、それを誰にも言わずに歩き出した。


死ぬなら、せめて見たことのない景色の中で。

そんな願いを抱えたまま、今日まで、ずっと。


でも今、夜の帳の中でミヤが渡してくれたこの光が、まるで自分の掌に灯った星のように見える。


信じたことなんてなかったのに。

いつからだろう。

祈りのようなものに、縋りたくなってしまったのは。


掌の小瓶を、もう一度見つめる。

光は弱くても、確かにそこにあった。






―――――――――――





暖炉の火が、静かに芯を細めている。

トウヤの作業台の上に置かれた瓶の中の蓄光石は、まだ淡く光っている。


ベッドに横たわる寝息は静かで、深く、穏やかで。

けれどミヤは、なんとなくその音の裏にあるものを探ってしまう。

今日の彼の指先は、少しだけ冷たかった気がする。

けれど何も言わなかったし、何も聞かなかった。

聞いてもきっと、トウヤは何も言わないから。


小さなため息を吐いて、ミヤはそっと立ち上がる。

トウヤが直したというランタンに手を伸ばし、火を少し絞った。

揺れていた影がふっと沈み、部屋がひとつ、夜に近づく。


そのまま窓辺に歩み寄る。

窓硝子越しに見える空に、やはり今夜は星ひとつない。

黒に近い灰色が広がり、どこまでも重たい。


それでも、ミヤは目を細めて空を見上げた。

誰かが言っていた。


――見えなくても、そこにあると信じることが、祈るってことだよ。


そんな言葉をふと思い出しながら、そっと手を合わせる。


「願っても、いい?」


声に出すと、少しだけ胸が痛んだ。


「星が、あなたの上でちゃんと瞬いていますように」


そう囁いたとき、なぜだか目の奥がじんと熱くなる。


この祈りが届くかどうかなんてわからない。

けれど、自分が願わなければきっと――

彼は、自分のことなんて願わない。


それが、ミヤには少しだけ、寂しい。


だからせめて、自分の星ぐらいは自分で灯したい。

見えなくてもいい。

触れられなくても、そこにあると信じられるなら、それでいい。


ランタンの下で、瓶の光がまだ微かに瞬いていた。

ミヤはそれに気づくと、そっとトウヤの枕元に置いた。


「おやすみ」


小さく囁くように言って、ミヤはまた、夜空を見つめた。

見えない光を信じながら、静かに、祈りの続きを胸に灯しながら。

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