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01-03,誰が祈ったのか

薄曇りの朝。

窓辺のカーテンがまだ淡い光しか透かさないうちに、トウヤは身を起こした。

ひと呼吸ついてから立ち上がる。

――はずだったが、足を床につけた瞬間、視界がふっと揺れる。


軽いめまい。

脈が遠く沈んだように感じる。

(……大丈夫、まだ)

心で呟いて、額に手を当て深く息を吸う。

身体の中心に戻るべき感覚を呼び戻すと、わずかな鈍さだけが残った。


暖炉の火を起こし、薬草の入った瓶を並べる。

薪の香りと、朝一番に煮る雑穀粥の甘い湯気。

その合間に指先が二度、三度、小さく震えた。

木匙を握りなおして、誤魔化す。


ほどなくして、ミヤが現れた。

寝癖を気にして、片手で髪を撫でながらも、瞳はすぐにトウヤへ向く。


「おはよう……少し顔、青白い気がするけど大丈夫?」

「寝不足かな、今朝は粥にしたよ。一緒に食べよう」


笑い交じりの声で返し、急いで椀を棚から取ろうとした。

けれど指が滑り、器が欠けた音を立てて机にぶつかる。

その光景に、ミヤの眉が寄る。


「やっぱり、今日は私が盛るよ」

「いや、本当に平気だから」


椀を渡すまいと袖を払えば、ミヤの手が空を切る。

ふたりの間に微細な空白が生まれ、暖炉の火の爆ぜる音だけが際立った。


沈黙のまま、木匙で鍋をかき回すと、粥の表面がゆっくり波打つ。

その白濁はどこまでも静かで、けれど奥に沈んだ黒い影のようなものを、トウヤは感じていた。


食卓につくころには、ミヤはいつもの笑顔を作っていた。

だが匙を口へ運びながら、ちらりと視線を上げるたび、瞳の奥に小さな皺が寄る。


「今日は、町はずれの水車小屋で修理の約束なんだ。夕方になる前には、戻れると思う」


トウヤがそう告げると、ミヤは一拍置いてこくりと頷いた。


「行ってきます」

「いってらっしゃい。……気を付けてね……?」


玄関のドアを閉める音が、麻の気配をふたつに分けた。

外の冷たい空気が頬を打つと、立ちくらみは引いていた。

――はずなのに、歩き出す足裏はどこか浮いている。

それでも背を伸ばして、肩越しに小屋を振り返る。

窓の向こう、ミヤがこちらを見ていた。

朝の光が彼女の瞳に映り込み、ほんの一瞬だけ眩しく反射して煌めく。


あの光だけは、どうしても曇らせたくなかった。

指先に残る痺れを握りつぶすように拳を握り、トウヤは歩き出した。





―――――――――――





朝、トウヤが出て行ったあと。

小屋にはすぐ静寂が戻ってきた。

暖炉の火は落としてあり、窓辺に干した洗濯物が風に小さく揺れている。


「さてと……」


ミヤは机の上に山積みになっていた古文書の束に向かう。

旅の途中、とある村の交易所で分けてもらったまま、手を付けずにいたものだ。

薬草の使い方や土地の治療法。

時には迷信じみた記述まで含まれており、古語に近い文体は読み解くのにひと苦労だった。

それでも、どこか懐かしいような気がして、ミヤはこの作業が嫌いではなかった。


ひとつ、またひとつと束を解いていくうちに、薄く焼けた一枚の紙が指に引っかかった。

他と違って、墨の色が妙に濃い。

筆致も不安定で、どこか焦ったような文字だった。


終祷症(しゅうとうしょう)について>


見出しらしき語に、ミヤの眉がわずかに動く。

見覚えも聞き覚えもない名前だった。

興味を惹かれるまま、彼女はその紙を抜き取って広げてみた。


<終祷症―しゅうとうしょう―>

<これは命の灯が祈りとともに消えるものなり>

<痛みなく、兆しなく、ただ静かに魂より終わりを迎えるもの>

<医術および薬草、これに項を示さず>

<また、いかなる外的介入も叶わず>


ミヤは読み進めるうちに、眉をひそめた。


「……なんだろう、これ。病、なのかな」


その記述は、あまりに抽象的だった。

冒頭の見出しに「症」とあるからには病を指しているのだろうが、書かれていることはまるで呪いのようだった。


<始まりは、感覚の鈍化にあり>

<皮膚は冷え、味は薄れ、音は遠ざかる>

<されど痛みは伴わず、日常は静かに続いてゆく>

<――終いには、眠るように、名を呼ばれることすらなく>

<気づかれぬまま、命の灯が消える――>


どこか空気が冷えた気がして、ミヤは無意識に背筋を正した。

こうした病の文献にしては、あまりに詩的で、しかしその分現実味がなかった。


「つまり、原因不明で、静かに死ぬ病……ってこと?」


記述によれば、過去に何例か報告があるものの、症例はまばらで、しかも「記録としては残っていない」という表現があった。

“記録がないのではなく。残らない”

それは、治った者がいないからだとでも言いたげだった。


「なんだか、嫌な感じ」


ぞわりと、何かが背をなぞった。

けれど、それがなぜなのかは分からない。

別に、自分がこの病を知っていたわけじゃない。

そもそも、誰かに心当たりがあるわけでもない。


それでも、ページの最後に書かれた短い一文が、妙に引っかかった。


<――これは身体の病にあらず>

<魂が祈りに疲れ、終わるためのものなり――>


ふっと、息が詰まった。

魂が、祈りに疲れる?


「なに、それ……」


声に出すと、途端に馬鹿らしく思えて、ミヤはわずかに笑った。

たしかに、不穏といえば不穏だけれど、これは迷信の類だろう。

医者が記すような文体ではなかったし、書いた人の焦りのようなものが滲んでいた。

もしかしたら、家族を亡くした誰かが、その出来事を“病”として残そうとしたのかもしれない。


棚に紙を戻しながら、ミヤは背を伸ばしてあくびをひとつした。

と同時に、窓の外からカタンと何かが倒れる音がして、視線を向ける。

風が少し強くなっているらしい。

干していた布がめくりあがり、小さな薬草の束が地面に落ちていた。


「あちゃ、拾っておかないと……」


立ち上がって外に出ようとしたその瞬間、棚の上から紙片が一枚滑り落ちた。

ミヤはそれに気づかず、ドアを開ける。


冷えた風がまた吹き込んで、小屋の中の空気が一瞬ざらついた。

どこか、微かに、煙のような匂いが混じっていた気がした。





―――――――――――





夕刻の気配は、山の端に陽が触れるより少し早く小屋へ届いた。

暖炉の灰を払い、湯の残る鍋を弱火にかけ直した刹那。軋むドアの音が響く。

ミヤは指先の薬草を置き、そっと玄関に目を向けた。


「ただいま」


現れたトウヤは風に吹かれて長めの前髪を乱し、肩に工具袋を提げている。

いつもと変わらない姿。

――なのに、足取りがわずかに重い気がした。

ミヤは笑顔で返す。


「おかえり。水車、無事だった?」

「まあね。軸受けに油をさしなおしたら随分と静かになったよ」


そう言いながら革靴を脱ぐトウヤは、声こそ穏やかだが、袖口を下ろす動きがどこか慎重だった。

左手の指先が少し痺れるのか、布地に触れるまでの間合いが長い。

ミヤは視線を逸らして湯をすくい、カップに注ぐ。


「これ、はちみつ湯。少し甘めだよ」

「ありがとう」


受け取ったトウヤは湯気を鼻先で吸い込み、ほっと息を落とした。

熱が手のひらを伝う。

――その温度を確かめるように、指をゆっくり緩めて口元へ運ぶ仕草が、細い糸のように静かだ。


卓上には野菜と干し肉の煮込みと焼きたての小さなパン、そして昼に見つけた古文書の束を片づけた際にまとめなおした薬草のメモが乗せてある。

ミヤはそれを指先でとんと叩く。


「ねえ、片付けしてたら、こんなのが出てきたんだ」


軽く差し出す紙片、表題には墨がくすんだ“終祷症”の三文字。

トウヤは一瞥し、わずかに眉を動かしただけで、視線を戻した。


「……古い言い伝えみたいだね」

「そう、私もそう思った。病の症状もふわっとしているし、治療法が書いてないの」

「呪いとか、そういう類なのかな」


返ってきた声は淡々としているが、揺れる暖炉の火よりも温度が低い。

一方、ミヤは紙片の文字を指先でなぞりながら、言葉を選んでいる。


「もし、もしも本当にあるなら――少し、怖いなって」

「……これ、何百年も前の紙片だろう?」


トウヤは笑って見せる。

だがその瞳の奥には、どこか翳りを孕んだ黒い影が差し、揺れる炎の橙さえも届かない。

ミヤは笑みを返しつつ、それ以上は深入りしない。

湯気が視界を曇らせ、言いかけた疑問を薄めていく。


ふたりでそれぞれの椀に煮込みをよそい、食卓につく。

木匙が陶器の椀に触れるたび、鈍い音が鳴った。


「今日、子狐が水車に紛れ込んでいてさ。あれを逃がすのに時間がかかった」

「子狐?怪我はしてなかった?」

「噛みつく元気はあったよ。帰り際に後ろ姿を見たけど、もう走り回ってた」


言葉の端々に穏やかさが戻る。

しかしミヤの耳には、文節の間に小さく潜む静かな空白が聴こえていた。

匙を口に運ぶと、煮込みの熱が舌をくすぐる。

けれど、どこか味が淡い。

昼に読んだ古文書の文字が、香辛料の輪郭を奪っていくようだった。


パンを割き、柘榴のジャムを塗る。

深紅が灯りを抱き込み、とろりとした光の層が震える。

ミヤが差し出すと、トウヤは「うん」と受け取り、そのままかじった。


「甘いな」

「よかった。疲れたときは、甘いものが一番だよ」


一拍の間。

そのあとで、トウヤが静かに微笑む。

唇の端についたジャムを親指で拭い、ほぐれた表情が炎に滲む。

ミヤは安堵の息を胸奥で吸い込んだ。

――同時に、何かを飲み込むように喉が鳴る。


手を合わせて「ごちそうさま」を重ねる頃には、窓の向こうで夜風が枝葉を揺らしていた。

後片付けをしながら、ミヤはもう一度だけ紙片を棚へ戻す手を止める。

文字は主を失った祈りのように、黒く焦げた跡を残して静止していた。


トウヤは残った湯を飲み干し、暖炉の火を小さく整える。


「明日も水車の歯車の仕上げで町はずれまで行ってくるよ」

「うん。私も乾かした薬草を煎じないと。気を付けて行ってきてね」


ありふれた段取りの会話。

けれど火の熱さとは裏腹に、ミヤは腕に鳥肌が立つのを感じた。

理由はない。

ただ、紙片の文言が背でささやく。


“皮膚は冷え、味は遠のき、朝と夕の境で兆しは強まる”


ミヤはひそかに息を伏せて頬を緩めた。

ジャムの甘さを確かめたくなって、もうひと口、と瓶へ手を伸ばす。

ジャムをすくう匙の底が、どこか震えた気がした。


――気のせい、きっと。


そう心で結ぶと、窓の格子越しに月が昇り始めていた。

橙と藍が混じる境界の空。

その淡い光を背に、トウヤは微笑みを保ったまま、そっとミヤの髪を撫でた。

指先は確かに温かい。

けれど、その温度を測るように、彼の潤色の瞳だけが静かに揺れていた。





―――――――――――





夜が更けて、風の音が少し遠くなった。

暖炉の火は小さくなり、ぱちりと薪が割れるたび、わずかな明かりが天井を揺らす。

横たわるトウヤの寝息は穏やかで、深く、静かに満ちている。

その寝顔をしばらく見つめたミヤは、音をたてぬよう、ベッドから抜け出した。


足音を殺して、昼に見つけた古文書のもとへと向かう。

机の上には、片付けの途中で取り分けた数冊の中のひとつが、開かれたままになっていた。


灯りを落とした部屋の隅、手元の蠟燭だけが、ページの文字を揺らしている。

乾いた紙には、筆で綴られた古語の文が並んでいた。

数多の文章の中に、ふと目を引く短い言葉があった。


<――誰かを残して逝くならば、せめてその人が幸福であるように――>


かすれた筆跡だった。

文脈の中に紛れるように、それは書かれていた。

誰が記したものかはわからない。

でもその祈りは、あまりにも人の言葉らしく、妙に胸に残った。


ミヤはしばらく、その一文をみつめていた。

まるで、文字の奥に何かが潜んでいるような気がして。

――けれど、そこにあるのはただ、静かな祈りと願いだった。


ページをそっと閉じると、紙の乾いた音が夜の空気に溶けた。

膝の上で手を重ね、しばらく何も考えず、蝋燭の火を眺める。

それから、小さく首を振って立ち上がる。


振り返ると、ベッドで眠るトウヤの背が見えた。

その輪郭を見て、ふわりと笑みが浮かぶ。


――分からない、けれど。

まだ怖くはない。

いまはまだ、ちゃんと隣にいるから。


そんなふうに、自分に言い聞かせるようにして。

ミヤはそっと蝋燭を吹き消し、暗がりの中へ戻っていった。





―――――――――――





眠っているふりは、もう癖になってしまった。

呼吸を整え、瞼の裏で闇を見つめ、疑いを避ける。

彼女が布団に潜り込み、ひそかな吐息で温度が満ちてゆく。

それが嬉しくて、そして怖い。

――胸が詰まるほどに。


彼女は何も知らない。

いや、気づきかけながら目を背けているのかもしれない。

それでも、真正面からは問わない。

その優しさに甘えているのは、いつだって僕の方だ。


嘘をついている。

大丈夫と笑えば笑うほど、罪の棘が何度も、深く刺さる。


ふらついた時に見せた曖昧な笑み。

匙を握った指の痺れを隠す仕草。

気づかれたくないと願いながら、気づいてほしいとどこかで願う。

矛盾ばかりを抱えて、それでも黙っている。


――なんて身勝手で、醜いのだろう。


痛みがない分、なお始末に負えない。

静かに薄れていく感覚の影で、残された時間を計り続ける。

計るたび、欲は増える。


――あと一日。いや、あと一瞬だけでも。


彼女の笑顔を独り占めしたい。

そのために、真実を覆い隠す。

それがどれほど卑怯か、自分が一番よく分かっている。


<――誰かを残して逝くならば、せめてその人が幸福であるように――>


古文書の言葉が頭に響く。

残される者の幸福を祈る。


――それこそ、僕には一番遠い覚悟だ。


黙っていることは、彼女に降る悲しみを先送りにするだけ。

分かっている。痛いほど、分かっている。

なのに口を閉ざすのは、僕が恐れているからだ。

彼女の涙を、僕の罪として受け止める勇気が、まだ欠片ほどしかない。


ごめん。

君の笑顔に救われながら、その笑顔を曇らせる日が来ると知っている。

ごめん。

いずれ君を泣かせると知りながら、今日も僕は黙っている。

ごめん。

それでも、今夜だけは隣で眠らせて。


眠るふりをしているはずの目尻が、熱を帯びて滲む。

でも涙は零さない、彼女を起こしてしまうから。

代わりに、胸の奥で静かに何度も懺悔する。

それは、祈りにも似ている。

きっと、届きはしない。

それでも。


幸福であれ、と願う。

その幸福を壊すのが自分だと知りながら、なお願う。


罪深さと愛しさが、同じ重さで胸に重なる。

やがて瞼の裏で影が薄れ、眠りが音もなく近づいてくる。

祈りを抱き、許されぬまま、今日も静かに目を閉じた。

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