01-02,ひと匙の、恋
小さな袋の中に煎じ薬の包みを収めながら、ミヤはひとつずつ指で数える。
「一、二、三……よし」
袋を閉じ、ぎゅっと鞄の口を結ぶ。
手際よく、鞄を肩にかけると、ミヤは踵を返した。
「じゃあ、ちょっと町まで行ってくるね」
玄関先で振り返ったミヤはにこっと笑ってそう言った。
トウヤは棚から工具を取り出しかけた手を止め、小さく頷く。
「うん、くれぐれも気を付けて。怪我なんてしてこないでね?」
その声に、ミヤは「はーい、大丈夫」と気軽に返し、ドアを開けて風の中に出ていった。
ドアの閉まる音、淡い薬草交じりの匂い、残された静けさ。
トウヤはレンチを握り直し、作業机に向かった。
古い器具の部品を分解しかけていたが、一瞬だけ手が止まる。
窓の外に視線を投げたが、ミヤの姿はもうなかった。
――行ってくるね。
さっきの声が、まだ耳の奥に残っている。
ほんのひと時、薬を届けに行くだけ。
分かってはいる。
彼女はこのあたりの地理にも慣れているし、何よりどこまでも頼もしい。
だから、トウヤは工具に向き直る。
けれど指先にわずかに残る間が抜けた感じに、思わず苦笑がこぼれた。
「……心配しすぎだな、僕は」
ぽつりと呟いて、また手を動かし始める。
小屋の中には、薬草と火の匂いが静かに満ちていた。
―――――――――――
町に近づくにつれて、風が変わった。
道の端に咲く名も知らない花々が揺れ、誰かの笑い声が、遠くからひらりと届く。
耳に入るそのざわめきで、ミヤはようやく気が付いた。
「……あ。今日、市場の日だったんだ」
こんなことならトウヤも連れてくればよかったかな、などと思い少し肩を竦めるようにして苦笑した。
市場が立つ日は、町がぐっと騒がしくなる。
道の両脇には出店や露店が並び、人が行き交い、動物を連れた商人までやってくることもある。
ミヤはそれがあまり得意ではなかった。
視線が多すぎて、どうにも足元が落ち着かなくなる。
――トウヤがいれば、大丈夫なんだけどな……
彼がいないことを少しだけ寂しく思うと、ぎゅっと両手を握る。
少しの不安を抱えていたが、薬を卸すだけなら問題ない、何度もこうして来ている。
馴染みの薬屋の主人に渡して、軽く世間話を交わせば、それで終わりだ。
ミヤは鞄の紐を握り直し、もう一歩、町の中へ足を踏み出した。
―――――――――――
市場が開かれている通りは、朝の光と熱気でいっぱいだった。
色とりどりの野菜や果物の色が眩しく、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。
軒先で焼かれる薄い生地の焼き菓子、子供たちの笑い声、通りすがりの荷車の音。
すべてが雑多で、でも生きている。
ミヤは人の流れにのまれぬよう、少し脇を歩きながら目的の店へと向かった。
通りの奥、角を一つ曲がった先に、小さな薬舗がある。
外壁には乾燥中の薬草が吊るされていて、見知った匂いが空気に混ざっている。
「こんにちは」
顔を出すと、店の奥から年嵩の女主人が顔をのぞかせた。
「ああ、ミヤちゃんか。いつもありがとうね」
「いえ、こちらこそ。今日の分です、確認してもらえますか?」
ミヤは鞄を下ろし。中身を整えた包みを一つずつ手渡していく。
必要な数は前回来た時に聞いていた、その分の納品だ。
開かれた帳面に印をつけながら、女主人は時折笑いながら話してくる。
最近は、風邪のほうが減ってきた、代わりに、眠れないと訴える人が増えているという。
「ほんと、季節の変わり目は体調を崩す人が多くてねぇ、薬の在庫も心許なかったんだよ」
「間に合ってよかったです。この時期、風の音がよく響きますもんね。夜になるとなんだか寂しくなるし……」
ミヤがくすりと笑いながら答えると、女主人は「そうかそうか、なるほどねぇ」と頷いた。
卸し終わると、鞄の中は空になった。
軽くなった肩に、少しの達成感と、誇らしさが宿る。
誰かの役に立てたという実感が、胸の内で小さく灯っていた。
「はい、今回の分。いつも本当にありがとう」
女主人はそう言うとコルを十枚ほど、麻袋に入れて手渡した。
――コル。
昔、どこかの都市国家で使われていたとされる、旧通貨だ。
今はもう価値もばらばらで、物々交換のほうが早いこともよくある。
それでもいまだに、保存食や医療品、服飾のやりとりには使われることもある。
逆に、コルでしか買えないものもあるため、一概に価値がないとも切り捨てられないものだ。
ミヤはコルの入った麻袋を両手で受け取る。
「じゃ、また次もお願いするよ。ミヤちゃんの煎じる薬は抜群に効くからね」
「ありがとうございます、また来ますね」
手を振って店を後にすると、空は少しだけ高くなっていた。
さて、と薬屋から少し歩いたところで、ミヤは足を止めた。
せっかく市場が開いているなら、何かトウヤに買って帰ろうか。
騒がしい場所にひとり、というのはミヤにとっては不安材料であった。
けれど。
ミヤは大きく深呼吸をすると、賑やかな大通りへ足を進める。
喧噪の中を歩くたびに、すれ違う人々の会話や笑い声が耳に入ってくる。
布を売る屋台では、ミヤと同じくらいの若い娘が品定めをしていた。
その後ろを、籠いっぱいの花を抱えた老婆がゆっくりと歩いている。
ミヤはいつの間にか、その空気に慣れていた。
最初のざわめきへの緊張は、だいぶ和らいでいた。
ふと、果実を加工した露店の前で足を止めた。
柘榴を煮詰めたジャムが並んでいる。
――トウヤが以前、美味しかったと言っていた。
「それ、ひとつください」
「おや、お嬢さん。なかなかの目利きだね。これは今朝、いい仕入れができたやつだよ」
店主がにこりと笑いながら包んでくれる。
ミヤはコルを二枚渡し、包まれたジャムを受け取った。
そのまま、ゆったりと歩き出す。
小さな嬉しさと、少しのくすぐったさ。
きっとあの人は、たいしたことのないように微笑んで、でも嬉しそうに「ありがとう」と言うのだろう。
それを思うと、なんでもない帰り道が、少しだけ楽しみになる。
他に見るものも無さそうだ、そろそろ帰ろうかと市場を抜けようとした。
その時、ふと路地の奥から女性の声が聞こえた気がした。
喧騒から少し離れたそこは、あまりに人気のない場所だった。
――やめて、触らないで――
誰かの下卑た笑い声、女性の言葉を押し返すような、乱暴なその声にミヤの足が止まる。
少し入ったところ、細い路地の先に、男と、それに腕を掴まれている若い女性の姿が見えた。
迷う間もなかった。
ミヤは小さく息を吸うと、足を踏み出す。
「ちょっと、やめてください」
声は意外と落ち着いていた。
女性の方に手を置いていた男が、面倒くさそうに振り返る。
「なんだ、お嬢ちゃん……って、なんだよその目つき」
ミヤはまっすぐに男を見ていた。
睨んでいるわけではない。
ただ、目を逸らさなかった。
射貫くような薄藤の眼光に、男は気圧されているようだった。
「やめて、って聞こえてないの?手を離さないなら、人を呼ぶけど」
その言葉には力があった。
男は小さく舌打ちをすると、女性の肩から手を離し、背を向けて去っていく。
大通りに紛れてしまえば、捕まえることは難しいだろう。
それよりも、ミヤはすぐに女性に向き直ると近くに寄る。
「大丈夫ですか?怪我は……」
少し震えていた女性だが、頭を横に振って小さく「大丈夫です、ありがとう」と返した。
安心したミヤは、「良かった、気を付けてください」と言い、その場を静かに去った。
――昔、同じような場面があった。
その時は自分が、男に絡まれていた。
腕を掴まれた時の、嫌悪感は数年経った今でも思い出せるほどだった。
だからこそ、見て見ぬふりなんてできなかった。
ああ。トウヤに会いたいな。
ミヤはそう思うと、大通りに戻り帰路へとついた。
―――――――――――
道具の音がやんで、静けさがまた戻る。
手元の小さな機具は、息を吹き返したようにかすかに明滅している。
トウヤは背を伸ばしながら、小さく息をついた。
けれど、どうにも仕事に身が入らない。
ミヤがいない小屋の中は、こんなにも音がないものかと改めて思い知らされる。
工具を拭きながら、ふと昔のことを思い出していた。
あれはまだ、旅の途中。
とある町でのことだった。
目を離したすきに、ミヤがいなくなった。
焦って探し回った先で見たのは、路地裏で酔った男に絡まれている、ミヤの姿だった。
当時はまだ、彼女も少女と呼ばれるような年齢だった。
当然、トウヤは助けに入ろうとした。
けれどその瞬間、ミヤに絡んでいた男がこの世の終わりのような叫び声をあげたのだ。
「私が触られたいのはあんたじゃない!気安く声かけないで!」
その言葉とともに、ミヤは男の股座に蹴りを入れていた。
垣間見えた眼差しは、凛と美しく、けれど目じりに光るものがあった。
倒れこんだ男を尻目に、ミヤは路地の向こう側へと走ってその場を去った。
トウヤはミヤを助けられなかった無力感と同時に、大きく心臓が動く感覚を味わっていた。
――この、胸が熱くなる感覚はなんだ。ざわつく気持ちは、なんなんだろうか。
トウヤは反対の路地へ抜けたミヤを追いかける。
路地を出て角を曲がったとき、彼女は少し離れた人気のない石壁にもたれていた。
震える肩、睫の端に残る、涙の痕。
強がって顔を上げるその姿は、あまりにも小さくて、けれどあまりにも美しかった。
――私が触れられたいのはあんたじゃない。
その一言が耳に刺さった瞬間、胸が跳ねた。
思い返せば、ミヤはいつだって迷いなくトウヤの袖を引き、指に触れ、肩を寄せてくる。
トウヤから触ろうとも、拒まれた記憶は一度もない。
――彼女は、誰でもいいわけじゃなかった。
触れられてもいい相手を、ちゃんと選んでいる。
その選択の中に、自分が確かに含まれている。
気づいた途端、深く息が吸えなくなった。
嬉しさか、恐れか、判別できない熱が喉元までこみ上げる。
ミヤに許されたこの距離は、トウヤが思っていた以上に、かけがえのないものだった。
何かが、心の奥で爆ぜた。
守りたい、手を伸ばしたい、声をかけたい。
すべてが一度に押し寄せて、逆に身体が動かなくなった。
足が、地面に縫いとめられたみたいに動かない。
目の前にいるのは、とっくにただの「少女」ではなくなっていた。
あの男に向けた凛とした瞳と、今にも崩れそうな横顔。
そのどちらもが彼女で、どちらもが愛しくて、だからこそどうしていいか分からなかった。
――ああ、これが……。
気づいてしまった瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
その熱は、ただ優しくて温かいだけじゃなかった。
怖かった、どうしようもなく。
この気持ちは、理性の外側にある、手綱を握れない衝動だった。
庇護者としての義務感とも、旅の仲間としての情とも違う。
もっと深く、もっと名指しの欲望に近い感情。
それが「恋」と呼ばれるものだと、瞬時に悟った。
言葉も出ないまま、ただ、ミヤを見つめていた。
すると、ミヤがこちらに気づいて、小さく笑った。
駆け寄ってくる彼女を、とても愛おしく思う。
無防備に腕に抱きついてきたミヤの手から、温度を感じる。
その瞬間、ようやく身体がほどけた。
――きっと、もうこの感情からは逃れられない。
そんな確信だけが、胸に深く根を下ろした。
―――――――――――
懐かしい、とトウヤは空を仰ぐ。
あの時、自分の内にこんなにも黒く重い感情があるのかと自覚したのだ。
いつか、欲望のままに彼女を壊してしまわないよう、自分を強く律するようになったのもこの頃だったか。
ただ無意識に触れてくるだけの指先を愛しく感じ、ゆえにしばらく距離をとってしまった。
あの頃からどれほど時間が経ったか、分からなかった。
けれど、ミヤを愛おしく思う気持ちはきっと、これから先も変わらないのだと感じていた。
―――――――――――
夕焼け色の光とともに、軋むドアの音。
その一瞬で、トウヤは「帰ってきた」と悟った。
「ただいま!」
「おかえり、遅かったね」
明るい、弾むような声が響く。トウヤも短く答えると、玄関へ向かった。
顔を出したミヤは、少しだけ頬を赤くしていて、鞄の中から何かを見せるように取り出そうとしていた。
「みて、これ。見つけたから、買ってきちゃった」
そう言いながら差し出したのは、小さな布袋に入ったジャムの瓶だった。
それを受け取るトウヤの手に、ミヤの指が一瞬だけ触れた。
「柘榴のジャム、好きだって言ってたでしょ?」
トウヤは手の中の瓶を眺める。
「懐かしいな。昔、旅の途中で買い足しそびれて以来か」
手の中の瓶を、淡い陽に透かしてみる。
深い赤色が、夕焼けに溶けるように煌めいていた。
「ありがとう、あとで一緒に食べよう」
そう呟いたトウヤの声は、少しだけ掠れていて、ミヤはそっと頷いた。
何気ない仕草がどこかくすぐったく感じたミヤは、鞄を抱きなおした。
暖炉にはすでに火が入っていて、湯の沸く音が静かに部屋に広がっていた。
湯気と一緒に漂うのは、トウヤが温めていた野菜の煮込みの匂いだった。
そういえば、とミヤはくるりとトウヤのほうを振り返る。
「わたしのいない間、ちゃんと何か食べた?」
トウヤは肩を竦めるように笑っただけで、何も言わなかった。
それを見て、ミヤはふふっと笑いながら上着を脱ぎ、手を洗いに立ち上がった。
いつものことだ、トウヤは機械仕事に熱中すると、食事を忘れる。
けれど、ミヤも薬草を煎じたり、軟膏を練ったりしていると忘れてしまう。
「じゃあ、早めに夕ご飯にしよう。私、お腹すいちゃった」
壁ひとつ挟んだ場所から聞こえるミヤの声に、トウヤは夕飯の準備を再開した。
食卓に並ぶのは、ありふれた野菜の煮込みと、少し焦げたパン。
けれどそこに、今日持ち帰ったジャムが加わるだけで、少しだけ特別な夕食のように感じられた。
「どう?」
パンにひと匙乗せた柘榴のジャムを口に運んだトウヤは目を細めて頷く。
「懐かしい味がする。……でも、不思議だな」
「なにが?」
「昔より、ずっと甘く感じる」
ミヤは何も言わずくすりと笑う。
笑って、「じゃあ私もいただきます」と口にした。
暖炉の火が、ふたりの影をぼんやりと浮かび上がらせる。
それはどこまでも静かで、穏やかな夜だった。
―――――――――――
――こうして今日も、ほんの少しだけ世界が優しかった気がした。
笑い声も、湯気の匂いも、触れた指先も――
すべてが今の私を形づくっている。
きっと明日も、こんな風に一緒に笑いあえたらいい。
そんなささやかな願いを、湯気の向こうに編み込みながら、私はまた「明日」に向かうのだ。