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01-01,おはよう、愛しい人

この日々が、どれほど大切だったのか。

それを知るには、ほんの少しだけ時を経る必要があった。

未来から見れば、ここにある全てが奇跡のような時間だった。


――けれどこの物語は、まだ奇跡になる前の話だ。




―――――――――――




目を覚ましたとき、まず感じたのは手のぬくもりだった。

そっと重ねられていたその手が、寝息とともに微かに動いた。


いつも早起きの彼が、今日はまだ同じ布団の中にいる。

――珍しい……

私は彼を起こしたくなくて、心の中でつぶやいた。


そして、身体を動かさないように、そっと視線だけを向ける。

そこには優しい面立ちの、眠った彼の顔がある。

少し乱れた前髪の奥で、睫が緩やかな影を作っている。

表情はいつものように静かで、でもどこか、あどけなさを感じる。


――きっと、彼のこんな一面を知っているのは、この世界に私だけだ。


私は声を出さずに笑って、そっと目を閉じた。

この朝のぬくもりを、胸の奥にしまうみたいに。


……くすぐったい。

なんだか、とてもくすぐったい。

嬉しいような、照れくさいような、不思議な気持ち。

こうして目覚めて、隣に誰かがいるというだけで、どうしてこんなに心が満たされるんだろう。


もう一度、瞬きをして、そして身体を起こす。

掛け布団がゆっくりと揺れて、肌寒い空気が背中を撫でる。


あ。洗濯物、干さなきゃ。

昨日は朝から雨が降ったせいで、外に干せなかった。


窓の外に目をやると、空は透き通るような青だった。

よかった。今日は、晴れる。


私は膝の上で指を重ね、ゆっくりと息をつく。

いつも通りの朝。変わらない朝。


それだけでとても幸せで。


おはよう。

おはよう、私。

そして――おはよう、愛しい人。




―――――――――――





そっと立ち上がると、足先にひやりとした木の感触がする。

まだ眠っている彼を起こさないよう、気を付けながらドアを開けて、小さな台所へ向かう。


木の棚に並んだ器。湯気の立つ透明な白湯。

パチパチと音を立てる暖炉の火で乾いたパンを炙る。


――ふと、いつもは逆だな、と私は心の中で微笑む。


私はあまり、朝が得意ではない。

できれば、いつまででも布団の中で過ごしていたい。

そこに彼もいたら、それはとても嬉しいと思う。

けれど、彼はどちらかというと早起きで、私が気づくころには隣にいない。

彼がいない寂しさに耐えられなくて、布団から出る。

台所へ繋がるドアを開ければ、いつものように優しく微笑んで彼が迎えてくれる。


――今日は、逆だ。本当に、珍しい。


そう、物思いに耽っていると背後から小さな足音がする。

少し遅れて、私の大好きなあの声が届く。


「おはよう、ミヤ。珍しく早起きだね」


私は振り返ろうとした。けれど、炙っているパンが焦げそうで、ひっくり返した。

彼のぬくもりを背中に感じたのは、ほとんど同時で、私は後ろからそっと彼にすっぽりと覆われるように抱かれてしまった。


「……ちょっと、トウヤ。火傷しちゃう。」


言葉は少しだけ強めに、けれど感じたぬくもりへの嬉しさは隠せなかったようだ。

言葉尻に甘さが混じってしまったことを、ふたりとも感じていた。

トウヤはくすりと笑むと、拘束を解く。


「朝起きて、隣にぬくもりがないのは結構寂しいものだね」

「やっと気づいた?寒いし、寂しいでしょ?」


振り返りながら、少し食い気味にミヤは言う。

トウヤはまだ少しだけ、眠そうな顔をしていて空いていた椅子に腰を下ろす。


「ミヤほど寂しがりではないけど、まぁ。確かに寒かったかも」

「でしょ?だから、明日からは私のためにもう少し朝寝坊するように」


ミヤは炙っていたパンを皿に移すと、一緒に焼いていた根菜を添えてテーブルにそっと置く。


「熱いから、ゆっくりね」


そう言って、トウヤの分も差し出すと「ありがとう」とはにかむような笑顔とともに言葉が返ってくる。

ふたりで向かい合って、椅子に座る。静かに、「いただきます」と言ってゆっくりと朝を味わう。

特別なことはなく、ただひと口ごとに確かめるように、今日という日を迎える準備をしているようだ。


食べ終わるころには、外の日差しがだいぶ強くなっていた。

ミヤはふと、窓の向こうを見て、小さく呟いた。


「今日は、昨日の分も洗濯物も干せそうだね」


トウヤも、同じように空を仰いで、頷く。


「うん、今日はよく晴れているね。他のものもまとめて洗っちゃおうか」


ふたりは食器を片しながら立ち上がる。

ふいに、開け放たれた窓からふわりと風が舞い込み窓辺のカーテンは大きくふくらんだ。


軽く朝の身支度をしたら、今日もいつもと同じ日々が始まる。

昨日が雨だった分、今日という日は少しだけ忙しくなる予感がしていた。





―――――――――――





庭というには狭すぎる空間に干された洗濯物が、穏やかな風に揺られている。

全部が乾ききるにはまだ少し肌寒さを感じる午後、トウヤは静かに洗濯ロープにシャツを留めていた。


その横で、ミヤは抱えた籠から小物を選り分けながら、隠すようにトウヤの後ろを通り過ぎる。


「……それも、一緒に干せばいいのに」


ミヤの手元をちらりとみたトウヤは、彼女の背中にそっと言葉を投げる。

トウヤの視線の先には、薄い布やハンカチと一緒に彼女の下着がそっと隠すように重ねられていた。


ミヤはその瞬間、少しだけ頬を赤らめながら、でもきっぱりとした口調で言い切った。


「いいの。これは私が責任もって洗って、トウヤの見えない所に干しますっ」


ミヤなりの照れ隠し。

でもその様子が、どうしようもなく可笑しくて、そしてたまらなく愛おしい。

どうしたら、いつまでたってもこんなに初々しく在れるのだろう。

トウヤは残ったタオルを干しながら、肩越しに小さく笑って答える。


「はいはい。僕は何も見てないから、気にせず干すといい」


ミヤは口を尖らせながら、トウヤに背を向け、抱えた籠を大事そうに少し離れた場所で干し始めた。

ロープに留めた布が、そっと風に触れる。

トウヤはその様子を横目に見ながら、ふと穏やかに目を細める。


「……見ないで、って言ったでしょ……」

「見てないよ?」

「……嘘つき」


くすりと笑って、ふたりの間にまた風が通り抜ける。

初々しさを残したまま、ふたりはきっと、明日も同じように笑いあうのだろう。

今日という日も、ほんの少しずつ、風に溶けていく。


「夕方まで、市場に卸す薬でも煎じておこうかなぁ」

「僕も、依頼されていた機械の修復でも進めようかな」


ふたりの日々は、今日も平和だ。






―――――――――――





白い布が風に踊る午後、笑いあう声が空へほどけていく。

ありふれた幸せほど、あとになって泣きたくなるほど恋しくなる――

そのことを、このときのふたりはまだ知らない。

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