01,灯が消えた、その朝に
終わりかけた世界より、あなたへ
かつて、この世界には多くの文明、国家、都市があった。
光が溢れ、言葉が交わされ、日々の営みが果てしなく続くと、誰もが信じていた。
けれど今、それらはもう失われて久しい。
崩れた石の塔、剥き出しの鉄骨の骨組み、草や砂土に覆われた町、誰もいない広場。
人々が残したものは、もう「かつて」と呼ばれる他にない。
風が吹くだけの丘に、笑い声はなく、その静けさだけが今もなお、確かに世界の終わりを語っている。
そんな中、終わりかけた世界にも芽吹いたものがいくつかある。
――祈りは代償と共に叶う。
夢の前に、祈りを捧げよ。
さすれば対価と引き換えに、その祈りは叶うだろう。
それは遥か昔より伝わる、いくつかの血に宿された力。
「忘れること」「失うこと」「終わること」
その先にだけ、奇跡は訪れる。
人はそれを恐れ、崇め、やがて語られなくなった。
祈ることで何かを救える代わりに、必ず何かを失う。
その均衡の上にしか存在しない、脆くて強い力だった。
今、その力を継ぐ者たちの名を知る者は、ほとんどいない。
そしてもうひとつ、名前さえも忘れられかけた「終わりの病」が、ある。
最初は、ちょっとした違和感とほんの微かな疲れだった。
それはやがて、眠気となり、感覚の鈍さとなって現れる。
声が遠くなり、色が褪せていく。
そしていつしか、まるで灯火が尽きるように、静かに意識は消える。
それは、苦しみのない死だと言われる。
けれど、残される者にとっては、あまりに優しく、残酷な別れだった。
静かな終わりを祈るよう、魂が尽きる病――
人々はそれを「終祷症」と呼んでいた。
だが今、その名前を正確に語れる者はほとんどいない。
――祈りの力も、その病の名も、今ではほとんど忘れられている。
壊れかけた世界に残されたのは、静けさと、ほんのわずかな温もりだけ。
それでも。
名も知らぬふたりが、再び出会う朝がある。
祈りの残響がわずかに残る、誰も知らない場所で。
呼ぶ声はまだ届かず、触れる手もまだ遠い。
それでも――たしかに、そこにふたりはいた。
世界の終わりに灯る、小さな物語の始まりとして。
ここにあるのは、誰かを愛した、誰かの記憶。
「夢の前に、祈りを捧げよ」
「叶えたい願いを、その心で告げよ」
「代償を捧げ、祈りたまえ」
「さすれば願いは叶えられん」
―――――――――――
静かだった。
風の音だけが、どこか遠くで鳴っていた。
最初に感じたのは、手のぬくもりだった。
自分の手が、誰かの手にそっと包まれている。
温かくて、やわらかくて、指先にひとつひとつ、鼓動が伝わってくるようだった。
そのぬくもりに導かれるように、まぶたが持ち上がる。
見上げた天井は、色褪せた木の板。
隙間からわずかに光が差し込んで、ゆらゆらと埃が光を反射し舞っている。
焚火の匂い。木の燃える音。遠くの鳥の声。
それらが静かに、鼓動に合わせるように重なり、耳に届く。
少し遅れた思考は、何も分からないということだった。
自分の名前も、ここがどこかも、手の温かさの正体も、何も分からない。
不思議と怖くはなかった。ただ、真っ白だった。
視線を少し動かすと、すぐ隣に誰かが座っていた。
光に反射した鈍色の髪を、美しいと思った。
襟足よりも少し長い髪の毛は、藍色の髪紐でひとつに緩く束ねられている。
その人は、椅子に腰かけたまま、静かに眠っていた。
伏せられた睫の影が頬に落ちていて、表情は穏やかだった。
その人の手が、自分の手を包んでいる。
知らない人だ。……でも、なぜだろう。
安心している自分がいた。この手を、離してほしくないと思った。
なぜ、そう思ったかは分からない。
けれどそれは確かに、心の奥のほうで、何かが灯るような感覚だった。
しばらく、そのあたたかさに浸っていた。
そうした後、口を開こうとした。
けれど、声が出なかった。
喉が渇いているわけでも、息が足りないわけでもない。
ただ、声というものの出し方を、身体が忘れてしまっているようだった。
「……っ」
それでも、何かを伝えたくて。音にならないまま空気を震わせたその瞬間――
隣の青年が、ぴくりと肩を揺らした。
眠っていたはずのその瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
潤色の眼差しがこちらを捉える。
深く、優しく、どこか痛みを含んだ色をした瞳。
「……起きた?」
声は低く、けれど凪のように穏やかだった。
起きたばかりのはずなのに、どこか安心したような息づかいで、そっと微笑んだ。
「だいぶ眠っていたけれど……どこか痛いところはない?」
少し不安そうに、けれど確かに心配してくれている声音だった。
答えようと、口を開く。
でもやはり、音にならなかった。
痛いところはないと、伝えるように首を横に振った。
少しだけ、頭が重い気がしたけれど、痛くはなかった。
彼は、それを見て小さく息をついた。
「よかった」
そう言うと、手に触れていたぬくもりがそっと離れた。
手が空になる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に小さな空白が生まれる。
それがどういう感情なのか、わたしにはまだ分からない。
でも、暖かさが離れていくのを見ていると、胸の奥がひどく静かになっていく気がした。
「……名前、わかる?」
ゆっくりと、また首を横に振った。
分からない。考えても、なにも浮かばない。
自分のことなのに、何ひとつ、分からなかった。
「そうか……」
短くそう言った後、彼は一瞬だけ何かを思い浮かべるように視線を落とし、それから、またこちらにやわらかく視線を向けた。
「無理に、思い出そうとしなくていいよ」
「今日は、ちゃんと休もう。温かいスープを持ってこようか」
そう言って、彼は立ち上がろうとした。
そのときだった。
気づけば、わたしの指が、彼の上着の裾をつまんでいた。
無意識だった。けれど、確かにそうしていた。
引き留めるようにでも、しがみつくようにでもなく、ただ、そっと。
ほんの少しだけ、そこにいてほしいと思った。
その気持ちよりも先に、反応したのは指だった。
彼は動きを止めた。
視線を落として、自分の裾をつまむわたしの指先を見つめる。
そして、驚いたようでもなく、でも優しく目を細めた。
「……うん」
そのまま、静かにまた腰を下ろす。
それだけのことだった。
でも、その一言があたたかくて、少しだけ胸の奥が緩んだ。
わたしはまだ、なにも分からない。
名前も、記憶も、世界のことも、自分のことさえも。
けれど、今ここにいることだけは分かる。
彼の手に、包まれなおされた自分の手を眺める。
「もう少し、こうしていよう」
その言葉に、なぜか安心した。
そう、思った途端、身体の力がすうっと抜けていく。
意識が遠くなっていく感覚がして、瞼の奥に静けさが満ちてきた。
眠っていたはずなのに、もう一度、眠りに落ちていくことが不思議だと感じた。
けれど、怖くはなかった。
名前も、記憶もないこの世界で、初めて感じた安堵がそこにあった。
ただ、まどろむように、わたしの意識は再びゆっくりと沈んでいった。
―――――――――――
次に目を覚ました時、そばにいたはずの彼の姿はなかった。
手も、離れていた。
けれど、静けさの中に微かな物音があった。
火の爆ぜる音に混じって、木の皿が重なる音、何かをすくう音。
小屋のどこか、音の聞こえるほど近くで、誰かが何かをしている。
その気配は、すぐそこにあった。
見えないけれど、触れられそうなくらいの距離に。
わたしは少しだけ、身を起こす。
布団とは別に、身体にかけられていたひざ掛けがずれて、床に落ちかけた。
手を伸ばして、小さく引き寄せて胸元で握る。
その布の柔らかさに、あたたかさがまた戻ってきた気がした。
少しして、扉の方から気配が近づいてくる。
木の床を歩く足音、ぎい、と開く扉。
視線を向けると、彼が現れた。
片手に、湯気をまとった器を一つ持っている。
湯気の奥で、彼の表情ははっきりとは見えない。
でも、扉を閉めるその背中と、振り向いた時の手元の確かさに、なぜか胸がふわりとした。
「おはよう」
短く、けれど優しい声。
まるで、何年も前からそうしていたような響きだった。
「スープ、持ってきたけど食べられそう?」
その一言が、小屋の空気にすっと溶け込んでいく。
わたしはまだ、何も思い出せない。
でも今、自分のために何かが用意されていたことが、ほんの少しだけ、涙が出そうなくらい嬉しかった。
彼の言葉に、わたしはこくり、と小さく頷いて、両手で器を受け取った。
器から立ち上る湯気に、そっと息を吐いた。
ほのかに揺れたあたたかいそれは、まつげの先に触れそうだった。
口に運ぶと、優しい味がする。
何かの根菜と、やわらかく煮こまれた葉。
少し塩気のきいた、素朴なスープ。
あたたかさが喉を通って、身体の奥にじんわりと染みていく。
そうして、少しの安堵感を得ると、どうしても考えてしまう。
――わからない。
何も、わからない。
自分が誰なのか。
どこから来たのか。
なぜここにいるのか。
この人は、誰なのか。
何を思い出そうとしても、頭の中には何も浮かばなかった。
だからこそ、思った。
今のわたしには、自分のことが何もわからない。
だったら――
今、自分に優しくしてくれる目の前の人のことを、知りたい。
彼は、優しかった。
そっと手を包んでくれた、あたたかかった。
「痛いところはないか」と聞いてくれた。
スープを作ってくれた、とても安心した。
きっと、この人はとても優しい人。
なぜか、不思議とそう思えた。
スープを置いて、そっと手を膝の上に置く。
そして、意を決して口を開いた。
「…あ、の」
彼がこちらを見る。
わたしの声に気づいて、そして少しだけ目を見開いた。
けれど、すぐに表情をやわらげる。
「……うん」
「あなたは……だれ、ですか」
それはとても、たどたどしくて、弱々しい問いだったと思う。
けれど、彼はまっすぐにその問いを受け取ってくれた。
一瞬、どこか遠くを見つめるように目を細めて、それからまた、ゆっくりとこちらに視線を戻す。
「そうだね、君にとっては“はじめまして”だ」
少しだけ、遠くを思うような声だった。
「……トウヤ。僕の名前だよ」
その名前は、まるで胸の奥に優しく触れるように響いた。
トウヤ。
声に出すことはできなかったけれど、そっと、心の中で繰り返した。
音の響きが、やわらかくて、優しい。
この人に、よく似合っていると思った。
ふと、視線を落とすと、自分の膝の上に置かれた手が見える。
自分の手、だけれど――なんだか、それさえもどこか遠くのもののような気がした。
「……わたし、は」
ぼつりとこぼした声に、彼がこちらを見る。
「誰なんだろう……」
少しだけ笑った。
冗談のつもりだった、でも笑いきれなかった。
胸の奥がひやりとして、そこに何かが欠けていることを改めて、知ってしまった気がした。
トウヤは、黙っていた。
否定も、肯定もしない。ただこちらを見つめていた。
何かを考えているようだった。
急がず、急かさず――その時間は、とても静かだった。
やがて、彼はゆっくりと視線を落とし、ふと、つぶやくように言った。
「……名前があった方が、いいよね」
それは独り言のようでもあり、わたしに向けられた言葉のようでもあった。
「今すぐ、何かを思い出せなくても、呼ぶための名前がひとつあるだけで、もしかしたら少しは楽になるかもしれない」
そして彼は、もう一度わたしを見た。
潤色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
けれど、そこに押し付けるような強さはなかった。
「ミヤ、という名前はどうだろう……?」
その響きが、空気に溶けるように、わたしの元へ届く。
「……ミヤ……?」
思わず、口に出していた。
その音が自分の口からこぼれたとき、なぜか胸の奥が少し震えた。
初めてのような、懐かしいような。
どちらでもあるようで、どちらでもないような、不思議な感覚。
「気に入らなかったら、違う名前を探そう。……ゆっくりでいい」
彼は、そう言って微笑んだ。
けれど、わたしは首を横に振った。無意識に、そうしていた。
わたしは、その名前をもう一度、胸の中で繰り返す。
ミヤ――わたし。
しっくりくるかどうか、まだわからない。
でも、今ここで呼ばれるための名前があるということが、ほんの少しだけ心を支えてくれる気がした。
わたしはもう一度、その名前を心の中で静かに呼んだ。
ミヤ。
それは、まだ何物でもない、けれど今ここにいる「わたし」の最初の輪郭だった。
―――――――――――
ミヤ、と名を口にしたとき。
彼女の薄藤の瞳がふるりと揺れた。
まるで、それがどこか遠い記憶の水面を撫でるように。
名を反芻するたびに、ゆっくりと慎重に、自分という輪郭をなぞるように――
彼女はその名を、心の中で何度も呼んでいるようだった。
静かに、慎ましく、でも確かに。
そんな彼女の姿を、僕はただ見つめていた。
言葉もなく、触れることもなく、けれどどうしようもなく、愛おしくて。
胸の奥がひどく静かに、疼いた。
この名前は、かつて彼女が持っていた名前だ。
誰よりも彼女自身が大切にしていた、たったひとつの名前。
それを、今の彼女は何も知らないまま、初めてのように受け取った。
まるで、巡り巡って、また出会ったように――
もしも奇跡というものがあるのなら。
今、この瞬間こそがそうだったのだと思う。
もう一度、君に出会う。
もう一度、君と始まる。
記憶も過去も何もないこの世界で、それでも君がここにいてくれるなら。
……それで、いい。
すべてが終わってしまったあの時、何ひとつ、もう取り戻せないと思っていた。
でも――もし、この手で、もう一度「日々」を編めるのなら。
静かに、彼女の名を、心の中で呼んだ。
ミヤ。
名を贈ったのではない。
もう一度、その名を「一緒に始めよう」と、願ったのだ。
―――――――――――
瞼の裏に浮かぶのは、あの頃。
笑いあっていた、ふたりの影。
ほんの少しだけ、思い返してみたくなった。
――あの夢を編んでいた、日々のことを。