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前半

わたしの名はユリア・デュヴァリエ。

由緒ある伯爵家に生を受けた長女であり、いずれは婿を迎え、家を継ぐべき立場にある。


幼い頃からそれは、避けがたい運命としてわたしの背にのしかかっていた。

だからこそ、わたしは学び、鍛え、身を律してきた。父の執務を手伝い、帳簿に目を通し、領地の運営を手伝う。

貴族の務めとは、ただ上に立つことではなく、責を負うことだと理解していたから。眠る間も惜しみ、ペンを握る夜も少なくない。だが、そんな努力の積み重ねを、父は当然のこととして受け止め、母も伯爵家の名誉を最優先にすることをわたしに強く求めた。


一方で、妹のニーアは違った。

彼女は、まるで温室に咲く花のように守られ、甘やかされて育った。学業にはあまり身を入れず、代わりにお茶会や観劇に明け暮れる日々。優雅と言えば聞こえはいいが、貴族令嬢としての責任や節度には欠けていた。けれど、父も母も彼女を咎めることは決してなかった。


「ニーアは、いずれどこかへ嫁ぐ娘なのだから」


それが、両親の決まり文句だった。


ニーアは確かに、美しかった。

陽光のように輝く金髪に、透き通る青い瞳。その可憐な容姿は、自然と人々の目を引きつけた。彼女が微笑めば、誰もがその愛らしさに目を細める。わたしのように地味な黒髪と黒い瞳では、到底敵わない眩しさだった。


――ニーアはいずれ、どこかの名門に嫁ぎ、我が家の名を高めるのだろう。そう、両親は信じていたし、わたしもその未来を疑わなかった。

ニーアが輝けば輝くほど、それはデュヴァリエ家の誇りとなる。そう思っていた。


ニーアは年を重ねるごとに、その性格はますます手のつけられないほど我儘になっていった。

幼い頃にはまだ愛嬌と呼べたものが、いつしか他人の都合も心情も顧みない、まるで自分が世界の中心にいるかのような振る舞いへと変わっていった。


「ねぇ、お姉様。その髪飾り、素敵ね。私にちょうだい?」


その声音は可愛らしかったけれど、舌に乗せられた毒のように拒絶を許さなかった。


「お姉様、その明るいドレス、わたくしのほうが似合うと思うの。ね?だから、もらってもいいでしょ?」


わたしが何か新しいものを贈られるたびに、ニーアの瞳がそれを見つけてきらめいた。まるで狩人が獲物を見つけたときのような、無邪気さの裏にある欲望を隠そうともしない目。


「ねぇ、ねぇ、お姉様ぁ!」


高く甘ったるい声で繰り返される呼びかけは、わたしの胸をじくじくと締めつけた。

わたしは、そのたびに首を横に振ることができなかった。母の声が脳裏によぎるからだ。


「あなたは姉なのだから、譲ってあげなさい」


幼いころから、そう母に言いつけられて育ったのだ。その言葉は、まるで呪いだった。断れば“姉として失格”という烙印を押される気がして、わたしの口はいつも「いいわ」としか動かなかった。


ある日、わたしが大切にしていた宝石箱が空になっていることに気づいた。中にあったはずの、お気に入りのブローチが忽然と消えていた。


「お姉様、ブローチの宝石、とても綺麗だったから……もらっちゃったっ」


ニーアは無邪気な笑みを浮かべて言った。怒ろうとしても、言葉が喉に引っかかって出てこなかった。

怒れば――疎まれるのではないか。煙たがられるのではないか。家族の中で、自分の居場所を失ってしまうのではないか。そんな恐れが、わたしの感情をいつも押し潰していた。


そのかわりに、わたしは自分の存在価値を証明する手段として、ますます勉強に没頭していった。学問に、礼法に、社交の技に。舞踏会では誰よりも美しく立ち振る舞い、書簡のやりとりではどんな年長の貴族相手にも遜色なく返事が書けるようになった。


そんな日々が変わらず続いていたある日のことだった。

わたしは執務室に呼ばれた。重々しい扉を開けて足を踏み入れた瞬間、父の視線がわたしを射抜くようにまっすぐ向けられているのを感じた。

低く、重く響く声で父は言った。


「ユリア。お前の婚約者が決まった」


思わず言葉を失い、硬直するわたしに向かって、父は続ける。


「相手は、シャープ伯爵家の次男――エドワード・シャープだ。家柄も素行も申し分ない。将来お前が我が家の当主となる以上、それに相応しい器を持つ男でなければならん」


淡々と述べるその言葉は、政略の一手のようだったが、わたしにはそれが確かな「期待」の証のように思えた。

幼い頃から、どんなに努力しても厳しい言葉しか与えられなかった父が、わたしを“伯爵家の後継者”として扱っている――その事実が、胸の奥を熱くした。


「……承知いたしました。お父様のお心遣い、心より感謝申し上げます」


わたしは深く頭を下げ、自然と口元に笑みが浮かんでいた。

認められたことの喜びに、胸が少しだけふくらむ。


「来月、彼がこの屋敷を訪れる。その時までに、礼儀も装いも抜かりなく準備しておけ」


「はい」


丁寧に一礼して部屋を辞したわたしの足取りは、自然と軽やかになっていた。

廊下に差し込む午後の日差しが、窓辺を金色に染めている。まるで未来がひらけたような、そんな心地すら覚えていた。


一体、どのような方なのだろう?

今までのわたしの頑張りを、彼は理解してくれるだろうか。

政略結婚でも、心の通う関係を築けるだろうか。


初めて迎える人生の節目に、わたしは不安よりも希望を感じていた。

その希望が、やがてどんな形に変わっていくのかを知ることなく、わたしはただ、来たる「出会い」を心待ちにしていた。


それから数日後。父が告げたとおり、わたしの婚約者が屋敷を訪れた。

期待と不安が綯い交ぜになったまま、わたしは彼が待つ庭園へと向かう。


陽光を受けて咲き誇る花々が色とりどりの絨毯を広げ、風に揺れて香りを運んでくる。小径の向こうにひときわ大きなライラックの木があり、その木陰に立つひとりの青年の姿が、やがて視界に映り込んだ。


――あれが、エドワード様。


心臓が跳ねる。自然と歩みがゆっくりになるのを感じながら、それでもわたしはしっかりと背筋を伸ばして彼のもとへ向かった。


エドワード様は、わたしの想像以上に立派な方だった。

長身で、肩幅も広く、堂々とした佇まい。陽光を受けた淡い栗色の髪がさらりと揺れ、整った顔立ちには穏やかで知的な雰囲気が漂っている。


わたしは彼の前で静かに立ち止まり、ドレスのスカートの裾を摘んで優雅に膝を折った。


「初めまして、エドワード様。ユリア・デュヴァリエと申します」


「こちらこそ、お会いできて光栄です。ユリア嬢」


彼は微笑みながらわたしの名を口にした。その声音にどこか優しい響きがあり、ほんの数語だけで胸の奥に花が咲いたような気がした。


お互いの紹介が終わると、わたしたちは並んで庭園を歩いた。

風の音と鳥たちのさえずりが聞こえるなか、ぎこちなくも温かな会話がはじまった。


「我が領地では、夏になると葡萄が豊かに実ります。主にワインの醸造に用いられておりまして……」


「へえ、それは素晴らしい。君はとても博識なんだね」


彼の瞳が、純粋な興味でこちらを見つめていた。その真っ直ぐな視線に、思わず顔が火照る。わたしの話をただの社交辞令として流さず、しっかり受け止めてくれていることが嬉しかった。


「ユリア嬢、君はとても素敵な人だね」


その一言は不意打ちのようにわたしの胸に飛び込んできて、鼓動を一気に早めた。


「……あ、ありがとうございます」


目を伏せてそう返した声が震えていなかったか、ほんの少し不安になる。


エドワード様は終始礼儀正しく、そして柔らかい物腰でわたしに接してくださった。わたしもまた、なるべく飾らず誠実な言葉で彼に向き合った。


会話は流れるように進み、時折ふたりで笑う場面すらあった。初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような空気が流れていて、時が経つのを忘れるほどだった。

気がつけば、陽は傾き、庭の花々も夕映えに染まりはじめていた。


この日を境に、わたしの世界はほんの少し、色を変えた。

わたしたちは自然と互いに惹かれ合い、いつしか将来を誓い合う関係になっていた。


それは夢のような日々だった。

朝目覚めたとき、最初に思い浮かべるのはエドワード様の笑顔で、夜、眠りにつく直前にも、彼の声が脳裏に柔らかく響く。そうした一つ一つが、わたしの心をあたたかく満たし、生まれて初めて、「誰かに愛されている」と実感できた。彼の言葉には常に優しさがあり、わたしの存在を大切にしてくれていると信じて疑わなかった。


エドワード様の存在は、家族に顧みられることの少なかったわたしの心を、初めて明るく照らしてくれた。

けれど――

その輝かしい日々は、あまりにも脆く、あまりにも早く崩れ去っていった。


そのきっかけは、妹のニーアだった。


「ねえ、お姉様。エドワード様に、わたしを紹介してくださらない?」


そんなふうに笑顔でねだられたとき、胸の奥にほんのわずかなざわめきを覚えたのは確かだった。でも、まさか……そんなはずはない、と脳裏に浮かんだ考えを打ち消した。


その日、わたしはふたりを引き合わせた。

いつものように庭園のテラスでティーセットを用意し、ニーアが現れると、わたしは彼女をエドワード様に紹介した。


「妹のニーアです」


その瞬間、ふたりの視線が交差した。

ほんの一瞬のことだったはずなのに、その場の空気がはっきりと変わったのを、わたしは感じてしまった。


ニーアはエドワード様に目を輝かせて、エドワード様はニーアの美しさに圧倒されていたようだった。


「初めまして、エドワード様。お姉様からいつもお話しを聞いて、お会いしたいと思ってましたの!」


「これは……ユリアの妹君。なるほど、噂に違わず、たいへん可愛らしいお方ですね」


そう言って、彼はわたしに向き直り、にこやかに微笑んだ。


「妹さんは、本当に素敵な方だ。君の自慢なのも頷けるよ」


「……そう、ですね。自慢の妹です」


わたしはそう返した。言葉だけを見れば、それは姉として当然の返答だったろう。

けれど、胸の奥に広がる微かな違和感と、なぜだか喉の奥に引っかかるような不快感。それを振り払うことはできなかった。


その日を境に、エドワード様は以前よりも頻繁にデュヴァリエ家を訪れるようになった。


そして、ある午後のこと。

わたしとエドワード様が、例によって庭園で穏やかに語らっていたときのことだった。

突然、ニーアが軽やかな足取りで現れ、わたしたちのもとに駆け寄ってきたのだ。


お義兄様(おにいさま)、わたしもご一緒していいですか?」


その呼び方に、一瞬、息が止まった。

お義兄様(おにいさま)――それは、わたしですらまだ口にしたことのない、親しげな響き。

動揺しそうになる心を抑えて彼を見やると、エドワード様はまるでそれが当然であるかのように頷いた。


「もちろん。ぜひ一緒に」


「ありがとう!」


ニーアはわたしではなく、エドワード様の隣に、当然のように腰を下ろした。

わたしの隣に座るのが、彼女の“当然”ではなかったことに、心がざらりとした感覚を覚える。


「ねぇ、お義兄様。わたしにも、お義兄様のことをたくさん教えて?」


その呼び方は、まるで既に家族であるかのように馴染んでいて。

エドワード様は驚きもせず、笑顔のまま彼女に話し始めた。


「そうだな……私は領地の管理よりも、本当は植物学の方に興味があって――」


彼が、わたしに語ってくれたはずの話を、今はニーアに向けて語っている。

しかも、まるで初めてその話をするかのような、新鮮な声色で。


わたしは、ふたりのやり取りをただ黙って見つめていた。

胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んで、呼吸が浅くなるのを感じながら。

そして、その感情に対して自己嫌悪が湧き上がってくる。


わたしは、何を嫉妬しているの?

婚約者が私の家族と親しくしているだけなのに、なぜこんなに、苦しいの?


わたしの心に、冷たい影が静かに落ちたのは、このときだった。


エドワード様とニーアは、出会ったばかりとは思えないほど、あっという間に打ち解けていった。笑い合うふたりの姿を、わたしはすぐ近くの場所からただ見つめていた。


それからというもの、いつの間にか三人で庭園を過ごす時間が日常となっていた。

わたしとエドワード様が会うたびに、ニーアが「ご一緒してもいい?」と笑顔で現れ、彼も快く迎え入れる。断る理由などなかった。ただ、心のどこかで、小さな棘のようなものが刺さった感覚があった。


ある日など、事前の約束もないのに、エドワード様がふいにデュヴァリエ家を訪れたことがあった。ちょうど執務に追われていたわたしは出迎えることができず、応対したのはニーアだった。それからも同じようなことが何度か続き、いつの間にか、わたしよりもニーアの方が、エドワード様と話す時間が長くなっていた。


「お義兄様って、本当に優しいのね」


その日の夕暮れ時、エドワード様が帰ったあと、ニーアはふわりと微笑みながら、わたしにそう言った。彼女の頬はほんのりと紅潮し、目はどこか夢見るようにきらめいていた。


「わたしの話をちゃんと最後まで聞いてくれるし、冗談も素敵なの。ああ……わたしも、お義兄様みたいな人と出会えていたら、きっと毎日が楽しかっただろうな」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。苦笑いでごまかそうとしたけれど、感情は抑えきれなかった。

エドワード様は、わたしの婚約者だ。それなのに、ニーアとふたりでいるときの彼は、わたしに向けるよりも柔らかい笑顔を浮かべている気がした。わたしの隣にいるべき人が、少しずつ遠ざかっていく――そんな不安が日に日に強くなっていく。


「どうしたの、お姉様?」


ニーアがふと首を傾げた。わたしの表情から何かを感じ取ったのだろう。


「なんでもないわ」


わたしはとっさに笑みを浮かべた。心配させてはいけない。そう思ったのに、ニーアは眉を寄せ、わたしを覗き込むようにして言った。


「……もしかして、体調が悪いの?そういえば、お義兄様と話していた時も、ちょっと辛そうに見えたの」


その言葉に、わたしの心はさらに沈んだ。私を置いて、ニーアとエドワード様が楽しそうに話していたからだ。

ニーアは姉の婚約者と、ただ会話をしていただけ。彼女に非はないと分かっている。だからこそ、この想いを吐き出すことも、誰かに助けを求めることもできない。


「大丈夫よ、心配しないで」


精一杯の笑顔でそう答えた。けれど、胸の奥に溜まっていく重たい感情は、少しも軽くならなかった。


そして――ついに、わたしは二人の密会を目撃してしまう。


それは、何の前触れもない偶然だった――あるいは、皮肉な運命の悪戯と呼ぶべきだったのかもしれない。


その日、わたしは用事を済ませた帰りに、普段は通らない廊下を選んだ。ほんの気まぐれ。けれど、そこには、わたしが決して目にしてはならない光景が広がっていた。


ニーアとエドワード様。

薄暗い廊下の片隅で、人目を避けるように立っていた。ふたりの距離はあまりに近く、その瞳はまっすぐに見つめ合っていた。


思わず足を止め、柱の陰に身を隠す。鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。まるで悪い夢を見ているようだった。わたしの耳には、ふたりの親密な声がはっきりと届いていた。


「……大好きだよ、ニーア」


その言葉とともに、エドワード様はそっとニーアの手を取る。そして、ためらうことなく、その白く細い指に唇を寄せた。


「お義兄様……嬉しい……」


ニーアは頬を朱に染め、恥じらいながらも満たされた微笑みを浮かべていた。その表情が、わたしの胸をひどく締めつけた。


ああ――やはり、そうだったのだ。


わたしの知らないところで、ふたりはすでに心を通わせていた。わたしの目が届かぬ場所で、関係は静かに、けれど確実に育まれていたのだ。


「ねぇ、お義兄様のこと、なんて呼べばいい?」


ニーアが無邪気に問いかける。

エドワード様は微笑みを浮かべ、優しく応じた。


「僕のことは……エドでいい。君にだけ、そう呼んでほしい」


「ふふ、わかったわ、エド!」


交わされる笑い声が、わたしの心に容赦なく突き刺さる。わたしの知らない“特別な呼び名”。まるで恋人同士の秘密の合図のようで、耳に焼きついて離れない。


視界が滲み、足元が揺らぐ感覚に襲われた。とっさに壁へ手を伸ばしたが、手すりにかけられた布が外れ、その勢いで肘が近くの壺に当たってしまった。


――ガシャンッ!


割れる陶器の音が、静まり返った廊下に無残に響き渡った。

ふたりの視線がわたしへ向けられる。


「誰だ!」


エドワード様の鋭い声に、わたしは身をすくませた。

柱の陰に潜んでいた顔を、音に驚いてわずかに覗かせてしまったその瞬間、ニーアと目が合った。


「……お姉様?」


ニーアの声が震えていた。彼女の顔には怯えと、驚きが浮かんでいた。けれどそれ以上に、彼女の顔に浮かんでいたのは、見られてしまった事に対する居心地の悪さだった。


「あーぁ、見られちゃった……」


ニーアがぽつりとつぶやいた。その声には、羞恥も弁解もなく、ただ諦めと冷静さだけがあった。この場面をどこかで予期していたかのように。


わたしはもう、声を出すことすらできなかった。足は動かず、唇はただ小さく震えるばかり。


わたしの視線の先には、まだ互いの温もりを残しているふたりの手と、紅潮したニーアの頬、そして沈黙したエドワード様の瞳があった。


沈黙が、すべてを語っていた。

胸の奥に押し込んできた感情が、一気に決壊しそうになる。このままここにいたら、わたしはきっと、壊れてしまう。


だから、逃げた。


何も言わず、何も問わず。廊下を駆け、扉を閉ざす。ひとりきりの部屋の中に身を投げ込む。

ひとりになった瞬間、こらえていた涙が、溢れた。


エドワード様の声が、頭の中で何度も何度も響く。ニーアへの愛の言葉。優しく触れる指先。許されないはずの唇の接吻。


「どうして……どうして、わたしじゃなくて……あの子なの……?」


枕に顔をうずめながら、涙は止まらず、嗚咽となって喉を震わせた。心は焼けつくような嫉妬と悲しみに満たされ、誰かにすがりつきたいのに、それが許される相手はもういなかった。


暗い部屋の中で、ただひとり、わたしは泣き続けた。


後日、エドワード様は、わたしとの婚約を解消したいと申し出た。

デュヴァリエ家の執務室にわたしとエドワード様、ニーア。それに両親が揃い、話し合いが始まった。重苦しい空気が淀み、息をするのも苦しいほどだった。


「……すまない、ユリア嬢」


その一言で、心臓がどくんと跳ねた。

エドワード様が、わたしの名を、まるで他人のような声音で口にした。かつてわたしを親しげに呼んでいた面影はもう、そこになかった。


「君との婚約を、解消したい」


そう言った彼の声は、震えていた。だがそれは罪悪感からではない。愛を貫くという、正義の確信に満ちた、優しい悲壮さだった。


「僕は……ニーアを、愛しているんだ」


わたしの視界が、ゆらりと揺れた。

けれどその言葉は、まだ序章に過ぎなかった。


「今まで、君を愛しているつもりだった。だがそれはただの“思い込み”だったんだ」


エドワード様は俯きながらも、しっかりとした口調で続けた。


「君を婚約者として大切にしてきた。だけど、心の底から惹かれていたのは、ニーアだったんだ」


心臓が、ぐっと縮むように痛んだ。

目の前にいるはずの彼の顔が、ぼやけて見えた。涙がにじんでいたことに、わたしは気づいていなかった。


「……わかりました」


それだけが、わたしの精一杯の言葉だった。

力なく口にしたその言葉に、ニーアはぱっと花が咲いたように笑みを浮かべ、わたしなど目に入ってないかのように、エドワード様に抱きついた。


「ありがとう、お姉様!」


その声は甘く、勝ち誇った鐘の音のように響いた。


「これでわたくしたちは晴れて結ばれるのね、エド」


「ニーア……」


エドワード様もまた、彼女の肩を抱きしめ、満足げに目を細めた。


その光景を前に、わたしの両親は驚きも怒りも見せなかった。ただ、納得したように静かにうなずいた。

ふたりは次男と次女。爵位も継承権も持たぬ立場だった。

このままでは、どれほど恋が実ろうとも、ふたりは貴族としての身分を保てない。

それなのに──。


父はあっさりと宣言した。


「エドワードの申し出を受けて、後継はニーアとする。ニーアに爵位も家も譲ることとする」


「え……?」


声にならない声が漏れた。


「それが一番よ!」


母の声が弾んだ。


「ニーアをずっと手元に置いておけるし、家の顔にもなるわ!」


わたしの指先が冷たくなっていくのを感じた。


「な、何故ですか……! 私は……私は後継者として、今まで、努力して……」


訓練も、学問も、外交も、全てはこの家のため。

妹が自由に遊びまわる傍らで、わたしは“当主”としての器を磨いてきた。

その全てが、こんな一言で捨てられるのか。


「婚約は家と家の取り決めだ。そう簡単に破棄できるものではない」


父の声が低く響く。


「だが、“お前”と“ニーア”の立場を入れ替えれば、外聞も立つ。名誉も守れる。──家のために、耐えろ」


「そうよ、ユリア」


母が穏やかに微笑んだ。


「あなたさえ我慢すれば、すべてうまくいくのよ」


──わたしの意志など、最初から誰にも問われていなかった。


心の底から叫びたい衝動が、喉の奥でかすれた息に変わった。

それでも、わたしは声を上げなかった。


──わたしのすべては、妹に奪われるの?


お気に入りのブローチも、家族の関心も、婚約者も……次期当主の座も。


礼儀作法も、舞踏も、学問も、すべては次期当主として身につけてきた。

妹のわがままにも笑顔で応え、誰よりも忠実に家を支えてきたというのに。


たった一言「好き」と言われただけで、妹はすべてを手に入れた。


わたしはそれでも、微笑まなければならないのだろうか。

この胸を引き裂くような痛みを飲み込み、彼らの祝福に拍手を贈らねばならないのだろうか。


何のために、わたしは生まれてきたのか。


わたしは俯いたまま、何も言えなかった。

その沈黙が、いっそう場の空気を冷やしたが──誰ひとり、それを責めようとはしなかった。

彼らにとって、わたしはもう終わった存在だったのだから。

婚約は破棄された。

家督も奪われ、婚約者も奪われ、わたしの未来は、ただ音もなく崩れ去った。

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