ボーイミーツガール②
夜の公園にまた沈黙が戻った。わずかな外灯に照らされたベンチに座る二見と成川。
二見の言葉を聞いて、成川はしばし呆然とした。そしてゆるゆると頭を振る。
「そんなはずはありません。
浅田さんの浮気相手というと、あなたの話に出来てきた「男」ですよね?その男が拓也だったなんて…そんなはずはない。そんな偶然があるはずがない。
そもそも、あなたは拓也の顔を見たことがないはずです。なぜその男と拓也が同一人物だと言えるのですか」
責めるような口調で話す成川に対し、二見はあくまで穏やかな口調を崩さない。
「赤い傘を持っていたからですよ」
「…赤い傘?」
成川は少し前に二見が話した出来事を思い出そうとして、右手を額において目線を空中に彷徨わせる。
…二見は浅田のアパートの階段で待ち伏せし、浅田と男が出てきて、その男は確かに鮮やかな赤い傘を持っていた…
「それがどうしたというんですか?赤い傘を持っていたからなんだというんです」
「分かりませんか。
では逆に聞きましょう。なぜ彼は赤い傘を持っていたんでしょう」
「それは…当然、雨が降っていたからです。
確か、彼らが浅田の部屋から出てくる直前に雨が降りました。階段で待っていた二見さんは雨で濡れてしまったんですよね?
部屋を出ようとしたら雨が降っていたから傘を持った。それだけのことです」
「ではその傘は、誰のものだと思いますか」
成川は眉を寄せる。
「…だから、浅田さんの部屋から出てきたんだから、浅田さんのものでしょう。
それに、男が持っていたのは鮮やかな赤色の傘です。一般的に、赤い傘は女性の持ち物だから、彼女が貸したに違いありません」
「そう、赤い傘は女性が使うものです。
ならば、男が持っていた傘が浅田の貸した傘のはずがない」
「…意味が分からない。それではあべこべです」
「思い出してください。浅田は今日の仕事帰りに雨に降られ、コンビニで傘を買っています」
二見が浅田へ電話をかけたとき、その話題が出ていた。浅田は突然の夕立にあい、コンビニへ寄って傘を買っていた。
「咄嗟に買ったコンビニの傘です。上等なもののはずがない。よくある透明なビニール傘でしょう」
「最近は黒色も売っていますけどね」
「たいした違いではありません。とにかく浅田はコンビニで透明(か黒)なビニール傘を買いました。
ならば浮気相手の男に貸すのは当然、透明なビニール傘になるはずです。
透明な傘と赤い傘があるのに、男に対してあえて赤い傘を貸すはずがない。それでは嫌がらせだ。
また加えて言うと、当日の男は黒を基調とした服装で、さらに体型は大柄。彫りが深い顔付きだった。所謂男臭い男性といっていいでしょう。
そんな男に、あえて鮮やかな赤色の傘を、渡しますか?
しかも浅田は、私が家に来るのではないかと恐れていました。出来るなら浮気相手にはこっそり帰って欲しかったはずです。黒の服に赤い傘の大柄な男では嫌でも印象に残る。心理的にも、彼女が男に赤い傘を貸すのは有り得ない」
「しかし実際に、男は赤い傘を持っていました。浅田さんが貸したのでないなら。
…男が自分で持ってきたということですか」
二見は大きく頷く。
「その通り。浅田の貸したものでないとするならば、赤い傘は男の物に違いない。
男は自分で持ってきた傘を持って帰ったんですよ」
成川は額に当てていた手をすっと下ろす。
「まとめさせてください。
男は赤い傘を持っていた。しかし、浅田さんが赤い傘を貸したとは考えられない。ならば、男は自分で傘を持ってきていたに違いない。
なるほど、納得してあげてもいいですよ。
しかし繰り返しますが、だからなんだというんですか?何の意味もない推理です」
「そんなことはない。男が傘を持ち込んだことから、様々なことが分かります。
第一に、男が自宅を出た時間が分かる」
「…また突拍子もないことを」
「いえ、きちんと考えれば分かります。
今日は雨が二回降りましたが、天気予報は晴れです。本来なら傘を持って出る必要はありません。
しかし男は傘を持ち込んだ。ということは、男が家を出た時、外は雨が降っていたのです。言い換えると、男が外出したのは1回目に雨が降り始めてから降り止む間です」
成川は考えた。本当に二見の推理は正しいのだろうか?
他の場合はどうだろう。例えば、男が家を出た後に雨に降られて出先で傘を買った場合。しかし、途中で傘を買うにしても、あえてビニール傘ではなく鮮やかな赤色の傘を買うとは考え難い。また突然の雨で傘を買う場合、コンビニや駅のキヨスク、100円均一等で傘を購入することがほとんどだろうが、それら店舗では、赤色の傘を売っていること自体が少ない。
確かに、二見の推理は正しいかもしれない。しかしこの推理にどんな意味が…
そこで成川は気づいた。
「…そうか、今日の雨はいずれも夕立で、降ってからすぐにやみました。だから男が家を出た時間を特定できる」
そう言って成川は、スマートホンを出そうと鞄のファスナーに手をかけたが、二見がそれを静止した。
「成川さん、スマートホンを見る必要はありません。
印象的だから覚えていますよ。雨が降ったのは私が上司から電話を受けた前後5分間です。時間に直すと、大体、18:00から18:05の間」
「18:00から5分間」
ぼそりと成川が繰り返す。
そこで気付いた。
「私も覚えています。仕事中、私は一度更衣室に戻って拓也へ電話した。それが確か、18:00」
「そして電話の中で、彼はこう言ったそうですね。『今からすぐ出る』」
成川の目が見開かれた。その目には狂気が消え、代わりに驚愕が現れていた。
「拓也が家を出たのは、18:00の直後。そして浅田の浮気相手が家を出たのは、18:00から18:05の間」
「その通り、納得できましたか」
木曽川がごうごうと鳴る。22時を回った夜の公園に喧騒はなく、ただ闇と静けさが降りていた。
沈黙に耐えかねたように、成川が言った。
「それがどうしたというんです。
確かに浅田さんの浮気相手と拓也が家を出た時刻は同じかもしれません。
しかしだからといって、二人の男が同一人物とは云えません。
この世の中に…あるいはこの県内に、同時刻に家を出た男性が何人いると思うんですか?たまたま、その浮気相手と拓也がほぼ同時刻に家を出ただけです。それだけで、同一人物であるとは言えません」
二見は内心苦笑した。それは彼女の言葉が苦し紛れに聞こえたからではなく、むしろ痛いところをついていたからだった。
二見にも、浅田の浮気相手と内田卓也が絶対に同一人物であるとは言い切れなかったからだ。
「成川さんの言う通り、絶対とは言い切れません。
しかしそんなことを言い出したら、世の中に絶対などないとは思いませんか」
「詐欺師の言い分じゃないですか」
「口が悪いな」
「すいません。
でも私は納得しきれません。偶然同じ時間に家を出ただけでは、根拠薄弱です」
「では、根拠を追加していけば良いですか?」
予想した言葉ではなかったからだろうか。成川は少し驚く。
「まだあるというんですか」
二見が頷く。
「続けても良いですか」
二見の言葉に今度は成川が頷いた。
それぞれベンチの端に座っていた二人は、距離を詰めてベンチの真ん中で隣り合って座った。お互いがお互いの声を聞きやすいように。
「男は赤い傘を浅田の家へ持っていった。
だから男は雨が降っていた間に家を出た。
そして次に、男は女性と住んでいる」
二見の言葉を吟味するように成川が数回頷き、その言葉が自分の予想の範囲内であることを確認した。
「それは、赤い傘を持っていったからですね。
赤い傘を持っていったということは、当然、家に赤い傘があったから。そして赤い傘―とりわけ鮮やかな赤い傘―を一人暮らしの男が持っているとは考え難い。だから男は女性と住んでいる。そういう考え方ですか?」
二見は返事をせず肯定を示した。
「ま、そういえなくもないですよね。一人暮らしの男性が絶対に赤い傘を持っていないとは思いませんが、その可能性が高いことは理解できます。
しかしあまり効果的な推理ではありません。
男は女性と住んでいる。拓也は私と同棲しているから、この条件に当てはまります。しかし女性とは必ずしも恋人でなくてもかまわない。それに二人暮しである必要もない。例えば母親や妹の傘を持ってきたのかもしれない。男は家族と実家に住んでいるのかもしれない。
つまり、この推理は一人暮らしの可能性を消しただけで、やはりそれだけではまだ足りません」
言いながらも、成川の声に自信は感じられなかった。彼女の言う通り、男が一人暮らしではないと分かっても、それは広げられた網をごく僅かに絞ったに過ぎない。
しかしその条件もまた成川と同棲する内田拓也に合致していた。また、もし男が内田拓也だったとして、恋人の通帳から金を出したこともある彼なら、恋人の赤い傘を勝手に持っていったとしてもおかしくはない、成川はそう考えていた―そう、確かに、成川の家には赤い傘があったのだ。
「次で最後です」
半ば疑心暗鬼に陥っていた成川の耳に、二見の低い声が届く。
最後、という言葉に成川は胸を撫で下ろした。
「もう最後ですか。やはり拓也とその男が同一人物とは言えないようですね」
「いえ、最後の条件は、該当人物を激減させることが出来ます。
僕の考えが正しければ、ですが」
「自信があるのかないのか、はっきりしませんね」
「実は僕もまだ、絶対の自信はありません。
そこで成川さん、一つ質問があります。正直に答えてくれますか」
二見が成川を見る。二人の瞳がぶつかり、お互いの瞳の中に自分自身の姿が浮かぶ。
「いいですよ。何が訊きたいんですか」
二見は彼女の瞳から目を逸らさずに言った。
「内田拓也は、色覚異常者ですね」
成川は言葉に詰まる。二見の指摘は当たっていた。内田卓也は色弱だ。色弱―色の判別が苦手な色覚異常。男性の5%が色弱と言われている。
「なぜ知っているんですか」
「やはりそうでしたか」
不意に、外灯が明滅を繰り返す。老朽化が進んでいるのかもしれない。明暗が交互する視界の中で、それでも二人はお互いから目を離さなかった。
点滅が収束し、再び弱い明かりが二人を照らす。
「浅田詠美の浮気相手の男。彼は色覚異常者です」
成川は数瞬、言葉を失った。
思考が停止し、やがて二見の言葉を頭が理解するまで数秒かかった。
「なにを根拠に。そんな情報はどこにも」
「これも難しくありません。やはり赤い傘を持ち込んだことから出発するんです」
「また、赤い傘」
二見は唾を飲み込み、喉を潤してからゆっくりと言葉を紡いだ。
「男は赤い傘を持ち込んだ。つまり男は赤い傘を持っていた。しかし男が赤い傘を所持しているとは考えにくいから、男は女性と住んでいる。ここまではいいですね」
成川もまたゆっくりと頷く。
「しかしここで問題が発生します。なぜ男はあえて赤い傘を選んで持ってきたのか。
考えてみてください。同棲でも、家族と住んでいる場合でも、傘は最低一人一本は持っているものです。いや、2本持っている人も少なくないでしょう。ならばまさか家にある傘が赤い傘一本だけのはずがない。
玄関に置かれた傘入れ。その中には数本の傘。そこには勿論、男が自分用に持っている透明な、あるいは黒色、青色の傘が1本以上は入っていたはずです。
数本の傘が入った傘入れ。その中で男はあえて赤色を選んだ。普通の男は、女性が持っている赤い傘など選ばない。しかも浮気相手との密会に、あえて目立つ赤い傘を選ぶはずがない。
それでも男が赤い傘を手に取ってしまったのは、男には、赤が分からなかったからだ。
正確には、鮮やかな赤色が男の自分には合わないという認識や、赤が目立つという認識が希薄だったから。
男にとって、鮮やかな赤は、黒や、青や、透明と、それほどまでに違わなかった。
赤が分からない男。それはつまり、色覚異常者に違いない」
色覚異常の中で最も多いのは赤緑色盲だ。赤と緑の区別がつきにくくなるといわれている。よく勘違いされるが、重度でない限り、赤や緑と他の色がまったく同じに見えたり、他の色と完全に区別がつかなくなるわけではないという。ただ、赤や緑が茶色のように、あるいはピンク色が灰色のようにくすんで見える例が多いとされている。
男は、赤色がそれほど目立つとは思わなかった…経験則から、赤い傘が目立つことや女性的であることを知っていたかもしれないが、それを直感的に知覚することは出来なかった。
成川は想像した。二見の瞳を見つめながら、頭の中にはまったく別の光景が浮かぶ。
ある男が部屋を出ようとしてドアを開く。外は雨が降っている。咄嗟に傘入れから傘を取る。鮮やかな赤色の傘を取る。通常ならもう一度戻して別の、自分の傘を選ぶところ、男は気にせず外へ出る。赤い傘をさすその男。男の顔に、よく知っている内田拓也の顔が重なる。
いかにもありえそうなことだと思った。しかし、成川はすぐには受け入れられなかった。
「ニックネームはどうなんです。
二人はエーちゃん、ユーくんと呼び合っていたそうですね。
浅田詠美はヨシミのヨシを、読み方を変えてエイ、でエイちゃんなんでしょう。
ならば内田拓也がユーくんにはならないでしょう。…そうですね、ターくんあたりが妥当ではありませんか?拓也でユーくんは変です。例えば名前が祐二とか雄太でないと」
その反論は予想していたらしく、二見はすらすらと答えた。
「ニックネームですから、由来は無限に考えられます。拓也でユーくんでも構わない」
「それは乱暴です」
「ではこれならどうでしょう。
浅田詠美はエーちゃんであってエイちゃんではない。ならばエーちゃんとは名前ではなく苗字の頭文字かもしれない。浅田の頭文字はA。だからAちゃん。
そして内田拓也の頭文字はUです。つまりUくんになる」
成川は右手で前髪をかきあげた。
ニックネームはともかくとして、赤い傘に関する推理は否定できるかもしれない。全て蓋然性の問題に過ぎない。物証があるわけではない。ただ男が内田拓也の可能性がある、に過ぎない。二見の推理は完璧とは言えない。
どう反論してやろうか、と考えていると。
ふと、自分を見つめる二見の目が笑っていることに、成川は気づいた。その笑みには馬鹿にしたようなニュアンスはなく、屈託がないものに見えた。
何が可笑しいのですか、と訊こうとして、また成川は気付かされる。
自分の口角が上がっていることに。
自分が楽しそうにしていることに対し、この人は微笑んでいるんだ。
自分とこの人は、夜の公園で、楽しい時を共有している。
そう分かってしまうと、何かが成川の中ですっと腑に落ちた。
…このとき成川は、自分の中の殺意が消えていることを自覚した。
「交換殺人は、中止ですね」
「よかった」
二見はほっと息をつく。彼の仕草と自分の言葉に、成川はおかしくなった。
交換殺人なんて、どうかしている。とても現実的ではない。そう思いながら、少し前、この公園に来た時の自分の心には確かに殺意があり、その事実が恐ろしく、恥ずかしかった。
「ありがとうございます」
わずかに頬を染めながら、成川が言った。
こちらこそ、と言おうとして、二見は息を飲んだ。
彼女の恥ずかしがる仕草に目を奪われ、儚く高い彼女の声が耳をくすぐった。
二見は『それ』を自覚した。彼女に浮気されたばかりで節操がないし、まだお互い彼氏彼女とは別れていないから不誠実なのだが、しかし二見は『それ』を自覚してしまった。
何かないか、と考える。このまま彼女との繋がりが失われてはいけない。しかし何かとっかかりがないと、と二見は考え、そして思い付いた。
「成川さん。交換殺人が出来なくて残念でしたね」
「いいんです。元から、絵空事なんですから」
「ただ、交換殺人は出来なかったけれど、他の交換なら出来ます。
しかも、これを交換すれば全てが解決する可能性がある。浅田詠美と内田拓也を排除する必要がなくなる…かもしれません」
きょとんとする成川に、今日一番の勇気を振り絞って二見が言った。
「連絡先を、交換してくれませんか」
年齢的にふたりともボーイでもガールでもないことにあとから気付きました。許してください。