成川晴美②
既に本来の就業時間は過ぎていた。
今、下処理室には私を含めて4人が作業をしている。全員が上から下まで白い制服に身を包み、身長以外の外見で個人を区別するのは難しい。もっとも、キャップに名前が入っているから人を間違えることはないのだけれど。
私以外の3人は、いずれも3便、深夜枠の作業員だ。この食品会社は一日を1便、2便、3便に分けており、パートの労働時間はそれぞれ00:00~8:00、8:00~17:00、17:00~00;00となる。
現在、既に3便の時間となっているため2便担当が帰るのは当然である。しかし私はまだやることが残っているため1人で残業しているわけだ。
「お手洗いに行ってきます」
私は隣の作業台にいる同僚に声をかけた。はい、と若い女性の声が答える。
下処理室を出て階段を上がる。作業場へ入室した時とは逆の順序を辿り更衣室へ帰ってきた。
再び入室する際には、また入室する手順を踏まなければならない。ローラーがけ、エアシャワー、金属探知機、入念な手洗い。
面倒ではあるが、一度更衣室へ帰る必要があった。
彼に連絡するために。
更衣室のロッカーを開け、スマートホンを手に取る。画面に映る時刻は18:00。電話帳を起動し、内田拓也の名前を押す。
私と同棲中の彼氏だ。
「もしもし、拓也?ごめんね、今仕事中なんだけど。
また残業が決まっちゃって、帰るのは20時過ぎになりそうなの。だから夕飯は」
「通帳は?」
一瞬、彼の放った言葉の意味が理解できず、口が止まる。
「通帳?持ってきてるけど」
「こないだも持っていったな。家において置けと言っただろう」
電話越しに低い声が私を非難する。
通帳は私の手元にある。私の通帳なのだから本来、非難される謂れはないのだけれど。
「ごめんなさい。でもほら、家に置いておくと、泥棒が心配でしょう」
「馬鹿にしてるのか。俺が一日中家にいるだろ」
拓也は働いていない。彼が無職になって3年経つ。付き合い始めたときは働いていたのだが。
「拓也だって、外出はするでしょう?なら私が持っていたほうが安全じゃない」
「俺に金を下ろされたくないからだろう」
図星だった。拓也は私の通帳の暗証番号を知っており、何度もそこから金を下ろしている。だから最近はパートに通帳を持ってきているのだ。勝手に金を下ろされないように。
「そんなことないよ」
と言いながら、その声がどうしても震えてしまう。
「とにかく、今後は持っていくなよ。金がないとき困るからな」
「でも、拓也には充分お金を渡しているのに」
「口答えするのか」
スマートホンを持っている手が思わず震えてしまう。
私の通帳を勝手に使うつもりなのだ、本来は怒らなければならない。しかし、過去にふるわれた暴力が脳裏を霞み、言いたい言葉が出てこない。
「怯えなくてもいいじゃないか。俺たちは付き合ってるんだ」
馬鹿にしたような口調で彼が言う。
そう、私たちは付き合っている。20代前半で付き合い始めて、もう7年目になる。
同棲をはじめて今年で4年目だ。そのときまだ彼は働いていて、彼が給料で私を養うと言ってくれた。私はその言葉に甘えて当時勤めていた会社を辞めた。ほどなくして彼は会社を辞め、無職二人ではどうしようもないためこのパートを始めたのが3年前。
別れたいと思ったことは何度もある。でも、別れられなかった。
最初は哀れみだった。彼がかわいそうだったから別れられなかった。でも今は。
別れなんて切り出したらなにをされるか分からない。恐怖の為に私は彼と別れることが出来ないでいた。
「今日は遅くなるんだったな。実は俺も外出するところだったんだ」
どうせパチンコだ。
「今からすぐ出る。何時に帰るか分からないから、夕飯は適当に済ましておいてくれていい」
じゃあなと言って彼は通話を切った。3分に満たない彼氏との会話が終わった。
私はまだ少し震えていた。
彼への恐怖の為に震えているのだと思った。
少し後になって、恐怖心の中に別の感情が混ざっていたことを知った。