第7章 結氷の出会い
なぜ、ネッツは先日のマキシカの暴走事故で死んだことになっているのだろうか。ネッツは俯きながら、登校初日の教室を後にした。
新しいネッツの家となったメグリエの屋敷に帰る。学園と屋敷は少し歩く距離ではあるが、ぼーっと街並みを眺めながら考えを巡らせて歩くにはちょうどよかった。
メグリエの屋敷にたどり着いたネッツは、表の扉の呼び鈴を鳴らした。すぐに執事のナガレが扉を開けた。
「お帰りなさいませ、ネッツ坊ちゃん」
ナガレはネッツの家がずっとここだったように和やかに迎えてくれた。
「・・・ただいま」
「学校で何かありましたか?」
帰宅したネッツの顔をナガレは心配そうに覗き込む。彼はネッツのことを本当の孫のように心配してくれる。
「お帰りなさい、ネッツ」
そこにコーリィがやってきた。ネッツは疲れきったように鞄を下ろす。
「俺、新聞でマキシカの事故で死んだことになってて・・・」
ネッツの声がどんなにしょんぼりとしていたのか、ナガレは驚いて悲しそうな顔をする。
「どうして新聞の記事の話になったのですかな?」
「新聞の記事のことを話し合う時間があった。マキシカの暴走事故の記事に、孤児が死んだって書いてあるって先生が言ってて」
コーリィは少し考えた。彼女は表情を変えずに、冷静に思考を巡らす。
「それは新聞が間違っているのよ、ネッツ。あの事故で誰も亡くなってはいないわ」
ネッツは生きているのだから、新聞が嘘をついたことになる。しかし、なぜ新聞記事が偽りの記事を載せたのか。コーリィは続ける。
「これには、誰かの企みがあると私は考えているの」
ネッツははっとしてコーリィを見る。彼女は推理を披露する探偵のように話を続ける。
「そもそも、市民に正確な情報を伝える新聞が間違った記事を載せることはあってはならない。間違いがあったら、それを訂正しないままにするなんて、おかしなことでしょう?」
コーリィの言う通りかもしれない、ネッツはそう思った。新聞は大人が読む情報を得るためのものだ。記事の内容が間違っていたら、混乱を招く。新聞とは、間違いがあれば訂正記事を載せるものだとコーリィは言った。
「ネッツ、私はこの事件の真相を調べてみようと思うのだけれど、ネッツは真実を知りたくはないかしら?」
ネッツは驚いて顔を上げた。そして、何度も頷く。真相を知りたかった。ネッツは納得できる答えが知りたかったのだ。
「どうしてこんな間違った情報を新聞が載せたのか。ミセス・トッドマリーの失踪と関係があるかもしれないわ」
コーリィの言葉にネッツは目を見開き、赤毛を揺らして頷いた。
「ネッツはナガレの親戚の子ネッツ・ワマールを名乗っていてよかったわ」
「学園ではそう名乗ったけど」
戸惑うネッツに、ナガレは言った。
「新聞が訂正しないままにする理由がわかるまでは、ネッツ坊ちゃんがワマールを名乗るのは私も賛成です。何か大きな事件にネッツ坊ちゃんが巻き込まれている可能性がありますから、坊ちゃんが何者か明かすのは慎重になった方がいいでしょう」
事件と言われても、そんな大それた話なのか、ネッツにはわからない。
「今はネッツ・ワマールを名乗るけれど、解決したら、ネッツの本当の苗字を名乗ることもできる。ネッツ、しばらくは我慢してくれるかしら?」
依然、ミセス・トッドマリーは失踪したままだ。ネッツが数時間、孤児院を離れた間に孤児院は閉鎖され、彼女は連れ去られたのだろう。しかし、彼女が見つかったとは警察から連絡はまだない。
「わかった」
ここで拒否しても、ネッツは行くところがないし、コーリィに任せるしかない、ネッツはネッツだ。
お嬢様がなぜここまでネッツにしてくれるのか疑問もあるが、ネッツにはお嬢様の思惑など汲み取れない。
「あの、なんでコーリィは俺のためにそこまでしてくれるんだ?俺はまだ子どもだし、何もできない邪魔者だろ?」
ネッツは不安の元であるその質問を口にした。
「それは・・・」
コーリィは言葉に詰まった。ナガレは目を細めて、ネッツに笑いかける。
「ネッツ坊ちゃん、マキシカの暴走を止めるだけでなく、困っている人もお嬢様は見捨てないのです。それが、メグリエ家の家訓なのですよ」
コーリィが何を考えているのかわからないが、彼女の行動はマキシカ暴走事故に巻き込まれた被害者の救済といえばそうである。些かその範囲が広すぎる気もする。行き場のない少年を住まわせて仕事を手伝わせるのは理解できるが、学校にまで通わせるのは何故か。何か彼女には考えがあるのだろう。今はコーリィやナガレに頼るしかないのだ。ネッツが屋敷を出ていけと言われないよう、しっかりしなくてはならない。
「うん、俺、頑張る」
ネッツのお腹が鳴った。
「夕食のご準備できております。ネッツ坊ちゃん、手を洗ってきてください」
「いってきます」
ネッツはフュールイ学園に向かった。登校二日目。ネッツが一人で学校に向かうのは初めてだ。朝日はまだ街をあたため始めたくらいで過ごしやすい。これが昼になると、肌を刺すような暑さになるのだ。
ナガレとコーリィはネッツを明るく送り出してくれた。しばらくは、ネッツは学校に通う。学校から帰ってきた後や休みの日は、コーリィやナガレの手伝いをするという約束をした。
学校に行かなくてもいいとネッツは思っていたが、コーリィは仕事をするのなら、勉強は必要だと言った。彼女はきっと勉強が楽しい人間なのかもしれない。いつも気難しい顔で難しいことを考えているコーリィのことなど、ネッツは一チカの隙間ほども理解できない。
しかし、ネッツにはコーリィがメグリエ鉱物研究社に置いてくれた恩がある。彼女の役に立つためには、学びが必要になるのだろう。
ネッツが通うフュールイ学園は広い敷地に初等教育から高等教育までが揃った学校である。付属の図書館は都市一と言われ、歴史も古く、マキシカが発明される前から開学したという。
朝はネッツよりも小さな、まだ家で甘えていたいであろう五、六歳の子どもから、大人と変わらない背丈の生徒までが校舎に向かう。生徒の制服は、淡い水色のシャツと紺色のズボンやキュロットは共通だが、学年によってゆるく首に巻いたバンダナの色が異なる。代表生徒がシャツの襟にバッチを付けていることもある。
クラスメートたちは、中途半端な時期に転入してきた少年が教室に入ると異物のように見つめた。昨日来たばかりの見慣れない生徒にまだ警戒心を持っているのは仕方のないことだ。朝の教室では、教師が来る前の教室で、仲の良い者同士が話しているようだった。
「お、おはよう」
せっかく注目を浴びたのだから、ネッツは挨拶をしてみた。挨拶を欠いてはならないと子どもたちに何度も言ったのはミセス・トッドマリーであるから、ここでだって挨拶をするのは間違っていないはずだ。
「お前、どこの家の子?」
ネッツの挨拶に返してきたのは、教師が依怙贔屓していた体の大きな少年メッコー・クラムだ。人一倍成長が早いのか、体が大きく教室の中でほかの生徒よりも存在感のある彼は、ネッツの方ににやにやしながらやってきた。代表生徒らしく、銀色のバッチを襟に付けている。
「メ、メグリエ」
「メグリエの?でもお前、メグリエって名前じゃないだろ」
昨日教師が「ネッツ・ワマール」と紹介したから、クラスメートはネッツの名前だけは知っている。ネッツはナガレ・ワマールの親戚の子ということになっていた。
「そうだけど」
「メグリエの家にいて、メグリエじゃないってことは、よくて分家の子。あとは使用人の子。つまりは普通の子だよな?」
彼は、ネッツが庶民のくせに、名門の家の子どもが通う学園にやってきたことが気に入らないらしい。
「そうだけど。貴族だったら偉いのか?」
メッコーはゲラゲラと笑った。教室に彼の声だけが響く。
コーリィからは、ネッツはしばらくは目立つことは避けるようにと念を押されていた。ここで喧嘩したら、転入早々問題児になる。せっかく入学した学校で問題を起こせば、退学だ。そんなネッツは沙漠に捨てられるかもしれない。
ネッツはこんな奴に歯向かいたい気持ちをぐっと堪え、黙り込む。貴族というだけで威張り散らす。それがネッツの貴族が嫌いな理由だった。
「メッコー、そこまでだ。クラスの不和は評定に響くって前に君が言ったんじゃないか」
ネッツとメッコーの間に割って入ったのは、黒髪の背の高い少年だった。まっすぐな瞳、浅黒い肌、薄い唇からは鋭いセリフが飛び出す。
「普通の子同士、仲良くすれば?」
メッコーは大きな足音を立て、席についた。彼が座った椅子が悲鳴を上げたかのように軋んだ。
始業の鐘がなる。教師がやってくる時間だ。
「ネッツ、気にしなくていい。この学校には色んな家の子がいるんだ」
「うん」
「僕はショーン・ミグ。よろしく」
彼はにっこりと笑った。大きめの前歯が浅黒い肌に似合う優しそうなクラスメートだ。面倒見の良さそうな子だとネッツは思った。
「よろしく」
その日は、歴史の授業と古くから知られている物語の本、作文、マナー教室とネッツにとってはとてつもなくつまらない授業であった。隣に座ったショーンがノートの隅っこの落書きを見せてきたりしたから、ネッツには少しだけ退屈ではなかった。
休み時間にショーンと話すと、彼は五人兄弟の一番上で、弟妹の世話をよくしているという。面倒見の良さはここからだろう。転入してきたネッツのことを気遣ってくれる。授業の様子から勉強もできる優秀な生徒らしい。
ネッツのことも聞かれたが、コーリィから固く事情を話すことを止められていた。ネッツはコーリィとナガレに言われた通り、メグリエ家の執事の遠い親戚の子で、訳あって急にメグリエ家に住むことになった見習いだと言った。ショーンは特段驚いた様子もなかったが、期待の眼差しをした。
「メグリエ家の関係者ってことは、将来、ネッツも偉くなるのか!ずっと友達でいてくれよな!」
そう言ってショーンはネッツを友達だと言ってくれた。冗談で笑わせてくれる、明るい少年が味方になってくれるのなら、少しだけ学校も楽しくなるかもしれない。
――放課後になり、生徒たちは帰る支度を始めた。
担任の神経質な教師ヒルキー・エコが、カツカツと規則的な足音を鳴らしながらネッツの前にやってきた。
「ネッツ・ワマール。君は明日から補習を行う必要があるようだから、明日からは帰りが遅くなると、家の方に伝えなさい」
そう言って、教師はネッツに白い封書を渡した。
「手紙を書いた。家の人にこれを渡せばよい。できるかね?」
編入とはいえ、ネッツがこの学園の勉強に追いつけるわけがないと教師は見越してだろう。机に座っているのはなんとも苦痛なのに、追加で勉強となるとは。
クラスメートはネッツをちらちらと見ていた。ネッツが授業をあまり理解していないことに彼らは気づいていた。クラスメートの嘲笑が聞こえるようだ。
「・・・はい」
ネッツは不満げに答えると、教師はネッツの机を叩いた。
「礼儀も知らないような生徒が学園にいること自体異例です。やる気がないのなら、退学ですよ」
なんとも厳しいことだ。学ぶことが多すぎる。貴族の生まれの子供達はお上品ではあるが、ネッツを異端として見ていた。大人しく影で笑っているか、メッコーのような威張り散らすかだ。そんな環境の中にいるなんて息がつまる。ショーンだけは違うようだが。
コーリィは、ネッツをなぜ学校に通わせたのだろう。数人の笑い声も聞こえてくる。ネッツにとってすこぶる居心地が悪い。
そんな時、教室の扉が勢いよく開いた。
「やーぁ!ネッツ君はいるかい?」
教室ににこにこと目を細めてやってきた一人の男。人懐っこく明るい声で若い男だ。
「て、テンヘン先生!なぜここに!?」
彼を見た担任教師が声を裏返すほど驚き慌てている。教室に残っていたクラスメートもざわめき、突如現れた教師に道を譲る。
顔を上げたネッツは、テンヘンと呼ばれた教師の顔を見て、凍りついた。
そんなネッツを尻目に登場した教員は明るく話している。
「やだなぁ、人を化け物みたいに言わないでくださいよ!コーリエッタ君の弟分が編入したってきいて、僕は待ちきれなくて会いに来たんです」
ヨレヨレのシャツに、ところどころ煤けた白衣、シワシワのズボン。寝癖の付いたままの髪は伸びっぱなしで、適当にまとめて一つにむすんでいる。眼鏡を高い鼻に引っ掛け、先生と呼ばれていることから、彼も教師の一人のようだ。紳士を育てる学園とは程遠い風貌を見てか、誰もが硬直していた。
彼は無邪気に笑ってはいるが、ネッツにはその顔に覚えがあった。
「イルズ・カーン!お前何でここに!」
服装が違うものの、目の前の男はイルズ・カーンだった。髪の色も眼鏡をしていることも顔立ちも彼なのだ。
エコはネッツの教師に対する態度を叱りつけた。
「ネッツ・ワマール!!こちらはテンヘン先生だ。言葉遣いに気をつけなさい」
ネッツは不機嫌に返事をした。それより、目の前に現れたのは、イルズ・カーンにそっくりな別人だというのか。
「エコ先生、ネッツくんをこの後借りてもよろしいですか?」
「・・・どうぞ。今日は終わりました」
エコはノーとはいえないばかりか、少し怯えた様子である。目の前か現れたヨレヨレの男は、几帳面なエコとは正反対といってもよさそうだから、エコの弱点となる人物なのかもしれない。クラスメートも皆が怯えた様子で突如やってきた教師を見ている。
「ネッツ君。鞄を持っておいで。私の実験室でお話ししよう」
なぜ目の前にイルズ・カーンが現れたのか。ネッツの里親などいなかったことやミセス・トッドマリーの失踪、そして、彼によって連れ去られた孤児院の兄弟たちのことを聞かなくてはならない。そして、ネッツの目の前に現れるなんて、なんと堂々たる悪人なのだろう。彼は笑顔でネッツに手招きしている。
「ネッツ、気を付けてな・・・」
ショーンが心配した顔でネッツを教室から送り出す。彼がどんな人間か、ショーンやクラスメートたちは知っている様子だった。
ネッツは肩掛け鞄を持ち、武者震いをしてその教師について教室を出た。敵の方から現れたことは好都合だが、ネッツが勝てる相手だろうか。クラスメートや担任が急に血相を変え、怯えていたことからも、危険人物なのかもしれない。
カーンは孤児院に姿を現さないときはこの格好なのだろうか。目の前にある洗いざらしたシャツに煤けた白衣の人物とは、今までにネッツが見ていた貴族の取り巻きみたいな、質の良い服を着ている人物とは似ても似つかない。イルズ・カーンは孤児院の子供と遊ぶと服が汚れるからか、子供達を遠ざけていた。しかし、目の前の男は、孤児院の子供と遊んだって良いくらいの格好だ。
「お前、イルズ・カーンだろ!フュールイ学園の先生だったのか?」
少し先を歩く教師の背中に向かってネッツは叫んだ。
「だれですか、それ?」
彼ははたと立ち止まる。そして、後ろをついてきたネッツを見た。
相手はしらばくれるつもりのようだが、ネッツも引き下がるわけにもいかない。
「嘘だろ?そっくりだし・・・こんなヨレヨレじゃないけど」
イルズ・カーンとカミーエ・テンヘンは背も同じくらい、明るめの茶髪も、琥珀色の瞳も、瓜二つと言っても良い。しかし、服装と喋り方は違う。イルズ・カーンのように威圧的ではなく、生徒に優しく声をかける教師に見える。
彼は生徒も教師も恐れ慄く存在らしいが、一体何者なのだろうか。
「僕は高等部の工学と鉱物の授業を担当しているカミーエ・テンヘン。こう見えて先生ですよ」
テンヘンはにっこりと無邪気に笑う。初等部のネッツのクラスメートが知っている高等部の教師となれば、学園の一種の名物教師なのではないだろうか。
「ネッツ君、これからよろしく」
ネッツの前に右手を差し出す。握手を求めてきており、相手の出方は友好的だ。
差し出されたテンヘンの手の甲に大きな傷痕が稲妻のように走っている。親指の付け根から、汚れた白衣の袖で隠れてはいるが、少なくとも手首まで続く大きな傷痕だ。
カーンの手にそんな傷はなかったとは思うが、カーンは子供嫌いらしく、ネッツは彼を近くでよく見たことがなかった。ネッツの記憶の中に彼の手の詳しい記憶はない。だから、彼がカーンかそうでないかをネッツは判断できずにいた。
ネッツは恐る恐るテンヘンの手を握ろうとした。握手を求めてきている。相手は友好的なのだから――
「ほら、捕まえた!」
テンヘンは獲物を捕まえるかのように、ネッツの手をぎゅうっと握った。そしてそのままネッツを引きずるように廊下をずんずん進む。
「僕は初等部の担当ではないけれど、ネッツ君が学園に通うようになったと聞いてね、会いに来たんだ。あのコーリエッタ君の弟分なら見込みがあるはずでしょう?楽しみですね」
ネッツのほうに振り返り、にやりと微笑みかけるが、含みのある笑みに見える。
「カーンにそっくりなのに、別人?」
ネッツは呟いた。
「そのカーンって人は誰ですか?広いスナバラには僕にそっくりな人間がいるかもしれませんが、僕はカミーエ・テンヘンです」
確かにそっくりだが、イルズ・カーンのくせに、いつもみたいにパリッとしたシャツもトレードマークのチェックのベストとズボンでもない。くしゃくしゃなシャツに癖っ毛もそのまま、それに煤けた白衣に、裾も少し擦れたズボンだ。石鹸の香りがかすかにする。
果たして、他人の空似なのだろうか。混乱した頭でネッツは戸惑う中、テンヘンは話をどんどん進めるのだ。
「さーて、私の仕事部屋に案内して、早く慣れてもらわなければ!コーリエッタ君の弟分なら期待できるなぁ」
ネッツは半ばテンヘンに引きずられていく。廊下ですれ違う生徒や教師はテンヘンのことを見て驚いた顔をして道を譲り、踵を返してどこかへ消える。彼に引きずられて行く小さな赤毛の少年に、廊下にいた生徒や教師は生贄を見ているかのように哀れな視線を向けていた。
二人は隣の建物を抜け、煉瓦造りの古い建物に入った。そこに生徒はおらず、静かな建物だ。
真っ直ぐな廊下を進むと、浅葱色の古い扉が並び、扉には教師の名前のかかれた板が付けられている。どうやら、教師の仕事部屋の建物らしい。奥の部屋にたどり着いた。
「さあ、ここが私の実験室なんです」
古ぼけた、ペンキもところどころ剥がれ、立て付けの悪い扉を開ける。
何かがつっかえているのか、ぎいと音がするドアが開ききらない。壁には本棚が備え付けられ、ぎっしりと本が詰まっている。本は入りきらずに床にも積まれ、箱に入った石がところどころに混ざる。床がほぼ見えないほどに、本や箱が積み上げられていた。
部屋に招き入れられたが、ネッツがためらうほど、そして、どう足を踏み入れていいのかわからないほどの部屋だった。
「うわぁ・・・」
ネッツは思わず声を漏らした。
「ちょっと汚いのですが、本と鉱石の試料が増えてしまいましてね。その結果がこの有様です」
本に混ざる箱はどうやら、鉱石の試料が入っているらしいが、ちょっとの散らかり具合ではなかった。ちょっとした迷宮かもしれない。
「これが、ちょっと?」
よくここまで部屋に物を運び込んだという有様だ。だからと言って埃をかぶっているわけではないようだ。
「そうだ、お近づきの印に、これをあげましょう。よく買ってしまうんです」
テンヘンが物置と化した机の上の積み上げられた本の上、その真新しい紙袋に手を伸ばす。中から棒付きの飴を取り出した。琥珀色の円盤が棒に付いている。
ネッツはこの飴が大好きだ。孤児院のネッツがそうそう手に入れられる代物ではなかったが、前に食べたときは、砂糖をそのまま固めたような、香ばしくて甘いお菓子だった。
「あ、ありがとう、ございます・・・」
ネッツは飴を口に入れて驚いた。その飴は甘いながらも繊細で甘すぎない。しかし、舌で舐めるとじんわりとしみる甘さだった。さっきまで慣れない環境でじっと固まっていたネッツを溶かすかのように優しく、ほっとさせてくれる。
イルズ・カーンがくれるキャンディは不味かった。ねっとりと甘すぎて、甘いものが好きなネッツでも、途中で飽きてしまうほど。こんな美味しい飴をくれる人間がイルズ・カーンのわけがない。もしかしたら、本当に他人の空似なのかもしれない。
「僕は、琥珀を食べているみたいで好きなんだ」
「こはく?」
「木の樹脂が長い間をかけて石になったものさ。僕は石の研究をしているのですよ」
テンヘンの部屋に本だけでなく、様々な色や形の石があったのは、それが理由だった。
テンヘンはその本と鉱石の標本で出来た街を壊さないようにそっと踏み入れ、石を拾い上げた。
「これが琥珀ですよ」
ネッツの手に乗せてもらった石と、ネッツが持つ棒付きの飴の色は確かに似た色をしている。透き通った黄金色に色づいた飴と、少し焦げ目が混じったような琥珀はそっくりだ。テンヘンの瞳と同じ色でもある。
「琥珀は、スナバラでは珍しいんですよ。木がないと琥珀は出来ませんから」
ネッツが琥珀を見つめていると、それも甘いお菓子に見えてきて、甘いのではないかと舐めてみたいと思ってしまう。琥珀の方が重いから、きっと濃厚な味なのではないかとネッツが錯覚してしまうほどだ。
彼の部屋の山積みの箱の中には全て鉱物が入っているようだ。宝石や希少な鉱石もあるとしたら、この部屋は宝の山かもしれない。
ネッツが部屋の中を見渡すと、一際赤い小さな石が入れられている箱があった。ネッツの指輪よりも赤いが、砂に近い小石ばかりだ。
「それに興味を持ったのかい?」
「赤いきれいな砂?」
「ネッツ君の髪の毛みたいだね。でも、この鉱石はまだなんなのかわからないんだ」
「わからない?」
ここまでさまざまな標本があって本をたくさん読んでいる先生でも、わからないこともあるのかとネッツは不思議に思った。
「新発見かもしれない。だから調べているところさ」
テンヘンは鉱物の研究をしているらしい。石に詳しいとしたら、ネッツの指輪とコーリィのブローチが光る理由も知っているのだろうか。
「あの、俺の指輪がコーリィのブローチを近づけると光ったんだけど、それも石の何か魔法なのか?」
ネッツは右手の指輪を見せた。
テンヘンははたと表情を固めたと思うと、少し考え込んだ。
「発光現象か。この指輪はどこで?」
「じいちゃんにもらった。孤児院に行く前に一緒に暮らしていた人」
「へぇ、ネッツ君のお爺様はいい趣味をお持ちだね。別の石を近づけると光る石なんて珍しい」
「これ、なんて石かわかるのか?」
「コーリエッタ君のブローチの石が何かわからないとなんとも言えないなぁ。でもなぜ光るのか調べてみたい。そうだ、その指輪、少しの間、貸してくれないか?」
テンヘンはこの世の謎に想いを馳せる学者の顏を綻ばせる。
「これ、外れないんだ」
ネッツは右手から指輪を外そうと見せたが、関節に引っかかって抜けなかった。それを見てテンヘンは残念そうな顔をした。
「残念。外したくなったら、僕に言ってね」
いつも表情を固めたままのイルズ・カーンとは違い、彼は表情豊かだ。無邪気な笑いもあれば、不敵な笑いもする。
「テンヘン先生はコーリィをよく知っているのか?」
「もちろん。コーリエッタ君は学園にいたとき、僕と一緒に研究をしていたからね」
「コーリィはこの学園の生徒だったのか!」
この学園には女子生徒はいないとネッツは思っていた。今日一日、学園で過ごしたネッツは、少年たちしか見かけなかった。
男子生徒ばかりの学園で、コーリィがどんな学生生活を送っていたのか、ネッツには想像もつかない。
「コーリエッタ君は半年前に卒業したんだ。二人でいっぱい実験してね。失敗したこともあったし。あぁ、この傷はその時の。コーリエッタ君がささっと止血してくれたんだ」
勲章のように右手の傷痕をネッツに見せる。親指の付け根から始まった大きな傷跡は、白衣の袖をめくると、腕の方へと稲妻のように走って行く。
一年ほど前。固体から気体になった試料がその膨張で金属の二重瓶や被膜導線を破壊してしまったことで事故は起きた。テンヘンは笑いながら話す。
「コーリィって半年前に卒業したってことは、コーリィは何歳なんだ?」
「確か、十四歳ですよ」
「十四歳!」
それを聞いてネッツは驚いた。ネッツと二つしか変わらないのにも関わらず、大人が読む新聞を読み、冷静沈着、ふるまいも大人びている。
「彼女、しっかりしているでしょう?飛び級して卒業した優秀な生徒さ。高等部に進学してほしかったのに、今は仕事が忙しいみたいだね。ネッツ君が代わりに僕の実験の手伝いにきてくれると嬉しいんだけどな」
ネッツの宿敵とも言えるカーンだと思ったのに、始終笑顔のままの教師に、ネッツは調子が狂う。
「俺、コーリィの手伝いをすることにはなったけど、明日から放課後に補習もしないとならないって」
テンヘンは考え込んだ。
「それは残念です。でも勉強が追いつけば、大丈夫そうですね。ネッツ君はコーリエッタ君の有能な助手になるんですか?」
「そんな簡単じゃないけど、コーリィには助けてもらったし、何かできることをやりたいとは、思ってる」
「それは素晴らしい。ネッツ君ならきっとコーリエッタ君の助手として活躍する日がくる」
「うん。そうなるといいな」
彼はイルズ・カーンに似ていたけれど、胡散臭い笑顔も、子供嫌いという雰囲気もない。美味しいお菓子も知っていて、綺麗な石をたくさん持っている。いつか部屋の床が抜けそうなところだけが心配な先生だった。コーリィと研究をしていた先生なのもあり、ネッツにも親切にしてくれるのだろう。あの居心地の悪い教室から、救い出してくれた。部屋の惨状は少々特殊だが、教室よりは居心地がいいかもしれない。
「いつでも遊びに来てくださいね」
そう言ってテンヘンはもう一つネッツに琥珀色の飴をくれたのだった。
メイドのマァレットはメグリエ家の夕食の支度をして自身の家族の待つ家に帰るところであった。住み込みの執事ナガレは屋敷にいるが、週に何度かマァレットに来てもらうことになっている。
「ナガレさん、ネッツ坊ちゃんはあの事故に遭った子なんですよね?」
「はい。お嬢様が調べておりますが、何か事件に巻き込まれている可能性もあり、保護しています」
「まあそれは・・・」
まだ子どもであるネッツが孤児院から追い出され、頼れる人もいない。親代わりの女性も行方不明、まるではかったようにネッツ自身もマキシカ事故に巻き込まれ、死んだことにされている。ネッツの周りで起きたことには不可解なことも多く、ただの気の毒な少年ではない。それはナガレもマァレットも思うところであった。
表向きは、ナガレの遠縁の子、訳あってメグリエの屋敷で見習いをしながら、学校に通う普通の少年である。彼の生活に急激な変化があったため、あたたかく屋敷の一員として迎えることをナガレとマァレットは決めていた。
「フレイザ様が不在の中、お嬢様だけで解決できるといいのですが」
ナガレは心配していた。
「フレイザ様はいつ帰ってくるのでしょうか」
「ご健在であることはわかるのですが、今はどこにおられるのやら」
ナガレは台所の片隅に置いてある箱を見た。
「私たちができることをやるしかないですね」
マァレットは自信がないように笑った。
「ええ。マァレットの料理でネッツ坊ちゃんは元気になりました」
「元気づけられて良かったです」
「では、また明日もよろしくお願いします」
マァレットは裏口から屋敷を出て行った。仕事終わりの人が帰宅する時刻になり、裏道も賑やかだ。
下校しながら、ネッツは首を回すとポキポキとなった。それ位、学校とは骨の折れる仕事だった。
クラスメートに追いつけるように、明日からは放課後も特別授業を組まれる教師にみっちりと勉強、マナー、言葉遣いを教え込まれるのだ。
その中でも、クラスメートのショーンは、正義感のある親切で明るい生徒だ。コーリィの師であるテンヘンは他の教員や生徒たちから不自然なくらいに一目置かれている。彼らは、窮屈な学園でネッツの味方になってくれそうだった。
傾いた夕日は、白い壁の街を真っ赤に染め、都市放送の音楽が擦れて聞こえてくる。
ネッツはその曲の詩を口ずさみながら、まだ火照った都市を歩く。
輝く太陽
風とともに沈む
朝まで力を蓄えて
再び冷めた空を照らす
「ただいま、もどり、ました」
ネッツは教えられた通りの台詞を言った。帰る家が変わり、ネッツは緊張感がまだ拭えない。
ネッツは孤児院ではなく、メグリエの屋敷であり、メグリエ鉱物研究社に帰る。暴走マキシカを止める仕事をする小さな会社、らしい。
会社と言っても、お嬢様と執事の老紳士、そして週に何度かくるメイドしかいない。コーリィによると、三ヶ月前に旅に出た父親がいるらしい。母親についてはわからずだ。
「おかえりなさい、ネッツ坊ちゃん。遅かったですね」
ネッツをナガレはあたたかく迎える。
「明日から残って勉強って言われた」
ネッツは担任の教師から受け取った手紙をかばんからとり出した。ナガレはそれを受け取った。
「今は大変でしょうが、ネッツ坊ちゃんなら、すぐに追いつくことができるでしょう」
ナガレはネッツに期待をしているのだろうか。彼は笑顔で無理難題を押し付けてきているように見えるが、ネッツはやればできるとでもいいたいのだろう。それができれば苦労しないのだ。
「テンヘン先生に会った」
「カミーエ・テンヘン先生ですね。お嬢様によくしてくださいました」
「そう!コーリィが学園を卒業したって知らなかった!」
「ネッツ坊ちゃんもお嬢様の母校で学んで欲しいということでしたので」
ナガレは小さく笑った。
「それで、学校はどうでしたか?」
「窮屈!みんな大人しいし、教師の顔色ばっかり伺ってる。自分は貴族だって威張る奴もいるし」
孤児院では、誰もが通える町外れの学校にネッツも通っていた。それに加え、孤児院の年長の子から勉強を教えてもらってはいたが、畑の世話や水汲みなどの仕事もあって、一日中勉強していたことなんてなかった。
「昔はフュールイ学園は名家の男子しか通えませんでしたが、今はそうではありません。いろいろな家の子がいます。堂々とネッツ坊ちゃんも学んでいいんですよ」
ナガレはネッツがフュールイ学園で学び、立派な紳士になる日を待ち望んでいるようだ。
「わかった・・・やれるだけやって・・・」
ネッツの言葉を遮ってけたたましく電話のベルがなった。店先の黒電話だ。