第6章 助手見習いの少年
翌朝、ナガレがネッツの部屋に吹き込むヒャリツの風を少し弱めたと言ったが、やはり少し寒い。
「おはようございます。ネッツ坊ちゃん、起きていますか?」
「うん!今起きる」
ネッツは部屋の外に出た。すでに朝食のいい匂いが廊下を漂う。
「顔を洗ってきてください」
「わかった」
ネッツが顔を洗ってダイニングに向かうと、コーリィがすでに支度をして座っていた。
「お、おはよう、コーリィ」
「おはよう、ネッツ」
コーリィは相変わらず少し不機嫌そうな顔であるが、細い金の糸のような髪と朝露のような瞳は宝石のようだとネッツは思う。
彼女は胸に淡い青色の石のついたブローチをつけている。コーリィはいつもこのブローチをしているようだが、ネッツの指輪に触れると光り輝く魔法の品でもある。魔法の原理も種もネッツには分からなかったが、尋ねてもネッツが理解できるような簡単な話ではなさそうだ。
朝食を食べ始めたとき、コーリィは口を開いた。
「ネッツ、しばらくここで私のお手伝いをしない?」
彼女から発せられた言葉は意外なものだった。
「よろしいのですね?お嬢様」
執事は確認するように言ったが、権限を持つ少女は頷く。
ネッツには行くところも頼る人もいないし、しばらく世話になるのなら仕事を与えられたほうが良い。子どものネッツにできることはあまりないかもしれないが、沙漠に放り出されないよう、仕事だってできなくてはならないのだ。
「お願いします!」
ネッツに選択肢はない。彼女にすがるしかない。部屋も用意してくれ、何不自由なく過ごさせてもらっている。
「ミセス・トッドマリーが見つかれば孤児院に戻ることもできるけれど、今は見習いとしてメグリエ鉱物研究社で働くというので、どうかしら」
ネッツは何度も頷く。
「メグリエ鉱物研究社は、お嬢様の曽祖父の代から続く企業です」
ナガレの話からすると、この屋敷に店先があるのは、ここが何かしら商売をしているからだ。
「俺は何をしたらいいんだ?」
少しだけ彼女は眉を動かした。
「今は、暴走したマキシカの停止と復旧が主な仕事。でもまだ見習いだから、ネッツにはここで私やナガレの手伝いをしてもらう。できることからでいいわ」
ネッツは頷いた。断ったら灼熱の石畳に放り出されるだけだ。
「できること・・・」
掃除はやっていたが、コーリィの仕事の手伝いとなると正直、ネッツ自身、何ができるかわからない。役立たずなら、すぐに沙漠に放り出されてしまう。
「そうですね、まずはネッツ坊ちゃんの能力を知りたいので、簡単な試験をしましょうか。今日から使用人になるので、ここでの生活のお約束も守っていただかないとなりませんね」
「ナガレ、お願いするわ」
「はい。お任せください」
食後、ナガレはネッツを台所に呼び出した。この屋敷の使用人が最も出入りする場所が台所となるらしい。銅色の磨かれた鍋、食器棚には白い皿が並べられており、籠や箱には食材が入って並べられている。火を起こすオーブンやコンロがあるからか、他の部屋よりも温度が高く感じられる。
「ここでの生活のお約束を守ってくださいね」
ネッツは頷いた。
「私たちは、このお屋敷の使用人ということになります。ネッツ坊ちゃんはまだここに来たばかりでわからないこともあると思うので、わからないことは必ず私に聞いてください」
「はい」
「お嬢様のお部屋、旦那様のお部屋、奥様のお部屋には、私やお嬢様の許可なしには入ってはなりません」
「わかった」
ネッツは頷いた。ナガレの言う旦那様と奥様は屋敷にいないようだが、部屋はあるようだ。屋敷は平家建てで孤児院の数倍はあるように見えたが、屋敷に滞在して数日、間取りがわかってきたネッツは思ったほど広くないことに気がついた。それは都合がいい。掃除の範囲が広すぎては大変だ。
「メグリエ鉱物研究社のお客様が来ることもあります。粗相のないように。礼儀作法は厳しくお教えしますので、そのつもりで」
「わ、わかった」
「お嬢様のお仕事の邪魔をしないこと。お嬢様は、時々部屋にこもられることもあります。絶対に邪魔をしてはなりません」
穏やかで紳士的な執事だと思っていたナガレが一瞬見せた、鋭いナイフのような気迫にネッツは有無を言わさず従わざるを得なかった。
ナガレの言うこの屋敷で暮らすための約束事はそれだけに留まらなかった。早寝早起き、洗濯物のルール、食事の時間、入浴の時間、使ってよい水の量、掃除のやり方――
そして、ナガレは最後に言った。
「ネッツ坊ちゃんのことは、一人の紳士として扱います。相応の振る舞いを心がけてください。自身の行動に責任を持つこと。そして、行動の結果、何が起こるのか考えてから行動すること。いいですね?」
「は、はい」
「では、次に参りましょう」
この時からネッツは客人ではなく使用人見習いとなった。
「次?」
ナガレはネッツの部屋にある机の前に赤毛の小さな使用人を座らせた。ネッツの部屋に据え付けられた机ではあったが、机に向かって座ったことはなかった。
体を動かす方が得意なネッツに、何をやらせるのかと思えば、ちょっとした試験だった。
ナガレは、ネッツの部屋に紙とペン、本を持ってきた。
子ども向けの本に書かれた簡単な文章を読み上げること、ナガレが読み上げた言葉や文章をネッツが書き留めること、そして、言葉遣いを直されることから始まった。
「勉強するのか・・・」
ネッツには予想外だった。あまり勉強は得意ではなかったから、先行きが不安になってきた。
「メグリエ鉱物研究社で働くことになるのですから、お勉強も必要です」
「そ、そうだな」
貴族であるならば、貴族らしく振舞わらなくてはならないし、使用人見習いとなったネッツにもそれを課すのはわかる。しかし、マキシカを止めるための勉強や訓練をやるのかと思っていたネッツには、出鼻をくじかれた思いだ。
「いつマキシカが暴走するのかわかりませんから、まずはネッツ坊ちゃんの能力を知らなくてはなりません」
ナガレはにこやかに、そして厳しく言った。
「脚は早いかな」
「それもまたどこかで役立つでしょう。まずは、ネッツ坊ちゃんの能力を知り、それに合わせてお勉強をしていただき、メグリエ鉱物研究社の一員になっていただきます」
そうは言っても、ペンをこんなに握って座っていたことのないネッツには、退屈な作業だ。
ネッツは学校に行ったこともあるが、勉強はつまらないものだった。孤児院の年上の子どもから勉強を習うこともあったが、じっとしていられないし、何より習ったことが役に立ったことがないと思っていた。
「お勉強はつまらないですか?」
ナガレはネッツの様子から、勉強は好きではないことを見抜いていた。
「う、うん」
「お勉強の面白さがわかるようになるといいですね」
ネッツには、些か信じられない話だ。勉強が面白いと思う人間がいるのか。
様子を見にやってきたコーリィは、ネッツの書いた踊り狂うような文字を見つめて、真一文字に結んだ不機嫌そうな顔をさらに強張らせた。
それから数日間、ネッツはマナーと世界のルールをも学ぶことになった。
マキシカが暴走すれば、すぐに飛んでいくはずだが、マキシカは暴走の知らせはやってこない。 それまではネッツは勉強ばかりだった。
ネッツの能力を見極めるために、さまざまな知識や能力を試されているという方が近いかもしれない。読み書きや計算など、簡単なものから始め、少しずつ難しくなってくる。ナガレがいない間に、計算問題を解かなくてはならない時もあった。
日々、ネッツはナガレと勉強したり、ナガレやマァレットの手伝いで掃除や料理の下ごしらえを手伝ったり、コーリィから簡単な仕事を頼まれたりした。
ネッツの足の傷も瘡蓋となり、痛みはなくなった。
そんな日が一週間ほど続いた後に、コーリィは言った。
「ネッツ、明日から学校よ」
みすぼらしいネッツを拾い、住み込みの仕事を与えた気まぐれなお嬢様は、ネッツに学校にまで通わせたのである。
ほんの一週間ほどの勉強期間は、学校に入るための準備期間だったのだ。
半袖の水色のシャツにインディゴに染められた膝丈のズボンが制服だという。赤いバンダナを首に結んでいるのは、これからネッツが通う学園のクラスを示しているらしい。ナガレに連れられ、ネッツは貴族の子息が通うという学園に入学することとなった。
フュールイ学園。かつては名門の家の子息しか入学を許されなかった学校である。現在は入学試験を課し、庶民の子でも入学が可能である。
急な転入となり、学園側も慌ただしかった。ナガレに連れていかれてネッツが学園に行くと、ネッツだけ別の部屋に連れていかれた。優しそうな女性の教員が見守る中、テストが行われた。
読み書き、計算、関係する図と図を線でつないだり、物語を読んで問いに答えるなど、ネッツにとって簡単な問題もあれば、頭を悩ませる問題もあった。ナガレがこの一週間で教えてくれた勉強のおかげで、全く歯が立たなかったわけではなかったのが救いだ。
学園に通うことになったネッツは、コーリィとひとつだけ約束をすることになった。
それは、学園では、ネッツが「ネッツ・ワマール」と名乗り、執事ナガレ・ワマールの親戚の子として振舞うことだった。
なぜそんな必要があるのか、ネッツには疑問だった。
ネッツはネッツであり、そこに苗字はない。孤児院の子どもには苗字がない子も珍しくなく、名前だけでも困ったことはなかった。迎えられる家族があれば、その名をもらう。便宜上、ミセス・トッドマリーの姓を名乗ることもあった。今までにネッツは苗字を名乗る必要がなかったこともあり、名前がネッツだけではないことが新鮮にも感じられる。
コーリィがネッツにワマール姓を名乗らせることに決めたのは、メグリエの家から通うネッツが執事の親戚の子として暮らしているのが自然だとしたからだった。
後日、またネッツとナガレが学園に行くと、ネッツの編入するクラスが決まったらしい。
学園長の部屋に通されたネッツとナガレは、朗らかな学園長と面会することになった。
学園長はにこにこと笑った顔で、ネッツを歓迎しているようだった。
「ネッツ・ワマールくんだね。ようこそ、フュールイ学園へ。私は学園長のメィニールだ。一緒懸命勉強して、ぜひ、立派な紳士になってくれ」
子どもに優しい教育者なのだろう。少し襟が窮屈そうなシャツを着た気のいい老紳士だ。学園の生徒は卒業後、学園長のような人間になることを望んでおり、自身が見本なのだろう。
そのあと部屋にやってきたのが、ネッツの担任の教師だった。神経質そうな隙のない顔にカクカクとした動き。外を駆け回るほうが好きで、机に座っていられなさそうなネッツを引き受けることに彼は難色を示したが、学園長に押されて渋々のようだった。
「君がネッツ・ワマールくんかね?」
少し慣れない名前に、ネッツは返事をしないとならない。
「はい」
「私はヒルキー・エコ。君の担任だ」
整えた口髭に分け目をはっきりさせて撫でつけた髪。きっちりとした印象のある先生である。ネッツの適当さや無鉄砲な行動を受け入れられない先生であろう。
「エコ先生、よろしく、お願い、します」
そして、ネッツが転入したその日。
転入生のネッツに興味を示すものはおらず、うわべだけの歓迎の言葉をクラス代表だと言う体の大きな少年に言われただけだった。
やはり、ネッツはほとんど授業中についていけず、日に焼けて小柄なネッツに構うような、貴族の子息はいなかった。皆、真面目で物静かで上品な少年たちだ。ネッツの初登校日は、窓の外を眺めるだけですぎた退屈な一日だった。
その日の最後の授業では、少し前に新聞に掲載された、死者一人を出した痛ましいマキシカ事故の記事が討論のテーマとして取り上げられた。貴族たるもの最新のニュースを知り、それについて意見できなければならないらしい。
『マキシカ暴走事故 安全性に疑問』
四番通り西十四番地にてテイラーマキシカが暴走し、巻き込まれた少年一人が死亡、多数のけが人が出た。近隣の建物への被害も報告されている。マキシカの老朽化が見られる中、低い点検頻度に疑問の声が上がっている。
「この新聞記事はマキシカの安全性について書いているが、それについて皆さんはどう考えますか?」
教師の目線に射抜かれた黒髪の生徒がはきはきと答える。
「マキシカの点検を定期的にするべきだと思います」
当たり障りのない答えだが、机を並べる生徒のほとんどがこの答えを持っていた。マキシカも一つの機械ならば点検や修理がたびたび必要であり、点検から暴走しそうなマキシカは修理されただろうし、修理できなければ破棄されただろう。そうすれば事故が防げた可能性がある。
「確かに、暴走したテイラーマキシカは最後に点検を行ってから五年が経っていたとの話だ。しかし、違法ではない。君はどう思うかね?」
先ほど答えた生徒の一つ席の後ろの茶髪の生徒が答える。覇気のない声で抑揚をつけずに、ただ淡々と。
「マキシカの使用基準を見直すことが必要だと思います。三年ごとに必ず点検をしなければならない法律を作るべきです」
教師は無表情のままゆっくり頷いた。
「そうだね。マキシカがいかに永久に動き続ける頑丈な機械だと言っても、過稼働は暴走の原因や劣化につながるだろう。ほかに意見は?」
クラスの優等生が手を上げた。他の生徒よりも体が大きく、特徴的な巻き毛に、弾力のありそうな頬を持つ少年だ。教師は彼が手を挙げるのを待っていたようだった。
「温暖化による気温の上昇もマキシカの暴走に繋がると言われています。温暖化を止めなくては根本的な解決になりません、先生」
この生徒がニヤついていたのは、自分の答えに自信があるだけではないことをわかっているようだった。
「熱が動力源のマキシカには太陽熱も必要だ。近年は気温も高く、太陽熱が過多であると言われている。温暖化の解決はとても難しい課題だが、取り組まなくてはならないね」
教師は贔屓の生徒の答えに満足げに頷いた。教師は理想主義的なところもあり、漠然としていても、大きな問題を解決するという姿勢の生徒を可愛がっているようだった。ほかの生徒もそれを知っていて、いつも同じ贔屓の生徒だけが解答に満点をもらうようだ。
「このマキシカの事故では君達と同じくらいの年齢の少年が亡くなった。彼は孤児だったそうだ。可哀想な彼のために祈りましょう」
教師に従い、少年たちは目を閉じ、形式だけの祈りを捧げた
クラスメートに、目の前で祈りを捧げられるとは、ネッツも思いもよらなかった。
暴走マキシカによる少年の死亡事故を伝える新聞記事を取り上げたのは、それだけ話題になったニュースであったからだろう。
なぜ、ネッツがマキシカ事故に巻き込まれて死んだことにされたのだろうか。何かの間違いではないか。
自分は生きている、そう言いたかったが、ただでさえ目立つ転校生のネッツに生徒たちは好奇な目を向けるだけだろう。
かくして、これが少年ネッツの見た暴走マキシカ事故の真相であった。