第58章 沙漠飴の逸話
地下水に浮かぶ小さな舟。ヒャリツの中は真っ暗ではないがぼんやりと水面が見えるほどで、その地下水が小さな池なのか広大な地底湖なのかもわからない。ネッツの目の前にはコーリィがいることはその影の形でわかるが、彼女はあまり動かず、黙ったままだ。
ネッツとコーリィは、ヒャリツのマキシカであったかつて人の手が加えられたヒャリツの空間の一つで脱出用と思われる古い舟を見つけた。それに乗り、水上に出て来たものの、進むべき場所もわからない。舟の漕ぎ方も知らずに、フレイザたちを探しに来たのは、無謀だったかもしれない。コーリィは落胆し、全ての希望を失って、黙っているのだろうか。それとも、一縷の望みに賭け、その時をただ待っているのだろうか。
「お腹すいた・・・」
ネッツは思わず呟いた。
孤児院にいた時はよくお腹を空かせていたから、ネッツは我慢できないわけではない。しかし、永遠に近いような暗闇の中で、自分の感覚がわからなくなり、思わず声に出した。舟に乗ってから経過したのは数分なのか、数時間なのか、地下では時間の感覚がなくなってしまったのだ。
コーリィは何も言わなかった。コーリィは船頭の方を見たまま動かない。薄暗い中で彼女がそこにいることだけはわかる。
「コーリィ?」
ネッツは急に心細くなり、彼女の名前を呼んだ。コーリィはこちらを向いた。
動くと舟が揺れる。だから彼女はあまり動かないようにしているのだろう。ネッツが船酔いをしていたから、彼女なりに気遣っていたのかもしれない。
「はい」
ネッツに向かってコーリィは自身の肩越しに何かを差し出した。コーリィは何か持っている。薄暗くてそれが何かわからなかった。ネッツは手袋を外し、そっと手を伸ばすと、それに触れた。ネッツが手にしたのは、棒のついた飴だった。
「これ!」
ネッツは自分でも恥ずかしいくらい、嬉しさ溢れる声を出していた。小舟が少し揺れる。
「ナガレが私のコートのポケットに入れておいてくれたみたい。こういうことがあったときのためにかしら」
「でも」
「私の分もあるわ。食べましょ」
コーリィが飴の包み紙を外し、飴を頬張ったようだ。
ネッツも渡された包み紙をいそいそと外して飴を頬張る。四角くてネッツの口には大きめな飴だ。甘さがじんわりと冷えた体に染み込む。濃厚なケルケルの乳から作ったバターミルクの味だ。
ネッツは,意外にもこの飴の味を知っていた。
イルズ・カーンが孤児院に訪問するたびに、子どもたちに配っていた飴ではないか。
ネッツは甘ったるくて、ネッツの口には大きすぎるこの飴が苦手だった。その印象も相舞って、孤児を連れ去ってしまうあの男を敵視していた。結果としてネッツの直感は間違ってはいなかった。
「この飴、あいつが孤児院に来た時にくれたやつ」
コーリィは少し考えている様子だった。
「職人手作りの飴だから、かしら」
少し呆れたような口調でコーリィは呟く。
イルズ・カーンは、メグリエ機関とマキシカを憎んでいたからこそ、マキシカが作る飴菓子ではなく、昔ながらの手作業で作られた少々不揃いな飴を買って土産にしたのではないだろうか、というのがコーリィの予想だ。
彼はマキシカによって縫製された服を避け、職人の手で仕立てられた服を好んでいたほどだ。彼の信念は、マキシカによって作られたものは自身の生活からできるだけ排除することだろう。皮肉にもマキシカの恩恵を受けずに今のスナバラでは暮らせない。ヒャリツに蓄えられた地下水を汲み出すポンプマキシカによってスナバラ市民は水を得ているからだ。
「コーリィは、この飴が好きなのか?」
なぜ、これをナガレがコーリィに持たせたのか、ネッツは不思議に思った。コーリィやナガレはラゥル・コソックのようにマキシカを毛嫌いしているわけでもない。
「まぁまぁ好きよ。私のお爺様はとても好きだったみたい」
コーリィの祖父レイト・メグリエは、メグリエ機関を作ったタートス・メグリエの息子である。メグリエの人間なら、マキシカによって生産されたものを好みそうでもある。ネッツは合点がいかない。
「曽祖父様がお祖父様に美味しい物をたくさん食べさせたいと思ったから、メグリエ機関の発明に繋がった。たくさん物を作れば多くの人が買えるし、メグリエ機関が売れれば欲しいものを買うことができるから」
コーリィの話に、急に納得したネッツは頷く。メグリエ機関が発明され、マキシカは都市を豊かにしたことは皆が知っている事実だ。メグリエ機関の誕生のきっかけは、姉のオリーナル・メグリエの紅夜石と蒼明石の熱量凝縮反応の発見であったが、それを製品にして売ることで弟タートスは息子達に美味しいものをたくさん食べさせたかった、不自由のない生活をして欲しかったという彼の願いも含まれている。人の手で作るのには限界があることも、マキシカという機械とそれを動かすメグリエ機関が担ったら、大量生産も可能になる。
残念ながら、この飴の生産者は今でもマキシカに頼らずに飴を職人の手で作り続けている。タートスとレイトの父子はメグリエ機関の開発のおかげで、飴を不自由なく買えるようにはなったが、その飴菓子屋はマキシカの導入を検討することもなく、職人に製法が引き継がれていた。
「そんなに昔からあるんだ。この飴、甘すぎて苦手だったけど、今は不思議なくらいうまい!」
孤児院でイルズ・カーンからもらった飴は、喉が乾くし、頭が痛くなるほどの甘ったるさで、大きすぎて舐めているうちに飽きてしまうようなものだった。彼は甘いものが苦手であったこともあり、本当に美味しい飴を知らないから、この飴を買ってきているのだとネッツは思っていた。
今のネッツには、この飴が美味しいと感じられるのは、疲労と空腹、そしてヒャリツの寒さも効いている。本来のこの飴の美味しさを初めて知ることができたかもしれない。
マキシカによる大量生産よりも、手作りや職人の技を評価し、手間をかけるほど高級と考えるならば、ラゥル・コソックは孤児たちに高級品を買ってきていたということだ。それは、彼がマキシカ嫌いで、マキシカがいかに人の手間を省き、手抜きであるかを暗示したかったのか、マキシカの信用を失墜させる一連の計画に巻き込むことになる子供たちへの謝罪の意味だったのか。それは彼に聞いてみなければわからない。
マキシカにより大量生産が可能になった物もあれば、手作りを大切にする人間もいるし、どちらも選んで買う人間もいる。マキシカでなんでも作れるようになっても、やはり人間がやらねばならない作業もある。テイラーマキシカの持ち主エヌール一家は、服の仕立てはマキシカに任せつつも、手縫いも続けていた。一方でラゥル・コソックが服を仕立ててもらっていたキオラ・テイラーは職人による昔ながらの手作りの店である。そこではミシンも使っているが、そのミシンを動かす熱量は発電マキシカによって作られたものだ。
マキシカが物を生産するようになったから、人の手で作られたものとマキシカが作ったものを選べるようになったとも言える。人の手間をかける手作りの物が重宝されたり、マキシカによって大量生産されて多くの人が手に入れられるようになった。どちらがよいかは人それぞれであり、どちらが悪いわけでもどちらが優れているわけでもない。
「この飴は寒いところで食べた方が美味しいのよ」
コーリィは呟くように言った。コーリィは舟の上で微動だもせず、飴を舐めていた。
「そんな気がするけど、なんでだ?」
コーリィの言う通りだ。ヒャリツの中で空腹の今、ネッツにはこの飴が美味しいと感じられた。満腹にはならないが、飴のおかげで明らかに疲れも退屈さも絶望も薄まっている。
「このデザートキャンディは、沙漠調査に持っていく飴よ。首長竜の調査にも持っていったかもしれないわ」
「そうなのか!」
ネッツは飴の色がどこかの場所にある砂の色をしているから沙漠飴というのだと思っていた。しかし、スナバラを囲む沙漠の砂は灰色であり、飴の色は淡いキャラメル色だ。飴の名の理由は、沙漠調査のお供として、甘い甘い飴で疲れを癒すわけだ。
急に甘い飴が体に入ったものだから、体がびっくりしたかのように頭がクラクラする。舟が少し揺れているからかもしれない。
舟という不思議な動きをする乗り物に、ネッツは慣れない。乗ってきた船は、気分が悪くなったほど。不安定な感覚にも今は少し慣れた。
ふわりと浮かび上がる感覚。そして、急に落ちる感覚。それを繰り返す舟という乗り物は、ひどく不快な乗り物だとネッツは知った。
水は引かない。沙漠を越える道ではなく、ヒャリツ内に残されていた小舟での帰還はできるのだろうか。
ゆらり、ゆらり。舟は地下水に浮いたままだ。
飴を舐めている時間はとても長く感じられたし、短くも感じられる。一体、ここから出られるのはいつだろうか。
フレイザ達はどこか水が来ていないところにいるだろうか。
薄暗いヒャリツの空間に浮かべられた小さな古いボートで、コーリィとたった二人しかいないような錯覚に陥る。
心細いけれど、手を伸ばせばそこにコーリィがいる距離。
ヒャリツの中は風が吹いてヒャリツの狭い穴を管楽器のように鳴らし、不思議な音が聞こえていた。まるでヒャリツが呼吸しているかのようだった。
ミセス・トッドマリーが心配しているだろうか。エレックやシャルテだって、ネッツがまさかヒャリツの中に閉じ込められているなんて思いもよらないだろう。
飴を舐め終わって、ネッツはもう甘くない棒をくわえていた。




