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第57章 アマミヤの血管

 その日、雨季は激しさを増し、沙漠の中のオアシス都市でも、年に一度あるかないかの大粒の雨が降っていた。大雨季の最後を飾る雨の神アマミヤの恵みと言われる豪雨だ。

 大粒の雨は、スナバラに降っては弾け、都市全体が煙るような、スナバラでは珍しい情景を作り出す。

 カミーエ・テンヘンがまだ幼かった頃、沙漠の中にあるスナバラとは思えないこんな雨が降ったことがあった。その日は煙る雨の中、スナウミ鉄道に乗り、スナバラを旅立った日でもあった。十年に一度あるかどうかの異常な大雨は、彼の記憶にしっかりと残っている。

 テンヘンはそのあと、ウミナトで過ごした。再び生徒としてフュールイ学園に入学するために、数年でスナバラに戻ってきた。

 彼はそれからずっと学園にいる。フュールイ学園の教員の部屋が並ぶ建物の最も奥の部屋を与えられたのは、テンヘンが当時最年少の教員になった十数年前のことだ。

 それから、鉱物標本や書物を集めだし、実験器具を揃えていたら、居場所がないほどの部屋になってしまった。

 実験器具もある。鉱物を観察するための顕微鏡や、加工や計測をするための器具。水よりも低温で気体となり水よりも高温で液体に戻る、温度差発電の要となる膨張石を用いた体積変化実験に使った実験器具もある。

 積み上がった書物と標本の入った箱の塔が立ち並ぶ中、一つの塔のてっぺんに置いたままの論文。それは、スンシー・ミズモーというスナバラとその周辺の沙漠地帯を専門とした水文学の研究者が、降雨量とヒャリツの地下水の水深の数値から、貯水量を割り出す公式を報告した100年ほど前の論文だ。

 テンヘンはその論文の複写を弟子に渡した。

 その論文には、ヒャリツに貯まる地下水の量を推測するには必要な公式が書かれており、今でもその公式を元に地下の貯水量の管理が行われている。コーリィは、いつヒャリツの地下水が最高水位になるのかを知りたかったようだ。

 弟子に渡したのは、原文とは少し違う、カミーエ自身が公式に手を加えたものである。少しだけ最高水位に達する日が後ろにずれる結果となるように、公式の中の定数を僅かに変えている。

 今頃、可愛い弟子はどうしているだろう。寒い寒いヒャリツの中で、無事であろうか。

 この雨ではヒャリツに流れ込む雨水が増え、地下水の水位が上昇しているはずだ。ヒャリツの中で足止めされているならいいが、万が一、彼女に何かあったらと思うと、心配になるほどの予想外の雨量だ。



 地上の沙漠の気温が上がる前に、コーリィとネッツの二人は辺りを捜索した。太陽はまだ低い。大小の黒い柱が、白い砂と黒い石の海に氷柱のように刺さっている。まだ白い空は、無彩色の世界を作り出し、まるで着色されているのはコーリィとネッツだけのようだった。

 不思議なのは礫砂漠に転がる大部分の石は黒いのに、その周りにある砕けた砂は白いことだ。細かくなればなるほど、白くなる不思議な鉱物だ。石の直径が一チカになると砂となり白く見える。

 ヒャリツのマキシカの集熱版になっている黒い大小の柱は、この礫砂漠の黒い石とは異なっていた。それは他のマキシカの集熱板と同様、玄糖石(ショコライト)でできており、簡単には砕けないものだ。玄糖石の柱がなぜここにこんなにあるのか、コーリィは不思議に思った。スナバラから運んだより、ここにすでにあったというべきだ。ここで玄糖石ができたか、他の誰かがここに置いたのか、沙漠の中では特殊な場所だ。

 二人が出てきた空気をヒャリツに取り込む穴の他に、フレイザとミッゲルが地上に出てくるための穴があるはずであるとコーリィは予想していた。

 白い砂と黒い石が混ざった沙漠の地面を見ていると、目がちりちりする。目を細めながら、その奇妙な柱の立つ周辺を探索すると、少し南側に、ぽっかりと大きな穴が口を開けていた。穴の中は砂と石が溜まっているが、緩やかな下り坂が見える。大人の男性でも通れるほどの大きさの穴であるし、屈みながら坂を降るとヒャリツの中に入ることができそうだ。ここからフレイザとミッゲルは地上に出て、ナガレが運搬屋に運ばせた箱に入った支援物資を受け取っていたのだろう。

「ここから、お父様たちは地上に出ていたのかしら。別の穴だから、ヒャリツのどこに出るかはわからないけれど、お父様たちがいる空間に出られる可能性があるわ」

 沙漠で体を温めたコーリィとネッツは、マキシカの出入り口を塞いだ氷がフレイザたちの力で取り除かれていることを期待していた。

 コーリィとネッツは、鳥籠の間の退路を塞がれてから、半日以上経っている。フレイザたちもコーリィとネッツを心配しているだろう。

 二人は沙漠の中にあるヒャリツに続く大きな穴から下に降りてみることにした。この穴がフレイザたちのいる下のヒャリツの空間につながっているはずだとコーリィは考えていた。

 砂と共に滑り落ちながら、二人はヒャリツの中に戻った。

 ひんやりとした空気がネッツの鼻をくすぐり、ネッツのくしゃみがヒャリツに響いた。

 緩やかな坂道、時たま階段のような構造になっている。ヒャリツのマキシカ設置時に、人が通るためにヒャリツの穴を削り、整えた痕跡かもしれない。

 コーリィはランタンに灯りを灯して、二人はヒャリツの地下へ地下へと降りていく。

 穴はやがて緩やかな坂道となり、二人は降りていく。

 先を歩くコーリィが立ち止まった。行く先に光が見えたからだ。

 コーリィはその光がランタンの光を跳ね返す水面であることに気がついた。

 二人が辿り着いたのは地底湖のような静かな水面のほとりだった。それ以上は水があり進めなかった。

 そこはドーム状の空間で、いくつか、見上げると大きな横穴もある。二人はその横穴の一つからこの空間にたどり着いた。

 地底湖の水は透き通っており、どこまでも深そうで、ただ穴が開いているように見えた。水中にも沈んだ横穴があるらしく、暗い穴のようなものが水の中で揺らめいて見える。水位が上がれば、船でもっと上の横穴にも行けるだろう。水位が下がれば、今沈んでいる横穴に行くこともできそうだ。水位によって行ける場所が変わる、水に全てを任せる昇降機のような不思議な空間だった。

 水位からコーリィたちは下に降りすぎたと考えてよさそうだ。

 フレイザたちはこの空間よりも上におり、水没したこの空間とは繋がらない。

「コーリィ、どうするんだ?」

「ここからじゃお父様たちのいる空間につながっていないわ。来た道を戻って、小さい方の穴から降りてみましょう。鳥籠の間に戻れば、お父様たちが氷を溶かしてくれているかもしれない」

 コーリィは空になった小さな水筒に地底湖の水を汲んだ。

 ネッツは手袋を外し、地底湖の水を手ですくって飲む。水に手をつけただけで心臓が縮むくらい冷たい。

「ネッツ、冷たい水をたくさん飲むとお腹が痛くなるわ」

「美味しいぞ」

 コーリィも少しだけ水を手に取って口にする。

「美味しいだろ?」

「ええ」

 コーリィもネッツもの地底湖の透き通った水が美味しく感じられた。

「水じゃない味が少しする」

 それが濾過されていない地下水だからか、冷たい水だからか、それとも、ヒャリツの探検にきたからか、ネッツはいつもの水と違うと感じた。

「もしかして、鉱泉水になるのかしら。鉱物由来のものが含まれている水よ」

「飲んで大丈夫なのか?」

 ネッツは急に怖くなったようだ。

「たぶん。スナバラで飲んでいる水の源流はここだから、きれいな水のはずよ」

 ヒャリツの地下水は、地上に降る雨や遠くの山脈に降る雨が地下に落ちていく合間に磨かれるようにろ過される。

 スナバラではポンプマキシカで地下水を汲み上げ、さらに濾過している。人里離れたヒャリツの中の地下水を汚すものはない。沙漠では貴重な水がコーリィたちの目の前にある。

 二人は地底湖を後にした。

 再び地上に戻ってきた頃には、沙漠は急に様変わりをしていた。

「暑い!」

 沙漠は短時間でここまで気温が上がることにネッツは驚いていた。ヒャリツに合わせた格好の二人には、暑すぎる。しかし太陽は翳ってきていた。

 ぽたん、ぽたんと、大粒の雨が砂漠に降ってきた。それはほとんど雨の降らない沙漠では珍しい現象で、落ちた雨は我先にと地面の礫と砂の隙間に吸い込まれていく。

「雨だ」

 ネッツは驚いたように雨に気を取られていた。濡れてしまっては、ヒャリツの中で冷えてしまう。

「早くヒャリツに戻るわよ」

 二人は小さな穴に入り込む。今度はヒャリツに空気を取り入れるための小さい方の穴だ。コーリィたちが最初に沙漠に出てきた穴である。

 穴の中に入っても、しばらくは沙漠の熱が感じられるほどだった。

 ヒャリツのマキシカのメグリエ機関のあった部屋を抜け、人が作った階段を二人は降りた。昼間ではあるが、ヒャリツ内にも少し光が乱反射して真っ暗ではない。

 ヒャリツのマキシカは沈黙したのだろう、こちらの穴の中は静かになっていた。鳥籠の間は風の音がして、互いの声も聞き取りにくかったはずだが、今は遠くで風がヒャリツの中を駆け巡っている音が少しするだけだ。

 集熱フィラメントが成す鳥籠があったその場所はあまり光が届かず、コーリィはランタンを点す。残りの油が少なくなっているが、フレイザたちと合流すれば、油を足すこともできる。コーリィたちが乗ってきた船にもランタン用の油を積んできたはずだ。

 マキシカへの入り口を塞いだ氷は、コーリィの背丈を倍にしたよりも高く突き刺さる、水晶の柱のようであった。

 コーリィは、氷の柱の高さが手を伸ばせばその柱上に手が届くところまで低くなっていることに気がついた。昨日はもっと氷柱は高く、コーリィの背丈の二倍はあったはずだ。さらに穴に刺さっていた見えないところを見ると、氷柱は4〜5クルカの長さがあっただろう。

 床に散らばったマキシカの回転羽根の破片も、少し溶けた氷の破片と溶け合って結合し、丸みのある氷の群体なって、煌めいている。

「氷が溶けたんだ!」

 ネッツははしゃぐ。フレイザたちは氷を溶かすために下で火を焚いたのかもしれない。まだ氷の柱はそこにあるが、少し状況が変化している。

 氷の柱に触れたコーリィははっとした。巨大な氷ながら、コーリィの片手で簡単に動いたのだ。

 穴を塞いだ氷柱が一回りも小さくなり、動いたわけではなかった。

 コーリィがランタンで照らして氷の柱の根元をよく見ると、氷柱が濡れていた。氷は穴にはまって動けなくなったあと、フレイザたちにより溶かされていたわけではなかったことにコーリィは気がついた。

 巨大な氷の柱は水に浮いていた。氷の柱は液体の水に浮かんでいるため、水中で溶けた分と、水中にある浮力を得ている分の長さだけ短くなっていた。

「――水位が上がっている」

 コーリィはまさかと、絶望的な顔をした。

「どうしたんだ?」

 ネッツが溶けた氷を見ただけで悟ったコーリィを見つめる。ヒャリツ内の水位が上昇し、今ではコーリィたちのいる鳥籠の間の床と同じ高さまで水位が上がっている。

「水がここまできているの。スナバラまでの水路が完全に水に沈んでいるわ」

 フレイザたちが小屋を設置した場所は、ここよりも地下深い場所であるから、水位が上がった今は、そこも水の中の可能性が高い。一晩でヒャリツの水位が5クルカは上昇したということになる。それは、ヒャリツの中の水位が最大になっているのに近い状態ではないだろうか。今日は、雨季の終わりに訪れる、ヒャリツの貯水量が最も多い日に近い。

「水に沈んだ?どうやってスナバラに帰るんだ?」

 ネッツの疑問は最もだ。都市に戻るための船など役に立たないだろう。都市までの道を水に閉ざされていると考えられる状況だった。

 コーリィとネッツがフレイザたちと離れて、ほんの半日程度の間に、急激な水位の上昇が起こったらしい。水量として何万イルもの水がヒャリツに流れ込んだことになる。珍しい沙漠の雨だけではなく、西側のトード山脈から地下水が急に流れ込んできたからか。いや、さっき地上では雨が降っていた。すぐに止むような雨かと思ってはいたが、水位を上昇させるのに貢献している。トード山脈の向こう側からの雨雲もやってきたのではないだろうか。ヒャリツの西の先で大雨が降っていたら、ヒャリツの中の地下水は上昇していくのだ。

「お父様たちは・・・?こんなに早く、水深が最大になるなんて。雨が降ったの?地下水が急に増えたの?」

 コーリィはカミーエ・テンヘンに複写をもらったミズモーの論文を思い返した。

「私の計算が間違っていたから、こんなに早くヒャリツの水位が上昇したの?」

 自責の念に駆られるコーリィにネッツは明るく振る舞おうとする。

「落ち着け!コーリィ。リオードたちだって逃げてきっと無事だ!」

 ネッツの声など届かないほどにコーリィは、混乱していた。

「水が引くまでここから出られない。お父様、伯父様、リオード・・・」

 コーリィはその場に座り込んだ。水に浮く氷柱はゆらりゆらりと揺れながら、下手くそな弦楽器のような軋んだ音を奏でていた。

 三人の無事を確認するにも、二人もヒャリツのマキシカの中に閉じ込められている。

 この低温のヒャリツの中、三人を探しに水に飛び込むこともできない。氷が溶け残る水は冷たすぎる。

 どうするべきか、コーリィは混乱して悪い方に決めつける思考を冷静に黙らせようと、耳を塞ぐ。

「コーリィ!」

 ネッツが大きな声を上げ、コーリィの腕を掴む。

 冷嬢の見開いた目にネッツに心配そうな顔が映る。

 ここでコーリィがしっかりしなければ、ネッツも不安にさせてしまう。こんな危険があるのに、彼を連れて来てしまった。ネッツが何を言おうと、ナガレに引きずってもらってでも留守番をさせるべきだった。フレイザがコーリィの知らないうちにヒャリツに行ったように、ネッツに出発の日を伝えなければ良かった。コーリィは後悔をしたが、今更何とかなるわけではないのだ。

「コーリィ、ここから出ることを考えよう!そしたら、リオードとおじさんたちに会えるかもしれない!」

「出口は沙漠だけよ、沙漠を歩いてスナバラに戻るなんて、何の準備もせずに無理だわ」

 礫沙漠は子ども二人がなんの準備もなしに歩ける距離ではない。地下のヒャリツの水路ならば舟で進める。地上は大きな石が転がり、足場も悪い。砂漠を歩くための特別に頑丈なブーツだって必要なほどだ。沙漠は乾燥しており、日中は暑く、日が暮れると急に気温が下がる過酷な環境だ。

 日中の猛暑と渇きと、深夜の低温の対処もしなくてはならない。礫沙漠の悪路を歩いて都市に辿り着くまで、大人でも最短一日半の行程は予想される。スナバラ自衛軍の短期の演習ほどの過酷な沙漠越えを少年少女には厳しいことは明白だ。

「他の出口もあるかもしれないだろ?」

 ネッツは希望を持っているようだ。ヒャリツは迷路のような構造だ。確かにまだコーリィが見つけていない横穴もあるかもしれない。ランタン一つの光では薄暗くて見つけていない可能性はあるが、横穴を見つけられてもそれがスナバラに続いているとは限らないのだ。ヒャリツはまるで地下迷宮のように複雑だ。それを人ではなく自然が作ったため、その設計の規則性もわからない立体的な迷路なのである。

「ヒャリツの中は完全に水で満たされている。舟でもスナバラに帰れない」

「泳ぐ・・・のは寒そうだし、泳いだことないや。水が何処かに流れていけばいいのにな」

 ネッツは思い付く限り、喋り続ける。

「どこに?」

 コーリィは冷たく言い放った。

「沙漠でもヒャリツでもない道?」

「どんな道?」

 ネッツのアイデアはことごとく否定される。

「えっと・・・」

 ネッツが言葉に詰まる。コーリィの力になれたらとネッツは考え込んだ。

「だったら黙っていて!!」

 コーリィの怒りのこもった声がヒャリツの中で響いた。

 ネッツはハッとして口を押さえた。

「・・・ごめん。俺が、ヒャリツについて来たせいで、ここに閉じ込められたのに」

 ネッツは今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

「泣かないの!」

 苛立ったコーリィは言い放った。

「でも、俺たち、どうしようもないし、ヒャリツか、沙漠で死ぬんだ・・・死ぬ・・・」

 ネッツは不安が決壊したようにわんわんと泣き出した。ヒャリツの壁に反響して、ネッツの鳴き声がコーリィの耳を何度も攻撃するかのようだった。

「体力を無駄にしないで!今どうするか考えるから、ネッツは静かに待ってて!」

 ネッツの泣き声は続いた。死への恐怖心と自身の行動を心底後悔したぐちゃぐちゃな感情が溢れて、ネッツの涙と叫びになる。

 ネッツの泣き顔がコーリィの思考に冷静さを取り戻させた。泣いたって、喚いたって、この状況が改善しないのだ。ここで救助を待つにしても、体力を温存しなければならない。それなのに、コーリィが何を言ってもネッツは泣き止もうとしない。

 コーリィはネッツの両頬を手袋をはめた手で包み込んだ。コーリィが優しくネッツの頬に触れたわけではなかった。ネッツの柔らかい頬がぎゅっと歪む。ネッツは驚いて泣くのをやめ、つぶれた頬に尖らせた唇、呆けた顔でコーリィ見つめた。

「ネッツ!このままだと本当に死んでしまうわ。泣き止んで!静かにして!方法を考えるのよ!」

 コーリィの強い言葉に、ネッツはぐっと涙を堪えた。

「・・・ぅん、わかった。静かにする」

 ネッツは絶望した顔にほんの少しの涙が流れた赤い頬で、頷いた。コーリィはネッツの顔から手を離した。

「よろしい。後悔こそ後でもできる。今はスナバラに帰ることを考えるのよ」

 ネッツは静かに頷いた。

「うん」

「泳ぐのはなし。水が引くの待つことや、別の道を探すしかないわ」

「手伝う」

 ネッツは答えた。コーリィは考え始める。

 軋む音と同時に、コーリィとネッツの立つ場所が揺れた気がした。

 氷の破片が落ちてきて割れた氷の破片が覆った地面がなぜ揺れるのか。コーリィはランタンで注意深く足元の氷を見つめた。

 氷の破片同士は少し溶けて接合し、凸凹の氷の床となっていた。その氷の隙間に液体の水が上下している。

「水位が今も上がっている?」

 コーリィとネッツが立つ氷の破片でできた床は、すでに液体の水に浮かぶに近い状況だった。

 鳥籠の間は着実に水位が上がってきていた。

「ここも沈むかもしれない。ネッツ、上に戻りましょう」

「うん」

 鳥籠の間は、ヒャリツのマキシカの一部で、集熱フィラメントである。たしかに集熱フィラメントがなくとも、地上にある集熱版から熱をメグリエ機関に供給することができるため、ここは水没しても問題はないのだろうが、水没しない前提で作られていた場所のはずだ。今年の雨季に降った雨の量が多いのだろうか。

 コーリィとネッツは動く床を用心して歩き、上の階層へと向かった。ネッツは静かにコーリィについてくる。

「そういえば、ネッツが眠ってしまって、麻袋やボロ布を見つけた時、舟があった」

「舟!」

「もう通路は水に満たされているのよ。それに舟があるなら舟着き場があってもいいのに、ただ舟を物置に置いただけ。壊れているかもしれない」

 ネッツは、コーリィが全ての可能性を批判するばかりで、打つ手などないと言っていることを感じ取った。

 コーリィは聡明な少女だ。マキシカやメグリエ機関、ヒャリツについても詳しい彼女から無理だというのなら、絶望的なのだ。

「舟を持ってきた通路や水路がきっとあるはず」

 ボトルシップのように、部品を持ってきて船を組み立てたのならば、船はあの部屋から出すことはできない。しかし、お飾りの舟をヒャリツの中に作って置いておく理由がコーリィには思いつかない。舟をどこかに移動して着水させることができるはずだ。冷静に考えると、水があの高さまで来ることはないだろう。なぜなら、マキシカの熱量を生産するメグリエ機関への浸水は故障につながるため、ヒャリツの中で水に浸からないヒャリツの地表に近い場所にメグリエ機関が設置されていたのだ。舟も同じくらい高い場所にあるから、舟が水に浸かることはなさそうだ。では、水に浸けない舟とはなんの意味があるのか。

「ほかには、ここで待つ方法もある。私たちが戻らなかったら、ナガレが運搬屋に物資を運ばせるか、議会に言って救援を出してくれるかもしれないけれど、数日は待つわね」

「数日・・・首長竜なんてなかなか捕まえられないし、食べ物がないなぁ」

 ネッツもコーリィもヒャリツで起きてから食べ物を口にしていなかった。空腹は寒さと絶望感で感じなくなっていた。

「お父様が捕まえた動物は、きっとヒャッコウよ」

 ヒャッコウと聞いてネッツはその姿を思い浮かべた。体長は7、8ルカほどで、黒と白の斑模様の鱗に覆われ、首と尾が太い四本足の動物だ。沙漠に住んでいるため、スナバラの外縁部でも見られる。小さくとも鋭い爪のついた四本足で、礫砂漠の悪路も素早く駆け抜けるすばしっこさ。ヒャッコウは、月刊ミカイの想像図の首長竜ほど首は長くもなければ、沙漠を闊歩する、推定体長が6クルカを超えるような大きな生き物ではない。いくら大きいヒャッコウでも、ネッツの手のひらに乗るほどだ。

「あれ食べられるの?」

 沙漠により近い場所に孤児院があったネッツは、ヒャッコウなんて珍しい動物ではなかった。稀に孤児院にも出て、室内に入ってきてもすばしっこくなかなか捕まえられないし、捕まえたからと言って食べられるものではない。

「さぁ?」

 コーリィに少し余裕が出てきた。

「ここでじっとしているか、沙漠を歩いて帰るか、舟を出せるところを探すかなら、舟がいい」

 ネッツの声はマキシカの空間に響いた。

「そうね、ネッツ」

 コーリィは、清々しく心を決めた表情だった。ネッツを連れて再び、上の層へとたどり着く。

 多数の回転羽の見える、そして、紅陽石のあった制御の部屋。回転羽はヒャリツの風に吹かれて回るだけだ。ヒャリツのマキシカは紅陽石を奪われて完全に停止しただろう。

 その部屋には三角形に近い円形の横穴があり、隣の部屋に繋がっていた。二人は屈んでその小さな横穴を潜る。案外、狭まっている穴の中は広く二人は天井に頭をぶつけることはなかった。

 コーリィは昨日、ここでボロ布と麻袋、そして舟を見つけたという。

 確かに狭い部屋に古い舟と舟を制御するための棒があるのみで広い空間でもない。

 コーリィはランタンを持って、舟を照らした。ネッツは揺れるランタンに照らされる古い舟を見つめた。コーリィたちが乗ってきた船よりも幅が広く安定感のありそうではあるが、長年ここに放置されてきたらしく、埃をかぶっていた。

 舟がここにあるなら、船着場があることや、着水できる仕掛けがあるはずだ。緊急時の脱出用の舟がここに残されていると考えていいはずだ。

 コーリィはちゃんとこの部屋を調べていなかったが、船頭が指し示す部屋の奥に、舟に合わせた横幅の広い穴がランタンに照らされて見つかった。

 コーリィはランタンを持ってそこを覗き込む。

「下に向かう通路かしら」

 その横穴の床はツルツルとしており、緩やかな坂だ。

「出口?」

「わからないけど」

「行こう!」

 ネッツは舟にすがる思いだった。

「舟に穴はないかしら。出航してすぐ沈没したら」

 コーリィは慎重にランタンで船底を確認する。この部屋はヒャリツの中で乱反射する光が入ってこない部屋であるらしく、ランタンなしではよく見えないのだ。舟の底には大きな穴はないようだが、小さな傷は見つけられそうもなかった。

 コーリィは迷っていた。下に行き、父親たちの安否を確認したい。もしかしたら、どこかにいるかもしれないが、この小さな舟でも助けに行けるのではないか。

 しかし、父親たちを見つけられず、水位も下がらなかったら、この部屋に戻ってくることはできないだろう。脱出のための舟のようである。この舟この空間から出られても、スナバラまでのヒャリツのトンネルが水没していたら、舟では進めない。

 それにこの小さな舟は、2クルカほどのコーリィたち三人が乗ってきた船よりもひと回り小さい。運良くフレイザたちを見つけても、5人乗ることはできないだろう。

 水位が下がるまで少し待つ方法もある。このままコーリィたちが戻らなかったら、ナガレが沙漠に物資を届けてくれるだろう。その時にやってくる運搬屋に助けを求めることもできる。その場合は、数日はここでやり過ごす必要があるが、生憎、十分な食糧はない。そして、密約違反、メグリエ家として守るべき秘密が漏れてしまうだろう。コーリィは悩んだ。

 今の水位の状況がわからないから、進むべきか待つべきか決められない。

 水位を予測する論文の公式では、今日はまだヒャリツの水路は水没しないはずだった。予測が外れたか、予想外の大雨、例年にない水量がヒャリツに流れ込んだことにより、水位の急激な上昇が起こったのだ。

 進むか、ここで待つか。冷静に考えても、わからないことばかりで決めかねていた。

「コーリィ?」

 ネッツが心配してコーリィの顔を眺める。ランタンの光が揺れ始める。

「油が・・・」

 コーリィはここに来るのに持ってきた装備のほとんどを船やフレイザとミッゲルの建てたテントに置いてきていたのだ。

 当然ランタンを燃やすための油もない。

「真っ暗になるぞ!どうするんだ?」

 ネッツはコーリィがどうするか息を飲んで待つ。

「――ネッツ、舟をここに移動させましょう」

 ネッツとコーリィは底の平らなその小さなボードを押し始めた。

 小さな舟のくせにとても重い。ランタンの光も消えかけている。

 穴はもっと大きな穴であったようだが、長年の放置で凍りつき、狭まってしまっているようだった。穴に舟の鼻先を押し込んだ。

「一緒に押して、乗り込める?」

「わかった!」

 ネッツは威勢良く言った。

「せーの」

 ずるりと舟が床を前進する。二人が力を合わせてやっと舟が動く。

「この先、どうなってるんだ?」

「わからないわ。でも、進むしかないわ!」

 舟に乗せたランタンの光が揺らめき小さくなる。

「ランタンが消える。急ぐわよ!せーの」

 舟を二人で押し、向こう側に舟の重心がゆっくりと移った。

「乗って」

 二人は舟に転がり込むように乗り込んだ。

 二人を合わせた体重が舟をその穴の中に滑り込ませる重心の移動になんとか足りた。

 ネッツが外の様子を見ようと顔を上げたが、コーリィがその頭を押さえ込んだ。

「頭をぶつけるわ」

 舟頭を下に向けたまま、ずるずるとその小舟は狭いトンネルを滑り降りていく。

 船底とヒャリツの床には多少の摩擦があるらしく、船底が擦れる音がし、その振動が舟に抱き合って乗った二人の背中に感じられる。船底に穴が開かないことを願った。

 一体どこに向かうのか。ランタンも消えかかり、明かりとしての役割はすでにない。

 舟の滑る速度が緩くなったと思うと、水しぶきと水の跳ねる音が聞こえた。

 ヒャリツの薄明かりを影に、キラキラとガラス玉のような水しぶきが舞った。

 舟は無事に着水したのだった。脱出用の舟であったのだろう。

 ふわりふわりと揺れる一艘の舟。コーリィとネッツはボートの中で身を潜めたままだった。

 ランタンも消え、目が慣れるまで辺りの様子はわからない。幸い、船底に穴は空いてはいないようだ。

 ゆらゆらと不安定に揺れていた舟が静かになるまで二人はじっとしていた。

 コーリィがそっと体を起こす。

 ヒャリツの中は真っ暗ではない。昼間であれば、ランタンがなくてもどこからか入ってくる光を反射して、うっすらと見えてくるはずだ。

「コーリィ、ここはどこだ?」

「ヒャリツの地下水に浮いているけれど、どこかしら」

「リオードたちどこかな」

「わからないわ」

 コーリィは三人を探すために、マキシカから脱出することに決めた。

 しかし、マキシカから出たとしても、ヒャリツの水路には地下水が満たされており、水が少し引かなければ舟でスナバラに戻ることはできない。

「これはなんだ?」

 ネッツが目を凝らすと、水面に何かあるのは見えた。

 ネッツは舟にあった長い木切れを持ち、その水面に浮かぶ何かを恐る恐る棒で突く。

「わ!」

 棒切れに絡みついたそれは、よく水を吸った布だった。

 薄暗いヒャリツの中で、コーリィは目を凝らす。布にテントの布と同じ幅の無彩色の縞模様が見えてきた。

「テントの布・・・?」

 それは太いストライプ柄の分厚い布のように見えた。ヒャリツの中でも高い場所、水没しない場所に作っていたはずのフレイザとミッゲルのテントの布だ。

 その布が流れてきたということは、テントも水没したことを示している。コーリィとネッツがいたヒャリツのマキシカの上の空間以外に、水没しなかった場所はあるのだろうか。

 コーリィの顔が見えずとも彼女が落ち込んで行くのがネッツにはわかった。

 三人の無事を確認できたら、コーリィはいつもみたいに冷静になるはずだ。しかし、ネッツには励ますこともできない。

 ドーム状のヒャリツの中の空間に、半分ほどは水が満たされている。

 そこに頼りなさげな小さな舟が一艘きり。ヒャリツの中を駆け巡る風の音だけが聞こえていた。

 


 その頃、スナバラのメグリエの屋敷。

 週に数度通いでやってくるメイドのマァレットは台所で、時間と手間のかかるスープを作っていた。

 スナバラの野菜とウミナトの魚の干物が入った具沢山のスープは、コーリィの好物になっている。

 ウミナトから新鮮な魚をスナバラに運ぶことは難しく、海産物の多くは、干して乾燥させたものか缶詰しか手に入らない。

 珍しくシラシラという大型魚の干物が手に入った。まるで大剣のように乾燥して硬くなった魚の身は、一晩、水につけておく必要がある。

 再び柔らかくなった魚の身を、つけておいた水とともにスープにするのだが、煮込むのにも時間のかかる料理だ。

 しかし、ナガレがマァレットにそのスープを作るように頼んだのだった。 

 なぜなら、コーリィとネッツはしばらくマキシカの家に行っているため、メグリエの家の食事が恋しくなるというナガレの読みだからだ。

「マァレット、私は市場に買い出しに参りますが、何か必要なものはありますか?」

 台所を譲ったナガレが食材を切るマァレットに声をかけた。

「ロスマーの葉がほしいのですが、私が買い出しに行きます」

 それは、出来上がったスープに添える薬味となる香りの強い野菜だ。

「いえいえ、今日は私が参ります。スープを見ている方が必要ですから」

 ナガレはマァレットにそう言って出掛けた。

 マァレットは、マキシカ家に勤めるメイドの友人から、リオードが留守にしていると聞いていた。そして、マキシカ邸の客間を誰も使っていないという。コーリィとネッツ、リオードはマキシカの屋敷にはいないのだ。

 つまり、三人はどこかに出かけていることはわかっていたが、その行き先はわからない。詮索はしない方が良いだろう。

 フレイザの命で定期的に保存食を箱に詰めて運搬屋に運ばせることもやっている。その運び先はわからない。ナガレも知らないというが、主人であるフレイザはどこか遠く、沙漠のどこかに調査にでも出かけているのだろう。それを追いかけ、コーリィとネッツ、リオードも沙漠に出たのだろう。

 秘密にしているのは、知ってはならないことを意味する。ナガレがマァレットに特別なスープを用意させたということは、すぐに帰ってくるということだ。それを信じて待つしかない。

 皆が戻ってきたときには、メグリエ家の味となったこのシラシラのスープを食べてもらいたい。

 スープに入れる定番の野菜の中に、ククミがあった。メグリエのお嬢様は嫌いだが、スープにしてしまえば、食べられるだろう。


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