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第56章 鳥籠の外

 ――ネッツは息を飲んだ。

 ネッツの目の前に巨大な氷の塊が突如現れたからである。

 巨大な氷は落ちた衝撃で雹のように砕け、ネッツの足元を掬う。手に持ったランタンの光が揺れる。ネッツが尻餅をつくと同時に、軋む音は不協和音を奏でて降ってきた。

 ネッツの耳から音が消えた時、そっと目を開けた。

 辺りは激変していた。

 慌てふためいて揺れるランタンの光に照らされるマキシカの腹の中。マキシカの鳥籠は氷の巨大な塊に押しつぶされ、ネッツが屈むくらいまでその高さは狭くなり、鳥かごの天井は凹んでしまった。辺りは氷の破片で埋まっている。

 目指していたこの鳥籠への唯一の出入り口は氷の柱が塞いでいた。

 ひとつの光。

 音が空間を駆け巡っては壁に跳ね返される。

 あたりにはネッツの持つランタンの光しかない。それはつまりネッツだけが逃げ遅れてしまったのだ。

「コーリィ?」

 コーリィたちのランタンが割れ、暗闇の中で姿が見えないだけで、誰か周りにいるかもしれない。

 ネッツが座り込んだまま、ランプで照らすが、氷しかなかった。

 誰かが氷の下敷きになっていないか、怪我をしていたら、自身はこれからどうしたらいいのか。

 一度に襲ってくる不安にネッツの喉はぎゅっと苦しくなる。

「ネッツ――――!」

 コーリィの声がネッツを正気に戻す。

 遠くで声が聞こえる、彼女は無事だったのだ。ほっとしたネッツは惚けてしまった。

「ネッツ――――!生きてる?!」

 慌ててネッツは答える。

「い、生きてるぞー!」

 ネッツの声はマキシカの腹のなかで響いた。

「怪我してない?!」

 心臓がうるさくて何がなんだかわからないが、今の所、痛いところはない。尻餅をついたが、大人用のだぶついた分厚いコートがネッツを守ってくれたようだった。

「大丈夫だ――!」

 そうは言ったものの、唯一の鳥籠の間への出入り口は塞がってしまった。

 常に暑い都市にいたネッツは、雪どころかこんなにも大量の氷を見たことがない。寒いヒャリツの中では溶けることはない、冷たい世界にネッツは一人閉じ込められたのだ。

 冒険には危険が付き物だ。それはネッツが孤児院で読んだ本でもそうだった。物語ならば、主人公は機転を利かせてピンチを脱する。ネッツにそんなアイデアが浮かぶだろうか。

 このままでは凍え死ぬかもしれない。さらに氷の塊が降ってくるかもしれない。出入り口を塞いだ大きな氷の塊がネッツに落ちてきていたら、いくら厚いコートでもネッツを守ってはくれないだろう。ひしゃげた鳥籠のフィラメントがそれを物語る。

 危険も承知でネッツは付いてきた。いや、このヒャリツのマキシカを探す旅もどこか遊びに行くような感覚だった。コーリィが暴れるマキシカと対峙しても、ネッツは離れて見ていて、危険なことなんてなかった。

 コーリィと一緒にいたら、危ないことなんてなかった。守られていたのに、コーリィがここへ来ることを止めたのに、ネッツは自分で来たのだ。今更後悔しても、遅い。

 哀しくなったネッツが握る唯一の希望に見えるランタンは、ゆらゆらと光を揺らす。

 また、一人ぼっちだ。体を丸めてぎゅっと口を閉じる。

 寒くはないが頰はヒャリツの空気に当てられて感覚が麻痺している。

 キーウェルにもらった指輪を壊してまでここまできた。ネッツは命の恩人であるコーリィを手伝いたい。

 目を閉じるとランタンの光だけがじんわりと透けて見える。

 ヒャリツの中で一人。轟々と鳴り響く風の音の中に、金属と氷のこすれる音が混じっている。

ネッツは目を開けた。

 氷の柱で塞がったはずの穴で何か動いている。ランタンは氷の破片が飛び出す様子を照らす。ネッツはそれに釘付けになった。

 コーリィたちが閉じ込められたネッツを助けようと、厚く硬い氷を割ろうとしている。氷を砕くためにとがったもので氷を突く音だ。

 それをぼうっとネッツは見ていた。寒い。心細い。諦めたのか、穴を塞いだ氷を割る音が消えた。

 まだ大きな氷の他に細かな氷の破片が詰まったままだ。破片が下から押し上げられ、氷が崩れる。

「ん!」

 穴を塞いだはずの氷の下から、這い出すようにコーリィが出てきたではないか。体を氷の隙間にねじ込み、ネッツのいる空間へ一人でやって来ようとしていた。

「コーリィ・・・」

 彼女が呼吸を乱し、焦った顔など見たことがなかった。

「ネッツ!」

 ネッツはコーリィの手を取った。お互い、分厚い手袋をしていて、相手の手を握った感触がなかったが、ネッツはコーリィの手を引いた。

 コーリィの体は氷を押しのけ、マキシカの中へと産み落とされた。体の小さなコーリィだからこそ、僅かな隙間を通り抜けることができた。

 ネッツは夢かと思った。目の前にコーリィがいる。

 毛糸の帽子からはみ出した明るい砂色の髪を振り乱し、焦りを噛み締めた唇。ヒャリツの冷たい気に当てられて赤くなった頰。そこにいるのは紛れもなく彼女だ。

「よかった。ネッツ」

「な、なんで」

 ネッツは声が震えた。寒さと目の前に彼女がいることを信じられなくてだ。

「助けに来たのよ、ネッツを」

「でも」

「この隙間を通れるのは、私しかいなかったもの」

 コーリィは皮肉めいたいつもの顔で言った。小柄な彼女だからこそ、氷で塞がれたはずの穴の隙間を通ることができた。彼女が通れるなら、ネッツも通れるかもしれない。

「何が起きたんだ?」

「マキシカが止まりかけていて、この空間の風向きが変わった結果・・・」

 一際大きな音がした。

 コーリィはすぐさま、ネッツのいるところに転がり込んできた。

 身を硬くし、ネッツに覆いかぶさる。彼女は荒い息で震えているのがわかった。

 また大きな音がした。

 氷がまた破片のように散らばり、波のように押し寄せる。バリバリと氷の割れる音、氷同士がぶつかって弾け飛ぶ音、大量の大小の氷が地面にぶつかる音、それらが一斉に演奏された。

 しばらくはその大きな音で耳が驚いたまま固まっていた。

 反響した音が消え、じっと動かなかったコーリィは言った。

「・・・ヒャリツの天井についていた氷が溶けて落ちてきた、と考えられるわ」

 彼女はネッツの隣に並ぶと、ため息をついた。氷が狙って降ってきたのは、穴の上だったのだ。

 穴の上にもう一つ大きな氷が柱のように突き刺さっていた。

 あたりは氷の破片だらけ。

 コーリィは険しい顔をした。今、落ちてきた氷が、完全に鳥籠の間の出入り口を塞いでしまったからである。

 ヒャリツは地下水も蓄えるため、ヒャリツのマキシカが都市に向かって送っていた風には水蒸気が含まれていた。はるか上のヒャリツの天井にその水蒸気が霜となって長年こびりついたが、マキシカの運転が弱まって、風の流れが変わったのだろう。その結果、急に巨大な霜の一部が溶けて、その重さに耐えきれなくて落ちてきたのではないかとコーリィは言った。そのきっかけとなったのは、コーリィたちが鳥籠の間に入ったことで振動か何かを与えたことかもしれない、と付け加える。

「私が通れたのだから、ネッツも通れたけど、これじゃ無理だわ」

 コーリィはネッツの持つランタンの光で照らして、その惨状を確認する。

「お父様たちは大丈夫かしら・・・」

 彼らの声は聞こえない。氷が落ちてきたのもあり、通路には氷の破片が流れ込み、三人を穴から押し出してしまったかもしれない。

「ここから出られないのか?!」

 ネッツは再び絶望した。コーリィが来てくれたら、なんとかなる、そう信じていた。

 二人で閉じ込められた。ネッツは寒さからではない血の気が引くのを感じた。

 とてもまずいこと、ミセスの言いつけを守らないで悪いことをやってしまったかのような、胸の奥が罪悪感で押し潰されそうなのだ。取り返しのつかないことをやってしまったと思った時の何十倍も、ネッツは責任を感じ、目眩がするほどだ。

「この穴からは今すぐには出られない」

 そんなネッツの顔色を見やって、コーリィは訂正する。

「次の氷が落ちてきたら危ないわ。抜け道を探さないと」

 コーリィはネッツの持つランタンを受け取って、屈んだまま辺りを見渡す。上から強い力が加わって、ひしゃげた鳥籠の中。どうやってそこから出るか。コーリィを目で追うと、コーリィはすぐに出口を見つけていた。

 ひしゃげたおかげで、鳥籠を作っていたフィラメントがひん曲がって、子どもなら通れる隙間が出来ていた。二人は鳥籠の外へ簡単に抜け出せそうだった。

 二人は一つのランタンの光を分け合い、少し体を捻りながら、フィラメントの隙間を抜ける。

 鳥籠の上部にはマキシカが動かしていた無数の回転羽があり、そこは冷風の通り道となっているはずだ、とコーリィは予想していた。

 鳥籠はマキシカのほんの一部でしかなく、その外はぽっかりとあいたヒャリツの中の一つの空間のようだ。この空間より一回り小さく鳥籠のようなフィラメントを編んだようだ。薄暗く、天井の高さなどわからない。

「壁を伝ってなにかないか調べましょう。ネッツ。進むしかないわ」

 ネッツの返事は弱々しい声だった。

「ネッツ、痛いところはない?頭をぶつけてはいない?」

「・・・大丈夫」

 小さな氷の破片がばら撒かれ、二人がそれを踏むと飴を噛んだ時のような軋む音がする。

「ランタンが1つしかないから、ちゃんとついてきて」

 コーリィが持つランタンの光で見える範囲にネッツはついていく。

 コーリィについてその空間の果てを目指す。

 すっかり氷の柱が刺さった穴が真っ暗でほとんど見えなくなったところで、ヒャリツの壁が目の前に現れた。

「結構広い空間ね」

 ネッツは頷くだけで、言葉を発しなかった。コーリィの声だけが反射する。

 コーリィは壁沿いに歩き始めた。ネッツはとぼとぼとついてくる足音が聞こえる。そのまま空間の探索を続けた。

 ヒャリツにこんなに広い場所があるとは、コーリィにも予想外だった。だからこそ、巨大な機械の設置場所になったのだろう。

 都市の人間はここまでくることもないだろうし、ここにマキシカがあるとは思いもよらない。

 今から四十年も前に、ここに部品や資材を運び、マキシカを設置したことさえ、信じられないことだ。

 いったい、何人の人間が関わって、ここにマキシカを設置したのだろうか。

 だれが、マキシカを設置することを決めたのだろうか。マキシカ家とメグリエ家、議会で知っていたのはほんの数人だろう。きっと、計画の全貌を知らされずに建設に関わっていた技術者もいたはずだ。都市は千日干乾(せんにちかんかん)の真っ只中の混乱の中で、焦りの中で作られたマキシカ。当時のマキシカ家とメグリエ家の人間だけではこんなに大きなマキシカを作るのも設置するのも到底無理な話だ。もっと多くの人が関わったはずだ。緘口令を敷いたのだろうか。今のスナバラにヒャリツのマキシカの伝説のような噂さえ残っていない。

「!」

 コーリィが立ち止まったのに気づかず、ネッツはコーリィの背中を目の前にして後退る。

「コーリィ?」

「階段だわ」

 コーリィの持つランタンが照らす壁に穴、そしてその奥が上へと続く階段になっているように見えた。奥は暗くて何も見えないが、小柄な大人が通れるほどの直径の横穴のようだ。

「行くのか?」

 ネッツの声は闇を怖がる子どものようだった。

「ここはまだ氷が落ちてくる可能性があるわ。横穴に入るべきよ」

「階段、だぞ?」

 ネッツには突如現れた階段らしき構造に不信感しかなかった。

「階段ってことは昔の人が作ったもの。自然にできたものではないわ。わざわざ作った理由もあるはず」

 コーリィはランタンを持ち、意気揚々と進む。光源が遠ざからないよう、ネッツも恐る恐るついていく。二人の影が揺らめく。

 ヒャリツは長く水が流れ、なめらかな壁をしている。この階段は人工的にヒャリツの壁を削って作ったらしく、表面がごつごつしている。またヒャリツの壁がうまく削れなかったのか、段の高さも一定ではない。階段はしっとりと濡れており、滑らないように気をつけて登らなくてはならない。

 二人はフレイザ達のいる下に向かいたいのだが、階段は上へと伸びている。

 上へと向かう横穴の階段は人が通った真ん中がよく窪んでいた。横穴を作り、階段を使ったあと、何往復も人が通って削れていったのだろう。

 しかし長い階段である。このまま地上に出てしまうのではないだろうか。疲労を感じる足と、冷たい呼吸で喉が痛くなってきた。

 やがて上の階の空間にたどり着いた。

「ここなら氷は落ちてこなさそうね」

 階段を作った理由は、この部屋に行くためだ。天井はランタンの光で照らせるほどは低く、氷は付いていない。

 そこはマキシカの制御室なのだろうか。狭い部屋ながら、部屋の向こうの壁がなく、薄暗い中でそこから回転羽たちが無数に並んでいるのがぼんやりと見えた。

「ネッツ、向こうは柵がないわ。近づかないように」

「わかった」

 コーリィはそう言いながらも、その崖っぷちに近づいた。

 ヒャリツの中の平行に渡された棒に回転羽がいくつも通され、薄暗い中でそれが眼下でゆるゆると、回っているらしく、白っぽい回転羽がちらちらと動いて見える。コーリィから見て左奥の回転羽は氷が直撃して下に落ちたのだろう。羽根が欠けたり、規則正しく並んでいるはずの羽自体が不自然にない箇所が見える。

 これが夕日の歌の歌詞にある、「幾千の花たち」であるとコーリィは確信を持った。ヒャリツのマキシカはこの多数の回転羽を回すために存在していたのだ。

 ヒャリツの天井はそこから見える位置にあった。氷が剥がれて落ちたのだろう、ぽっかりと天井の氷柱がない部分があり、その周辺は落ちることのなかった比較的小さな氷柱がヒャリツの鍾乳石のように見える。

 メグリエ機関からの熱量の供給がなくなり、回る意思を持たなくなったのだ。回転羽はヒャリツの風に吹かれて回り、止まるを繰り返す。

 メグリエ機関から熱量が供給されたマキシカはこの回転羽を回し、ヒャリツの冷たい風をより強く都市に向かって送り出していたのだろう。

 コーリィは部屋の入り口で佇むネッツの元に戻ってきた。

 部屋の入り口の壁に何かを見つけたようだ。

「これ、メグリエ機関の通し番号を示す板だわ」

 壁につけられたすでに煤けて変色の進んだプレートには、7つの番号が刻まれていた。

「メグリエ機関がある。マキシカが本当にあった」

 コーリィは嬉しそうな声を上げた。

 さらに驚いたのは、メグリエ機関の通し番号で欠番になっている数字がヒャリツのマキシカに割り当てられていたことである。

 第一世代のマキシカに掲載されたメグリエ機関は1〜173番までだ。千日干乾の後に作られた第二世代は181〜360番まで。欠番が七つあったことは、コーリィも知っていた。

 それが欠番でなかったのだ。コーリィは知らなかった事実に歓喜していた。目の前にあるのは、その存在を隠されていたマキシカとメグリエ機関なのだ。

 疲れ切ったネッツはその場に座り込んだ。ランタンはコーリィが持っており、ネッツの手元は薄暗い。

 ネッツの頭がぼーっとしてきた。

 壁のくぼみに七つの石が綺麗に並べられているのをコーリィは見つけた。それは、宝が隠された洞窟探検の目的の宝石か、はたまた密教の御神体のような、人の手で編まれた針金と白い石で出来た台座が七つ。

「これがマキシカのメグリエ機関、紅夜石だわ」

 コーリィは嬉しさのあまり、その石に手を触れる。

「少し暖かい。熱量反応が起こっていたんだわ。すぐに反応は止まらないのね」

 コーリィは手袋を外し、紅夜石を一つずつ外し始める。紅夜石は金属の枠に上下に挟まれていたが、紅夜石を取り外せるように上の枠が動かせるようになっていた。

 それぞれの紅夜石は互いに干渉しないよう、金属の板にそれぞれ囲まれ、離れて置いてある。

 メグリエ機関の重要なパーツである紅夜石を欠けば、メグリエ機関も停止する。マキシカが眠りにつく。

 そうすれば、ヒャリツの風をもう暖かく汚すこともない。

 コーリィは、手袋をはずし、ひとつまみのその石を外しては、大事そうに石をハンカチに包む。キラキラと紅い宝石が七つ。

 石に夢中になっていたコーリィの背後で、ずるりと崩れ落ちる音がした。

「ネッツ?!」

 コーリィが心配そうな顔をして、駆け寄ってきたのが見えた。瞼が重すぎた。ネッツは瞼を閉じた。



 手袋の中で違和感がする。ずっと一緒だった指輪がはまった感覚が右手の中指にない。

壊してもよかったのだろうか。

 あの日、皺くちゃで大きくて、細い指、しみと傷跡があったその手から、譲り受けた指輪。

 その数日前にネッツはキーウェル・ヒサーマに頼まれて、ポストに手紙を入れてきた。

 星の綺麗な乾期の夜。昼間はうだるくらいに暑くて、夜はやっとほっとする涼しさ。

 キーウェルはネッツに首から革の紐で下げていた朱色の輪をネッツの手に握らせた。暖かくて大きな手で。

 粗末な家で、質素な食事ばかりだったが、キーウェルがいつもいたから、ネッツは楽しかった。

 それが急に終わりを告げるような気がして、ネッツはキーウェルの閉じかけた目を見た。キーウェルは力強く手を握り返した。

 翌朝、キーウェルの家にやってきたのは、大きなメガネに、杖のついた老年の女性だった。白髪混じりの髪を一つにまとめている。

 彼女はお供にネッツよりも年上の少年を連れてきており、彼はネッツのことを物珍しそうに見ていた。

「おはよう、君がネッツかい?」

 女性はどんと構えていて、急な来客で狼狽えるネッツとは大違い。彼女は大きな口で笑いかける。ネッツは小さな声でしか答えられなかった。

「ネッツくんのおじいさんからお手紙をもらった、孤児院のトッドマリーさ」

 ネッツはどきりとした。

「なにも心配しなくていいよ。キーウェルさんから、全て聞いているからね」

 ネッツは堰を切ったように泣いた。

――さよならの日。その日は理解できなかった。ネッツの涙は頰を伝い、胸を伝い、首から下げていたキーウェルにもらった赤い石の輪を濡らした。

 そんな大事な指輪を、壊してしまったネッツのことを、キーウェルは怒るだろうか。いや、彼は寂しそうな顔でネッツに何も言わないだろう。後悔しないように精一杯やれ、それが彼の言葉だ。もし、今、指輪を外さずに留守番をしているネッツがいたとしたら、後悔とコーリィが心配で何も手につかなかっただろう。



 ――少し、暖かい。

 ネッツは目を覚ました。体を丸めて眠っていた。

 目の前にコーリィがいた。金の睫毛、白い肌。こんなに近くで見たことはなかったが、人形のように繊細な顔立ちの少女だ。

 彼女は目を閉じて寝息を立てている。

 ネッツが暖かいと感じたのは、ボロ布をかぶって、コーリィと身を寄せ合って眠っていたからだった。

 分厚いコートを着ていたおかげで、ヒャリツの硬い石の上でも体は思ったほど痛くはない。

 確か、眠る前はヒャリツのマキシカの中にあった階段を登り、この部屋にたどり着いたところまでは覚えていた。

「コーリィ?」

 彼女の瞼が動く。しばらくは目を開けずに、眉が動く。

 ネッツはほっとした。

 蒼い瞳が見えた時には、コーリィは状況を思い出したらしい。

「――ネッツ、生きてた?」

「生きてる」

 コーリィはまだ頭が目覚めていないようだった。

 少し眠そうな顔をしたまま、コーリィは少し体を動かす。

「ネッツが急に眠りだしたから、この部屋にあったいろんなものをかき集めて、休むことにしたのだったわ」

 ネッツの眠る前の記憶は、マキシカの体内に閉じ込められ、この部屋についだところでほっとして力が抜けてしまったところで終わっていた。地下にいたせいで時間がわからなかったが、深夜の時刻まで起きていたネッツは、夕日の歌を聞いたマキシカのように眠りについてしまったらしい。

「寒いまま眠ると、目覚めないことがあるって話を聞いたから、いろいろかき集めたわ」

 コーリィは平然と言った。確かにネッツは古い麻袋やボロ布の中で眠っていた。ヒャリツのマキシカをここに設置した際に、置いていかれた物だろう。

「目覚めないことがある?」

「眠ったまま冷たくなって死んでしまうの」

「嘘だろ」

 ネッツはそんな危険な状況で緊張感もなく眠ってしまったと思うと、恐ろしく思えてきた。凍死の危険性を知っていたら、眠らないようにしただろうが、やはり疲れて眠ってしまったかもしれない。

「生きててよかったわね」

 不機嫌そうな顔をしたコーリィが起き上がる。

 目が覚めて感覚が戻ると、いくらコートが分厚くとも、硬い床で寒さに縮こまっていたから、体が軋む。

 傍にあるランタンは消えていたが、ヒャリツの中はほんのり明るくなっていた。どこからか光が入ってきており、今は昼間なのだろう。ヒャリツの壁は地上からの光がどこからか入ってきて、反射するため、真っ暗にはならないらしい。

 コーリィは手袋をはめた手で、傍から水筒を出す。

「もう冷たいけど、飲んで」

 コーリィとネッツは水筒の中のお茶を分け合った。

 寒さで気づかなかったが、喉が渇いていた。

 ほんの少し甘い。もう温かくはなかったが、ナガレがコーリィに持たせてくれたお茶だ。

 状況は変わらないばかりか、いつになったらヒャリツのマキシカから出られるのだろう。

 ここから出られずに、ヒャリツの亡霊になってしまうんじゃないかと、ネッツは不安になった。それに、ヒャリツについてきたり、一人閉じ込められたり、コーリィの足手まといになっていることへの罪悪感もある。

「コーリィ、こんなことになって・・・ごめんなさい」

 コーリィは驚いた顔をして、またいつもの不機嫌そうな顔をする。

「ネッツはナガレと留守番と言ったでしょう?」

「うん」

 ネッツはすっかり弱気になっていた。言われた通りにすれば、こんなことにならなかった。ネッツは自身の行動に酷く後悔している。

「でも起きてしまったことは仕方がない」

 コーリィはそんなネッツに強く言った。

「まずは、体をあたために行きましょう!」

「どこへ?」

 ヒャリツは都市を冷やす涼やかな風をもたらす。つまり、都市スナバラを冷やす力を秘めたヒャリツは、寒すぎる場所だ。

 そんなヒャリツに暖かい場所があるのかと、ネッツは疑問だった。

「ネッツが寝ている間に、いい場所を見つけたの」

「暖かい場所があるならそっちで眠ればよかったな」

 コーリィはポケットから懐中時計を取り出し、薄暗い中で時間を確認した。

「そうは行かないのよ」

 コーリィについていくと、部屋に入った階段とは別に、小さな穴があった。

 そこは身をかがめて通るような穴だった。人が通れるが、それはコーリィたちだから可能で、大人の男性では窮屈なものだ。その穴はそのまま上に向かうゆるい坂道になっていた。時々手をついてコーリィとネッツはその上に向かうヒャリツの空気穴を登っていく。乾いた横穴は上へ上へと向かう。途中、狭くなり、手と膝をついて二人は穴の中を進む。

 ランタンもいらないほどその先は明るい。

 コーリィは穴の外に出た。ネッツは目の前の眩しさに目を細める。

 ネッツもその穴の出口がどこにつながっているか、期待しながら穴から顔を出す。

 目に応えるほどの光に包まれた時、ネッツの頰を暖かな風が撫でる。

 そこは黒い柱のような石が地面に突き刺さっている、自然にできたとしては不可解な地上の風景だった。黒い柱が大小十はある。古代遺跡の柱が時間が経って欠けたり傾いたかのようにも見える。

 黒い石柱とそれが割れた黒い礫、さらに細かく砕けた白い砂が無限に広がる沙漠。日は登り切る前で、自身の身長と同じくらいの影が伸びる頃だ。

 黒い柱の影から、二人はひょっこりと顔を出した。

「ここ、沙漠か?」

 ヒャリツは地下の鍾乳洞だ。地上は沙漠である。二人は地上に出たのだ。

「そうよ。あっちがスナバラ」

 コーリィが指差す先には礫沙漠の丘しか見えなかった。

「そうか、沙漠ならあったかいんだ!てか暑いはず」

 しかし、ヒャリツから出たネッツは、ヒャリツでも寒くないようなダボダボのコートを着ているのにもかかわらず、灼熱の沙漠のはずなのに暑いと感じない。体まで冷え切ってしまったのだろうか。

「今はまだ暑くなる前よ。沙漠は昼間は暑く、夜は乾燥しているからかなり冷え込むの。朝の今は、ちょうど暖かいくらい」

 冷え切った身体にじんわりと暖かい理由は時刻だった。少しだけ温まった朝の砂漠がちょうどいいのだ。

 礫沙漠に囲まれた都市スナバラの外れにある孤児院にいたネッツには沙漠など見慣れた風景だった。

 礫が削れてできた砂が孤児院の小さな畑に飛んでくる。照り返しが、葉物野菜をすぐに枯らす。子どもが悪いことをすれば、沙漠に捨てると叱られることもあるのは、冷え込む夜を暑いスナバラの服装でやり過ごすことは困難だからだ。

 沙漠に囲まれたスナバラの市民にとって、沙漠は見慣れているのに、ネッツは沙漠に足を踏み入れたことはなかった。今、ネッツは沙漠の真ん中にいる。

 この世界にはコーリィとネッツしかいないのではないかと錯覚するくらい、沙漠がどこまでも広がっている。スナバラのある東の方を見てもスナバラが見えない。西には遠くにかすんでトード山脈が見える以外は礫沙漠と空だけだ。

 沙漠の真ん中に二人だけ。二人はヒャリツの中で冷えた体をまだ低い太陽の光で暖めた。ネッツは覚め切らない頭でぼんやりとしていた。ネッツはふと気づく。

「コーリィは、ヒャリツから出たら議長に怒られるんじゃないのか?」

 メグリエ家には、都市議会と結んだマキシカとメグリエ機関の秘密保持の密約があった。マキシカ家とメグリエ家の人間はスナバラとヒャリツから出てはならないのだ。

「確かに、今の私は議会との密約に反することになるわ。でも、私が沙漠にいたことを誰がどうやって証明するの?」

「俺が言ったら・・・」

「ネッツは、ヒャリツに行くことを議会から許可されていないから、ネッツも誰にも言えない」

 すでに二人には共犯関係が成り立っていた。

「そっか!秘密だった!」

「お父様たちも、ナガレが送った食料を受け取りに地上に出たはずよ」

 ネッツは笑ってしまった。確かにそうだ。食べ物や物資を詰めた箱を運搬屋に運ばせたのは、沙漠のど真ん中までだ。礫沙漠の悪路に慣れたカルーに車を引かせ、運搬屋は何度かこの辺りに来たのだろう。ナガレは運搬屋に、ヒャリツのマキシカのもとにやってきた人間への支援物資と伝えるわけにもいかないから、沙漠の調査をする人間が定期的にここに寄るため、ここで物資のやり取りをする約束になっているとでも伝えていたのだろう。玄糖石(ショコライト)の巨大な複数の柱のある場所なら、目印としてもわかりやすい。

 実際はこの地下にいる二人が地上に出て物資を受け取っていたわけだ。しかし、その目撃者はいないのだから、密約を破っていることを知られることはない。

「ここにきてヒャリツのマキシカの構造がわかった。人工物と自然をうまく使って作ったマキシカだわ」

 コーリィは朝日の中で嬉しそうな顔をした。

 礫沙漠の地面に突き刺さっている黒い柱のうち7つを集熱板として使ったのだ。二人が見渡しても、ほかにそんな大きな石がある場所は見えない。

 地下では集熱フィラメントや紅夜石(クレナイト)蒼明石(アオゾライト)が、過去の技術者たちによって組まれ、メグリエ機関として膨大な熱量を生み出していた。

 それで幾千の花といわれる回転羽が回り、都市に効率よく冷たい風を送っていた。

「私たちが出てきた穴は、ヒャリツに空気を取り入れるためのものみたい。お父様たちが地上に出るために使った別の穴があるはず」

 ネッツは頷く。

「その大きな穴から、ヒャリツの地下に行くと、お父様たちのいるところに戻れるかもしれないわ」

 ネッツは希望が見えてきたらしい。ほっとした顔をした。

「コーリィは、マキシカとメグリエ機関が好きだな」

「当たり前よ。曽お祖父様が作った作品だもの」

 ひ孫の彼女は誇らしげだった。

「俺、コーリィに拾ってもらってよかった。じっちゃんがコーリィに会わせてくれたんだ」

 今から四十年前にここにマキシカを設置した時にもここにたくさんの人がいた。子孫がここに集まるのも必然だったかもしれない、そう思えてきた。

「そうね」

 メグリエ機関を作ったオリーナル・メグリエ。

 マキシカを作ったハージ・M・マキシカ。

 そして、安全にマキシカを使う仕組みを作ったキーウェル・ヒサーマ。

 沙漠の小さなオアシスを都市と呼ばれるほどに発展させたのは、三人のおかげだった。

 それから時が経ち、三人の子孫たちは、彼らと彼らの作った発明を悪者にしないために、秘密裏に再びヒャリツの奥へと集った。

 沙漠の都市は熱の都市とも言われるほど、暑い街。対照的な極寒の空間が沙漠の地下に広がっている。

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