第51章 私たちの秘密
コーリィとリオードは薄暗い洞窟の中、地下を流れる川を遡上していた。景色は代わり映えもせず、進む先は真っ暗だ。
船に積まれた物資が不自然に揺れた。
緩やかなヒャリツの水路が乱されるような波があったからではない。
積荷が崩れないように布をかぶせていだその布の下から、赤毛の少年が顔を出した。
「ネッツくん!?」
船尾に乗り、進行報告を向いていたリオードが先に気づく。
船頭で前方を見ていたコーリィはリオードの声で驚き後ろを振り返る。そこには、赤毛の少年がいるではないか。
「ネッツ!先に戻ったはずでしょう!?」
コーリィは驚きの声をあげた。
「指輪は外したからいいだろ!」
それは、指輪を壊したことを意味する。
薄暗いヒャリツの中で、ネッツは包帯を外した右手をコーリィに見せつけた。
ランタンに照らされ、ネッツの指の形がわかる。指輪のはまっていた右の中指の付け根が少し細く見えた。少年の指には、指輪が本当になかった。
指輪を外したことを出発前にコーリィが知ったとしても、ネッツをヒャリツに連れて行くことはない。そこで、指輪が外れたかどうかを有耶無耶にするために、ネッツの右手に包帯を巻いたのはエレックだった。ネッツがヒャリツ行きを諦めたように見せかけ、船に積まれた物資の隙間に潜りこむ。すでに引き返せないところで来たら、ネッツも船に乗っていることを明かす。それが、エレックが考えた作戦であった。
ネッツの指輪は無くなっているように見え、コーリィはすぐに疑問をぶつけた。
「どうやって指輪を外したの?」
コーリィは驚いたまま、その理由を尋ねる。
「エレックに頼んだ。指輪を削って真っ二つにしたんだ」
エレックによって、ネッツの指輪を削って切断し、外したということだ。彼はメグリエ機関のレプリカを作ったり、マキシカの設計図を見ただけでメグリエ機関を取り出すルートを見定めるほどの技術を持っているために、ラゥル・コソック達に利用されたのだ。石の指輪を削り、少年の指から外すことができたとしてもおかしくはない。しかし、ネッツが指輪を壊すことを決断するとはコーリィは予想外だった。
「議長になんて言えばいいの・・・」
コーリィはため息をつき、頭を抱えた。
「コーリィと一緒に行きたかったから!俺がヒャリツに来たことは、秘密にする!絶対に誰にも言わない!」
ネッツは勝手なことを言い、勝手に決意したものだから、コーリィは白いため息を吐くしかなかった。
「危険かもしれないし、これはメグリエとマキシカの家のこと。議会との約束だってあるし、無闇にヒャリツに入るのは法律違反」
コーリィの声がヒャリツ内で響いた。
ヒャリツはスナバラ市民の生活、いや生命を左右しかねないものだ。ヒャリツの点検、拡張工事、地下水の検査などの理由がなければ、ヒャリツに立ち入ることはスナバラの法律で固く禁じられていた。
「まぁまぁ、コーリィ」
リオードが二人をなだめる。
「ネッツ、危険かもしれないけれど、僕が彼女を守る。君はヒサーマの血を引くとはいえ、これは僕たちが議会と約束した仕事なんだ。それはわかってくれるかい?」
ネッツは黙って頷いた。
「まだ出発して少ししか経っていないし、戻ろう」
リオードは議会との約束を守るつもりだ。ネッツはもう少し船に積まれた荷物に隠れたままじっとしてしているべきで、ネッツは焦りすぎたのだ。
「いやだ、コーリィと行く!」
わんわんとヒャリツにネッツの声が響く。ネッツの決意は確固たるもので、コーリィについて行きたかったのだろう。ネッツがここまで固執する理由が、コーリィに命を救われただけであるのだろうか。意地を張って、恩を感じた以外に何かネッツ自身の決意がコーリィには感じられた。
既に狭いヒャリツのトンネルに差し掛かっている。戻るためには、船の向きを逆にしなくてはならないが、それはトンネルの幅からも難しそうだ。トンネルの高さはあるが幅が狭く、船を逆に向けるにはもう少し先に進まないとならなさそうだった。
ヒャリツ内を流れる地下水に逆らい、エンジンが尾鰭を動かし、船は進んでいるが、エンジンを止めれば、流れに任せて戻ることも可能だ。しかし、船尾を先頭にして進む船に緩やかな流れの地下水では、戻るのに時間がかかるだろう。
一刻も早く父親と叔父を見つけなくてはならない。明日中には戻ることをナガレと約束していた。それに増加する地下水の水位のこともあり、一刻を争う時期である。焦るコーリィは、観念した。
「――ネッツがヒャリツに来たことは、私たちだけの秘密よ」
ネッツは赤毛を振り乱して嬉しそうに首を縦に振った。
「ネッツ、旅は道連れだな。よろしく」
リオードもネッツの行動にお手上げだというようだった。
「本当に、ネッツは変なところで頑固だわ」
コーリィは呆れて諦めたようだ。
「なんで――」
ネッツは声を絞り出した。
「なんで俺は行っちゃいけなかったんだ!?」
エンジンの音だけがヒャリツの細い水路で響く。
「危険よ。それに、メグリエとマキシカの家の仕事だからよ」
「嘘だ!」
声を荒げたネッツに、リオードは優しく声をかける。
「ネッツ君は、コーリィが危険なところに行くことが心配なのかな?僕がコーリィ一人守れないような、頼りなさそうな男に見える?」
ネッツは縮こまったままだ。
「リオード、これはネッツの我儘。もうここまできてしまって後戻りはできないし」
「なぜ、コーリィがネッツ君に嘘をつく必要がある?」
「何かコーリィが、隠し事している気がした、から。コーリィは一人でなんでもできるけど・・・」
嗚咽交じりにネッツは話す。
「隠し事なんて、してないわ」
コーリィは強く言った。逆にそれが、嘘を隠すように聞こえたかもしれない。
このヒャリツの冒険には時間制限がある。コーリィは、ミズモーの論文から、いつこのヒャリツの水路が水で閉ざされるか予測がついていた。それが近い今、焦りが見えてしまうだろう。それがネッツの目には不自然に見えただろうか。
「ここに来たからには、ネッツもお父様と叔父様の捜索とヒャリツのマキシカの調査に協力するのよ」
「うん」
少年は力強く答えた。
「勝手なことはしない。私たちから離れない。なんでも触らない!約束できるかしら?」
「うん!約束する!」
ネッツは嬉しそうな返事をした。
「じゃあ、ヒャリツ探検は三人だ」
リオードは穏やかに言った。
子どものネッツには危険だからといっても、コーリィだって二つしか変わらないじゃないかと反論するだろう。メグリエ家とマキシカ家の問題だからといっても、マキシカの守護者となるはずだったヒサーマ家だっていいはずだと屁理屈を言うであろう。ネッツはなぜそこまで頑固なのか、コーリィは理解できないが、ネッツの意思を全て否定することもない。ネッツがここまでするとは、予想外ではあった。一方で、ネッツがキーウェル・ヒサーマの形見である紅夜石の指輪を指から外す決心がついたことは良かったとコーリィは思う。ネッツがマキシカに近づきすぎれば、コーリィの監視下にあっても、またいつかマキシカを暴走させてしまう。ネッツがマキシカの暴走因子を失うことの見返りに、このヒャリツの旅に参加になったのなら、仕方がないのかもしれない。すぐ帰ってくる寒いトンネルの冒険だ。そう、すぐ帰ってこなくてはならない。コーリィはぼんやりと明るいヒャリツの中、船が進む先を見ていた。
水を湛えた水路、沙漠の下を走っている鍾乳洞など誰が考え付いたのだろう。スナバラにとってはヒャリツなしには人は住めなかった。初めは少数ではあったが人が住めたから、希少な鉱物が見つかってメグリエ機関とマキシカが発明された。そうでなければ、今のスナバラはない。
ランタンの光を先頭に、三人を乗せた船は進んで行く。トンネルの幅は広がり、幅の広い川のようになった。川の上流に向かって船は流れに逆らうため、行きはエンジンで船の推進器を左右に振動させて遡上していた。帰りはエンジンを動かせずとも、流れに任せればよい。
「うう、寒い。お嬢様がお腹を冷やさないか心配ですな」
コーリィ達を見送り、ナガレはヒャリツから書斎に戻ってきた。ヒャリツの寒さに耐えられずに先に戻ってきたネッツが屋敷にいるはずである。
「ネッツ坊ちゃん?どこですか?」
返事はない。
「外で日向ぼっこでしょうか?」
ヒャリツより部屋は暖かいとはいえ、ヒャリツの冷気を部屋に引き込んだ涼しい部屋である。冷え切った体には外に出た方が暖かい。
「ネッツ坊ちゃん?」
ナガレは探し回ったが、屋敷の中にも、表にも裏口を出たところにもネッツの姿はない。
ネッツが出掛けたとしたら、ヒャリツに入るために着せていた上着やセーター、分厚い靴下、マフラーなどは脱いだはずだ。外に出ればすぐにそんなものは必要なくなるし、スナバラの地上では、厚着していると目立ってしまう。
ナガレは一部屋ずつネッツを探した。しかし、屋敷のどこにもネッツはおろか、ネッツの抜け殻も見つからない。
「まさか――」
ナガレがネッツの企みに気付いた時には、すでに、ヒャリツを西に進む船は見えなくなってしまったころだった。
船の進路を舵で変えながらヒャリツの源流を目指すリオード。
あれから、黙ったままのネッツ。
無表情でヒャリツの壁を見つめるコーリィ。
「ヒャリツの中には妖精がいるって知っているかい?」
リオードが優しい声で話す。ネッツやコーリィのぎこちなさを感じたからの発言だろうか。代わり映えのしない景色に飽き飽きしていたこともある。
「あれは妖精というより、妖怪の類ね。ヒャリツに子どもが入らないように怖がらせるための。そして、ヒャリツに感謝の気持ちを持って大切にする昔の考え方の名残よ」
コーリィは、妖精や妖怪の類の存在とは大人たちの都合で生み出されたという現実的な考えを持っていた。
ヒャリツは雨の神アマミヤの血管とも言われている。侵してはならない領域だと子どもに理解させるために教育的な物語が生まれるのは自然なことだ。アマミヤの血管に入り込み水を汚すと、神の怒りを買うと言われている。ヒャリツの点検の際には、今日でも祈りを捧げる儀式が行われているくらいだ。
「ネッツくんはこの話、知ってた?」
リオードはネッツに笑いかけた。
「初めて知った!ヒャリツに入ったことがばれたら、夜の沙漠に連れて行かれるってミセスが言ってた」
悪い子は、夜になると砂魔グラーヴェルに沙漠に連れて行かれる。それは、都市の子ども達が叱られる時の常套句だった。沙漠の夜は冷えるため、一人で沙漠に放り出された子どもは、凍え死ぬ可能性が高い。悪いことをすると、昔話の悪魔という存在によって連れ去られるという話の方が幼児でも理解しやすいためだ。
「全く何もないところから、妖精の姿を思いついたとは思えないけど、ヒャリツに生き物なんていないから、どれだけ想像力豊かな人が、都市の始まりの物語を考えたのかしら」
現実主義なコーリィに対し、リオードはふと呟く。
「なにか元になったものがあるんじゃないか?今日、見つけられるかもしれない」
「きっと、あれが妖精や妖怪の元だわ」
コーリィが指差すヒャリツの壁には大きな影が蠢いていた。ひどく影の輪郭は尖り、線はガタガタで、こちらを伺うような、 大人の男の 二倍以上の体の大きさの化け物だった。それが三体もいる。
ネッツは驚いたように体に電撃を走らせた。
「ランタンの光に照らされた僕らの影だよ」
思わずリオードは笑い出す。
「な、なんだ・・・」
ネッツは影の一つが自身と同じように動くことを確認した。三つの影のうち、真ん中の影はネッツと同じように手を上げたり、手を振ったりする。
「妖精は人間が作り出したのよ。ランタンがなくてはあんな影はできないわ。昔はたいまつだったのかしらね」
コーリィは揺れ動くひどく長い三つの影を眺めた。ヒャリツの壁は滑らかな凹凸があり、船が進むためにランタンに照らされた影を踊らせていた。
ネッツがコーリィ達に着いてヒャリツ探検をしていることを知ったナガレは、書斎の床にあるヒャリツへの入り口の扉を開けたままにしておいた。もしかしたら、ネッツが戻ってくる可能性があった。しかし、夕方になってもネッツは戻ってはこなかった。
「ネッツ坊ちゃんは、どうしても冒険に行きたかったのでしょうな」
ネッツはコーリィの助手のつもりでここにいる。もちろん、コーリィに暴走マキシカから助けてもらったこと、孤児院の兄姉を助けたり、孤児院の院長を見つけ出したりと、ネッツが恩を感じているのは確かだ。コーリィの役に立とうとがむしゃらに考えて、ネッツは彼女についてヒャリツに出掛けたのだ。
ナガレは書斎のゴミ箱の中に目が行った。書斎のゴミ箱に丸められた紙くず。かなりの枚数をまとめたまま丸めたものだ。
それを拾いあげ、紙を開くと、何重にも重ねられた紙束が丸めてあった。
数字と数式。コーリィの手描きの文字。
ナガレはそれに目を通す。
コーリィの頭脳が働き、その一部が目に見える形に現れたのがこの紙に書かれた数式たち。解にたどり着いていた。
そこには、ヒャリツの水没までの残りの日数が書かれていた。その日は7日後の日付だった。
「もしや、お嬢様はヒャリツが水に沈む日を計算して・・・こんなに早く」
ナガレはカレンダーを見て、驚き、ため息をついた。ヒャリツの旅に行くことを許されたのはマキシカやメグリエ機関に関わる家の者だけ。ナガレ・ワマールにはその資格はないのだ。
「私が代わりに行ければよかったというのに。フレイザ様、ミマ様、申し訳ございません」
どのくらいヒャリツの中を進んだだろうか。
長い長い水路を船で進むが、景色はずっとヒャリツの白い壁が続いているため、太陽も見えない地下では、時間の流れが永遠にも感じられる。
ランタンの光がぼんやり、ヒャリツの白い壁を浮き上がらせる。
船は着実に都市の地下を出て、西に向かっていた。
波は静か、船は水上にハサミを入れるように進んでいく。ランタンの光が照らす水底は、どこまでも透明な水によってすぐ近くに見えた。
「この辺は浅いのね」
コーリィは水底を見て、天井を見上げた。出発した書斎の真下よりもヒャリツの水路は太く広い空間になっている。水没してしまう恐れはないように見えた。
「あそこに舟が見えるわ」
コーリィが指し示す方をネッツとリオードは見つめる。水路を塞ぐ何かはありそうに見え、そのまま進んでいくと、舟がふわりふわりと浮かんでいた。
「もうすぐ船旅は終わりみたい」
陸が見えた、といえばおかしな話だが、地下を流れる川が途切れた場所が見えた。ヒャリツの水路がうねり、少し高いところにあるのだろう。ちょうどそこは広い空間になっており、複数の船が行き交えるほどは開けていた。水路は細くさらに奥につづいていたが、舟が一艘あるところを見ると、一度ここで舟から降りて探索をしてもよさそうだ。
「ここで一度降りましょう。何も見つからなかったら、奥に進むことになるけど」
「そうだね」
リオードが船を漕いできた尾鰭を止め、船は櫂で接岸した。
リオードはかまわず、陸地に飛び乗った。
コーリィは船に括り付けられたロープをリオードに投げた。ロープを受け取ったリオードは船を陸地近くまで引っ張る。
明らかにヒャリツの壁に不自然に杭が打ってあり、後から来た舟も流されないように杭に輪になったロープをかけることができる。そんなことをするのは人間しかいない。つまり、ここまで来た人間がいるのだ。
コーリィは揺れる船の上に立ち、リオードに荷物を渡す。背負えるだけの荷物は持っていくことにして、フレイザとミッゲルがいたら、またここに必要なものをとりにこれば良い。
荷物を陸に下ろし、コーリィが降りた。船はコーリィが降りた分だけ軽くなる。
「ネッツ」
「うん」
ネッツはフラフラと船から降りた。ここまでついてきたのことに後悔しているのか、ネッツの元気がないようだ。
コーリィは先に来ていた船の方をランタンで照らす。コーリィたち三人が乗って来た船をと同じような舟がすでに三艘あった。
「お父様と叔父様を乗せて来た舟かしら」
「この先に二人がいたら正解さ」
リオードは荷物を背負う。コーリィも大き目の斜めがけの鞄を持った。
コーリィはネッツを見ると、俯いたまま立ち尽くしていた。
「ネッツ、大丈夫?寒い?」
ネッツはヒャリツ探検についていく予定ではなかったために、防寒具はあるものを見繕ってはいたが、大きめであまり暖かくなく、体が冷えてしまったかもしれない。
「大丈夫・・・」
か細い声しか帰ってこない。ランタンに照らされたネッツは、赤毛に似合わない青白い顔をしている。
「ネッツくんは、船に酔ってしまったんじゃないか?」
リオードはネッツの顔色を見て言った。
「船に、酔う?」
ネッツは初めて起こった謎の居心地の悪さに、よたよたと歩く。どこまでも薄暗く出口のないヒャリツという暗い空間への違和感がネッツの気分を低迷させる。
「乗り慣れていない船に乗ったから、気分が悪くなったのね。車と同じで気分が悪くなる人もいるのね」
コーリィの運転する自動二輪の後ろにネッツは乗せてもらっているのだが、風が気持ちよいし、風景が速く流れていくのも好きだ。気分が悪くなったことはない。
船は自動二輪とは違う、上下の動きも相まって、少し頭が重たくなった気がするのだが、二人とも船に酔うことがなかったために、ネッツもなぜ調子が悪いのかわからない。
「少し休みましょう」
コーリィは言った。
「行く」
ネッツはそうとだけ答えた。途中からネッツが静かだったのは、船酔いしたからだったようだ。
ヒャリツの床の乾いている場所に少しだけ座り込み、酔いを治すことにした。
「まだ先は長いかもしれないわ。ここで少し休んでも大丈夫」
「コーリィの言う通りだ。僕も少し疲れたし、休もう。ネッツほどじゃないけれど、船酔いが少しわかったよ」
リオードは荷物を下ろした。
コーリィは、父親と叔父の安否を早く自身で確認したいだろう。勝手についてきて足を引っ張っているネッツに、二人は優しい。
ネッツはヒャリツの壁にもたれかかるようにして座った。まだ少し揺れている感じがする。水の上下する動きに沿って、少しずれて揺れる船には参ってしまった。感じたことのない動きに、体がついて行けなかった。
ヒャリツが長いトンネルであるため、時間もわからない閉塞感、妙に冷たく湿気の多い空気は、スナバラと正反対の環境であることも、ネッツの船酔いを悪化させた。
ヒャリツの中は湿気で頬がベタつく感じがする。スナバラの乾いて暖かい空気とは違うヒャリツの冷たくてどこか重たい空気を吸っていると、息苦しくなって、頭まで重くなって来る。重ね着して分厚くなった服も、関節が動かしにくくて、身体中に重りをつけているようだ。
「リオード、ここはスナバラからどのくらいの距離かしら」
「出発時間から考えて、25から30オクルカくらいの距離を進んでいるだろう」
ランタンの光で懐中時計を見たリオードはおおよその距離を導き出した。
「マキシカを設置するにはいい距離だわ」
スナバラからは完全に離れている。スナバラの淵から、スナバラを囲む畑と放牧場の範囲を超え、現在地の地上は沙漠であり、人はいない場所のはずだ。それは、秘密裏に設置したマキシカが見つからない良い隠し場所である。
「手漕ぎの船で来るなんてできそうもないな」
リオードの言う通り、スナバラから西のヒャリツの中を船で進むには、地下水の流れに逆らうことになる。動力源のない舟でここまでたどり着くのは骨が折れることだ。
「ここまでやってこられる人間はいないでしょうね。地上に迷い込む人間はいても、まさか地下にマキシカがあるなんて思いもしないわ」
そんな場所に三人はやってきたのだ。コーリィの父親と伯父を捜しに。そして、ヒャリツのマキシカをこの目で確かめに。
「もう大丈夫」
ネッツが立ち上がった。
「本当に?」
「うん。早く行こう」
ネッツの顔色が少し戻った。
「行こうか」
三人はランタンを持って陸地を歩く。
白いヒャリツの壁は、キラキラとしている。
西の方に伸びているその道は、一体どこに通じるのだろうか。
コーリィは歩き出す。船に乗っていた時より、歩き出した方が暖かくなってきた。ネッツはだんだんと調子を取り戻していた。
「コーリィのお父さんと叔父さんってどんな人なんだ?」
ネッツだけが二人に会ったことがない。
「お父様は・・・そうね、クールショットを作った人よ。叔父様は、マキシカ管理局で働いているわ」
家族の紹介と言っても何を話すべきかコーリィは考え込む。
「フレイザさんとミッゲルさんが一緒に研究社で働いていたとき、ミマさんが弟のミッゲルさんにお弁当を届けに行って、フレイザさんと出会ったのが馴れ初めだったって聞いたよ」
リオードの話にコーリィは足を止めた。
「そうなの?」
ミマとミッゲルは姉弟、ミッゲルとフレイザが共に働いていたことは知っていたが、ミマがフレイザと出会ったきっかけをコーリィは知らなかった。
「前にミッゲルさんが話してたんだ。管理局で一緒だったから」
リオードはミッゲルが失踪するまでの三ヶ月ほどはマキシカ管理局で共に働いていた。リオードによると、彼は働き者であったという印象だったが、ある日を境に、管理局にいなくなった。
ネッツには父親や叔父がいないため、二人の想像がつかないのだろう。不安そうなネッツに、コーリィは言った。
「優しい二人だから心配しないで、ネッツ」




