第4章 冷嬢のもてなし
汚れひとつない白く塗られた壁。大きなふかふかのベッド。小さな机と椅子。
その部屋の隅っこまで椅子を移動した。その椅子に座り、ネッツはぼぅっとしていた。少年は知らない家の知らない部屋で、どうも落ち着けなかった。少年は白い壁を指でなぞりながら、今日起きたことを振り返る。
ネッツは執事ナガレとともに閉鎖された孤児院からお嬢様のいる屋敷に戻ってきた。今晩はお嬢様のご厚意で部屋を用意してくれることとなった。夕食までこの部屋で休んでいいと、ネッツはこの客間だという部屋に通された。
静かな部屋で一人。寂しくて、肌寒く感じられる。
ネッツはイルズ・カーンに騙された。きっと彼はネッツを孤児院から追い出したかったのだろう。ある支援者の代理人だというあの眼鏡のいけ好かない胡散臭い男がどういった目的かはわからないが、ほかの子どもも次々と孤児院から旅立たせ、最後に残されたネッツもついに追い出した。それに成功したのが今日なのだろう。
ネッツは帰る家を失った。悔しさ、ミセス・トッドマリーが無事なのか、これからの不安。これからネッツが頼れるところなんてなかった。孤児院も閉鎖、カーンが紹介したネッツの里親となるはずの壊し屋も存在しない。明日からどうするべきかとネッツは困り果てていた。
扉を叩く音がする。少年は溢れる涙をぐっとこらえるのに手一杯だった。
ネッツが返事をしないでいると、扉がゆっくりと開いた。執事の声がした。
「ネッツ様?失礼しますね。夕食の準備ができましたので、いらしてください」
辛くとも腹は減るのだ。ネッツは少しだけ元気を出して部屋を出た。にこやかな執事ナガレが案内してくれる。
放心状態のネッツが連れて来られたのは大きなテーブルのあるダイニングだった。
テーブルの上に、あたたかくて柔らかそうなパンや料理がのった皿が並ぶ。具の入ったスープには、肉も入っているようだ。
ネッツはナガレに促されるまま、席についた。
テーブルの向かい側には青く冷たい瞳の少女が仏頂面でこちらを見ている。ネッツが物珍しいのか、気難しい令嬢に、堪らずネッツは目を逸らす。
「今日はお客様がいらっしゃるので、ごちそうにしました」
ナガレはネッツに笑いかけた。
「これ、食べていいのか」
ネッツは強がって見たものの、お腹が目の前の食べ物を待ち焦がれている。
硬いパン、捨てられる野菜の芯やうまく育たないやせ細った野菜のスープばかりの孤児院とは、比べ物にならない食事だった。
ネッツの目の前にある食事は、肉もあれば、野菜や豆類などの食材の種類も豊富だ。見たこともない料理の数にネッツは驚きを隠せなかった。
「お客様はもてなすのがうちの決まりなの」
お嬢様はネッツを一人の客人として扱ってくれるようだ。それにしては、ネッツをじっと見て不満げな様子でもある。
「あ、ありがとうございます。あの、コーリエッタさん」
「コーリィと呼んで」
ネッツは呆けた顔をしたが、頷いた。
「こ、コーリィ、ありがとう、ございます・・・」
並べられた料理は三人分。ナガレもネッツの隣に座った。
「通例では使用人は主人と食卓をともにしないのですが、お嬢様のお父様が皆で食べることに決めました。楽にしてくださいね」
「コーリィの父さんは?」
コーリィに家族がいるならば、今、同じテーブルについていてもいいはすだ。コーリィの両親がいてもおかしくはないが、コーリィと執事のナガレしかいないようだ。
「三ヶ月前に旅に出たわ」
コーリィはそうとだけ言った。
「そ、そうか」
今日出会ったばかりの少女と何を話すべきかネッツは困っていた。孤児院では食事は貧しいながらも、ミセスと会話をしながらの楽しい時間だったが、お嬢様との会話の話題など持ち合わせていない。
「ではいただきましょう」
「い、いただき、ます」
変に緊張してしまうが、ネッツは目の前の食事を頬張る。
ふかふかで温かいパン、味のしっかりしたスープ、焼いた肉は柔らかく、ぱりっとした野菜たちのサラダも初めてだ。豆や野菜の漬物、チーズもある。
味がする。食べたことのない味だが、きっとこれは美味しいのだとネッツは思った。こんなに一度にいろいろな食べ物を食べることなんてなかったから、舌が驚いてしまう。
傷もなく白く艶のある皿に花の模様が上品に描かれている。ネッツは気になって、その模様を指で撫でる。
「ネッツ、孤児院はどんなところ?」
コーリィからの質問にネッツは戸惑った。どんなところかと言われても、何を話していいのかわからない。
「ネッツ様は孤児院では毎日どんなことをしていたか、お嬢様は知りたいのですよ」
ナガレが助け舟を出してくれる。
「み、みんなで野菜を作ったり、遊んだり、掃除したりしてた。勉強もするし、ミセスの手伝いをしたり。でも、最近はミセスと俺だけだったんだ」
イルズ・カーンに他の子どもたちは連れていかれたから、ネッツが最後の孤児だった。もう三ヶ月以上もミセスとネッツだけの生活だった。
「ほかの子どもたちはどこへ?」
「仕事を紹介してもらったり、小さい子は養子になった。一年前くらいから孤児院を出ていく子どもが増えた」
「そぅ」
そう言ってコーリィはパンを小さくちぎって口に入れた。
「なんで、孤児院が急になくなるんだ?ミセス・トッドマリーもいなくなってた」
ネッツは暗い顔をした。いくら美味しい食事でも、粗末な食事をミセスや兄弟姉妹たちと食べている時が楽しかった。明日から食事にありつけるかもわからない。
マキシカに殺されそうになったといえども、今晩は沙漠の砂嵐の中の路頭で迷ったり、空腹でうずくまることなく、今日の食事と部屋にありつけたことから、ネッツはまだ幸運なほうだ。
しかし、明日からどうしたらいいのだろう、ネッツは不安に押しつぶされそうだった。
「俺、どうしたらいい?ミセスも・・・」
ネッツは泣き出しそうな絞り出した声しか出せなかった。
「ネッツ様、今日はお疲れでしょう?これからのことは明日、一緒に考えることにしませんか。明日もここにいていいですから」
ナガレは穏やかに言った。お嬢様は表情を変えずに、一度頷いただけだった。
ナガレの言う通りかもしれない。ネッツの頭は興奮したままで、暴走したマキシカみたいだ。何かをしなくてはならないと焦りが先走って、空回りする。令嬢の前では強がっていても、一人になったら泣いてしまいそうだ。
「もう夜だもの。なにかを始めるのも朝になってからだわ。たくさん食べて、よく寝てから考えましょう」
ネッツには、コーリィはあまり歳も変わらないように見えたのに、しっかりして冷静沈着に見えた。もしかしたら、ずっと年上なのかもしれない。様々な年齢の子ども達と暮らしてきたネッツには、コーリィのその落ち着きから、大人に見えた。
夕食後、ナガレがネッツを部屋まで連れて行った。その途中、屋敷も案内してくれた。店先から少し奥に入ったこの部屋がネッツの部屋となった。
「必要なものがあれば、言ってくださいね。できるだけご用意します。今日はお疲れでしょう、ゆっくり休んでください」
会ったばかりのネッツを泊めてくれたコーリィやナガレに、ネッツは戸惑っていた。それを感じ取ったのか、ナガレはネッツに優しく語りかけた。
「お嬢様は、暴走したマキシカを止める仕事をしておられます。暴走したマキシカの恐ろしさを知ったネッツ様のことが心配なのですよ」
「俺、これからどうしたらいい?」
「なにも心配せず、今日はゆっくり眠ってください。明日、これからのことを話し合いましょう」
「本当に?明日、俺、沙漠に捨てられたりしない?」
ナガレは穏やかに首を横に振る。
「お客様にそんなことはしませんよ。安心なさってください」
その晩、孤児院から追い出されたネッツは、ふかふかのベッドで眠ることができた。狂ったマキシカ、消えたミセス、そして冷静な令嬢。
ネッツの頭の中は混乱していた。あの時のマキシカみたいだ。永久に動き続けられるマキシカとは違い、今日の疲労がまるでコーリィが一瞬でマキシカを止めた時のように、ネッツを深い眠りにつかせた。