第42章 逆転の登校日
それから二日後が雨季休みの中にある登校日であった。学校の雨季休みは3ヶ月ほど続く大雨季のうち、大雨のよく降る二ヶ月ほどが休みとなる。雨季休みの折り返し地点を過ぎたところに、登校日があった。
ネッツは久しぶりに空色のシャツと紺色の膝丈のズボンを履き、赤のバンダナをシャツの襟に大きな襟のように巻いた制服姿となった。
「いってきます」
「ネッツ、テンヘン先生から論文をもらってくるのを忘れないでね」
コーリィはネッツに念を押す。
「わ、わかった!」
テンヘン先生が持っているある論文の写しを貰うことになっていた。コーリィの父親と叔父がヒャリツに出かけたままだ。二人を連れ戻す前に、その論文がコーリィには必要らしいが、ネッツには論文が必要な理由がよくわからない。そんなことなどせず、早く連れ戻しに行けばいいのにとネッツは思いつつ、コーリィに頼まれたお遣いをやり遂げなければならないと気を引き締めた。
学園に向かって歩く。日は低く空は薄曇り。風が気持ちいい。久しぶりのフュールイ学園だ。アグリマキシカの暴走もあり、ネッツは学園に馴染むことなく雨季休みになってしまったから、まだ少し緊張する。
ネッツが教室に行くと、生徒はまばらだった。編入したてのネッツに話し掛けてくれたショーンは、久しぶりのネッツの顔を見てニッコリと笑った。
「おはよう、ネッツ。元気にしてた?」
およそ一か月ぶりの学園の友人はネッツを見て、駆け寄ってきた。
「おはよう!ショーン」
少し短くなった黒髪のショーンは少し会っていない間にまた背が伸びたらしい。制服のスボンが少し短くなっている。彼は華奢ながら、背丈はすでに小柄な大人の男性と同じくらいだ。
まだ教師が教室に来るまでに時間があるが、登校していない生徒が多いらしく、教室にいる生徒の数が少ない。二十数人のクラスメートの半分ほどしか登校していないようだった。
「今年も休みが多いのは、旅行だな。羨ましいなぁ」
ショーンは深いため息をついた。
「旅行?どこに何をしに行くんだ?」
ネッツは旅行になんて行ったことがなかった。スナバラから出たこともない。ネッツにとっては旅行でわざわざ遠くに何をしに行くのか想像ができなかった。
「だいたいはウミナトだよ。海で泳いだり、船に乗ったり、新鮮な海魚を食べるらしい」
ショーンはお金持ちの子息たちとは違って、ごく普通の家の子だと言っていた。だから、お金持ちの子息たちから旅行の話を聞いたのだろう。ネッツには初めて知る類の話だ。
ウミナトには海があると言う。海を見てみたいネッツだが、海を見てそれでしばらくしたら飽きてしまうだろう。ネッツには、ウミナトに海以外の何があるのか知らなかったのだ。
ショーンはウミナトに行ったことはないと前置きした上で、クラスメートから聞いた話をネッツに教えてくれた。旅行の目的は、海で獲れる新鮮な魚を食べたり、船に乗るためにウミナトに行くらしい。海で泳いだり、釣りをする人もいるそうだ。
生きているほどの新鮮な海魚は沙漠の中のスナバラでは手に入らない。海産物の干物や塩漬け、缶詰がウミナトから汽車で運ばれてはいるが、スナバラでは生きているまたは加工されていないそのままの海魚を手に入れることは困難だ。その珍しさから、貴族の子息たちは家族とウミナトへ出かけ、珍しい食材の料理を食べる旅行へと出掛けているのだ。
そして、船というものもスナバラでは見たことがない。船を浮かべられるような大量の水は、地下のヒャリツの貯水池にしかないだろう。雨季には、沙漠のどこかでごく短い期間に水たまりができることがある程度で、スナバラの子どもたちがおもちゃの舟を浮かべることもない。そもそも船のおもちゃがスナバラではあまり身近なものでもなく、ネッツにとって船は絵本で見た川を下る乗り物という知識のみだった。それも一人か二人しか乗っていない小さな船の絵しか見たことがないから、海という広い広い水域を船で進むというのは、少し勇気がいる気がした。スナバラでは体験できないもの、見たことがないものを見に行くのがウミナトへの旅行の醍醐味なのだろう。それが裕福な家の子どもたちが家族とウミナトに出かける理由なのだ。
教室にメッコー・クラムが入ってきた。人一倍体が大きく、膨れた頬を不機嫌そうに膨らませている。挨拶もせず、俯いたまま、そそくさと自分の席に着いた。彼もウミナトに旅行に行きそうな家の子だとネッツは思ったが、登校してきたのは意外だった。
彼の姿を見たクラスメートたちは、急に照明を落したかのように、口を噤んだ。教室が異様な静けさに包まれる。
メッコーは、ネッツやショーンを庶民と差別的に扱う威勢のよいいじめっ子であった。彼の家なら旅行に行っていて、登校日を欠席してもおかしくはない。なぜか今日のメッコーはやけに静かで、ネッツたちのことをからかいにくる気配もない。そう言えば、メッコーには取り巻きのような子分のような生徒がいたが、今日はその取り巻きが欠席だからか、彼は弱く見える。その教室の雰囲気に飲まれ、ショーンと話していたネッツも口を閉じた。
メッコーは急に黙ったクラスメートの様子からさらに萎縮したようだった。
「あのさ、ショーン」
「ネッツ、そろそろ先生がくるよ」
ショーンの言う通り、始業のベルが鳴り、ひげの教師ヒルキー・エコが教室にやってきた。ネッツはまだどことなく暗い空気に違和感を覚えたまま、席に着いた。クラスメートたちは、明らかにメッコーを気にしているようで、ちらちらと彼を見ていた。確かに威張り散らすし、クラスを我が物にしていたから、関わりたくない生徒もいただろう。
エコは背筋を伸ばし、教壇に立つ。
「おはようございます、皆さん。出席をとります」
クラスメートの半分ほどはこの登校日に登校していなかったが、教師は特に気にも留めなかった。旅行に行くことは毎年のことなのだろう。
教師がひと通り話した。長期休みと言えど、規則正しい生活をしろ、勉強をしろ、紳士として振る舞え・・・ネッツには小言のように聞こえてくる。
ホームルームを終えても、午前中の授業の合間の休み時間も、生徒たちはメッコーのことを少し離れたところで見るだけで、話しかけることもない。メッコーも不機嫌な顔をして、苛立っているように見えたから、クラスメートは互いに緊張感を漂わせていた。
そして、放課後になった。帰宅の支度をする生徒がいる中で、ネッツはメッコーのことが気になり、彼に声をかける前に、ショーンに耳打ちした。
「ショーン、あいつ」
ショーンもネッツの耳元で小さな声で囁いた。
「仕方がないよ、彼の叔父さんが逮捕されたのだから」
「逮捕?」
悪いことをしたら警察に捕まる。それはネッツでもわかる。しかし、なぜメッコーの叔父が逮捕されたのか。
「メッコーの叔父さんは議員だったけど、マキシカ暴走事故を引き起こした犯人を支援したり、女の人を誘拐した事件に関わっていたらしい。うん、なんというか、どうメッコーに声をかけたらいいか、みんなわからないんだ」
ショーンは考え込み、言葉を選んでいるようだった。メッコーは確かにいじめっ子だった。しかし今、皆が彼の存在を認識しながらも、話しかけようとしないばかりか、異質な生徒として距離を取られていた。
その理由が、マキシカを故意に暴走させたラゥル・コソックの支援をしたとされる議員、ロマーク・クラムを叔父に持つからであった。
そう、コーリィが追い詰めたマキシカ暴走事故に関わる一連の事件の主犯二人のうちの一人である。
しかし、メッコーはマキシカを暴走させるのに関わっていたわけではない。確かに雨季祝いのパーティでは叔父ロマーク議員と甥メッコーは親しいようではあったが、それはメッコーが叔父に可愛がられていたからだろう。メッコーも叔父が議員であることを誇りに思い、クラスでもそれを盾に強気に振る舞っていたのは事実だ。尊敬していた叔父の逮捕は、メッコーにとって衝撃的な事実を突きつけられ、大きな失望となり、自信を失うことになったのだ。
「今はそっとしておくのがいいと思う」
ショーンは小さな声でネッツに耳打ちした。確かに、意気消沈したメッコーにどう声をかけていいか、クラスメートは気にはするものの励ますこともできずにいる。その結果、皆がメッコーの様子を伺い黙っている状態になっていた。
ネッツは帰り支度を済ませた。コーリィに言われたお遣い、テンヘンのところに論文をもらいにいかねばならない。ショーンに挨拶し、教室を出ていこうとしたネッツに向かって、メッコーは言い放った。
「お前のせいだ」
静かな教室がその言葉で臨戦体制かのようにぴりっとする。下校しようとしていた生徒達に緊張が走った。
メッコーは椅子から立ち上がり、ネッツに向かってのどを嗄らすように叫んだ。
「メグリエせいで叔父さんは逮捕された!」
コーリィがイルズ・カーンとロマーク・クラム議員を警察に逮捕するきっかけを作ったことには変わりない。フュールイ学園では、ネッツはメグリエ家の使用人の子ネッツ・ワマールということになっているから、二人は渦中の人間の関係者となる。
ラゥル・コソックが実際にネッツたちを陥れたとして、クラム議員がどう事件に関わったのかネッツは知らない。しかし、コーリィはクラム議員がミセス・トッドマリーの入院費の支援をしていたと言っていたから、マキシカ暴走事故の関連を疑われ、その後の取り調べで逮捕となったのだ。
メッコーはネッツを睨みつけるように見ていた。
一触即発になりそうな気配を感じ、気弱な生徒は誰か教師を呼びに教室を抜け出した。
「コーリィは悪いことをした人を捕まえる協力をしただけだ!」
メッコーはネッツの言葉に、頭に血が上り、顔が赤くなる。机を蹴飛ばし、椅子を倒した。
「お前のせいだ!」
メッコーがネッツのほうに足音を荒立ててやってくる。ネッツの方が先に生まれているが、メッコーとの体格の差は大きく、喧嘩になればネッツが負けてしまうだろうとクラスメートは慌てた。止めに入ろうとショーンが慌ててメッコーの前に立ちはだかるが、メッコーが片手でショーンを突き飛ばした。
教室に大人はいない。怒りに顔を真っ赤にさせ、メッコーはネッツに掴みかかる。
「はい!暴力はダメだよ」
ふらりと教室に現れたのはカミーエ・テンヘンだった。生成りのシャツを着て、煤けた白衣を羽織り、颯爽と現れる。彼は風変わりな教師であるが、フュールイ学園の教員といえども、高等部の教員であり、この初等部の教室にやってくることはまれのはずだ。
テンヘンの姿を見たからか、教室にいたクラスメートたちは表情を強張らせたまま静止した。それはメッコーもだった。
テンヘンはショーンをゆっくりと立ち上がらせ、怪我の有無を聞いた。ショーンは怪我はなかったようだ。
そして、テンヘンはネッツのシャツをつかんだメッコーの手を優しく広げ、二人の間に割って入り、距離を取らせた。
「メッコー・クラム君?確かに今は辛い時期だ。君のせいじゃないことは、僕は知ってるよ。落ち着いて」
メッコーは顔を真っ赤にさせ、怒りに身を任せ、手を振り上げたままだ。
「ここで誰かを殴ったとしたら、君が悪者になってしまう」
テンヘンの言葉に、振り上げた手をメッコーはしぶしぶ下ろす。
「・・・はい」
ばつが悪そうなメッコーは、ボソボソと不平不満を吐き出している。
「あの件はメッコー君のせいではないように、ネッツ君のせいでもない。君たちは当事者に近い人間だ。でも、当事者ではないだろう?」
テンヘンは、メッコーとネッツに同意を求めた。メッコーは怒りを抑えきれず、唇を噛みしめながら、震えている。
ネッツはそのまま立ち尽くす。
テンヘンはメッコーの前に歩み寄り、笑顔で顔をのぞき込む。怒りに満ちた余裕のない顔と、のんびりと話す余裕のある顔が向かい合った。
「暴力は良くないことだとは分かっているね?それに、君は皆を見返すために努力ができる子だろう?クラス代表のメッコー君」
メッコーはテンヘンを恨めしい顔で見ていたが、うつむくように頷いた。
「君は君なんだ。叔父さんとは別人だろう?冷静に物事を捉える紳士は信頼されるに値する。君にはそれができないとは私は思わないよ。堂々としていればいい。君のことを悪くいう権利は他人にはないんだ。そして、ネッツ君が悪いわけでもないだろう?八つ当たりなんて、聡明な紳士がやることかな?」
鋭い指摘にメッコーは怒りのやり場に困っていた。メッコーはぐっと堪え、唇を噛みしめ、首を横に振った。
「そうだね。今は辛い時だけど、君はいつか立ち直ることができるはずだよ」
メッコーは唇を噛んで黙ったまま、テンヘンを見て何度も頷いた。
次に、テンヘンはネッツの方を向いた。
「さて、ネッツ君。ここで元気よく喧嘩をしてもいいが、ここは聡明な紳士淑女を育てることにも注力しているフュールイ学園だ。ここで喧嘩するのかい?」
今にもネッツを殴りそうだったメッコーの行動は褒められたものではない。しかし、ネッツはメッコーと喧嘩をしようとしていたのは事実だ。売られた喧嘩は買うつもりでいた。
「喧嘩なんてしない!でも、メッコーが急に、俺のせいだって言ってきたから」
「君のせいじゃないだろう?」
「うん」
「じゃあ堂々と否定すればいい」
「でも、メッコーが・・・」
メッコーが向かってきたとはいえ、カッとなったのはネッツも同じだ。
「うんうん。メッコー君が感情的になって掴みかかってしまったんだね。ショーン君を突き飛ばした。それは良くないことなのはわかるね?」
メッコーは唇を硬くしたまま頷いた。
一人頷きながら、テンヘンは両者の顔を交互に見た。
「よーし、双方の言い分はわかった。はい!この件はもう終わり!いいね!?」
テンヘンは指を鳴らした。
教室にいた生徒たちは、テンヘンが他の教師のように一方的に叱らないことにざわめき始めた。2人を諭し、見事にその場を収めた異色の教師を見る生徒たちの目が急に変わっていく。
喧嘩をした者は、それを応援した者を含めて、担任の教師にこっ酷く叱られるのが常だった。有無を言わさずに両者に謝罪の言葉を口にさせ、強制的に仲直りの握手をさせられ、しばらく教師に人間関係の矯正を監視される。場合によっては関係した生徒全員が反省文を書かされ、それが教師に認められなければ、反省文の書き直しや校内の掃除を任される羽目になる。
テンヘンは生徒達の声を聞き取って、わざとらしく大声で笑った。
「仲直り?それは当人たちがしたければやればいいですよ。許せないものは許さなくていい」
テンヘンの言葉に、教室の生徒は唖然とした。
「謝らなくていいのか?」
メッコーはテンヘンを見た。
「君自身が悪いと思って謝りたかったら謝ってもいい。気持ちの整理ができていないのに、いやいや謝るのかい?」
メッコーは俯き、考え込んだ。
メッコーの怒りとネッツへの苛立ちはまだ全て過ぎ去ってはいないだろう。しかし、テンヘンに言われて冷静に考えられるようにはなっているようだ。
「謝った側は気持ちが軽くなるけど、謝られた方が許すかはまた別の話さ。だからネッツ君もショーン君も、メッコー君のことを許せなかったら許さなくてもいいんだよ」
規格外の教師は、ネッツとメッコーの肩を叩く。
「さ、下校時間だ。帰ろう!解散!」
テンヘンはネッツを連れて教室を出た。ネッツを連れ出してくれたのだ。
「ネッツ君、お遣い頼まれただろう?」
テンヘンはコーリィからお遣いを頼まれたネッツを教室まで迎えにきたのだ。コーリィはテンヘンの部屋にある論文を譲り受けるという約束だった。
「うん」
テンヘンの後を歩きながら、ネッツは俯いた。
メッコーからしたら、コーリィは叔父の議員を逮捕させた悪魔かもしれない。メッコーがいばり散らしていたのは、叔父が議員という権力者だからでもある。その後ろ盾がなくなった今、クラスメートがよそよそしくなり、メッコーがメグリエの家に憎悪を抱いても仕方がないのかもしれない。
テンヘンが止めに入ってくれてよかったとネッツは思い直す。体の小さいネッツがメッコーに喧嘩で勝てるわけもないし、収集がつかなくなるところだった。もし、喧嘩が担任に見つかっていたら、メッコーを依怙贔屓しているエコのことだ、ネッツのせいでなくとも、一方的に叱られるところだった。早く止めてくれて助かったと思える。
テンヘンの部屋に入ると、またテンヘンは琥珀のような少しだけ焦げた砂糖の味のする飴をくれた。香ばしく、そのクセのない甘さにネッツはこの飴が大好きになってきた。
山積みの本と標本は相変わらず。一昨日崩れた塔はほとんど元どおりだ。また崩れるのではないかと心配になってしまう。
その中で、白い水槽に赤と黒、白のコードが多数繋がっているものにネッツは釘付けになった。
本や標本以外でテンヘンの部屋で見たことがないものだったからだろうか。
ネッツはその実験装置を凝視する。白い水槽には何も入っていないが、液体が入っていて乾いた跡が残っている。何本ものコードが水槽の中や周りに繋がっている。
いったいこれはなんだろう。見たことがないもの、いや、似たようなものをネッツはキーウェルの部屋で見たことがあるような気がした。きっと何か実験に使うものだろう。
キーウェルは器用に何かガラクタを集めて何かを作っていたことがあった。
「ネッツ君?」
我に帰ると、テンヘンはネッツに数枚の紙を差し出している。コーリィが欲しがっている論文だ。
「あ、ありがとうございます」
まさかこの中から見つかることがあるのだとネッツが思ったのが顔に出たのだろう、テンヘンは得意げな笑顔を向ける。
「ちゃんと、ここにあるものはすべて覚えていますし、配置だってわかっていますよ」
「またテンヘン先生が埋まったら」
「ははは・・・片付けする場所もないな」
テンヘンは乾いた笑い声とともに頭をかく。
「これ、なんだ?」
ネッツは見ていた水槽とコードのついた何かわからないものについて、聞いてみた。
「あぁ、それは実験器具でして、水槽に液体を入れて電気を流すんですよ。金属の析出なんかの実験に使います」
「へー」
ネッツにはわからないので、そうとしか答えなかった。
「そうだ、消える石、見てみたくはないかい?」
とっておきの魔法だというように、テンヘンは得意げな笑顔を見せる。
「見たい!」
魔法なのか手品なのか。ネッツは消える石をこの目で確かめたい。
テンヘンはガラス容器やそれにつながるガラスの管、布でできた袋などを繋いで実験系を組み立て始める。
テンヘンはガラス容器に少し緑がかった灰色の小石を数粒入れた。布でてきた袋は黒色の塗料を塗って空気が漏れないようにしたもので、袋の中の空気は抜かれてぺちゃんこだった。
「ここに消える石が入っているが、少しだけ温めると消えるんだ」
得意げな顔のテンヘン。
「石はあるぞ」
「よく見てて」
テンヘンはバーナーでガラス容器の底を炙った。だんだん加熱されてきたところで、ネッツの目の前で石は煙のように消えた。
「消えた!どうやったんだ?」
テンヘンはガラス容器からつながるガラス管、そして布でできた袋を示した。
「実は石は見えないだけで、この袋の中でガスになりました。袋が膨らんだだろう?」
テンヘンの言う通り、ガラス管が繋がっている袋は膨らんでいる。
「実は、これをコーリエッタ君と実験していたのですよ」
熱を加えると急にガスになる膨張石の体積の膨張を生かし、温度差発電に利用するための研究をしていたという。
メッセで見た温度差発電の装置について、コーリィはテンヘンがいつでも見せてくれると言っていたが、それがこの実験だったのだ。
確かに魔法のように、少しガラス容器を炙っただけで石は消え去った。
コーリィとテンヘンは、膨張石の膨張率について温度を変えて調べ、最も効率の良い値を調べていた。固体でいられる膨張石の最高温度と、そこから一気に気体に変わり体積を膨張させるかが問題であった。加熱して一気に増える体積により、閉鎖空間内での圧力を生み出し、発電機のコイルを回す力とするのだ。
スナバラ以外の町では、発電機が発明され、その発電機についたコイルを回す力をどう得るかが発明の潮流であり、発明家たちの腕の見せ所となっていた。
鉱物学者であるテンヘンは、膨張石という熱を加えると消える奇妙な石についてコーリィに教えた時、以前話していた発電機の仕組みのことを思い出した彼女は、温度差発電という利用方法にたどり着いたのだ。
膨張石は灰色の少し緑がかった色をした石で、紅夜石ほど希少価値の高い石ではなく、何度でも固体と気体を行き来する石である。
膨張石の固体から気体に変わる昇華と、気体から固体に変わる凝華を繰り返し、閉鎖系の中で、コイルを回すための回転羽根を回す力にするという発想に至った。その基礎実験をコーリィが在学中に、テンヘンとやっていたという。
「先日のメッセでは、この石を使って発電する方法を紹介したんだ。みんな驚いてくれたけど・・・」
テンヘンの顔は暗かった。
「出資してくれる人はいなくてね。議長にも手紙を書いたことがあるのだけれど」
テンヘンはため息をついた。
「実験は上手くいったのに?」
実験がうまくいっても、それを大規模に行うため、スナバラで使ってもらうための投資が必要だとテンヘンは言った。魔法のような技術を娯楽として楽しむ者ばかりで、将来を懸ける者は出てこないのが現実だ。
「ああ、あとは実行だけなんだけど、なかなか資金が集まらないものだね。みんなマキシカが好きだからね」
「コーリィと実験してここまで頑張ったのにな」
「そうだね」
テンヘンの右手の傷がその証だ。その傷は実験を繰り返しているときに、予想外の膨張が起こった。ガラスが割れて、テンヘンの勲章となった右手の傷ができた。
テンヘン・テンヘンと瓜二つのラゥル・コソックとを見分けるには手の傷跡の有無を調べれば良いというほど、テンヘンの特徴のひとつかもしれない。
「実は、ガラスが割れたのは実験系の方だけではなくて、窓もなんですよ」
テンヘンが示す実験室の窓の右下には、外側から板が当てられ、内側から油紙を貼られている。部屋中に積み上げられた本や標本で隠れており、窓の惨状にネッツは気づかなかった。窓は不自然に割れているようだった。
「爆発して窓も割れたのか・・・」
ネッツは消える石の威力を脅威と感じた。温度差発電に使えるまでに、学者はいくらでも失敗をするのだろう。その失敗は危険なものもあるということだ。
窓硝子を新しいものに変えないのは、この部屋に入って修理を行うことが難しいからだった。ネッツは唖然として割れたままの窓を見ていた。
「あはは、実は、あれは私が割ったんです。膨張石のガスは吸い込むと厄介なんですよ」
テンヘンの手の怪我は実験系のガラス器具が破裂した際にはそれほど大きな傷だったわけではなかった。量は多くはないとは言え、膨張石ガスがどのくらい有毒かも不明だったこともあり、自身とコーリィの危険を減らすため、機転を聞かせて窓を開けるか、窓を割るまでは、咄嗟に頭が回ったのはさすがである。
しかし、落ち着いていたはずのテンヘンは、どこか高揚しており、近くにあった瓶や標本の石や分厚い専門書の角で窓硝子を割るよりも先に、右手の拳が窓を貫通していた。
「いやぁ、私もすっかり慌ててしまって。コーリエッタ君の冷静さには驚いた」
コーリィは慌てずに、割れた窓を開け、テンヘンの腕の怪我の止血をしたのだ。彼女は冷静でどんな状況でも対処してしまうのだろう。暴走マキシカに対しても心乱されることもなく、淡々とクールショットを打ち込むのは、こういった彼女の経験からかもしれない。
「これがこの傷痕の真相・・・」
ネッツは唖然としたが、言葉を発した。
「すごい!テンヘン先生すごい!」
ネッツは純粋に彼を称賛した。テンヘンと出会った時は、ラゥル・コソックとそっくりで、部屋の惨状をみて驚愕し、警戒すべき人物だと思ったネッツだったが、彼のことを知ると印象は大幅に変わった。
若き天才であり、コーリィともに都市の発展に関わる発明をしたのだ。
伸びた髪を結び、四角い眼鏡をし、煤けた白衣に、皺々のシャツという姿から、彼のことを警戒する生徒も多い。しかし、彼はよい教師であり、天才発明家である。彼にこれ以上望んだら、それこそ面白みのない完璧な人間なっていただろう。




