第39章 お嬢様の調べ物
その日は雨季の合間の晴れの日だった。清々しく晴れたが、朝は少し肌寒かった。
コーリィは新聞を読んでいた。父親がそうしていたから、自身もなんとなく新聞を手に取るようになったが、まだまだ知らないことやわからないことを知ることができるのがこの日課の成果だとコーリィは考えている。初めは興味のあるところ、マキシカやメグリエ機関に関する記事、それから様々な広告を眺めていた。今は日々移り変わる都市の情報を追いかけるために、目を通すようになっていた。
マキシカの暴走事故を引き起こした疑いで逮捕されたラゥル・コソックよりも、都市議会議員のロマーク・クラムが大きく新聞で取り上げられてから少し経った。一人の議員が孤児院の院長の失踪事件に関与しているという疑惑のほうが、市民の関心を集めるからだろう。ロマーク・クラムが議員を辞任したことを知らせる記事が載っていた。
一方、新聞社の一人の記者がマキシカ暴走事故を引き起こした件に関しては、謎が多く何もわかっていない状態と報じている。コーリィが知らない情報があることは確かだ。警察が取り調べや関係者からの聞き取りをしなければ、全貌が明らかになるまで数ヶ月以上、いや数年はかかるかもしれない。
ラゥル・コソックに人々の関心が向くのは少し先のことだ。都市一の発行数を持つスナバラ・タイムズは、自社の記者が逮捕されたことを、穏便にそして関わりなどなかったと書きたいと願っている。他の新聞社も中立の立場で報道するべき新聞のはずが、どこか恐る恐る記事を書いているようで、自身の身内に不届き者がいないか、互いに目を光らせていることだろう。
コーリィは午後から出かける準備をしていた。ヒャリツに関して、わかるところから調べて行く必要があった。
ヒャリツはスナバラの者なら誰でも知っている。涼しい風と貯水のためのスナバラの地下に広がる鍾乳洞とである。そこに少し手を加えて皆がその恵みを受けられるようにしたのが、現在のヒャリツだ。しかし、その地下の迷路の全てを知っている人はいない。人が通れない風だけが通る小さな穴が続くところもあれば、乾季になっても地下水が溜まって水没している場所もあるという。ヒャリツは都市の地下に広がる平面な迷路ではなく、立体的に入り組んだ水と冷気を蓄えた地下迷宮だ。スナバラの上にいる市民はヒャリツの恩恵を受けていながらも、ヒャリツのことをほとんど何も知らないのだ。
「コーリィ、どこに行くんだ?」
ネッツがそわそわと期待する目で話しかけてくる。寝癖がついた赤毛が揺らめく炎のようにふわふわと揺れる。
「博物館よ。ヒャリツの地図を見せてもらいに行くの」
「博物館?」
ネッツは数週間前に学園のクラスメートと社会科見学に行った場所だ。
「ヒャリツの地図なんてあるのか?」
一般にはヒャリツの地図は出回っていない。ヒャリツの修繕や拡張工事を行う際に利用されるため、市民がお目にかかることはまれだ。
「あるわ。古い地図も見たいから、博物館で見せてもらうことにしたの」
ネッツはコーリィに目で訴えかけてくる。一緒に行きたいのだ。
「ネッツ、助手としてついてくる気はある?」
ネッツは嬉しそうに頷いた。
コーリィはノートとペンを持って出かける。ネッツはお供としてついていくことに嬉々としている。彼はコーリィの助手の気分なのだ。
博物館は、開館日であったが人はまばらだった。
コーリィは白い建物の入り口から入ったものの、博物館の順路とは異なる一般の人が入らない奥の部屋にどんどん進んでいく。ネッツはきょろきょろしながらコーリィについてくる。
博物館の奥には、マキシカ管理局があったが、手前でコーリィは左の廊下に進む。
ネッツは不思議そうな顔をしてついてきた。博物館見学では足を踏み入れなかった場所らしく、そわそわと落ち着かない様子である。
マキシカ管理局に至る前の廊下の壁に大きな詩が掲げられている。陶器をパズルのように組み合わせた大きな作品である。
渦巻く模様と、二篇の詩を彫り、深い青色と目の覚める黄色を白い陶器に乗せた躍動感と静寂が同居しており、芸術的価値もあるものと見える。その詩はマキシカ管理局の御前らしく、夕日の歌の歌詞だった。夕方にマキシカの停止を知らせるために、都市に流されるスナバラ市民なら皆知っている曲の歌詞だ。
マキシカ管理局に来た者しか目にしない場所に展示されているのがもったいないくらいだ。コーリィだって、マキシカ管理局にはほとんど来ることもなく、こんな作品が展示されていたことさえ知らなかった。
その芸術作品に赤毛の少年は左手の指を這わせるように触れかけていた。
「ネッツ!」
ネッツはびくりとした。
「触ってはだめよ」
ネッツは手を引っ込め、作品に触れようとしていた左手を右手で掴んだ。無意識に触ることを右手で抑えるつもりだろう。
「私たちはこれから、地図を見せてもらうの。博物館が所属する大切な地図よ」
「うん」
「ネッツ、くれぐれも博物館の貴重な資料に傷をつけることがないようにするのよ。触ってはいけないものもある」
ネッツはそれを聞いて、気を引き締めた顔をしたつもりだろう。緩んでいた表情が真顔になった。
二人が博物館の奥にある閲覧室にたどり着くと、そこには学芸員の女性が立っていた。
「お待ちしておりました、コーリエッタさん」
ブルネットの髪をシニオンに纏めた女性は、ネッツたち学園の生徒に博物館の展示物を説明してくれたララだった。
閲覧室の真ん中には大きな机があり、本棚に囲まれた、一般の人は入れない部屋である。
「ララさん、こちらこそ、急にごめんなさい。地図はありましたか?」
「えぇ、保存してありましたよ」
ララは白い手袋をして、大事そうに大きな黄ばんだ紙を閲覧室の大きな机の上に広げる。
「こちらは、五十年前のヒャリツの地図です。都市全体が一枚に入っているのはこれだけです」
テーブルクロスのような大きさの厚みのある紙に、細い線で寸分たがわぬように、書き込まれた線は、西から伸びた動脈を都市の下に広げるように、そして都市の中心から同心円状に広げたかのような複雑な地下道を示していた。ヒャリツを真上から見た地図らしい。
ネッツは地図の見方もわからぬまま、ぼんやりと眺め、コーリィの顔色を伺う。コーリィが何か思いつき、閃き、口を開くことを彼は待っているようだ。
地図はところどころ道が重なったり、広い空間があったり、複雑な立体迷路が書かれていた。ヒャリツの地下道は平面的なものではなく、階層があり、地上から降りる経路があり、そして貯水池として機能する広い空間もあった。
改めて眺めると、ヒャリツは複雑で一度入り込んだら、二度と出てこられないような迷宮のように見える。
コーリィとネッツがヒャリツに落ちた時、無事に地上に出られたのは、低い確率のことだったのかもしれない。凍える寒さの中で、冷静になれたことと、盗まれたメグリエ機関の隠し場所を発見できたことから、ヒャリツへの出入口を見つけられたことが幸運だった。
都市の地下で血管のように広がり、枝分かれる水路を眺めていると、規則性が見えてくる。
西側からヒャリツの冷たい風は来ることからも、西側のどこか、そして都市の中に入る前の主要な地下道にヒャリツのマキシカはある。コーリィはそう考えていた。
その予想通り、西側から東側に向かって、ヒャリツの迷路は地中深くなっていく。西側は風を通し、東側は貯水池が多く見られるのは、西側と東側でヒャリツの深さが違うからだ。西側に一部深いところもあり、そこはほとんど水で満たされるのだろう。
コーリィは地図に顔を近づけ凝視する。観察すれば何か規則性に気づけるはずだと信じて。
問題はこの地図が古すぎることだ。千日干乾よりも前に作図されたものである。ヒャリツはもともと自然の鍾乳洞だが、都市の人口が増えるに従い、住居が増え、ヒャリツの冷風や地下水をより多く貯められるように、ヒャリツを掘り進んで増築したらしい。コーリィが知りたいヒャリツの中にあるマキシカのためにヒャリツの拡張工事した可能性だってある。千日干乾の最中にヒャリツのマキシカは作られたからだ。
「ララさん、最近のヒャリツの地図はありますか?」
「十五年ほど前に描かれた、数枚に分けられた詳細の地図があります。ここ数年に拡張や補修工事があったものは反映していませんが」
「それも見せてください」
ララが持ってきたのは、もっと白い厚めのしっかりした紙の地図だった。一辺十五クルカほどの正方形の地図には、五十年前のものよりも、より詳細に、細い地下道や太い地下道には道幅がかかれている。地下の貯水池には数十イルから数万イルほどの最大貯水量も書き込まれていた。都市の地下を複数の地域に分けて描かれた近代的な地図だ。ヒャリツの拡張工事が行われているのは、都市の人口が増え、住居を作った際に、ヒャリツの恩恵を受けられるようにするためであり、珍しいことではない。
コーリィは五十年前と十五年前の地図を見比べた。新しい地図は細かな情報も多いが、一枚ではなく、寸法も異なるため、見比べるのにも一苦労だ。
コーリィが地図とにらめっこしてわかったのは、十五年前の地図には、ヒャリツマキシカがあると思われるヒャリツの源流、都市の西側に当たる場所は地図には描かれていないことだった。
「ヒャリツの源流については何かわからないかしら?確か西側から風が吹いてくると言われてますよね」
「この本に少しだけ書いてあります」
ララは古い本のあるページを開き、コーリィの前に示す。
ヒャリツをわかりやすく書いた黄ばんだページ。それによると、ヒャリツの西にある源流に行くには、途中に道が細くなり複数の地下道のある洞窟となっていて、人は先に進むことができないと書いてある。沙漠の下を通り都市に向かう冷たい風と水、湿気は、その網目のような道を通り、都市の地下にたどり着くのだそうだ。その際に地下水が濾過されるという記述もある。ヒャリツの源流の洞窟は西に向かうとまた広い空間になり、冷たい空気を都市に届けているということだ。礫沙漠の下をそんなうまくできた洞窟が形成されたことも奇跡と言える。
この話が本当であれば、ヒャリツのマキシカはこの網目の迷路のような場所の都市側にあるか、隠すためにその西側にあるのだろう。ヒャリツのマキシカの設置は、沙漠上で部品を運び、穴を掘り、ヒャリツの中に設置したことになる。
いや、もしかしたら、一般市民にはヒャリツの源流には行けないことを知らしめるためにそう書いてあるのではないかとコーリィは疑った。メグリエ家、マキシカ家、そして都市議会議長だけが知っている事実を隠ぺいするための方便の可能性だってある。
その本は、スナバラの歴史や人口、産業、人々の生活などを扱った、一般的な情報をわかりやすくまとめたもので、図書館でも閲覧が可能な本だろう。スナバラ市民や他の都市の人間がスナバラのことを知るために参照するためのものだ。マキシカ家やメグリエ家、歴代の都市議会議長のみが知るヒャリツの秘密など書かれているはずはない。
徹底的にヒャリツのマキシカのことを隠したのだろう。博物館で閲覧できる資料には、コーリィが知りたかったヒャリツのマキシカのある場所を特定できるような資料はないようだった。
コーリィはもう一つ、博物館の知見を拝借することに決めていた。
「ララさん、これ見たことないかしら」
コーリィは小型の機械が吐き出した記号ばかり並ぶ紙切れをララに見せる。
コーリィの父親の書斎で見つけた紙切れに印刷された線と点の記号たちをコーリィも暗号と考えていた。博物館の人間なら、見たことがあるかもしれない。
「何でしょうかね…見たことがないです。館長なら見たことがあるかもしれませんが、しばらくウミナトに出掛けられていて」
ララは困った表情を浮かべた。しかし、思い当たることがあったようだ。
「古代フッジ文明にも模様を刻んだ石板が出てきて、古代文字という説があります」
「古代文字…?」
学芸員の返答が予想外であった。
「ええ、石板に絵が書いてあったのですが、絵の上下にそんな模様が書かれていました。ただの模様かもしれませんし、文字と考えている学者もいます。それに似ているようにも見えます」
コーリィの興味は一気に引き込まれた。
「その古代文字は解読されているのですか?」
「いいえ、解読はされていません。石板の絵に関するものが書かれていると考えられているのですが、文字にしては種類が少なすぎるのです
ララはその古代文字や石板について書かれた本を取りに博物館の奥へと行き、本を持って戻ってきた。石版についてそのスケッチや解析した結果を考察したスナバラ外の考古学者の書いた本だという。
本としては図鑑よりもさらに一回り大きな本だった。石板の写しやスケッチをページいっぱいに載せるため、ここまで大きな本になったのだろう。
ネッツはスケッチのページを興味深く見ていたが、文字ばかりのページを開くと嫌そうな顔をする。
石板のスケッチをみると、欠けて平行四辺形に近い形の板の中心に描かれていた。横を向いた人間数人が取り囲む四つ足の動物だ。その絵の上下に、4種類の記号が並べられていた。記号はコーリィの持つメモと同じように見える。
紙切れに印刷された4種類の記号と古代文明の文字との類似の理由はわからない。古代、その文字を使っていた人々が、父親の部屋にあったような機械を待っていたわけではないのは確かだ。なぜなら、古代文明が栄えたのは今から三千年以上も前のことであり、このオアシスがスナバラと正式に名乗り始めたのは、七百年ほど前のことだ。三千年以上前の時代に、文字はあっても文字を打ち出す機械は無かったはずだ。
古代文字が解読されていないとしたら、古代文字を見て、その表現方法を利用した暗号を作り出したと考えるのが自然だろう。
「コーリィ!調べものかい!?」
リオード・P・マキシカが意気揚々と閲覧室の扉から顔を出した。彼は博物館内にあるマキシカ管理局のマキシカ管理官を務めている。コーリィが博物館に来ると聞いてやってきたのだった。
ネッツは彼の顔を見て少しだけ残念な顔をした。リオードは誰にでも明るく話しかけるが、ネッツにとっては苦手な人物なのかもしれない。
「御機嫌よう、リオード」
「こんにちは、コーリィ、ネッツ」
「こんにちは」
ネッツはつまらないと言ったような小さな声だった。
「こら、リオード。いくらお嬢さんがきているからと言っても無断で出ていかないでくれ」
短髪に、どっしりと構えた余裕のある表情の男が、部屋をのぞく。オゥサン・アリブレは、マキシカ管理局の古参の職員である。リオードとともに行動することが多く、まだマキシカ管理局にやってきてから日の浅いリオードの教育係であるのだろう。
「ごめんなさい!」
管理局で働き始めて一年に満たないリオードは、慌てた。
「こんにちは、コーリィ、ネッツ。博物館で調べ物かい?」
アリブレはリオードの肩を叩いて、落ち着けと合図をする。
「はい。都市の古い地図と、暗号の解読についてです」
コーリィは堂々と答えた。
「暗号なんてロマンがあるなぁ」
目尻にたくさんの笑いを集めた古参の職員から溢れる。
「この暗号を見たことありますか?」
コーリィはアリブレに尋ねてみることにした。知識の量は年の功が勝る。古いものなら、見たことがあるかもしれないからだ。
アリブレは不思議そうにその暗号らしき棒や点の書かれた紙切れを目を細め、少し離れながら見つめる。
「見たことはないな。暗号なのかい?」
「いえ、暗号かどうかさえ、わからないんです。古代文字に似ているか見比べていたところです」
「古代文字か。それも浪漫があるなぁ」
アリブレはしみじみと頷く。
「今日は、ヒャリツの地下水の増減を知りたくてきたのですが。リオードがマキシカ管理局で記録していると聞いて」
コーリィの今日の目的の二つ目は、ヒャリツに貯まっている地下水の水深を知るための数値記録を得ることだ。
「貯水池の水面までの距離の測定をしてる。マキシカ管理局が長年続けてきた記録なんだ」
博物館のほぼ真下にあるヒャリツ内の貯水池の水深を測定しているという。
「水不足の予想をするには測定をしないとならないんだけど、水深は計算で出すんだよ。でも、うちは測定した数値を地下水管理機構に提出するだけで、水深の計算方法はわからないんだ」
「その数値の記録、見せていただけませんか?」
コーリィはララに礼を言い、地図を片付けを手伝った。コーリィはリオードたちとマキシカ管理局の部屋に向かう。ネッツはおずおずとついてくる。
管理局は書類の積み上がった机がいくつか並び、幾人かの職員たちが書類と睨めっこしていた。雨季のマキシカは点検を行うことが多いが、管理局が直接管理する発電マキシカやポンプマキシカもそれにあたる。しかし、止まると市民の生活や生死に関わるマキシカのため、一斉に点検を行えないのだ。また、大型のマキシカのため、点検を行う専門職員に来てもらう必要がある。それに加え、市民が所有するマキシカが点検を終え、結果を報告する時期にも当たり、書類が増える時期であった。
アリブレが見せてくれた帳簿には、マキシカ管理局が長年記録し続けている博物館の真下にあるヒャリツ内の貯水池の水面までの距離が記録されていた。
ヒャリツの中には小さなものから大きなものまで大小様々な貯水池がある。貯水池を人工的に広げたり、隣の貯水池と繋いでより多くの水を溜められるように工事を行った場合は、貯水槽と呼ばれる。貯水池や貯水槽には、番号がついており、管理されている。
貯水池に貯まる水の量の単位はイルであり、昔は八人が一日に使う水の量をもとに、一イルを定義されたと言われているが、今ではそれはかなり少量だ。一人あたり一日に平均一イルの水を使うようになっていた。それは治水や貯水槽の拡大、節水の知恵と蓄積から、乾燥地帯とはいえども不自由なく水が使用できるようになったからでもある。
数十万イルほどの水を溜められる特に大型の貯水池には、固有の名前がつけられていることがほとんどだ。毎日、水面までの距離が計測、記録されている。沙漠の中の都市スナバラは、貯水量こそ生命線であるため、マキシカ管理局が一つの貯水池の測定を担当しているが、他のほとんどの貯水池の測定は、都市全体の水を管理する議会直属の水管理機関により行なわれている。
マキシカ管理局が記録するのは、博物館の真下にあるスナバラで二番目の深さと言われるシツカズア貯水槽である。貯水池の雨季にはいれば少しずつ増え、乾季には徐々に減り、雨季の直前には水量がほぼない貯水池も現れる。このシツカズア貯水槽は底が見えたことがないと言われ、地表からの最大深度は一オクルカはあるという。
マキシカ管理局は、管理局のある博物館の真下にあるシツカズア貯水槽の水深を測っていた。
コーリィは帳簿をじっと見つめる。水深のほかにヒャリツ内の温度と水温も測定されていた。
「これは、温度ですか?」
「あぁ。水温と温度と両方測らないと、貯水量を予測する公式で計算ができないんだ」
「公式?」
「雨季になれば貯水量が増えるが、いつ、貯水量が最大になるのかは毎年異なるんだ。昔、計算方法を考えた人がいて、その公式には、雨季が始まった日から前日までの降水量が必要なんだと」
コーリィはいつ、ヒャリツの地下水が最大量になるのかを知りたかった。雨季に降った雨は、ヒャリツ内の低い横穴から水が満たしていくだろう。水没していくヒャリツ内にいるフレイザとミッゲルがいる場所の途中も水没して先に住めない可能性があるからである。
しかし、雨季の雨量は毎年まばらであり、最大に達する日は毎年違うため、例年の最大量に達した日を調べるだけでは、今年のその日の予想を外すことになるのだ。
「水深の数値は、水管理機構が水不足になるかどうか、例年の水深と比べて、計算して予想を発表するそうだよ」
たしかに、雨季の終わりに、ヒャリツに溜まった水量から乾季中の節水の呼びかけや、水不足の予想が発表される。そのための記録だ。
シツカズア貯水池はスナバラの中心に程近い博物館のほぼ真下にあることから、地下水管理局よりもマキシカ管理局が水深を測定することになったことは不思議なことではない。
「その公式と、水深の数値がわかれば、今年の水位が最大になる日を計算して、予想できるんですね」
「そうだよ。お嬢さんはそれが知りたいのかい?」
「はい」
「数値はここにあるが、公式は・・・確かミズモーって公式だよな?」
マキシカ管理局は記録を地下水管理機関に提出するのみで、どうやって計算して水量の予測をするのかは知らないようだった。
「ミズモーの公式ってことは、ミズモーって人が考えた公式?」
リオードは聴き慣れない公式だったが、人名であることは予想がついた。
「図書館に行けば、調べられるかしら」
「学園の図書館ならなんでもあるだろう」
コーリィはミズモーの公式を得るために、フュールイ学園の図書館に行く必要があるということだ。
「ネッツ、この数値を全てここに書き写して。数字は得意でしょう?」
コーリィはノートとペンをネッツに渡した。
「これ、全部!」
ネッツは素っ頓狂な声をあげた。何人かなら管理局の職員がネッツを見やった。
「静かに」
コーリィはネッツを険しい顔で叱る。ネッツは無言で何回も頷いた。
コーリィが示したのは、目の前の三冊の帳簿に描かれた毎日のヒャリツの数値のうち、水量そして都市の最も西側の地域の降水量、そして気温だ。
それを三年分、間違えずに書き写すのだ。コーリィは十年分ほしかったが、ネッツと二人で書き写せるのは三年分だろう。
「僕も手伝うよ」
リオードも加わり、紙切れに数値を書き写す作業が始まった。
マキシカ管理局の机を借り、三人で並んでペンを走らせ、古い帳簿から途切れることなく毎日ちゃんと計測された数値を書き写していく。
手が疲れて動きが鈍くなっても、ずっとだ。黙々と作業する。
マキシカ管理局では、日々マキシカの管理に関する業務が行われている。漏れ聞こえてきた職員たちの会話に、ネジッレマキシカの話があった。
コーリィは目の前の数字を間違いないように書き写しながら、耳を澄ます。ネジッレマキシカは何とも不運なマキシカでラゥル・コソックが甘いものが嫌いという理由だけで二度も暴走させられた。
ネジッレマキシカは小型の移動式マキシカのため、ヒャリツで冷やすことが義務づけられていない数少ないマキシカだ。しかし、短期間の二度にわたる暴走もあり、マキシカ管理局と協議の上、移動式をやめ、固定式でヒャリツで冷やす仕様になることが決まったという。人為的な暴走とはいえ、こうでもしなければネジッレマキシカは生かしてもらえなかったのだ。
都市の東側にネジッレマキシカがつくるネジッレの店を構えることになるらしい。メグリエの屋敷からは少し離れる。ネッツがこの店のネジッレを気に入っていたから、少し寂しいものだ。
「お嬢様は研究熱心だねぇ」
アリブレは三人を見守りながら、書き写し終わった帳簿を分けていく。
黙々と作業して、やっと書き写し終わった。皆、利き手が痛みと疲労感で感覚が少し鈍くなっている。
「ありがとうございました。リオード、アリブレさん」
「いえいえ。水位の予想でしか使われてないから、記録を利用してくれる人が他にもいると私たちも記録を取る励みになるよ」
アリブレはコーリィにも親切に対応してくれた。リオードも頼りにしているのだろう。
「ネッツもお疲れ様」
ネッツは少し疲れた顔をして手首の調子を手を振ることで調整していた。
「水不足の予測計算のミズモーの公式の論文はフュールイ学園の図書館に原本があるらしい。これがタイトルだ」
アリブレから本のタイトルの書かれたメモをコーリィは受け取った。
「ありがとうございます」
「お嬢様は何を調べているんだい?」
アリブレは興味本位の質問に、ネッツが口に出してしまった。
「実は俺たちヒャ・・・」
コーリィは手でネッツの頭を少し強めに押さえる。癖っ毛の赤毛がコーリィ手を押し返す。
「ヒャリツの中でメグリエ機関が見つかったのもあって、ヒャリツの構造を知りたくて。ヒャリツの温度が上がっているときいて、水量との関係を調べています」
ネッツは変な顔をした。コーリィが父親と叔父を探しにヒャリツに行くことは秘密だったのだ。ヒャリツはとてつもなく寒く、地下水に落ちた際には心臓が縮み上がったほどだったのに、その温度が上がっているとコーリィが空事を言ったようにも聞こえた。
コーリィはネッツの頭をさらに押さえつける。
「確かにヒャリツの温度は上がってるとはいえ、ヒャリツに落ちたのかい?!大変だったねぇ。頑張ってな」
アリブレの言葉から、ヒャリツの温度は上がっているのは事実らしい。ネッツは昔もっとヒャリツが寒かった頃を想像し、寒気がした。




