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第3章 一撃の氷花

 涼しい風がネッツの頬を撫でた。

 案外、痛くも痒くもなく、この灼熱の都市から脱したのだとネッツは思った。ひとりぼっちの自分の死を悲しむ人なんてそう多くはない。

 熱都市から解放されて、ネッツの体はふわりと浮き上がり、涼しげな遠い空の向こうへと飛んでいった。

「貴方、生きてる?」

 声が聞こえ、ネッツは恐る恐る目を開けた。

 遠い空、地平線になどネッツはいなかった。背後にはマキシカ。目の前には嵐が去った後のような有様。

 そのマキシカは動力源を失ったように、静止している。もう熱を発しておらず、凍りついたように止まっているようだ。

 マキシカの針にシャツの裾を固定され、襟と右腕を金属腕に掴まれたネッツは身動きが取れない。

 ネッツは生きていた。

 あと数針で、この仕立屋のマキシカはネッツ自身にも針を突き立てていただろう。シャツの裾はがっちりとマキシカに嚥下され、ネッツの背中はマキシカに張り付いていた。

 ネッツを覗き込むのは、右手に不格好な銃を持った少女だ。

 太陽に映える明るい砂色の髪を束ね、ゴーグルを頭に乗せている。女だというのに、スカートもはかず、ベストにズボンを着た少年のような出で立ち。

 その小柄な彼女は銃口の大きな銃を携え、大きな青い瞳でネッツを覗き込んでいる。

 少女はネッツを見て首を傾げた。眉をひそめ、不機嫌な様子にも見える。

 彼女は動きを止めたマキシカの作業台に軽い身のこなしで乗り、ネッツの傍までやってきた。

 彼女は傍から、キラリと光るナイフを取り出した。

「おい!」

 ネッツの焦る声を聞き入れず、少女は表情一つ変えず、ナイフを逆手に持ちかえる。

 ネッツの視界からナイフが消えた時、ネッツはマキシカから解放された。

 彼女はマキシカの針が刺さったネッツのシャツの裾を切り離したらしい。作業台はもともと布が滑りやすいよう滑らかな作りで、ネッツはするりと作業台の上を滑り、空を仰ぐ。

 太陽がネッツの体を照りつける。

 ネッツは生きている。自分が死ぬということがわからないが、生きている。いつも鬱陶しいほどの熱を降らせる太陽が今はネッツのことを祝福してくれているようだ。

 背中が熱い。シャツの裾が切り取られて背中が熱せられたマキシカの作業台に横たわっているからだ。

 ネッツは上体を起こし、テイラーマキシカの作業台から降りた。

 辺りを見渡すと道に様々なものが散乱していた。逃げた人々は遠くでわめいているようで、風の向こうで人々の声が聞こえる。様子を伺いたい気持ちと恐怖心が混ざり押し固まった中で騒いでいる。

 ネッツがマキシカを見上げると、マキシカの側面には透き通った水晶の花が開いていた。透き通る白く煌めく八重咲きの大輪が一つ。

 ネッツは初めてこんな大きな花を見た。その花は氷でできており、それもまたネッツが初めて見たものだった。この暑い街でこれほど巨大な氷などなかなか見られるものではない。突如、マキシカに氷の花が咲き、涼しさを感じたのだ。

 静止したマキシカを惚けた顔で見ていたネッツは、気を取り直し、あの少女を追いかけた。

 彼女はマキシカの側面に立ってその鉛色の硬い装甲を指で舐めていた。ギラついていたマキシカの赤い一つ目はすでに冷静な淡い青色の目に変わっていた。

「あの」

 ネッツが右手で少女肩に触れ、少女がこちらを向いた時、ネッツの目の前が眩しくフラッシュした。

 細めた目の中で、凛々しい少女の顔を見た。明るい金髪、オアシスのような青い瞳のまなざしは鋭く、まるでマキシカを捕らえるハンターのよう。

 彼女の気迫は近づき難いものを感じた。みすぼらしい少年が声をかけていいような相手ではなかったのかもしれない。彼女は男装しているとはいえ、きちんとした身なりをしていて、少なくとも中流以上の身分ではありそうだ。

「た、助けてくれて、ありがとう」

 ネッツの言葉に無表情の少女は頷いただけだった。

 そして、少女はひどく疲れた顔の夫婦の元に行ってしまった。暴走したマキシカの持ち主、仕立屋の夫婦だった。

「エヌールさん、ご依頼通りマキシカを停止しました。再起動します」

 少女の言葉に、夫妻は戸惑うばかりだった。さっきまで我を忘れて暴れていた機械をせっかく止めたというのに、また動かすというのだ。

「そんなことできるのか?あのマキシカは壊れてもう使えないのだろう?」

 狼狽える仕立屋の主人は少女に言ったが、少女は首を横に振っただけだった。

 彼女は停止したマキシカに近づき、傍らから細い針金のような棒を取り出した。凍るマキシカの鉄壁の鎧のわずかな隙間に差し込んだ。

 ネッツの目の前で、奇跡のようなことが起きた。

 マキシカはぶるると小さく振動した後、氷を少しずつ溶かしながら、再び目覚めたのだ。

 氷の小さな破片が、ネッツの火照った身体に降り注ぐ。ネッツは額を拭った。

 目の前で起こったことがネッツには分からなかった。わかっているのは、自分は生きていること。

 そして、マキシカが我を取り戻したこと。

 マキシカの持ち主である家族もその光景を唖然として見つめている。

 マキシカはまた人間の言うことを聞く機械に戻ったのだ。

 彼女は壊し屋か。暴走したマキシカを止めるのは壊し屋の仕事である。しかし、彼女は壊さずにマキシカを止めて、再びその巨大な機械を手懐けた。

 マキシカは、さっきまで自身が散らかした通りを不思議そうに緑色の目で見つめ、静かに主人の指示を待つ従順な機械に戻った。

 仕立屋の夫婦は唖然とした顔のまま、彼女が持って来た書類にサインをした。

 惚けた顔でネッツは噛み付いてきた機械がおとなしくなった一部始終を見つめていた。

「貴方、怪我をしている」

 ネッツの元に戻ってきた少女の目線を追うと、ネッツは右脚に切り傷を負っていた。マキシカに囚われた時にマキシカの作業台にあったハサミに触れた時だろう。血も出ていたが、目の前の出来事が夢か何かに思えて、痛みさえ忘れていた。強がるだけで精一杯だ。

「だ、大丈夫!俺、帰らないと」

 彼女はネッツの言葉なんかに耳傾けず、ネッツの腕を引っ張った。

 革の手袋をした彼女に腕を掴まれ、ネッツを引っ張っていく。

 停めてあった自動二輪の座席の下、収納空間から生成りの布を引っ張り出した彼女は、ネッツの脚の傷に巻きつける。応急処置をしてくれたようだ。

「歩ける?ちゃんとした治療をする。ついてきて」

 意志の強さ、まっすぐな瞳、そして、どこかネッツを怖気付かせるような彼女の気迫には、ネッツは従わざるを得なかった。

 すぱっと傷ができたものの見た目ほどは痛くはない。しかし、まだ収まらない興奮の鼓動に傷口も鼓動を刻んでいる。

「えっと」

「私はメグリエ鉱物研究社のコーリエッタ・メグリエ。貴方の名前は?」

「・・・ネッツ」

「そう、ネッツ。私は暴走したマキシカを止める仕事をしている。事故に巻き込まれた貴方にお話を聞きたいから、怪我の治療もある。一緒に来て」

 否とは言わせないような冷静な瞳に見つめられて、ネッツは頷いていた。

「・・・わかった」

 彼女は、彼女には大きすぎる自動二輪を押しはじめた。太く擦れたタイヤとすすけた水色のボディに幾つかのサイドバッグを付け、彼女はこの街を駆け巡っているのだろうか。ネッツは彼女に素直についていった。

 ネッツの足の怪我には痛みはないが、拍動を感じる。さっき目の前で起こった恐怖とたった一人でマキシカを止めた少女との出会いはどんな香辛料よりも強烈でネッツの心臓を刺激し続ける。少し背中が熱い。マキシカが針を刺したシャツを切り離したせいで、シャツの背中側は短くなって、太陽の熱が直接ネッツの背中に当たるからだろう。

 少女は何も言わずに歩く。時折、ネッツの様子をうかがいながら。彼女の青い冷静な瞳がネッツを映す。

 彼女は何者なのだろう。年齢は同じくらいだろうか。背丈は同じくらいだ。

 暴走したマキシカを止めたから壊し屋のようなものだろうか。しかし、マキシカを壊すことなく、元どおりにしていた。

 少し歩いてたどり着いたのは、ほんの少し青い壁の平屋だった。白い石を削って作る家ではなく、レンガを積んだ家らしい。ほんのり淡い青に塗られた壁は周りの白い壁よりも白く際立って見える。

 この界隈は上流階級ではないが、中流階級の家もまばらにあり、商店で栄える場所だ。煉瓦の建物だが、間口は狭いながらも、奥に長い建物のようで、土地の少ないこの都市では広い土地を占めている。小さな看板が郵便受けにあるところからも、家というよりも何か商売をしている建物のようだ。

 少女は建物の前に自動二輪を停めると、表の扉を開けた。ネッツは通りで立っていた。

「ただいま戻りました」

 少女はネッツを見て手招きした。

 ネッツはまだうるさいくらいに鼓動を続ける心臓を落ち着かせるように、その平屋に足を踏み入れた。

 そこには老紳士が立っていた。真っ白なシャツに灰色のベストを着ており、白髪混じりというより、白髪にわずかに黒髪か混ざっているような年寄りだが、しゃんと立っている。上品に整えられた口髭に、メガネの奥には垂れ目が覗く穏やかな顔の紳士だ。

 部屋の中心にある木の机と壁にある街の詳細が書かれた大きな地図が印象的な店先だ。ものを売っているわけではないようで、商品は見当たらない。

 ネッツの本能は、ここはネッツのようなみすぼらしい少年が足を踏み入れるような建物ではなく、上流階級の店だとわかった。

「お嬢様、そちらの方は?」

 老紳士はネッツを追い払うこともせず、優しく声を掛けてきた。相手の出方は悪くはない。

「ネッツよ。マキシカの暴走に巻き込まれて怪我をしたから、連れてきたわ」

 ネッツは、暴走したマキシカのせいでシャツも破れていたし、右脚に怪我を負っていた。がりがりに痩せた赤毛の獣のようだったネッツは、さらにみすぼらしい。

「おや、それはそれは」

 老紳士はすぐにネッツを椅子に座らせた。奥から救急箱を持ってきて、慣れた手つきで消毒から包帯を巻くまでものの一瞬だった。

 そして、ネッツには破れた生成りのシャツの代わりに、白いシャツがネッツに与えられた。肌に心地よい布のシャツだ。

「これ・・・」

 老紳士は「差し上げますよ」と和やかに言った。ネッツは孤児院を出た時よりも良い身なりになっていた。

 部屋の奥から、ゆるくうねった砂色の髪を下ろした少女が現れた。

 マキシカを静止させた男装の少女だった。よく見ると空のように澄んだ瞳に白い肌、ほんの少し色づいた頬、柔らかそうな唇。結んでいた髪を下ろし、渋い顔をした男装の彼女は、ネッツのことを珍しそうに見つめた。

「あの、助けてもらって、その、シャツもありがとうございました!」

 ネッツは深々と礼をした。お嬢様と老紳士は呼んでいたところを見ると、彼女が高い身分であるに違いない。そんなお嬢様がなぜ、暴走したマキシカを停止させ、手懐けてしまうのか。

「マキシカが暴走をするところを見たの?」

 氷のような瞳の少女は薄紅色の唇で言った。

「見たというか、ずっと見ていたら急に早く動き出した」

 唸った機械が急に震えだし、動きが早くなっていったことを。

「変な音?」

「マキシカの動く音がだんだん早くなってキンキンした音がしたと思う」

 少女はネッツの近くに歩み寄ると、まじまじと見る。お嬢様にとって、ネッツのようなみすぼらしい少年は珍しく映るのかもしれない。澄み切った空のような彼女の瞳に、真っ赤なネッツの頭が映り込んでいる。

「ネッツ、貴方の苗字は?」

「・・・トッドマリー」

「家はどこ?」

「トッドマリー孤児院」

 少女は怪訝な顔をした。少し顔をしかめたというか、同情の表情か。ネッツは慣れっこだった。孤児をかわいそうと言う人は必ずいて、しかし、だからといって何かしてくれることは少ない。

「ナガレ、送って差し上げて」

 執事のナガレは淡い水色の車体に大きな車輪の車を屋敷の前まだ運転してきた。ところどころ錆も見え、古いが立派な車だ。都市ではお金持ち、マキシカで財を成した人くらいしか車など持ち合わせていない。きっと少女は貴族の娘なのだ。

 イルズ・カーンに騙され、マキシカに殺されそうになったネッツだが、新しいシャツを貰い、車で孤児院まで送ってもらうという、なんとも激しくも初めてのことばかりの一日だった。

 今日のことを、ミセス・トッドマリーにどう話そうかと意気揚々とネッツは車の中で思っていた。少し高い目線。過ぎ去っていく街並みを見つめながら、ネッツの心は舞い上がっていた。今頃、ミセスがネッツのことを心配しながら待っているだろう。冒険をしてきた気分だ。

 傾いた屋根の古い家、ささやかな庭で食卓の足しにするためのヒョロヒョロの野菜を育てている畑。また質素ないつもの生活に戻る。ミセスにイルズ・カーンが嘘つきだと知らせなくては。

 ネッツの家に帰り着いた時、ネッツは目を疑った。

 孤児院の前に、ネッツが出かける前にはなかった木の看板が立てかけられていた。黒い文字で何か書いてある。

 ネッツには看板の意味が分からなかったが、孤児院に駆け込んだ。

 今日のことを、ミセス・トッドマリーに話すつもりだ。イルズ・カーンが詐欺師だってことも。イルズに連れていかれた子供たちを取り返すんだ、と。

 日が傾いた薄暗い部屋のどこにもミセスはいなかった。帰りの遅いネッツを探しに行ったのか。しかし、ミセスは足が悪いから遠出はできないはずだ。出かける時もいつもネッツと一緒で、ゆっくりゆっくり杖をついて歩くというのに。

「ミセス、どこに行ったの?」

 孤児院はもぬけの殻である。一通りの部屋を覗いてきたがミセスの姿はない。

 孤児院に執事が踏み入れた。

「失礼いたします」

 彼は申し訳そうな表情を浮かべ、孤児院の建物の中を走り回っていたネッツを呼び止めた。

「ネッツ様。表の看板に書いてありました。どうやら孤児院は閉鎖になったようです」



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