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第36章 待望の再会

 ネッツはコーリィと病院に来ていた。過ごしやすい晴れと澄んだ空気の日。ネッツが待ちに待ったミセス・トッドマリーとの面会の許可が下りたのだった。

 病院の入院棟の奥の部屋、コーリィの母親ミマ・ファン・メグリエの病室よりも奥。

 そこに、ミセス・トッドマリーが入院していた。個室の病室であり、彼女がそこにいることも隠され、元々不自由な右脚の治療と称し、病院に軟禁されているような状態だった。警察は、彼女がウミナトに連れ去られたことも視野に入れて探していたが、まさかスナバラの病院に入院していたとはすぐには気づけなかった。病院は警察に尋ねられるまで患者について明かすことはなかったからだ。一方で警察も一人の女性の失踪について、すぐに公表しなかったのは、他の複雑な事件との関連の可能性を考え、慎重になったからである。そのため、病院で彼女を診た医者や看護師は彼女が失踪人だとはわからなかった。彼女の素性も、かつて教師だった一人暮らしの女性となっており、少しだけ異なった名前で入院手続きがされていた。それらは、彼女の正体がわからないようにするためのラゥル・コソックらの偽装工作だった。

 ネッツは、はやる気持ちを抑えきれず、入院棟の廊下を駆け出す。それをコーリィが静止する。

「ネッツ、ここは病院よ。トッドマリーさんはちゃんと待っているから落ち着いて」

 医者や看護師、患者、見舞客が忙しなく行き来している病院で、走っては危険だ。そんなことはネッツにも十分理解できるが、ネッツ自身、どうしても急いてしまうのは止められそうもない。

 ネッツはコーリィを尾けてこの病院に来たことがあった。コーリィの母親の病室の前まで行っただけであったが、奥の部屋にまさか彼女が入院してるとは、当時は予想もつかなかった。あの時、奥の病室も覗いてみればよかったとネッツは考えたが、その時はその考えに至ることはなかった。だからこそ、今、どうしても急いてしまう。

「うん、わかってる!」

 ネッツはミセス・トッドマリーの病室まで飛び跳ね駆けるようにやってきた。

 病室の前に立つ。ナガレが用意してくれた小さな淡い紅色の花で作った花束を下向きから上向きに持ち替える。

「私はお母様の病室に行ってるわ」

 そう言ってコーリィは母親ミマの病室へ行ってしまった。ネッツに気を遣ってのことだろう。ミセスは無事だと聞かされていても、ネッツは彼女を自身の目で見るまでは、安心できなかった。

「ミセス?」

 聞き慣れた声が返ってくる。

「おや、ネッツかい?」

 ネッツは病室に駆け込んだ。

 白髪の髪を下ろし、笑い皺に分厚いレンズの眼鏡の老いた女性がベッドに上体を起こして座っていた。

 彼女は少しやつれただろうか。白い壁と白いシーツの中にいるネッツの親代わりの女性は、前よりも小さく見えた。

「ネッツ!よかった」

 ミセス・トッドマリーはネッツの赤毛を瞳に映すと、涙を流した。彼女もまた、マキシカ事故でネッツが死んだと知らされていたのだ。

「ミセス!」

 ネッツはベッドに駆け寄り、ミセス・トッドマリーはネッツをぎゅっと抱きしめた。

「なんともないんだね?ネッツ」

 跳ねた赤い癖っ毛に触れたミセス・トッドマリーはネッツが無事であることをやっと実感する。

「うん!」

 ネッツは浅く息を吸って、わっと泣き出していた。

「もう寂しくなったのかい?」

 いずれ来るネッツが孤児院を旅立つ日がミセス・トッドマリーには不安になってしまうほど、ネッツは寂しがりやの少年だ。

「ちがうっ!ミセスが!・・・無事でっ、よかっだの」

 ネッツの声がかすれ、涙が溢れて、止まらなかった。

 マキシカ事故に巻き込まれるという怖い目にあったあの日から、ネッツはずっと強がっていた。

 コーリィやナガレはネッツに親切にしてくれた。ミセス・トッドマリーのことを心配していたネッツがその不安に押しつぶされないように、寂しくないように、コーリィは日々たくさんのことを経験させてくれた。

「そうかい」

 ネッツが落ち着くまでミセスはネッツの癖っ毛を撫でていた。

 彼女のしわくちゃな手は乾いていて暖かい。病院にいるはずなのに孤児院の懐かしい匂いがする。たった一月半ほど離れていただけでも、ネッツは懐かしさを感じた。

「ネッツ。本当に運が良かったね。メグリエのお嬢様のおかげだ」

 ネッツはミセス・トッドマリーの腕の中で何度も頷く。

「メグリエ夫人から話を聞いたよ。ネッツもお嬢様と一緒に、悪い人を捕まえようとしていたんだってね。とにかく無事で良かったよ」

「うん」

 ネッツは涙でぐしゃぐしゃになった雨季のような顔をあげた。

「ネッツは甘えん坊だねぇ」

「・・・うん」

 ミセス・トッドマリーは困ったように笑った。彼女の目からも涙が落ちる。

 寂しがりやでも、甘えん坊でも、今はミセスにならば、何を言われたっていいとネッツは思った。

 彼女はネッツの涙が止まるまで、赤毛を優しく撫でていた。やがてネッツは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「どうして、ミセスは入院しているの?」

 ネッツは涙を拭って、ミセス・トッドマリーの顔を見た。彼女は穏やかな笑顔だ。

「あの日、ネッツが出掛けた後、あっという間にこの病院に連れて来られたんだ。脚が悪いから、治療しましょうって」

「イルズ・カーンに?」

 ミセス・トッドマリーは首を横に振った。

「でもきっと彼の仲間だろうね。孤児院でずっと頑張ってきた私のために、足の治療費を出してくれた親切な人がいるって。その結果がこの有様さ」

 明るく笑い声を上げるミセス・トッドマリーは右脚が不自由で、いつも杖をついて歩いていた。

 ネッツがマキシカの暴走事故に巻き込まれた日、彼女は病院に連れて来られたものの、逃げ出すにも杖がなかったために、そのまま病院に閉じ込められることになった。

「脚の検査をしたんだ。少し痛みがある時もあったけれど、お医者さんに薬を飲めば少しは良くなると言われたんだよ」

 ネッツは頷く。ネッツをはじめとしたたくさんの孤児を育ててくれたミセス・トッドマリーは、脚の痛みなど気にしていないようだったが、本当は長年辛かったのではないだろうか。

「その後、ネッツのことをカーンさん、あぁ、コソックとかいう新聞記者だったんだね。彼にネッツが事故で死んだと聞かされたんだ。それで気が動転してしまって。病室からも出てはならなくなってね」

 そのまま、彼女は心身ともに病院にいるべき人間とされてしまったのだ。

「そんな時に病室にきてくださったのがメグリエ夫人でね。こっそりネッツが生きていることや、私が何か大きな事件に巻き込まれているから、巻き込まれたフリをしたほうがいいと教えてもらったのさ」

「巻き込まれた、フリ?」

「悪い奴を油断させるためにも、私ゃ、哀れな脚の悪い年寄りというお芝居をしていたのさ」

 彼女の笑い声が病室に響いた。

 コーリィの母親ミマ・ファン・メグリエもなんの偶然か、同じ病院に入院していた。メグリエ夫人がこの孤児院の院長の病室にやってきたのは、偶然だろうか。いや、コーリィが病院に見舞いに通っていたから、行方不明になっている足の悪い女性のことを母親に話したのかもしれない。同じ病院内で、医師や看護師らの目を盗んで、面会謝絶の病室に行くことができたのは、入院していたメグリエ夫人なら、不可能ではないのかもしれない。この病室にいる女性が、ネッツが探していた人物だと気づいたのだ。コーリィは病院に母親の見舞いと言ってよく病院に出掛けていたし、マキシカ事故について警察にも相談に出掛けていた。コーリィがこの失踪事件を解決に導いたといってもいいのではないだろうか。そして、警察はコーリィ達の協力によってイルズ・カーンの正体を掴み、逮捕するに至った。ネッツの中でコーリィの行動の理由が少しだけ理解できた。

 では、ロマーク・クラム都市議会議員はなぜヴァルナリ警視正に連れて行かれ、その後逮捕となったのか。それは、ミセス・トッドマリーの旧知の友であるヴァルナリ警視正自身が突き止めたことだった。

 ミセス・トッドマリーの入院費をその偽善精神により寄付した人物が、ロマーク・クラム都市議会議員であったことをミマは病院内で知り、その事実が警察に伝わったことから関与が発覚した。マキシカの暴走には関わっていないと議員は言い張っており、ミセスの支援も間接的な支援で、寄付はしたが、それは詐欺で騙されたとまで言っているのだそうだ。マキシカからメグリエ機関を盗み出した泥棒も逮捕され、これからラゥル・コソックの計画に関わった人物とその全貌が明らかになっていくだろう。

「悪い人間は捕まったよ。シャルテとエレックは悪くないってちゃんと私は言った。だから、もう心配しなくていいよ、ネッツ」

 ネッツはほっとした。コーリィには感謝しかない。

「退院はいつなの?」

 ミセス・トッドマリーは少し考え込んだ。

「脚が動かないのは、脚の痺れのせいなんだ。薬を飲めば少し良くなるらしいんだが、薬のちょうどいい量がまだよく分からなくてね、少ないと効かないし、多いと体の動きが鈍ってしまう。だから、もう少し入院らしい」

「そっか」

 ネッツは残念そうな顔をしたからか、ミセス・トッドマリーは明るく言った。

「私ゃ、薬なんていらないと言ったんだよ。でも、ここまで治療をして、やめるのはなしだって医者に怒られてさ。あの議員には、入院費を出してくれたことだけは感謝しないとならないね」

 ミセス・トッドマリーの入院費はロマーク・クラム議員の寄付だった。そこから、一連の事件への彼の関与が疑われ、実際に突き止めたのはヴァルナリ警視正の執念かもしれない。

「でも、彼は捕まっちまっただろう?もういいと私は言ったんだよ」

 ネッツは俯く。ミセス・トッドマリーはずっと子供達を育ててきて、自身の体を労る余裕なんてなかった筈だ。ラゥル・コソックの計画に巻き込まれた被害者であることは、ネッツは許せなかったが、ミセス・トッドマリーに脚の治療の機会がもたらされたことは、皮肉にも少しだけ感謝せねばならないのかもしれない。

「メグリエ夫人が、最後まで治療すべきとおっしゃったんだ」

 ネッツは目を見開いた。

「コーリィのお母さんが?」

「そうさ。メグリエの家には感謝しかないよ。ネッツは私が退院するまでは、メグリエの家でしっかり働くんだよ」

「うん!俺、頑張る!」

 コーリィには大きな恩がある。ネッツは決意した。それを返せるよう、精一杯頑張ることを。

 メグリエ機関盗難事件もマキシカ暴走事故も、コーリィが鮮やかに解決した。ネッツが孤児院から追い出され、事故に巻き込まれて殺されかけたところを救ってくれた。失踪したミセス・トッドマリーを見つけ出し、ラゥル・コソックに協力させられていたエレック・トリークとシャルテ・ポーンをも救い出した。

 コーリィがいなかったらどうなっていたのだろう。想像しただけで恐ろしい、ネッツはそう思う。ネッツはマキシカ事故に巻き込まれて本当に死んでいたかもしれない。運良く助かっても、孤児院はなくなって、路頭に迷っていたかもしれない。

 こんなにも助けてくれたコーリィの手伝いをすることになったネッツがコーリィの役に立っているのだろうか。

 もっとコーリィの役に立てるよう頑張ろう、ネッツたちを救ってくれたコーリィのために、そうネッツは心に誓った。

「私も早く退院したいのだけれど。ネッツもいつまでもメグリエの家に厄介なるわけにもいかないだろう?」

 ネッツは彼女の言葉に静止した。

「え、じゃあ、俺は孤児院に帰るの、か?」

「もちろん。退院したら、また一緒に暮らせる」

 満面の笑みをするミセス・トッドマリーに対して、ネッツの中で、暗雲が立ち込める。

 コーリィの屋敷での生活が終わる。確かに何不自由もなく、温かい食事も快適な寝床も、教育も与えられる。コーリィの仕事の手伝い、ネッツが知らない世界を覗くことができ、孤児院の生活とは違った、刺激的な日々。勉強は難しくて、コーリィが何を考えているかだってわからないこともあって、辛いこともあった。でも、コーリィと一緒にいたのは、とても楽しかったとネッツは思えた。

 それは、ネッツが贅沢な生活に慣れてしまったからだろうか。いや、孤児院だって貧しいながらも、楽しかった。また、ミセス・トッドマリーと暮らせる。ネッツを引き取る家族が現れるか、仕事ができる年齢になるまで、ネッツは孤児院で暮らすことができる。

 しかし、心にひっかかる。

 ネッツはコーリィと離れることが嫌なのだと気づいた。一人前でもないネッツがずっとコーリィのそばにいられるわけではないこともわかっている。これが、自分のわがままなのはネッツ自身も分かっていた。

「――コーリィのところで働きたい」

 ミセス・トッドマリーは驚いた顔をしたが、すぐに困ったような笑顔をネッツに向ける。

「それはネッツがとても頑張らないと。今、ネッツがメグリエの屋敷にいられるのはご好意なのだから、甘えてばかりではいけない」

「でも」

 病室の外でコーリィの声がした。

「失礼いたします、コーリエッタです。入ってもよろしいでしょうか?」

 ネッツは急いで涙を拭い、何事もなかった様に振る舞う。

「ええ、どうぞ」

 ミセス・トッドマリーは穏やかに言った。

 コーリエッタは彼女の病室にやってきた。

「ご機嫌よう、ミセス・トッドマリー」

「こんにちは、コーリエッタさん。何から何まで本当にすまないね。ネッツ達を助けてくれたことにも、なんとお礼を言っていいのか」

 ミセス・トッドマリーはメグリエ家に恐縮していた。

「いいえ、お気になさらず。これもメグリエの仕事です」

 コーリィはさも当たり前のように言った。

「ネッツは私の退院と同時に、孤児院に連れて帰りますから、その間、申し訳ないのですが・・・」

「コーリィのところでずっと働きたい!」

 ネッツは急に声を上げた。

「ネッツ!何を言ってるんだい!ご迷惑をかけちゃいけないよ!」

「やだ!コーリィに恩返ししたい!」

「一人前になってからおっしゃい!」

 ネッツとミセス・トッドマリーのやりとりをコーリィは物珍しそうに見ている。

「コーリィ、俺、頑張るから!掃除も、勉強も!」

 自身のわがままだとわかっていながらも、どうしようもできない無力さに苛立つネッツは、コーリィに助け舟を求める目線を送る。同時に、ネッツ自身がちゃんと仕事や勉強を頑張ってきたか、不安になった。勉強はさぼろうとしたし、暴走マキシカを止めに行っても、コーリィの役に立っていなかった。ネッツはつまみ食いだってしていた。

「ネッツの希望はわかったわ」

 コーリィは頷く。

「本当か!」

 期待に満ちた笑顔をネッツはする。

「叶えられるかは、わからないけれど」

 コーリィは語尾が小さくなるような言い方をした。自信がないようだった。

「そんな」

「ミセス・トッドマリーが退院するまで、ネッツは私の屋敷で私やナガレの手伝いをするのはお願いね。その後のことは、また考えましょう。私だけでは決められないわ」

 コーリィは冷静に答えを出さずに先送りにしたから、まだだめだと決まったわけではない。ネッツはその望みが叶うのを信じるしかなかった。

「・・・うん」

 ネッツは小さな声で頷いた。


――熱過機械編はここまで、冷寒迷宮編へ。

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