第2章 波乱の始まり
第2章 波乱の始まり
この暴走事故が起こった、十日ほど前のある朝。
町外れの孤児院では、少年ネッツが小さな孤児院を切り盛りするミセス・トッドマリーと朝食を食べていた。
ネッツの骨ばった腕のように硬いパンが一切れとネッツの体のようなひょろひょろの野菜の入った薄い塩味のスープ。いつもの食事をネッツは赤く纏まりのない髪を揺らしながら食べる。
ミセスと暮らす子どもはネッツだけで、他の孤児はいない。彼が最後の一人だった。
ネッツが四年前にこの小さな孤児院にやってきた頃にはもっと多くの子どもがいたが、この一年で次々と旅立っていった。ネッツだけが残っていた。
粗末な食事ながら、明るい顔で頬張るネッツ。白髪をまとめ、笑い皺と垂れたほおに大きなレンズの眼鏡、微かな花柄の服を着たミセス・トッドマリーは穏やかに言った。
「今日、カーンさんがくるよ。ネッツと暮らしたい家族を見つけたってさ」
ネッツははたとスープに浮かぶ千切れた菜っ葉を見つめる。とうとう自分の番がやって来たことを意味する。
イルズ・カーンという男は、孤児院を支援するある人物の代理人としてやってきた。カーンはこの一年で、孤児院にいた子ども達を次々と旅立たせていった。就業可能な年齢になる子は住み込みの仕事を紹介し、まだ小さな子どもは養子に迎えられていった。
ミセス・トッドマリーは何十年も親のいない子ども達と暮らしてきた。ネッツがずっとここにいることができないのもわかってはいたが、ミセスも母親から祖母のような存在になっていた。
「壊し屋なんだけどね、あそこは住み込みだろう?ネッツが増えても賑やかでいいってさ」
ネッツは頷いた。
壊し屋とは愛称である。古い機械を解体して部品を売る店のことだ。最近は、暴走したマキシカという機械を破壊して止める稼業も行っているらしく、壊し屋という名がさらにぴったりだ。もともとは壊れた機械を分解し、廃品回収をやっていたが、今は暴走したマキシカを止める仕事も請け負っているらしい。暴走した巨大な機械マキシカを壊して止める。だから、皆、親しみを込めて壊し屋と呼んでいる。ネッツはそこで見習いをしながら、住み込みでいつかは働くことになるということだ。
「シャルテも壊し屋に行っただろう?そことは違うところだが、大きな家族の一員のようで楽しいってさ」
少し前にここを旅立ったネッツよりも年上の少女シャルテも壊し屋に引き取られていた。旅立った後の彼女はどう暮らしているのか、ネッツは知らない。ミセスもシャルテに会いに行ったわけではなく、シャルテに仕事を紹介したカーンから聞いた話だけだ。
マキシカは永久に働く機械と言われている。この沙漠に囲まれた都市スナバラが発展したのは、数百台あるマキシカが人の手よりも早く正確に物を作り出したり、人の手ではできないことを成し遂げてきたからであった。マキシカなしにはこの都市の発展はなく、マキシカなしには都市が一日さえ成り立たない、スナバラ市民は口をそろえて言う。それくらい、マキシカという機械はスナバラにとって欠かせないものであり、スナバラと言えば、機械仕掛けのマキシカの街と呼ばれるほどになっていた。
食事を終え、ネッツが後片付けをしている時だった。扉を叩く音がした。ミセス・トッドマリーは足が悪くあまり歩けない。代わりにネッツが表の扉の前に立った。
「誰?」
ネッツのまだ声変わりしていない声が響く。ドアの向こうから声が聞こえた。
「お早うございます。イルズ・カーンです」
その気取った男の声を聞いて、ネッツは不機嫌になった。ネッツは彼のことが嫌いだからた。
彼はこの孤児院を支援者の代理人として、支援金や物資を持ってきたり、孤児の養子縁組や、孤児院を旅立つ歳になった孤児に仕事の紹介をやっている。孤児院にはなくてはならない支援をしてくれる人物である。ネッツにはその事実は理解できる。
しかし、ネッツはカーンをどこか怪しげな信頼できない人物だと感じていた。なぜなら、彼がこの孤児院にやってくるようになったのはたった一年前。彼が最初にこの孤児院に来た日から一人ずつ、子ども達がどんどん孤児院を去って行ったからである。
ネッツは、年齢の低い者から呼ばれていく養子縁組の家族がなかなか見つからず、まだ就業する年齢には満たなかったために、たった一人孤児院に残された。
ネッツが旅立つ時、この孤児院も孤児院としての役割を終えることになる。それはまだ少しことだろうとネッツは思っていたのだが、とうとう順番が来てしまったようだ。
ネッツはしぶしぶ扉を開けた。金縁の丸眼鏡の一人の男がネッツを見下ろしている。
「おはよう、ございます・・・カーンさん」
イルズ・カーンは淡い灰色のチェック柄のベストと、糊のきいた硬いシャツと言う小綺麗な服装で現れた。面長の顔、琥珀のような色の髪、まるで貴族であるかのような気取りっぷりで、ネッツを見下ろす。
「やぁ、ネッツ。子供は甘いものが好きだろう?飴を買ってきた」
カーンがネッツの目の前に差し出したのは四角い棒つきキャンディだった。ミルク色の包み紙から白い棒が生えている。ネッツにとっては、なかなか口にできない甘いお菓子だ。
「トッドマリーさんと大事な話があるんだ。あっちで待っていてくれるかな?」
「はい。ありがとうございます」
ネッツはカーンから飴を受け取って、ボソボソと礼を言った。挨拶と感謝と謝罪はちゃんとするよう、ミセスは口癖のように言っていたから、それは守らねばならない。
カーンはいつも気取っていて、子ども達にお菓子を与えて機嫌をとり、お菓子は向こうで食べて来いと自分から子どもたちを離れさせるのだ。
彼は子ども嫌いなのだと、ネッツは直感でわかった。彼は子どもが近寄ってくるとあからさまに嫌な顔をする。だから、ネッツを始めほとんどの孤児たちは彼と距離を縮めることはなかった。
ネッツは紙に包まれた飴を持って庭に出た。カーンがいつもくれる飴はねっとりとした甘さの喉が乾く、ネッツの口には少し大きめだった。カーンは甘いものが苦手らしい。甘いお菓子が大好きなネッツでも、カーンが買ってくるお菓子が少し苦手なのは、美味しいお菓子というものが彼にはわからないからだとネッツは考える。確か、彼は甘いものは好まないと言っていたことがあった。しかし、菓子などなかなか口にできないネッツは、不満げながらも飴を舐める。
まだ朝なのにスナバラのはずれの日差しは強く、ネッツの右手の中指の朱い指輪をきらきらと輝かせる。その指輪はネッツがここに来る前から持っていた数少ないネッツの所有物であり、ネッツの宝物だった。その指輪は朱色の石を綺麗にくり抜いて磨き上げた見事なもので、きっと価値があるに違いないとネッツは信じていた。
都市の西側はずれにあるこの孤児院からは、どこまでも広がる礫沙漠が見える。黒っぽい石とそれが砕けた色の薄い砂だけがどこまでも広がっていて、果てがないように見えた。
孤児院の脇にある小さな畑はすでにカラカラだった。ネッツが朝食前に水を蒔いたが、太陽と乾燥した風が、すぐに水分を吸い取ってしまために、ひょろひょろの野菜しか育たない。葉物は水を朝晩やらなければすぐに枯れてしまうほどの太陽が照りつける。孤児院の食事の足しになるよう、子どもが減りネッツだけになっても、世話は続けてきた。
そんな過酷な沙漠の中にできたオアシス都市の外れで、ネッツは頭がぼんやりとするくらいの飴の甘さを感じながら、カーンに連れていかれた兄弟たちのことを思い出す。うるさいくらいにかつての孤児院は賑やかだった。それとは対照的な静かな今、痩せた土地でも育つ芋を取り合う兄弟もいない。
表戸が開き、訪問者が出てきたのが庭先のネッツには見えた。
庭のやせ細った豆の蔓を見つめていたネッツに、カーンは手を振った。
ネッツは小さく会釈した。イルズは張り付いたような、目は笑わない作りあげた笑みをその細長い顔に浮かべて去った。
ネッツにとっては家族を連れていった彼の言動に警戒してしまうのも無理はない。どこか胡散臭く、信用がならない気がしてしまうのである。それはネッツとは少し違う世界の人であるという理由だけだろうか。
「ネッツ!おいで」
ミセス・トッドマリーのかすれた声が聞こえる。ネッツは部屋に戻った。口の中が軋むほど甘ったるい飴を舌に包む。
「カーンさんから、お話があってね」
ミセス・トッドマリーは笑顔だった。最後の子どもとの別れの寂しさを紛らわせるよう、少しだけ無理をして笑顔をしているようにも見えた。
「ネッツの親代わりになってくれる人は、四番通りの壊し屋の店の人だそうだよ。一度お会いしましょうだって」
ミセス・トッドマリーはネッツに一枚の紙切れを示した。四番通り西十三番地と書いてある。ネッツの保護者はオーナーの夫妻となるらしい。住み込みで働く従業員もおり、そこで手伝いをしながら、ネッツは暮らすことになる。
孤児院を離れたい離れたくない云々の前に、ネッツはカーンをどこか信用できなかった。彼に連れられて去った子ども達の誰もが、孤児院に便りを送ることがないから、ネッツはここを去ることがどういうことかわからない、その不安のせいかもしれない。ミセスは、子どもたちが充実した生活をしていて、孤児院のことなんて後回しにしてしまうくらい、楽しいことがいっぱいの毎日を送っているからだとネッツに言っていた。
「会ってだめだったら、しばらくここにいてもいい?」
ネッツは紙切れを持ったまま、穏やかな表情の老婆を見た。ミセス・トッドマリーはネッツの不安を吹き飛ばすように、笑って励ますように言った。
「ええ、もちろん。会ってみて、ネッツがよかったらでいいのよ」
ミセス・トッドマリーはニコニコとネッツの第一歩に期待をしていた。
ミセス・トッドマリーの期待に応えるべきか、まだここにいたいと甘えるか。いつか去る日が来ることも別れの日が来ることもネッツは知っている。身寄りのない自分は、これからも転々と居場所を変えていくのだろう。
「今日早速、ネッツに会いたいと言っているそうだよ。気軽に遊びに来てほしいって」
ネッツは考え込んだ。急な話で気持ちが追いつかないとでもいうだろうか。
「もちろん、ネッツが嫌だったら断ってもいいよ。会ったとしても必ずネッツの家族になるわけじゃないからね。会ってみないとわからないこともあるから、会ってみないかい?」
会わないとわがままを言ってミセス・トッドマリーを困らせるより、会って相手の家族の非を探した方がミセスも納得するだろうか。相手だってネッツと会ってから、こんな子どもだとは思わなかったと思うかもしれない。
ネッツはとりわけ引っ込み思案なわけではない。好奇心も強いほうだ。
「――会ってみる」
「そうかい。よかった」
ミセスは安心したかのような笑顔をした。
午後になって、ネッツのことをイルズ・カーンが迎えにやってきた。
「こんにちは、ネッツくん」
日差しよけの帽子をかぶった紳士は涼しげな顔をしていた。
「こんにちは、カーンさん」
ネッツは外行き用に襟のある生成りのシャツをミセス・トッドマリーに着せられていた。穴の空いていない、膝丈のズボンもだ。しかし、ネッツが毛足の長い赤毛の痩せて貧弱そうな少年であることを隠すことはできなかった。
「さあ、行こうか」
「はい」
ミセス・トッドマリーがネッツを玄関で見送っていた。ネッツにとって良い出会いになるよう、彼女は心から願っているようだった。
ネッツはカーンの後ろについて行った。カーンは大人の男性ゆえに歩くのも速く、ネッツが一生懸命ついていかないと置いて行かれそうだ。
スナバラという街は、礫沙漠の中に突如白い巨石が地面から生えた丘のようになり、中心に向かって高くなる緩やかな低山のような構造をしている。中心から外縁部には一から十二番までの同心円状の大きな通りが整備され、それはまるで砂漠の中で花開いた八重の花のように見えた。
スナバラの建物は、白い巨石にあいた穴を住居に使うか、レンガを積み上げて家を建てている。石の粉から作った塗料で壁を白く塗るために、白い壁の建物がほとんどだ。それは太陽熱の押し売りを丁寧に押し返すための知恵でもある。
目的とする四番通りは同心円状に広がる都市の中心から四番目の大きな通りである。十二番通りまであるが、ネッツの住む孤児院は十二番通りからさらに外側のはずれだ。
途中、カーンと路面電車に乗り、四番通りを目指す。
中心地に向かう路面電車が東西南北に四本と、都市を周回する路面電車が二番通りと七番通りを走っている。
ネッツとカーンは西十二番通り駅から西四番通り駅で降りた。四番通りの南側は中流階級の商人やマキシカをもつ大量生産を得意とする製造業の人々が多い南の地域から続く、巨大な金属の塊の機械マキシカを見かける通りである。昼間はマキシカを動かし、働く人々で活気付いている。
通りでは店々が表に品物を並べたり、マキシカを置いたりと、狭い道が続く。マキシカは太陽がないと動けないばかりか、火照った体を冷やす必要のある機械だ。それが忙しく動くことで街では新しいものが日々生み出されている。
カーンは相変わらず早歩きで、ネッツはそれについていくのだけでも精一杯だった。
ネッツの不安でいっぱいな気持ちをよそに、通りは活気付き、太陽は鬱陶しいくらいに明るく照らす。もし、ネッツを家族に向かい入れてくれる人たちがいい人だったらいい。それなら、カーンへの疑いも晴れる。孤児院を出て行った兄弟たちもきっと楽しく暮らしているはずだ。
前を歩くカーンがはたと足を止めた。ネッツも止まる。
「君の里親になる予定の壊し屋の店はあそこに見える緑色の旗のある店の隣だ。1人でいけるだろう?」
ネッツはカーンがその家まで連れて行ってくれると思っていた。カーンはネッツに紙切れを渡した。それにはこれから向かう住所が書いてある。
通りは行きかう人も多く、ネッツの身長ではカーンの指し示す緑色の旗が隙間から少し見えるくらいだが、ネッツの目でも確認できた。
「私は用事があってここまでだ。あとは一人で行きなさい。向こうは君の訪問を知っているから」
彼は一方的にネッツをほっぽりだすつもりらしい。身勝手な大人である。
「あとは一人で行けるから大丈夫です」
ネッツは強がってそう答えた。カーンは満足そうに頷き、去っていった。すぐに人混みに紛れて彼は見えなくなった。
ネッツの里親になると言った壊し屋の建物を一人で目指す。
途中、ネッツには左手の仕立屋のマキシカが目に入った。大きな機械は鈍色の外壁をしていて、太陽の熱を浴びて力強く動く。人よりも早く動き、くたびれることもない機械。マキシカは日に当たらないと動かないから、店先でお日様を浴びて、あくせくとその金属の腕やそれを動かす内部な歯車を動かしているのだった。
そのマキシカの傍で、仕立屋で働く人々は、マキシカが切断した布や、縫い合わせた布を運び出したりしている。高温のアイロンやミシンといったものもマキシカに付属しており、それらを使う人々もいる。マキシカは複数の作業をいっぺんに行うため、マキシカが一台あれば、百人分の働きをするとも言われる所以だ。
仕立屋のエメラルドグリーンに塗られた看板の端に四番通り南十三番地とある。その向かいが目的地。ネッツの家族になるかもしれない人がいるところだ。ネッツの家になるかもしれない。どんな人が待っているのだろう、少しだけ期待した心を抑えるためにネッツは深呼吸をした。
ネッツは目的地に目をやる。
立派な店構えかと思えば、そこは石の転がる空き地だった。レンガが少しだけ積まれた跡があり、建物がかつてあったことはわかるが、崩れて今は何もない。
カーンが示した緑色の旗は隣の建物の布を売る店の看板代わりのものだった。住所は異なる。
そんなはずないと、場所を確認してみるが、空き地に立てられた看板にはネッツの持つ紙切れと同じ住所が書かれているようだ。売地のようだが、今は誰も住んでいない。両隣は店を構えており、何かを売っているが、客が絶えず忙しそうだ。
誰かに尋ねようとも皆忙しそうにしていて、赤毛の少年など気にも留めていない。
――ネッツはカーンに騙された。
肝心のネッツの引き受け先がないのだ。やはり、イルズ・カーンは悪人だ。他の子供達もこうやってカーンに騙されてどこか遠くに連れ去られたのではないか。
ネッツは急に怖くなった。孤児院を出て行った孤児達とネッツは一度も会っていない。彼らは無事なのだろうか。そして、ネッツもまた同じ目に遭おうとしているのではないか。
孤児院に戻って、カーンは悪い奴だとミセスに言わなくてはならない。
踵を返し、ネッツは通りを眺めた。ネッツはあまりこの通りに来ることはない。
仕立屋の店先にそびえ立つマキシカの動きがとても面白くネッツの目に映った。マキシカは店の間口の半分以上を占め、太陽の光を浴びながらあくせくと働いていた。
ミシンやアイロン、布の裁断のための台と裁ち鋏、糸巻きが全て一つの機械になったのがこのマキシカだった。全てのマキシカには、色の変わる信号のような装置がついていて、マキシカの眼と言われている。マキシカの眼は夕陽色に輝き、キビキビと働いている。
マキシカの周りでマキシカの世話をするかのように、複数の人々が働いている。広い浅い引き出しのような台に何枚も重ねた布を伸ばして入れ、その引き出しをマキシカの体内に押し込む人。その人がマキシカのボタンを押すと、機械の音がして、引き出しを開けた時には、型紙ぴったりに布が裁断されていた。
鮮やかな緑の布に正確に動く針を通しながら、縫い合わせていくのは、マキシカにミシンがついているからだ。糸を通した針は目にも留まらぬ速さで、ここまで機械が早く動くのかと、ネッツはあっけにとられて見ていた。
マキシカから伸びるコードの先には大きくて重いアイロンが付いており、布の上を滑るたびに白い蒸気がわっと出る。
マキシカから熱量をもらうためのコードに繋がった機械もあり、流れ作業で次々と服が仕立てられていく。マキシカがまるで魔法のように作業を行い、それに人が加わって、からくり人形のように同じ作業を皆が繰り返すことにより、大量生産が可能なのだ。
それがなんとも物珍しく、ネッツは見入っていた。もう少し近くで見ていたい。
手慣れた動きの職人とマキシカの頑丈で繊細な動きが相まって、魔法のような速さで服が出来ていく。
仕立屋のマキシカが唸り声を上げた。マキシカの瞳は一気に赤く光り始める。
ネッツは驚いてマキシカを見上げた。
店先にマキシカがあり、ハンガーに吊るされた服に文字が縫い付けられ看板の役目を果たしている仕立屋の店先。
仕立屋の店先に出てきた店主らしき初老の男は、大声をあげて誰かを呼びに行った。
ネッツは、ほとんど街に出てくることはなかったから、機械のその人間離れした動きに見とれていた。
機械にしては滑らかな動き。人とは違って寸分たがわず同じ動きを繰り返す。
マキシカがやる気を出したようにネッツには見えた。より力強く、大ぶりな動き、蒸気が音を立ててアイロンから出たり、針ががちゃがちゃと音を立てて目にもとまらぬ速度で動いたり。マキシカの眼は自信に満ちた赤色になっていた。
本当はこんなに早く動ける。人間の言いなりなんてやめたら、人間がついて行けないような速さまで加速できる。人間に合わせて働いていたのだと、マキシカが自身の能力を見せつけるようだった。
「マキシカが暴走している!」
人々は逃げ出した。蜘蛛の子を散らすように、通りは混乱し、人々の大声に歓喜するようにマキシカは暴れ出す。
マキシカの暴走を止めるのが壊し屋の稼業なのに、ネッツの行き先であった壊し屋がない。
ネッツもやっと、それが危険だと理解して、逃げたそうとしたが、丸太のような筒がネッツの行く手を阻む。マキシカが傍にあった巻かれた布をその手で投げ飛ばしたのだ。布は解かれ、芯の筒が暴れるように転がった。
マキシカは次々と腕を伸ばし、隣の店先のパラソル、窓からはためくカーテン、近くにいた人の上着などを奪い、気に入らなければ投げ飛ばす。
ネッツの身体中がぴりりとして頭の中に警戒警報が鳴り響く。逃げなければ、ネッツが踵を返した時だった。
ミセス・トッドマリーが用意してくれたお出かけ用のシャツの襟を、誰かが掴んだのだ。
熱を帯びた石造りの通りからネッツの足が離れる。引きずられてマキシカの作業台に乗せられる。
ネッツのシャツの襟を掴んだのは華奢ながらも丈夫で立派な金属の腕。赤い髪がマキシカの眼に止まったか。
マキシカはネッツのシャツをより素敵なものにするべく、いや、ネッツごと別の作品に作り変えるつもりだ。
マキシカのお気に召す素材でなければ吐き捨てられたものの、どうやらネッツはマキシカのお気に召したらしい。その証にマキシカはネッツのシャツの裾に針を突き立てた。シャツのボタンを片手で外そうにも、小さなボタンに慣れていないネッツは慌ててしまい、マキシカにシャツを大人しく渡すこともできない。
マキシカに捕らわれた少年ネッツは足掻こうにもシャツの裾が次々と縫い込まれる。
背中に迫り来る、針が布を刺す音と布を裁つ音。
――痛いのは嫌だ!
もうだめだとつぶった目のかわりに過敏になった耳が、徐々にマキシカの耳障りな金属の音が消えて行ったことを感じ取った。