第18章 思惑のねじれ
「次はどこに行くんだ?」
ネッツはコーリィに尋ねた。彼女は今日は予定が詰まっていると言っていたから、まだまだどこかに行くのだろう。
「本を見て行きましょ」
本屋の前を通った二人は、本屋に立ち寄った。都市の中ではあまり大きな本屋ではないが、古い老舗とも言える本屋で、店の前には小さな看板があるのみ。北向きの間口は陽光で本が日に焼けてしまうことを避けるための昔ながらの店だ。
ネッツは本屋に行ったことがほとんどない。文字をスラスラ読めなかったし、本を買うお小遣いもなかった。孤児院には手垢のついた古い本はあって、シャルテはよく読んでいたが、ネッツはすぐに飽きてしまった。
しかし今は、コーリィと勉強してスラスラ読めるようになって来たし、ナガレからもらったお小遣いもあるから、コーリィは本屋に連れてきたらしい。
「ワッカ。ちょっと待っててな」
ワッカの首輪についた紐を店先の看板の突起に引っ掛ける。ワッカはお行儀良く看板の影に入り、鼻を鳴らした。
ネッツは行ったことのない場所に足を踏み入れるのは少し緊張していた。
「ネッツも欲しい本があったら買っていいのよ。ナガレにお給金をもらったでしょう?」
ネッツには初めて自由に使えるお金がナガレから渡された。住み込みの見習いのため、今日、ネッツに渡された額はネッツが考えて使える量だが、2種類の紙幣があるだけでもネッツは笑みを零してしまうほどだ。何を買おうか、朝からネッツは考えていた。
ずらりと並ぶ本棚にはぎっしりと本が詰まっている。本のタイトルの文字たちが一気に目に飛び込んで来て、ネッツは少し目眩がした。
「ネッツの勉強になる本はないかしら」
教科書と新聞くらいしか目にしないネッツのために、コーリィは児童書の本棚に向かうようだ。新しい本を買うことなどなかったネッツには、本屋自体、初めて来た場所だった。
こんなに本がたくさんあるのを見るのは初めてだ。ネッツの膝くらいの低さの棚から大人が手を伸ばして届く一番上の棚まで、本棚にはみっしりと本が陳列されている。棚の上にも本が積まれていた。あまり広くない店ではあるが、そこに置けるだけの本棚を置いている。ネッツは本の背表紙を指でなぞった。
本屋の入り口近くあった一冊にネッツの目が止まった。そこには雑誌が陳列されていた。
ほかの雑誌の表紙とは一味も二味も違う。表紙には極彩色で書かれた見たことのない巨大な生き物の絵だ。その生き物は首が長く、太い4本足を持ち、棘のついた長い尾まである。背景に書かれている砂漠で稀に見る背の低い木の様子から、かなり大きな動物であるようだった。
ネッツは気になってその雑誌を手に取った。
中を数ページめくると、2色刷りのページ、モノクロのページが続くが、どのページにも絵や写真が必ず載っている。文字沙漠で飽きてしまうネッツの目には、オアシスの多い本に映った。
「俺、これがいい!」
児童書の棚の前で本を選んでいたコーリィはネッツの声を聞いて戻ってきた。
表紙をみてコーリィは唸った。
「雑誌を買うの?」
「うん」
「ミカイを買うの?」
「うん!これが気に入った!」
ネッツが手にしたのは、「月刊ミカイ」という雑誌だという。
「文字ばっかの本は読めないし、これなら絵もある!」
絵ばかりの本ではコーリィは納得しないだろうが、絵もあればネッツにも読みやすい。表紙の大きな動物のことが気になった。
「ミカイねぇ」
コーリィが気乗りしない様子なのはなぜだろう。ネッツの年齢には不釣り合いな雑誌なのか。写真や絵が目立つ本ではあるが、まとまった文章が書いてあるページもあることから、絵本ではない。
「俺には難しい?」
コーリィは少し考えて返事をした。
「そうね、少し難しいかもしれないわ。でも、ネッツが面白そうと思ったのなら、ちゃんと読むわね」
コーリィの言葉は的確であった。ネッツは少し考えて決断した。
「じゃあ、これにする!」
ネッツははじめてのお給料で雑誌を買った。コーリィは児童書を考えていたのだろうが、雑誌なんて読んだことがなかったネッツにとって、自分で働いて得たお金で好きな雑誌を買うだなんて、大人みたいだと嬉しくなってしまう。
本を紙袋に入れてもらい、ネッツは大事そうに抱えて本屋を後にした。コーリィがワッカを連れて歩く。
いつも同じ通りのどこかで小型マキシカでネジッレを揚げて売っている彼女に会うために、その通りに向かう。
途中、崩落した広場の前を通った。コーリィがヒャリツに落ち、ネッツがヒャリツに飛び込んだ広場だ。
人が立ち入らぬよう、広場の入り口には厳重にロープがまかれて完全に人が立ち入れないようになり、布に立ち入り禁止とはっきりと書いてロープに吊るしてある。マキシカは既になく、修理と点検をされているところだろう。
暴走したマキシカが降った坂を登る。
ネジッレマキシカが坂を駆け下りた時に、マキシカが接触した建物の白い壁には黒い跡が残っている。しかし、人々はそれを気にも止めずに、それぞれの生活を送っていて、暴走事故などなかったかのようだ。
ネジッレが撒き散らした油やネジッレのようでネジッレではないのも、すでに回収され、通りは平穏を取り戻していた。
ネジッレを揚げる香ばしい匂いはしない。ネジッレマキシカが点検を終えたら、またこの通りのどこかで会えるだろうか。ネッツにとって、あのネジッレは温かくて甘くてさっくりふわふわの幸せな味だった。
コーリィは暴走事故の後の街を確認したかったらしい。
すでに陽は傾いていた。ワッカもネッツの横を心配そうな顔で見上げながら早足でついてくる。
いろんなことを知ると、悲しいことも知ることになる。足にワッカがまとわりついて歩くのは、浮かない顔したネッツを励ますかのようだ。
「ワッカ?」
そんなワッカがネッツから離れ、ネッツの視界の左の方にかけていきたそうにしている。首輪とつながった紐がピンと張り、なおどこかに向かって走りだすワッカの前足が浮くくらいに。
ネッツはワッカに引っ張られるがまま、ついて行った。
ワッカは嬉しそうに止まって、尾を振る。
視線を上げたネッツは、ワッカと戯れる少女が目に映った。ワッカは少女の周りを嬉しそうに飛び跳ねる。尻尾を振り回し、吠えながら彼女の気を引こうとする。
コーリィは彼女の元に駆け寄った。ワッカは舌を出して尾を振りながら、少女の周りを走り回る。
「御機嫌よう」
コーリィは少女に声をかけた。
「ご、ごきげんよぅ・・・」
生成りのコットンのワンピース。暗い色の茶髪を短く二つに編んだそばかすの少女。歳はコーリィと同じくらいだろう。少女はおさげ髪を揺らし、焦った様子だった。いきなりワッカにここまで懐かれ、足元を駆け回られては、困惑せざるを得ない。
「この子の飼い主の方ですか?先日の染色マキシカの暴走の時に保護したのです。染料がついてしまって、毛が黄色くなってしまっています」
コーリィの説明がなければ、毛色が違って飼い主にわからないかもしれない。
ワッカは少女に飛びつこうと少女の周りを飛び回って尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「わ、私は飼い主じゃありません」
そう言いながらも、ワッカの反応は飼い主との再会を喜んでいるように見えた。ネッツやコーリィにもすぐにワッカは懐いたことから、もともと人懐っこい性格なのだと考えられるが、この少女へのワッカの思いは特別だと誰が見てもわかるほどだ。
「散歩でよく会ってた?」
ネッツでもわかるほどのワッカのはしゃぎよう。
「全然知りません!」
彼女はぴしゃりと言い放つ。やけになっているかのような、不自然な物言いである。
ワッカはコーリィにも懐いてきたから、コーリィほどの少女に心を開くことが多いというならば、分からなくもない。しかし、少女は首を振った。
「あれ、シャルテ?」
ワッカの反応に困惑した少女を見ていると、ネッツは彼女のことを知っていたことに気がついた。
「なんであたしの名前を知って・・・」
そばかすのある少女の顔はネッツには懐かしいものであった。彼女は赤毛の少年の顔をまじまじと見つめる。
「ネッツ・・・嘘でしょ・・・」
シャルテという名の少女は手で口を押さえ、目の前の光景が信じられないようだ。
「シャルテ!久しぶりだな!」
孤児院にいた時の姉のような存在だったシャルテ・ポーンにネッツは明るく言った。
「ネッツ!生きてるの?!」
シャルテもまた、ネッツが暴走マキシカ事故で亡くなったと思っていたらしい。エレックもそうであったが、ネッツの無事を知らない人間がネッツを見たら驚いてもおかしくはないのだ。
「コーリィが助けてくれたんだ」
ネッツは傍の金髪の長い髪の少女を紹介する。
「初めまして、コーリエッタ・メグリエと申します」
コーリィは深々と礼をする。
「め、メグリエ・・・さん!?」
驚いたそぶりを見せるのは、やはり、メグリエの名が都市では有名であり、そんな人物とネッツが一緒にいたからであろう。
「あ、あたしはシャルテ・ポーン・・・ネッツと同じ孤児院にいました」
「ネッツのことを知る方に会えてよかったわ。ネッツも会いたがっていたから」
コーリィの言葉はどこか含みがある気がした。
「ごめんなさい、私、用事があってもう行かなくちゃ」
慌てた様子のシャルテに、束の間の短い再会にネッツは不満げだ。
「シャルテはどこに住んでいるんだ?」
ネッツは再会がとても嬉しかった。彼女もまた、カーンが孤児院の外に連れ出した後、どうなったのかネッツは知りえなかったからだ。
「わ、あたしは壊し屋でお手伝いをしてるわ。飼い主が見つかるといいわね。またね、ネッツ」
シャルテは逃げるように去っていった。ワッカはしょんぼりとしていそいそとその場を立ち去るシャルテを見送った。
少女の慌てぶりも少し気にかかるが、もしかしたら、暴走マキシカを停止する役目を担うメグリエ鉱物研究社のメグリエ家と、ライバルの壊し屋が出会ったからかもしれないと、ネッツは思った。
「壊し屋・・・?」
ネッツは、風のように去った姉に唖然とした。
「この辺りだと、ヤブゴワ兄弟のところかしらね」
あの柄の長いハンマーで暴走したマキシカを破壊する、鍛えられた筋肉と喧嘩っ早い壊し屋兄弟のことだ。
「シャルテも元気にしてたんだな」
ずっと気になっていた孤児院から旅立った兄姉に会えた。無事であることを知れただけでも、ネッツが安心するのに十分だった。
ワッカを連れてコーリィとネッツはメグリエの屋敷に戻った。
その女はメグリエ鉱物研究社の店先の様子を見ていた。眼鏡に女性にしては短めの暗い色の髪で活発そうに見えるが、表情には迷いも見える。彼女の職業は雑誌記者であった。
彼女はメグリエ家に興味を持ったから、取材を申し込むために、屋敷に現れただけではない。大きな謎になりそうなものを見つけるためだ。
コーリエッタ・メグリエは、金髪碧眼の少女だという。彼女には姉妹はいないため、メグリエ邸であり、メグリエ鉱物研究社と看板を出す建物に入ったのが、コーリエッタ本人だろう。コーリエッタが赤毛の少年を連れていたことを自身の目で確認できたことに、記者は舞い上がってしまった。
真実を明らかにする一歩を踏み出したところだと心を沈めようとする。
彼女は、メグリエの記事の執筆の許可を編集長に直談判に向かった。
薄暗くなってきた夕方。夕日の音楽はすでに流れた。
「カーンさん?」
エレック・トリークは呼びかけた。
「ああ、いるよ」
修理屋の仕事が終わり、エレックは近くの公園にやってきた。街中の小さな二つの区画を公園にしたため、長方形の二つの敷地の角と角だけが繋がる歪な形の公園だ。
エレックがここに来たのはイルズ・カーンから呼び出しがあったからだ。彼は孤児のエレックをこの修理屋に紹介した。エレックの後見人の役割も担う。だから、会いに来ることだってなんら不思議ではない。
しかし、エレックは彼に問い詰めたいことがあった。
「ネッツはメグリエの家にいるじゃないか。死んだなんて嘘だったんだな」
怒りを露わに、エレックはカーンを睨みつける。
「えぇ、先日のパーティに彼も出席しておりましたよ」
そう言いながらも、イルズは表情を変えなかった。金縁メガネの奥で、何を考えているのかわからない。
「なんで教えてくれなかったんだ」
エレックは弟分が死んだと聞かされていた。イルズの企てでネッツが死んだことになっていたとしても、兄であるエレックには、嘘だとこっそり教えてくれたっていいはずだ。そもそも、なぜネッツを死んだことにしたのか、疑問が残る。
「あの件は孤児一人の生死はどうでもよく、どう新聞に書かれるかが重要でした。結果として彼は生きていたのだから問題はないでしょう?」
カーンは、最悪な結果ではなかったことを、幸いだと言わんばかりだった。
「まぁ、同じ孤児院で育った子供が死んだとなれば、貴方が悲しむそぶりを見せないと周りの方々に怪しまれます。いずれお話しするつもりでした」
計画のためとはいえ、カーンは常にこんな調子だ。エレックに隠し事など当たり前だった。
「面倒なことにワンガもメグリエの家にいましてね」
「ワンガも?」
そういえば、修理屋にやってきたお嬢様とネッツは淡い黄色の毛玉をお供に連れてきていた。その毛玉は店先で待っている間、修理工に威嚇して鳴き声を上げていたから、ワンガがいたのだろう。
「シャルテが逃してしまったワンガが、染色マキシカの暴走事故の現場の近くにいたようなんです。そこにやってきたメグリエのお嬢様がかわいそうと拾っていました」
カーンはため息をついた。彼女のせいで計画通りに行かないことに苛立っている。
「シャルテにはワンガにもメグリエ家にも関わらないように言ってありますが、ワンガが逃げるとは予定外でしたね。被害は最小限に留めたいところです」
エレックは思いつめたように話し始める。
「今日、メグリエの令嬢とネッツが来たんだ」
彼女が全てを明らかにしてくれるかもしれない。同時に、自身の悪事も暴かれるかもしれない、エレックは期待と不安をかかえる。
「まだ疑心の範疇でしょう。しかし、首輪の仕掛けに気づかれると厄介ですね」
「首輪?ワンガのか?首輪に何かあるのか?」
「いえいえ。どちらにしろ今頃、議会が動き始めています。あの令嬢も少し静かになるでしょう」
「どうして議会のことを知っているんだ?」
エレックはカーンが何者かは知らなかった。孤児院を出た後の仕事を見つけてくれた恩人ではある。特別な仕事を頼みに来るある人物の代理人とカーンはかつて言っていた。また、さる議員の代理人であるとも言っていた。その議員が誰なのかエレックは知らない。
シャルテに会うことを禁じ、シャルテとエレックの生活を脅かすとカーンは言った。
「貴方は知ってはなりません。今の生活を続けたいのなら。しかし、ご心配はいりませんよ」
カーンはそういうのが常だった。カーンは停止したマキシカからメグリエ機関を盗み出させるため、その方法を知りたいと行った。エレックは、修理屋という仕事を生かし、マキシカの中に忍び込む方法を知り得ることができたため、彼に伝えることが仕事だった。
彼が指定するマキシカは、いつ暴走してもおかしくないマキシカだからだと言った。暴走前にマキシカを止めるには、メグリエ機関を盗むくらいでもしないと、そのマキシカの持ち主は何を言ってもマキシカを停止させない。そして、過稼働させていずれ暴走させるような人たちだ、頭を冷やさせるためだと言う。
シャルテにはワンガとともに指示された場所に行くことを指示したのもカーンである。シャルテには、都市初の暴走マキシカ探知ができる動物の訓練と告げてあるらしい。カーンが指定したマキシカに、シャルテがワンガを連れて行く。シャルテが立ち去った後に、そのマキシカは必ず暴走していた。
シャルテは、ワンガが特別な能力を持っていて、暴走するマキシカを嗅ぎ分ける訓練中だと信じ込んでいる。
しかし、実際は別の方法でマキシカを故意に暴走させているのだが、その仕組みはエレックにはわからなかった。暴走しそうなマキシカを選ぶことはできても、マキシカを意のままに暴走させることができる方法なんてあるのだろうか。それに、ワンガは鼻が効く動物と言われているが、マキシカなんて製造物か機械油の匂いしかしないのに、ワンガがその匂いの違いを識別できるものなのだろうか。
エレックはカーンに逆らえない。だから、気づいていても、疑念を抱いても、何も言えなかった。
シャルテがワンガを連れていくマキシカの暴走は、最初はマキシカの持ち主が停止させられる程度の誤作動だったが、徐々にマキシカは手がつけられないほどの暴走事故を引き起こした。その1つがテイラーマキシカの事故であった。
カーンは古いマキシカの使用に疑問を持つ人物なのだ。もはやマキシカなど過去の遺物で、新しい機械が都市を席巻するべきだと考えているのだろう。確かに、マキシカも改良されているとはいえ、昔から基本は変わってはいない。ましてや、動力源の熱量を生み出すメグリエ機関は、もう何十年も進化していない。
古いマキシカが壊れることがないから、新しいマキシカができることは稀だった。なぜなら、メグリエ機関の数が限られているからである。
「疑われたくなければ、しばらくは静かにしていてくださいね。シャルテに会うのもまだ禁止です。容疑者が一つの孤児院から立て続けに出るのは疑われることになりますからね」
カーンはエレックを脅すように真顔であった。傾いた夕日の中で、エレックに固く誓わせるかのように。
「私は主に呼ばれているので失礼します」
そういってカーンは颯爽と去っていった。
エレックはカーンの正体が気になってカーンをつけたこともあるが、すぐに車に乗ったために追いかけることができなかった。
謎ばかりの男イルズ・カーンには、孤児院から旅立ちから今までの世話してくれた恩があり、その特別な仕事を断ることはエレックにはできなかった。シャルテも同じだ。彼女はカーンを信用し、言いなりになっており、カーンの都合の良い駒になっているようだ。