第15章 底冷えの罠
『染色マキシカ暴走事故 街を黄色に染め上げる また熱過機械事故か!?』
その日は、壊し屋に壊された無残なマキシカを泡の塊が囲む写真が新聞の一面に配置された。コーリィはその記事を辛そうな顔で読み飛ばした。新聞記事にはウカカンコンの色を抽出させるための大鍋を加熱したその熱がマキシカ内の熱量過多を引き起こし、暴走したのではないかと書かれていた。マキシカが急に発熱して暴走することからも、マキシカ熱過症候群と揶揄する声も出てきていた。
貴族たちのパーティの夜が開けて、ネッツはふと考えた。コーリィには結婚を約束した相手、リオードがいる。コーリィが結婚したら、自分はどうなるのだろう。ここではないどこかに行くのだろうか。考えても答えの出ない未来の話だ。
そして、イルズ・カーン。ネッツを孤児院から追い出したその男が、なぜ昨日のパーティにいたのか。パーティの出席者達と話していたナガレに尋ねても、イルズ・カーンという人物についてはわからなかった。
居間の椅子に座り、ぼうっとしながら、少年は傍のワッカの頭を撫でる。
洗い立ての黄色い毛玉は、ふわふわで暖かい。ネッツに懐いたらしく、ワッカはネッツに撫でられながら、おとなしく遠くを見ている。
暖かいことを嬉しく思えるのは、雨期の大雨に当たってびしょ濡れになり、寒いと感じたときか、ヒャリツの風に当たっているときくらい。
ワッカの飼い主はわからず、ナガレがディージ警部にも電話で伝えたという。警察に言えば良いと思っていたが、意外な答えが返って来た。
「ワッカのような迷子のペットの届け出はないようです。しばらくは保護しておいて欲しいとのお願いでした」
ナガレは少し困った顔をしていたが、ネッツはまだワッカと一緒に居られるのが嬉しかった。
染料マキシカ事故のせいで、ワッカは黄色い毛玉になってしまっていた。散歩がてら飼い主探しに行ったとしても、こんなに毛色が変わってしまったワッカに、飼い主は気づかないかもしれない。ワッカの本当の名前さえネッツは知らない。
警察は動物の迷子届をあたってみるとは言ったが、念のために新聞の読者の投稿欄にワッカのことを掲載してもらった。飼い主や知っている人物がいれば連絡が来るはずだ。それまではここで面倒を見ることになった。
ネッツは空腹とまではいかないものの、何かつまみたくなった。キッチンに行けばナガレが何かおやつをくれるかもしれない。
早くも昼食の準備をしているようで、キッチンでは、美味しそうな匂いが漂っていたが、ナガレの姿はなかった。
缶詰や紙に包まれたパン、お菓子の箱、茶葉やジャムの瓶などもテーブルに並べられている。さぞ豪華な昼食を作るのだろうかと、ネッツはつまみ食いか味見をしたかったが、ナガレの許可なしにはと手を引っ込める。ネッツがキッチンを出ると、ナガレは奥の部屋からちょうど出てきたところだった。ナガレはキッチンにやってきた。
「何か手伝うことってある?」
ナガレはネッツが台所に来ていたことに一瞬、驚いたようだった。
「これは、ネッツ坊ちゃん。お腹が空きましたか?」
ナガレはネッツの思惑をお見通しだった。ナガレは少し考えたあと、大きな布袋を示す。
「この袋に詰められるだけの薪をあそこから入れてくれますか?そうしたら、お昼ご飯にしましょう」
薪は台所の勝手口に近いところにある別の箱に詰めてあった。これをネッツに袋に移して欲しいらしい。ナガレにネッツは手を保護するための革の手袋を渡された。
「わかった」
ネッツは、ネッツの手には大きすぎる手袋をして、薪を移し始めた。薪と言っても雨季に生茂る草が乾季になり枯れたものが中心だ。スナバラの外れには、礫沙漠から飛んでくる砂から都市を守るための防砂林が植えられ、それが枯れぬように管理されている。切り倒されて薪になることはあまりない。その代わり、雨季に生茂る草が乾季になり枯れたあと、自然に燃えることがあり、それを防ぐために草を刈る。それがスナバラの薪であった。
電話のベルが鳴る。
ナガレは手を止めてメグリエ鉱物研究社の店先で鳴る電話を取りにいった。
ネッツは電話のあるメグリエ鉱物研究社の店先の方に向かう。ワッカもネッツの顔を見上げながらトコトコとついてくる。
電話の向こうと話しながら、ナガレは頷く。
コーリィの出番のようだ。昨日もマキシカが暴走したが、二日連続で暴走事故が起こるとはネッツには初めてのことだ。雨期とはいえ、暑い日が続いていることも、マキシカの暴走を誘発するのだ。
今日は壊し屋に先を越されないよう、コーリィに悲しい顔をさせないよう、ネッツは急いで支度を始めた。
壊し屋にマキシカを破壊されたらコーリィが哀しむ。マキシカが壊し屋に破壊されてボロボロになったその姿は、ネッツにもわかるくらい悲しいマキシカの死だった。だから、壊し屋よりも先に、マキシカのもとに辿り着かなければならない。
「お嬢様、マキシカが暴走したようです。西の2番通り、製菓用マキシカです」
コーリィは既に準備を整えていた。
「メグリエ機関314号、35ズールの小型移動式マキシカ」
ネッツは支度が既に整っている得意げな笑顔でコーリィの前に登場してみたが、コーリィは何も言わなかった。それが出来て当たり前だというのだろう。昨日の一件でさらに険しい顔つきだ。
雨季の気配のない快晴。痛いくらいの光の空の下、コーリィの後ろにネッツはしがみついて自動二輪で現場に向かった。
ナガレによると、ネジッレを製造する小型マキシカが暴走しているらしい。
ネジッレはスナバラの伝統的な揚げ菓子である。特に雨期の前は黄色く着色した砂糖のかかったものが出回る。ネッツの好きなお菓子の一つだが、なかなか口にできるものではなかった。
狭い道を二人乗りの自動二輪が駆け抜けて行く。のどかな昼下がりだ。
そのマキシカがいる場所に近づくと、悲鳴が聞こえる。コーリィは速度を上げた。
暴走したマキシカが近い。
コーリィとその現場に向かうと、そこは坂の上で、道の端にそのマキシカがあった。今までのマキシカと比べて、それはとても小型だとネッツは感じた。車よりも小さく、コーリィの乗る自動二輪に傘と鍋と砂糖をまぶす作業台をつけたほどの手押し車のような移動式の小型マキシカである。緑と赤の淡い色の布を張ったパラソルがついている。ネジッレの店であることや金額を書いた薄い金属板の看板を立て、ここでネジッレを揚げながら販売していたところ、暴走したようだった。
暑い熱気をまとい、傍の鍋で軽やかな揚げ油の音をさせ、佇んでいるところを見ると、暴走しているようには見えないが、このマキシカは、材料をいれるための漏斗に続き、材料を混ぜるスクリューに生地を揚げるための煮えたぎった油の鍋を抱えている。長年の使用で油や焦げで黒ずんでいたが、銅色の機械に、子供たちが好むような明るいカラフルな布を張った傘を立てていた。揚げたてのネジッレをどこでも販売できるよう、小型で車輪がついており、人の手で移動が可能なマキシカだ。
そのマキシカは人の制止を振り切って、一人でネジッレを作ろうと暴走したらしい。甘く、香ばしい油の香りがネッツの鼻をくすぐる。
高温の油を抱え、できたての不恰好なネジッレを油切りも不十分なまま、マキシカは次々とネジッレを通りに投げ飛ばす。
油の海から救い出すざるを器用に、そして素早く動かすことで、高温の油砲を発射する兵器になっていた。
「コーリィ!来てくれたんだねぇ!」
赤と緑のストライプのエプロンに黄色い布巾を被った恰幅の良い女性がコーリィに声をかけた。
「ラウンおばさま、けがはありませんか?」
コーリィは自動二輪を止めた。
「大丈夫。それより、うちのマキシカのせいでコーリィが火傷しないか心配だわ」
この人がネジッレマキシカの持ち主らしい。赤く照りのある頰に、笑い皺のついた顔は、太っ腹なお母さんが作るネジッレの看板に相応しい。彼女からも香ばしい油と甘い砂糖の香りがする。
コーリィのことを知っているようで、コーリィをまるで自分の娘のように心配をしている。
「大丈夫。任せてください」
コーリィはいつもの獲物を見定める目をしてクールショットガンを構えてネジッレマキシカに近づいていった。
マキシカは腕を動かし、反動を加えて熱い油を含んだ小麦粉の塊だったものを器用に投げ飛ばす。すでに自身を示す移動式の小さな看板を倒しており、その威力を誇示しているようだ。
そんな熱兵器を飛ばすようになった機械には近づけないが、こちらもある程度は離れてもマキシカを止められるクールショットガンが武器だ。
コーリィはネッツに自動二輪を預ける。一人で間合いを取りながらも、クールショットを打ち込む標的を見極めている。
生地をちょん切るハサミの音、油の煮立つ音、軽い小麦粉の塊が揚がる音・・・
コーリィがその銃口の大きな不恰好なクールショットガンを構えた時だった。
マキシカはゆらり、と走り始めた。
小型のマキシカは移動式で車輪がついているが、マキシカ自身で移動するようには出来ていないはずであった。車輪を固定するレバーがいつの間にか解除されていることにコーリィが気づいた時には、マキシカは小麦粉の塊を投げ飛ばした反動で少しずつ車輪を転がしなから、とうとう坂をゆるゆると下って行った。スナバラは同心円状、外側に向かって緩い傾斜のある町だ。まるでマキシカが暴走したことで意志を持ち、この感情の高鳴りを鎮められないよう、コーリィに仕留められぬよう逃げ出した。
マキシカの腹の鍋の油が重心を下にバランスをとり、パラソルが船の帆のように風を受け、町の緩やかな坂を下っていく。
コーリィはすぐに自動二輪に乗る。ネッツはあわててコーリィにしがみつくと同時に、自動二輪は発進する。追いかけっこが始まった。
マキシカは予想外の動きをし、坂を下りながらもマキシカはネジッレを揚げ続ける。
油切れの悪いネジッレが路面に放たれると、それはマキシカが仕掛けた罠に変わる。自動二輪を運転するコーリィは時折投げてくる熱いネジッレを避けながら、そして油のついた路面を滑らないように走らなくてはならない。いつ滑って転倒するか、気が気でない。
「この先はあまり人がいない場所だけれど、うまく停止してくれるかしら」
コーリィの声が風に混じって聞こえた。
自動二輪で適度な距離を保ちながらコーリィとネッツは坂を下ってマキシカを追いかける。
建物の上の階から様子を見守る人々が声を上げる。マキシカが暴走したと誰かが叫び、皆、通りから建物の中に逃げ込んだ。マキシカの事故が続発し、人々は暴走マキシカを恐れるようになったのだろう。皮肉にもそのおかげでコーリィとマキシカの追いかけっこを妨害する者はいない。
コーリィの思惑通り、ネジッレマキシカは坂の途中にある建物に擦り傷をつけながらも、回転し、高熱のネジッレモドキを投げ飛ばす。
距離を開けながら、コーリィは自動二輪を走らせ追いかける。
コーリィには自動二輪のハンドル操作があり、定まらない照準では、クールショットを撃つこともできない。
やがて、マキシカと自動二輪は距離をとりながら坂を下り終えた。ネジッレマキシカは坂の底にある広場へと侵入した。
平らな広場の真ん中まできて、速度も落ちたマキシカは広場の真ん中でコーリィとネッツを挑発するかのように、ぐるぐると回った。徐々に速度を落とし、やがて停止した。
マキシカは、抱えた鍋の揚げ油は半分以下まで減ってしまったが、熱い小麦粉でできた兵器を投げることはやめない。
コーリィは売られた喧嘩は買うと言わんばかりに、自動二輪を降りて傍らのクールショットを抜いた。
銃を構える彼女は凛々しい。コーリィの真一文字に結んだ口からは殺気までもが感じられる。
マキシカは自身で動けるわけではない。坂を転げる車輪しかないのだから。
ネッツは固唾を飲んで見守る。
パチパチと雨季を祝福するかのような揚げ油の音を立てるマキシカに向かって、コーリィはトリガーを引いた。
弾の命中したマキシカは、凍りついてゆく。
コーリィの放った弾が種として急成長し、花開く氷は、一部油の海に落ち、水と油の不協和音を立てるも、マキシカはゆっくりと手を止めた。
ネッツは安堵した。だれも傷つかずにマキシカを止めることができたからだった。比較的小さなマキシカだと思っていたが、こんなに動き回るとは思わなかった。都市が中心から外側に向かって緩やかな坂になっていることと、ネジッレを扱う網が油を切るように動くこと、風を受けるパラソルなど様々な条件が揃ったからこそ、ネジッレマキシカは抵抗して逃げ出した。
コーリィがマキシカに近づこうと広場に立ち入った時だった。
不穏な音が広がる。ネッツには一瞬の出来事に見えた。
マキシカが最後の足掻きと、広場の石畳にひび割れを作っていた。
突如、石畳が一部崩れ落ちた。
それが、ちょうどコーリィの真下だった。
ネッツの目の前でコーリィの姿が消えた。
「コーリィ!」
ネッツは広場の入り口に立てかけた板の書き込みが目に入った。
——崩壊の危険があるため立ち入り禁止
「コーリィ!」
ネジッレマキシカの持ち主のおばさんが坂を下り、駆けてきた。
「どうしたんだい!?」
広場には傾いた石畳の上で氷の華を咲かせて沈黙したマキシカと、人が一人落ちるほどの穴。
「コーリィが落ちた!」
ネッツはそう言って、コーリィが落ちた地点まで走って覗き込む。
「コーリィーー!」
ネッツの声が暗い穴に響きわたる。
穴の中から水の音が聞こえる。
ネッツもその穴に飛び込んだ。
次の瞬間、ネッツが全身に感じたのは、痛み。
ネッツは深い穴の底に叩きつけられたわけではなかった。冷水に落ちたのだ。あまりにも冷たすぎて、心臓がぎゅっと縮む。
息を止め、上を目指して足掻く。
穴の深さもあったが、水の深さもあったので、ネッツは無事であった。
ネッツが水面に顔を出すと、水から這い上がる少女が見えた。
ネッツは腕の力で水を掻き、コーリィのいる場所になんとか近づいた。水から這い上がると、震えるほどの寒さだった。
2人とも怪我はなかったらしい。冷たさで体が痛いだけのようだ。
服まで濡れたからではない、この穴がネッツが感じたほどがないくらいの寒さである。
灼熱の沙漠の中にある都市に、こんな涼しいを越えて寒さを感じる場所が存在するとは。
「コーリィ、大丈夫か」
ネッツの声は寒さで震えていた。
「ネッツ!貴方も落ちたの!?」
コーリィは濡れた髪で表情は見えなかったが、青白い唇でいつものように不満げに言うところをみると、コーリィは無事らしい。
「ネジッレのおばさんに言った!コーリィが落ちたって!それで飛び降りた!」
コーリィは少し眉を寄せたが、ため息一つで済ませてくれたようだ。
「寒い!」
「ヒャリツの中だもの」
沙漠に囲まれた都市スナバラにある家屋を冷やし、大型マキシカを冷やすヒャリツ。二人は都市の地下に広がる冷たい空気と地下水をたたえた鍾乳洞とそれを拡張した人口の洞窟に落ちてしまった。そこは、涼しいを通り越して寒い場所である。そして不運にも、二人は全身びしょ濡れであった。
二人の頭上には小さな丸い青空が見えた。登れそうもないつるつるした壁の穴の底におり、ほとんどは水没して、水面が突如できた太陽への道筋によって煌めいている。
「まさか広場の床が崩れるなんて」
「立ち入り禁止って書いてあった・・・」
小型のマキシカが乱暴に広場を駆け回ったお陰で、脆くなった床が崩れてしまった。マキシカの動きに注目していたコーリィが、広場の注意書きを見落としても仕方がない状況だった。
「雨期でよかったわ。でなければ、地下水がなかったかもしれないもの」
雨期に入った頃だったおかげで、地下水が溜まり始めていた。乾期が続いていたら、地下水は二人を守ることができず、どうなっていたかわからないということだ。ネッツにはこの穴がヒャリツであることも、雨期にはヒャリツに地下水が溜まることも知らなかったのに、とっさに飛び込んでいた。
無鉄砲な行動をしてしまった理由は、寒さで思考さえも凍りついてきたので、ネッツは考えるのをやめた。
「ヒャリツは都市の様々な場所に繋がっているから、歩けば出口はあるはずよ」
コーリィは濡れた髪から滴る水をぬぐって、横穴を覗き込む。
ヒャリツというものに実際に来てみてわかったが、都市の地下には広く深く血管のように張り巡らされた洞窟のような場所があった。実際、ヒャリツは元来、この都市の地下洞窟をもとに、人の手を加えて作った冷たい空気と地下水を蓄える空間である。白い壁でできたヒャリツは、静かで神秘的な場所だった。
「この穴を登れないし、行けるところまで行くわよ」
コーリィは白い息をして、壁沿いの水に浸かっていない足場を歩き始めた。ネッツもついていく。
濡れた体は重く、寒さで足の感覚が薄まる。
都市の各家々に張り巡らされたヒャリツという宣伝文句どおり、すぐに分岐点が見つかるが、水に浸かっており、その奥は通れるほど水位は低くなく、この冷たい地下水に再び浸かれば、凍え死んでしまうかもしれない。進める道は限られている。二人は震えながら少ない陸地を歩いた。
明かりはないが、ヒャリツの壁は滑らかで白くキラキラと輝いており、ぼんやりとした視界はある。
水も透き通っており、時折、ネッツは水が見えずに冷え切った水に足を浸してしまう。その度に心臓が縮みあがる。
複雑な地下道を駆け巡る風の唸る音とネッツとコーリィの濡れた足音が聞こえるだけでとても静かだった。ネッツは歯がガタガタとかみ合わないほどの震えを感じながら、コーリィに続く。
二人は何も話さずにヒャリツの中を進んだ。ヒャリツと寒さと水に濡れたことで体がどんどん冷たく、麻痺していく。このままでは地下で死んでしまうのではないか、ネッツは不安になる。立ち止まればもう歩き方も忘れそうなくらい足先の感覚がなくなっていた。