第14章 雨季のお祝い
光沢のある布で仕立てられたズボンに、眩しいほど真っ白なシャツ、小洒落たベスト。明るい灰色の艶のある布で仕立てられた服はネッツの目立つ赤毛にも合う。
屋敷には、メグリエ鉱物研究社の店先と住居の境の壁に大きな鏡がかけられている。ネッツはその前で自身の見慣れない姿を見ていた。
サンダルのような足の指が自由な靴ばかり履いているネッツには、正装用の革靴を履くと、足の指が窮屈に感じられる。爪先からかかとまで覆われている靴を履いたことなどないから、なんとも窮屈だ。
ネッツは赤毛の癖っ毛をナガレに撫でつけられ、中途半端な毛足にリボンを結ばれた。
はっきり言って堅苦しいし、こんな格好をしたのも初めてで、落ち着かない。気品のある上等な服がネッツの華奢な体に似合い収まるわけもなく、服に圧倒されてしまう。しかし、沙漠の街という暑い場所でも、正装は昔の遠い涼しい街の文化を受け継いだために、長袖なのだ。
少年ネッツは、格好だけは今や上流階級に紛れても見劣りしないような、立派な執事見習いになっていた。
別室ではコーリィもマダム・ファニスターにドレスの着付けをしてもらっている頃だろう。
今宵は雨季の始まりを祝う貴族たちのパーティ。共に乾期を乗り切った執事や従業員も一緒に祝う日なのだ。
雨季の始まりを祝うのは、スナバラではありふれた行事だ。街全体の浮かれた雰囲気だけでも、ネッツは楽しみで仕方がない。ネッツは執事見習いとして、お嬢様についてパーティに参加するのだ。同時に、貴族ばかりの場所に行くというだけでも、ネッツには気が重い。履きなれない窮屈な革靴の中で足指を動かす。
コーリィが支度を整えてやってきた。
「執事見習いに見えるわ」
コーリィはネッツを見て言った。彼女はいつもの調子だったが、ほめているのだろう。ネッツはコーリィのその姿にはっとしてしまった。マダム・ファニスターは本物の魔法使いであったらしい。
白いリボンと青い大きなビーズが彼女の金糸の髪と溶け合って金の台座にサファイアをのせたよう。闇から朝日がのぼったような、裾にかけて白から濃紺に様変わりするドレスは、残り星のようなきらめきを放ち、胸の青い羽のブローチは朝日の中を飛び立つ鳥のようで、ドレスに施された刺繍の花は可憐な彼女にこそ、着こなせる。
彼女のドレスは、驚きの仕掛けがあった。彼女の白い背中が大胆にも開いたデザインなのだ。それは、ネッツが慌ててしまうほど。
「き、綺麗なドレスだな。背中も掻きやすそうだし」
不恰好な姿勢で立ちすくんでいるネッツをコーリィは眉ひとつ動かさずに、急かすだけだった。
「さ、行きましょう」
着飾ったコーリィはネッツの知る何処か不機嫌で冷静に巨大機械を仕留める熱を帯びた空気をまとったコーリィとは違った。ネッツが触れられない、気高く咲く高原の白い花のよう。これが本来の彼女の姿なのだ。
ナガレが通りに車を回した。淡い水色に塗装された丸みのある4輪車は、なかなか庶民が持っているようなものではないが、少し古いものである。
コーリィとネッツは車に乗り込んだ。マァレットが見送りをしている。ネッツは手を振り返す。
ナガレがレバーを操作し、ハンドルを握ると、車は一度跳ねてから動き出した。
「古い物は好きだけど、さすがにこの車はお古ね」
コーリィはそう言いつつ、この車を気に入っているようだ。車を眺める目が愛着のあるものに向ける目だ。
「お嬢様のお爺様が残した、蓄電池式の自動車とはいえ、今も使えるだけで充分でございます」
その懐古主義の自動車は、何度もはねたり震えたりしながらも、三人をパーティの会場へと送り届ける。
夕日の中、どこか街は浮かれた様子。雨期の到来を待ち望む人々は、雨期のお休みに入るのだ。
パーティが開かれるのは、スナバラの中心の地区にあるホテルである。スナバラ都市議会のある議事堂のすぐ近くにあり、近代的な煉瓦造りの建物だ。滑らかなクリームのような曲線美を特徴とするそのホテルの外観は、スナバラの建物の中で白さを競うと言われている。スナバラ公立博物館とマキシカ邸といい勝負だそうだ。
コーリィとともにネッツはそのホテルに踏み入れた。そこは、ネッツが知らない煌びやかな別世界だった。
コーリィなら当たり前なのだろうが、ネッツには眩しすぎた。
純白の建物であるこのホテルの広間で、貴族たちの雨期を祝うパーティが行われる。ホテルの中に足を踏み入れると、見飽きるほど飾られた明るい黄色の飾り。それは雨期の来訪の喜びを表した定番の色。天井には光の粒を集めたシャンデリア。テーブルには色鮮やかに、そして芸術のように盛り付けられた料理が所狭しと並ぶ。
人々は皆着飾って、ざわめく広い空間。ネッツはパーティの場を人々が集まり活気のある騒がしい街の市場のようなところを想像していた。しかし、たくさんの人がいるのに穏やかで、どこからか聞こえてくる優雅な音楽まで耳に入る。同時に、自身が場違いではないかという不安と貴族たちの世界を覗く期待も持ち合わせていた。見るもの全てが未知だった。
ネッツが間抜けな顔で物珍しそうに見ていると、ナガレが咳払いをした。
「ネッツ坊ちゃん、今日はくれぐれも粗相のないように。堂々としていれば大丈夫でございます」
ナガレがネッツの背筋を伸ばすように背中を軽く叩く。
「わかった、ナガレ」
ネッツは自分なりに引き締めた顔に表情を変える。変に緊張してしまう。
パーティは都市議会議長カナー・カレズが乾杯の挨拶をして始まった。都市で一番偉い人と習った議長をこの目で見ることがあるとは、ネッツは思ってもみなかった。ネッツの中では、都市で一番偉い人とは絵本でみた王様のような人物を想像していたから、カレズ議長は金の王冠も頭にのせておらず、地味に見えた。少し恰幅の良いところはネッツの想像の王様と合っていたが、立派な髭を想像していたのに、彼は鳴りを潜めた口髭だけ。議長は王様ではないのだから、金の王冠や赤いローブや宝石のついた杖もないのは当たり前なのだが、街中で見かけても分からないくらいの老年の男性だったことに、ネッツは少しだけ失望した。
「スナバラで一番偉い人か・・・」
「都市議会の議員さんも来ておりますよ」
さすが貴族のパーティだとネッツは納得した。議長や議員までもがこの場所に集まっている。
ネッツはさわやかな果実の入った赤紫色のソーダ水を飲み干すと、会場の奥からこちらに向かってにこやかに手を振る青年に気づいた。朝露を駆ける風のような艶のある髪、新緑の瞳に、鼻筋の通った顔立ちのその若い男がこちらへとやってくる。
「御機嫌よう、リオード」
コーリィはドレスのスカートを摘んで、優雅に会釈する。
「あ!マキシカ管理局の!」
ネッツは声を上げた。ネッツのかつての家を破壊した重機マキシカの事故後の確認にやってきたマキシカ家の若い男。そして、去り際にコーリィの頬にキスした男だ。いけ好かない奴だとネッツは睨む。
「会えて嬉しいよ、コーリィ。やはり、君は綺麗だ」
貴族の礼儀なのか、出会った女性を褒めるものらしい。彼がネッツにも目線を向ける。
「ネッツくんも、見違えたよ」
「ええ。このような場にも慣れるようにと、連れてまいりました」
ナガレがネッツを紹介し、それと同時に、ナガレがネッツの背中をやさしく押す。挨拶をせよ、という合図だ。
「こ、こんばんは・・・リオード、さん」
ネッツは変に堅くなって、喉から声を絞り出す。コーリィにキスをするような男だ。警戒してしまう。
「そんなにかしこまらなくていいよ、ネッツくん。今日はみんなで雨期を祝う日なのだから」
彼が若葉色の瞳で微笑むと、ネッツはまるで燦々と降り注ぐ太陽の元で育った瑞々しい果物の爽やかな甘さを味わったようである。貴公子とは彼のような人間ことのだと認識せざるを得ない。
ネッツが背伸びをしても、その余裕と笑顔には敵わないのは明白だ。そして、彼はネッツの前でコーリィの手を取った。
それを見てネッツは、マキシカの人間は恐ろしいと思った。あんなに馴れ馴れしく気高く白い花に触れるとは。ネッツはますますリオードを警戒してしまう。
そして、そんなコーリィに、いや、彼に会場の視線が集まっていることにネッツは気付いた。それは彼に憧れを抱く娘たちによるものらしい。スナバラで最も有名な家の御曹司であるだけでなく、その容姿と気さくな性格からも、憧れている女性は多いようだ。確かに小さなネッツといるよりも、リオードといるときのコーリィは一人の女性として際立って見えることは否めない。絵本で見た王子様とお姫様にとても近い存在に見えた。
「リオードって一体・・・」
ネッツの呟きをナガレは聞き漏らさなかった。
「リオード様は、お嬢様の許嫁です」
ナガレが小さな見習いに耳打ちした。
「え?」
一度に混乱と混沌が訪れる。
「お嬢様は、リオード様と将来ご結婚されるのですよ」
コーリィの結婚相手はあいつ!
ネッツの中で電撃が走った。ネッツとそう変わらない歳のコーリィに将来の結婚相手が決まっている。
この都市の歴史とは切っても切れないマキシカ。それを作った人物の孫とネッツとは文字通り雲泥の差である。コーリィがそんな人物といずれ結婚する。とはいえ、コーリィの曽祖父らもマキシカを動かすメグリエ機関を作ったすごい人物なのだから不思議なことではないのかもしれない。ネッツには遠い遠い世界のことで、今ネッツがここにいることこそが予定調和から外れた異質な展開なのだ。
「リオード様の兄のカークス・S・マキシカ様があちらにおられますね。彼がマキシカ社で働かれることになり、マキシカ管理局をお辞めになったので、弟のリオード様が管理局に入られたのですよ」
ナガレが示す方に、リオードとコーリィと話し始めた男がいた。カークスはやや角ばった顔の男で、リオードと似ているのは少し暗めの灰色がかった金髪だけで、頭は堅そうで厳格な面持ちだ。傍にいるカークスの妻ルルナ・パルナー・マキシカも揃いも揃って神経質そうに眉間にしわを寄せている。
「お嬢様の叔父ミッゲル・ファン様もマキシカ管理局にお勤めだったのですよ」
「勤めていた?」
ネッツはコーリィの家族について知りたかった。ナガレによれば、コーリィのその叔父は、病院に入院していたコーリィの母親ミマの弟だという。
「はい、もう半年ほど前から、ミッゲル様は行方不明なのです」
ナガレの話を聞くと、コーリィの家族は今、ばらばらということだ。一人で巨大な機械と対峙し、気丈に振る舞っているコーリィを見ていると、彼女は一人で抱えているのではないかと心配になる。今だって、昼間にマキシカを壊し屋に壊されたのを目の当たりにして、コーリィは怒りと悲しみを抱いていた。そうネッツが断言できるほど、コーリィは落ち込み、悔しがっているなかで、ぐっと堪えていた。今の彼女はそんなことなどなかったように、彼女はパーティで凛として振る舞っている。
リオードなら彼女を幸せにできるのだろうか。都市の発展に寄与したマキシカ家なら、都市で随一のお金持ちの貴族、コーリィは何不自由なく暮らせるはずだが、コーリィはそれを望んでいるのだろうか。
ネッツは深い疑問の穴を覗きこんだ時、目を惹く鮮やかな朱色のドレスを来た婦人が通り過ぎた。
彼女は様々な人に声をかけている。声をかけられた人物は恐縮して、深々と挨拶をするところを見ると、貴族か重要な人物と思われる。
「おや、リア・ウーチス議員ですね」
ドレスには深いスリットの入った大胆なデザインだ。オアシスの雨期、硬い葉の木に咲く小さくとも目を引く花のような朱色のドレスにスパンコールの煌めく黒いストールという出で立ち。会場で一際目立っている彼女は、艶めくブルネットを肩につくほどの長さで切り揃え、ヒールを鳴らし歩く。それは彼女の満ち満ちた自信を誇示している。ネッツは少しだけ怖気付いてしまった。
「最年少で女性議員になり、ご活躍されている方です」
ネッツにとって、都市議員とは、頭が良くて偉い人たちが都市議会として集まって、スネバラのことを決めているくらいの認識だった。議員の彼女に失礼な態度をとったら、とてもまずいことになるのだと何も知らないネッツにでもわかった。彼女はパーティでの振る舞いは得意なようで、上品に笑い、多くの人と話している。
「さて、何か頂きますか?」
「いいのか?」
堅苦しい貴族たちよりも、見たことない料理に目が行っていたネッツは、ナガレのこの言葉を待っていた。
「ええ、私たちも招待されたのですから」
このパーティは雨期の訪れを祝うパーティであるが、過酷な乾期を共に乗り越えた使用人達を労う意図もあった。今宵は使用人達もパーティの参加者なのである。料理の並ぶテーブルへナガレとネッツは向かった。
テーブルの中央には、やわらかそうな肉や、淡い色のチーズ、色とりどりの野菜や果物から精巧な作りの焼き菓子、そして、氷でできた像や野菜を精巧に削って花のレリーフにした芸術作品までが並ぶ。
「これはなんだ?」
見たことのない量の料理に、ネッツはすぐに飛びついた。
「落ち着いてください。それはケルケルの生チーズですよ」
チーズならネッツも知っている。しかし、黄色く硬いチーズしか見たことのなかったネッツには、クラッカーに乗っている一口の白い雲がチーズになんて見えない。
都市の北側には、ケルケルという毛と乳を取るための家畜を放牧している。何度かネッツは放牧地から逃げ出したケルケルを見たことがあるが、白っぽい毛の塊に足を生やしたような動物だ。近づくと歯を見せ、毛を逆立て威嚇してくるくせに、ネッツが近づくと後ろに飛び跳ねて決して捕まらない、臆病な動物だ。博物館で剥製を見るまで近くで見たことがなかった生き物でもある。
そのケルケルから採れた乳で作ったチーズは、黄色くて硬く独特の匂いがするものだ。目の前には雲のような見た目に、癖のある匂いがしない別のものだ。生チーズとはなにかと、ネッツは大きく口を開けてそれを口にした。
それは口の中でとろけ、臭みもなく、濃厚ながらもすぐに消える柔らかな味わい。こんなに複雑で、しかし、協和音のとれた黄金比のような食べ物があるのだろうか。ネッツは一度で虜になった。
「うまい!なんだこれ!」
「ネッツ坊ちゃん、美味しいとおっしゃってください」
ネッツは次に一枚ずつ切り分けられた肉料理を、取り皿に取った。ネッツがそれにかぶりつこうとしたところで、ナガレが男性に声をかけられた。ナガレよりも若く、親子くらいは歳が離れているだろう。
二人が話し始めた様子から、彼はどうやら何処かの屋敷の執事らしく、ナガレの知り合いのようだった。きっと、同じ仕事をする仲間のようなものだろう。
ネッツはそれを横目に肉料理を早速食べる。その肉は柔らかく、溢れる肉汁とハーブの効いたソース。ネッツはこんな肉は食べたことがなかったが、これが肉なのかを疑ってしまうほどだ。
ナガレが見ていないうちに、ケルケルの生チーズをもうひとつ――ネッツが料理に手を伸ばしたときだった。
「ごきげんよう。貴方、とても懐古的な装いね」
ネッツのチーズを味わう瞬間に割って入ってきたのは、陽の当たる青々とした葉のような瞳に明るい色の巻き毛を弾ませた小さな令嬢だった。
薄紅色のドレスから華奢な腕を伸ばし自信に満ちて、少しばかりネッツを馬鹿にするような笑顔でネッツを見上げている。年はネッツよりも4、5歳下くらいだろうか。
「ファッションは巡るとは言うけれど、少しずつアレンジを加えて行くものなの」
ピンクのバラをたくさんあしらったデザインのドレス。なんとも無駄の多くごてごてとして動きにくい服だろう。小さなお姫様のお人形のようだが、口調から気の強さが目立っている。
執事見習いとしてここに来たネッツは目一杯着飾った婦人たちに比べて、地味な格好であり、彼女の目には古風な格好に映ったらしかった。
「そうなのか?この服、古いのか?」
貴族のお嬢様と孤児院育ちのネッツの会話が成り立つわけでもなく、ましてや服装についての話題など、ネッツの頭の引き出しにはない範疇の話である。この服はナガレが用意してくれた服だ。ネッツが着たこともなかった上等な服であり、窮屈だが、ちゃんとしたコーリィの助手に見えるような気がして、ネッツは気に入っていた。しかし、彼女に言わせれば古くさいらしい。
「あら、デザイナーの卵の私がアドバイスしているのよ」
彼女は自信満々である。小さなネッツよりも小さく折れそうなほど華奢な少女が、自信満々に、そして大人のように振る舞おうとしているのだ。皇女が精一杯権威を誇示するかのようだ。
「そうなんだ」
ネッツの服が古いといっても、洗い晒しのタンクトップに裾の短いお下がりのズボンで過ごした孤児院の日々と比べたら、毎日、複数の服を着ることになっただけでもネッツには十分すぎるくらいだ。
それよりもネッツは、ケルケルの生チーズを早く食べたいのだが、そんなネッツを少女はじっと見ている。
「なんだ?そんなに俺の服が変なのか?」
少女は、急に何かを期待するような落ち着きのない様子になった。パーティではしゃぎたくなる気持ちを堪えようとしているのだろうか。
「あ、あなたの赤毛、とても素敵。そんな服じゃなくて、もっと、そう、暗い落ち着いた色の服も合うと思うの!差し色は赤ね。赤毛に合わせたらきっと素敵なの!」
急に少女はネッツのことを褒め出し、ネッツをさらに困惑させた。ネッツがどう答えていいか、まごついていると、今度は小さな皇女は怒り出した。
「レディの話をそんなにつまらなさそうに聞くなんて、どうなのかしら?」
ネッツは小さな令嬢の機嫌を損ねたらしい。
「こういうところに来るのも初めてで、よく知らなくて」
ネッツは正直に言った。それを見た彼女は満面の笑みを浮かべる。ネッツは失礼なことを言っても良くないと適当な相槌を打ってこの場をしのぎたかった。彼女にネッツが目をつけられたのは、子ども同士だからだろうか。参加者にあまり子どもはいないから、大人達ばかりの中では、暇を持て余してもおかしくはない。
「教えてあげましょうか?マナーにダンスに・・・」
彼女は得意げで、大人の女性に憧れているらしく、精一杯背伸びして令嬢でいようとしているようだ。
「いや、いいよ。今はこれ食べてるし。君は食べないの?」
「そういうのはよくないわ」
薄紅色の頬を膨らませ、彼女は必死になっている。
「私のお父様を見習いなさい。紳士というのは、常に余裕を持って、堂々と、そして、レディの話を聞くのよ」
彼女が父と示したのは、マキシカ家のカークス・S・マキシカだった。リオードの兄がカークス、つまり、彼女はリオードの姪ということだ。
「君はマキシカの家の子?」
「そうよ!私はマイネ・A・マキシカ。レディに先に名乗らせておくなんて失礼ね」
「あぁ、そうなんだ。俺はネッツ。よろしく」
「ネッツ?」
マイネは怪訝な目をする。
ネッツは、一時的にナガレと同じ性ワマールを名乗ることにコーリィが決めたが、ネッツにとって急にできた苗字には、まだ愛着がない。だから、ネッツはネッツとしておくことにした。
「今日は誰といらしたの?」
「コーリィとナガレと来たんだけど」
ネッツがそう言うと、マイネは眉間にシワを寄せて、真一文字に唇を結んで、みるみる不機嫌になっていった。
「あら、メグリエの方?私はリオード叔父様とそちらのご令嬢との婚約に反対していますの」
そんなこと自分に言われても、とネッツは言いたいところだが、コーリィの結婚にどこか難色を示している自分と近い意見を持った彼女に素直にその理由を聞いてみたくなった。
「なんでそう思うんだ?」
「リオード叔父様にはもっと素敵な方がお似合いなの!」
マイネは目をキラキラさせて、理想の女性を思い描いているのだろう。
「素敵な人ってどんな人?」
コーリィだって素敵だとネッツは思う。彼女が大人になれば、コーリィの母親みたいにもっと美人になる。一人でスナバラ中のマキシカの暴走に目を光らせ、自動二輪で出動し、クールショットで暴走マキシカを鎮める立派な少女だ。では、どんな人が彼女のお眼鏡に叶う人物だというのか。
「そうね。すらっとしていて、美人で、おしとやかで、優しくて、裁縫ができて、特に刺繍が得意で、私のお姉さまになってくれる方」
少なくともマイネの理想とするような人物をネッツは見たことがない。
「ふーん」
「本当に貴方はパーティというものを知らないのね!」
ネッツの反応が気に入らないらしく、マイネは頬を赤らめて怒り出す。小さな皇女でいようとする面と怒り出す面がころころと変わる。
「そう言われても、俺、初めてパーティにきたからな」
パーティの参加者と話すときは失礼のないようにとナガレに念を押されていたが、何を話していいか、どう答えればいいか、ネッツにはわからないのだ。彼女が怒り出すということは、ネッツが何かしら失礼な態度をとったのだろう。
「ごめん」
素直に謝る。これはミセス・トッドマリーの教えだ。
「なぜ謝るのよ」
「怒らせたから」
マイネはまなこをパチクリして、唖然とした。
「まぁいいわ、パーティというものを私が教えて差し上げます!あとでダンスがあるの。私と踊ってくださる?普通は男の人からダンスに誘うのだけど」
「俺、踊ったことない」
孤児院の小さな子たちと歌いながら簡単な振り付けのお遊戯とお祭りのダンスの経験くらいで、男女で踊るダンスなんてネッツは経験がない。こんな場で踊ることさえネッツには信じられないことだった。
「もういい!」
勝手に怒ってマイネはどこかへ行ってしまった。
ネッツは料理を頬張りながら、会場を眺めていると、ナガレは何処かの屋敷の執事とわかれ、今度はリオードの兄カークスと話している。挨拶に回らなくてはならないため、あまり料理に手をつけていない貴族ばかりの中、ネッツは好きなだけ食べることにした。
ネッツはほかのテーブルに用意された食べ物を試そうと会場を歩きまわる。着飾った人たちはせっかくの料理をほったらかしにしているなんて、ネッツには理解できなかった。
分厚い肉や、綺麗に切り分けられたフルーツにみずみずしい野菜。雨季の前に採れたカンカンの太陽の元で育った食物たちだ。遠い海辺の街のウミナトから運ばれた魚を使った料理もある。色とりどりの甘いお菓子もだ。
目の前に食べきれないほどの食べ物があったことなど、ネッツには初めてのことかもしれない。
立って物を食べるなど、ミセス・トッドマリーに叱られるし、はしたないと言われたのに、好きなものを好きなだけ、立ったままで食べるなんて、貴族たちのマナーの基準がネッツにはわからなくなってしまった。貴族はいつもこうなのか、とネッツは少しばかり自分だけがこの会場で別の生き物のような気がした。
「やぁ、ネッツくん」
ネッツは食べ物を頬張るだけ頬張っていた。もごもごと返事を返す。
そこにいたのはカミーエ・テンヘンだった。
フュールイ学園の若き教師にして、コーリィの師匠ともいうべき、そしてちょっと変わった人だ。
学園の彼の執務室は本と書類と資料の石ころの入った箱で埋め尽くされていた。学園内で彼は一目置かれているのだが、尊敬というより、異質なものを避けるような扱いをされていた。当の本人はそれを気にもしていない。我が道を邁進するのが彼なのだ。
「テンヘン先生」
声をかけてくれたから彼だとわかったが、彼はネッツを孤児院から追い出したイルズ・カーンに瓜二つと行っても過言ではない顔立ちだった。しかし、服装で容易に見分けがつく。少しくたびれたシャツ、曲がったタイ。流行遅れと言われそうなくどい刺繍の深紫色のベストには燕尾が付いている。ズボンだけはアイロンを当ててまっすぐなのが救いだが、少し丈が足りないし、彼自身が服に着られているようなちぐはぐさは否めない。しかし、それが彼には合っているような気もしてくる。
「コーリエッタ君の未来の旦那様、熱い視線を受けていますね」
ネッツは辺りを見渡すと、リオードが女性たちの視線を集めていた。
女性から見て、リオードは素敵な人なのだ。確かに、男なのにリオードは美しいという言葉が聞こえてきそうな整った顔立ち。そうでありながら気取ることもなく、いつも笑っていて、親しみ深いのだ。
「ネッツくんはコーリエッタくんの結婚、どう思う?」
ネッツはテンヘンに心の中をずばりと尋ねられて手にしたフォークに刺した魚の切り身のグリルを口に入れずに停止してしまった。テンヘンはネッツの答えを待っている。
「リオードがどんなやつかよく知らないけど、コーリィがあいつのことが好きなら、まぁ」
リオードはコーリィの頰に自然にキスをするくらい気取った奴など、コーリィにふさわしくないとネッツは思っている。コーリィがリオードのことをどう思っているか、冷静な彼女の表情からは読み取れなかったが、彼女は嫌がってはいなかった。そして、少し落ち込んでいる自分がいる。
ネッツの答えを聞いて、テンヘンは堪えきれずに笑い出した。
「コーリエッタ君の気持ちはわからないが、これは政略結婚だからね」
「せいりゃく、結婚?」
「そう。本人たちが好き嫌いに限らず、結婚した方が都合がいい人たちがたくさんいる、そういう結婚のことですよ」
「コーリィはそれでいいのか?」
「あの様子じゃ、彼女は仕方がないと思っているのだろうね」
「都合がいい人たちってだれだ?」
「僕はそんなに詳しくないんですけど。フフ、マキシカ家はマキシカをもっと作って儲けたい。それにはメグリエ家しか知らないメグリエ機関のことをもっと知りたいんじゃないかな」
メグリエ機関が増えれば、新しいマキシカを作ることができる。マキシカの増産と販売はマキシカ家のさらなる発展には不可欠だ。そのためにマキシカ家とメグリエ家のより強い結びつきが必要、それがコーリィとリオードの結婚になるわけだ。
「スナバラ一のマキシカ家に嫁げば、彼女も不自由はしないだろうね。羨ましいなぁ。研究だって好きにできる!」
彼女の幸せを願うなら、リオードがいいのかもしれない。コーリィは一生をスナバラで終えるとしたら、そのパートナーはリオードでコーリィは幸せになれるのだろうか。だれが彼女を笑顔にさせられるのだろう。
テンヘンは酒を飲んだらしく、終始笑い声が止まらないようだった。
「先生、大丈夫?」
「フフ、僕はあまりお酒に強くないんですが、秘蔵のお酒が振る舞われていましてね。そうそう、これは、コーリエッタ君が初めて一人で暴走を止めた酒造マキシカが作ったお酒なんですよ。もともとあの酒蔵はマキシカ使いが荒かったから、いつ暴走するかと思ってたら・・・ハハハ」
テンヘンは嬉しそうに手にしたグラスを傾ける。グラスには透き通る飴色の酒が揺れていた。
「そのマキシカはどうなったんだ?」
「ちゃんと再起動してまたお酒を作れるようになっていますよ。暴走事故で評判は落ちましたが、味は確かですから、マキシカの使用時間を守って製造すればいいんです」
マキシカにも休息が必要だ。コーリィのクールショットが頭に血が上ったマキシカを鎮めるように、マキシカを使う人間の頭を冷やしたのだろう。
「ネッツくん、またね」
テンヘンはひらりと手を振って、燕尾を翻して消えて行った。
他のゲストたちへ挨拶を終えたナガレがネッツのもとにやってきた。
「テンヘン先生もいらしていたのですね」
「コーリィは、スナバラから出られないって本当なのか?」
「メグリエ機関の秘密を知る者は都市の外には出ないと議会と約束をしているのです。秘密がばれることのないように」
「秘密?」
メグリエ機関には秘密がある。それがなにか、ネッツは気になるが、それを知っているメグリエ家の人間は一生、スナバラで過ごすことになる。ネッツも秘密を知れば、スナバラから出られない人間になってしまう。ここはぐっとこらえる。
「やっぱりいいや。秘密を知ったらいけない気がする。スナバラの外にも行ってみたいし」
ついこの間までネッツが手を広げたほどしか知らなかった世界が、スナバラという沙漠の都市や他の街まで広がった。
コーリィが議会と約束を交わし、その結果、この沙漠の都市から出ることが許されない。コーリィは、スナバラから出てみたいと思わないのだろうか。
「秘密を漏らさないということは、マキシカはスナバラにしかないってことか?」
「ありませんよ。他の町では、別の動力源、別の機械が使われています」
他の街にはマキシカがない。だからメグリエ機関もない。マキシカの暴走もスナバラでしか起こらない。
では他の街はどんな場所なんだろう。マキシカがない街などネッツには想像ができなかった。でも一度、スナバラの外に行ってみたいと思った。
「そろそろダンスのお時間ですね、見てください、お嬢様とリオード様が踊られるようですよ」
楽器を持った四人組が滑らかなリズムで上品な音楽を奏で出す。
「踊るのか?」
「ええ、パーティではダンスもあります」
男女で向かい合い手を取り合い、緩やかなワルツとともにコーリィとリオードは手を取って滑るように踊り出す。その姿はなかなか様になっていて、身長差のあるリオードとコーリィはふわりふわりと息ぴったりに踊る。自動二輪に乗るときは、ネッツがコーリィにしがみついていて二人の距離があんなに近いのに、今、彼女はリオードと踊っている。
近くて遠い、いや、もともと彼女のことなど見えないくらい、ネッツからは遠かったのだ。二人のダンスに皆が視線を向ける中、ネッツは眩しい二人から目をそらした。
赤毛の見習いは、群衆から離れ、ふうとため息をつく。人も多く、見慣れないものや知らない人ばかりで、少し疲れてしまった。
会場の隅に立つのは、髭を蓄えた男。金の指輪をした、恰幅のいい貴族の一人だろう。ネッツは、ふとその男が目に入った。
ネッツの思う、いばり散らし、贅沢の限りを尽くし、肥え太っているような貴族像にぴったり合致するような男であったからだ。手には大きな石のついた指輪を幾つかはめていて、装飾華美な金の杖を持っている。白髪の混じった黒髪をしていたが、白髪を紫色に染めているようだった。
ネッツの想像通りの貴族が目の前にいるとは面白い。もう少し近くで見てみたいと思ったのは、想像上の生き物が目の前に本当に存在しているからだ。
そっと近づいて見つめていたネッツの視線に、その貴族の男は気づいた。
「ボウヤ、迷子かい?誰と一緒に来たのかな?」
思いの外、威張りちらすかと思えば、ネッツに対し、優しく声をかけてくるではないか。ネッツは拍子抜けした。でも見た目はネッツの思い描く貴族そのものだ。
「コーリィとナガレと来た」
「メグリエのご令嬢かな?彼女はリオードくんと踊っているみたいだね」
彼は隙間のある歯々を見せて笑った。眩しすぎて目をそらしたダンスフロアを背にして、ネッツは頷いた。
「君、名前は?」
「ネッツ」
「ネッツか。私はロマーク・クラムだ。都市議会議員だよ」
「議員!」
やはり、とネッツは思った。貴族らしい貴族である。
「あ!お前!ネッツ!」
ネッツの前にやってきたのはあのクラスメートだった。
「メッコー・・・」
クラスでも威張りちらすメッコー・クラムだ。シャツに彼の顔には小さすぎるリボンタイをして、派手な緑色のズボンをサスペンダーで吊り、出っ張ったお腹が、まさにふんぞり帰った貴族の子どものようである。料理をたくさん食べたらしく、口の周りにはその跡がある。両手に一口ずつ齧った甘い焼き菓子を持っていた。
「ネッツ君も、フュールイ学園の生徒なのかな?」
「メッコーとはクラスメートです」
メッコーは議員の親戚であることでクラス代表をやっていると噂されていたから、この場にいてもおかしくはないのだ。
「こいつ、転入してきたんだぜ。屋敷の使用人見習いなんだ」
「こら、メッコー。せっかくクラスメートになったのだから、親切にしてあげなさい。うちだって庶民じゃないか」
叔父に言われてメッコーは不満げだった。
「貴族じゃないの?」
ネッツはぽかんとした。貴族しか議員になれないと思っていたからだ。
「貧乏な家だったよ」
貧乏な家だったことなど想像もできないほど、ロマーク・クラムは派手な服装をしていた。指にはめた指輪ひとつとっても、大きな宝石と輝く台座の金属は相当な値打ちのあるものだろう。
メッコーは庶民とネッツやショーンを馬鹿にしていたが、伯父が議員とはいえ、貧乏だったというのだから、ネッツは驚いた。
「どうやって、貧乏から議員になったんだ?」
ネッツは素直に尋ねた。ロマークのように貴族と見間違うようになれれば、コーリィと釣り合うかもしれない。
「たくさん勉強したよ。学校の勉強はもちろん、どうしたらたくさんの人を助けられるか、スナバラがもっとよくなるかを」
やはり、勉強なのかとネッツは思った。正直、机に座ってじっとしているのが退屈でたまらない。勉強が楽しいと思える人が、偉くなれるのなら、到底無理だとネッツは早々に諦める。
「無理だって思ったら無理だ。頑張れば、未来は変えられるものさ」
ネッツは苦笑いをしながら頷いた。
「そうだぞ、うちのクラスの成績をビリにしないでほしいしな」
メッコーは大笑いした。相変わらず、メッコーは嫌なやつだが、叔父である議員の前ではいい子ぶっているところもある。議員の子供だから、ヒルキー・エコ先生もメッコーを贔屓しているだけのこと。
ネッツの目の端に、背が高く面長な顔の男が映った。その男を目で追うと、知っている男だった。
ネッツの心臓がどきりとした。
ネッツを孤児院から追い出した男、イルズ・カーンだ。
彼はメガネをかけていたし、隙のないほどきちんとした服装だったから、カミーエ・テンヘンではない。場に合わせた光沢のある灰色のタイを結んでいる。テンヘンのよう酒に酔った様子もなく血色の悪い顔だ。
ネッツの心臓が飛び跳ね続ける。
ネッツはクラム議員に礼を言い、メッコーに手を振って、すぐにイルズを追いかける。
孤児院が閉鎖された理由やミセス・トッドマリーの居場所、孤児院から旅立った兄弟たちが今どこにいるのか、聞きたいことはたくさんあった。
イルズ・カーンはパーティ会場から出て行くようだ。ネッツは気づかれないように男を追いかけた。男は会場である大広間を出て、足早にどこかに向かう。
ホールの正面玄関、車に乗り込むところまで来て、ネッツは声を出した。
「待て!」
男は立ち止まった。丸眼鏡に鷲鼻。面長の顔。暗い茶髪。間違いなくイルズ・カーンだ。
「どちらの迷子かな?」
カーンは親とはぐれた子供を見るような哀れんだ目で彼はネッツを見た。ネッツのことなど見知らぬ子供に声をかけられたように振る舞う。
「お前、イルズ・カーンだろ?」
ネッツは睨みつけた。
「いいえ。人違いでは?」
相手は淡々としていた。動じる様子もない。
「俺はネッツだ!ミセス・トッドマリーをどこに連れていった!?」
眉をひそめ、一瞬、黙った男はすぐに平静を取り戻す。
「なんのことかな?子供の遊びに付き合っている暇はないのでね。失礼するよ」
子供が嫌いなカーンの言動とそっくりなその男は、車にさっと乗り込んで去った。ネッツのことなど知らないとしらを切り通した。
なぜ、奴はパーティ会場にいたのか。パーティに呼ばれているなら貴族や議員なのか。それともそれらの人物の関係者なのか。
彼を逃した悔しさを胸にネッツは会場に戻ると、ダンスパーティは続いていた。さっきとは違うテンポの速い曲が流れる。くるくると回り、軽快なステップを踏みながら皆、踊っていた。
クラム議員は騒がしく回るフロアを静かな目で眺めていた。メッコーはいない。きっとさっき両手にしていた甘い焼き菓子を食べ終えて、次の食べ物を取りに行ったのだ。
イルズ・カーンに逃げられてしまった。どうしようかと思ったネッツは後ろから手を引っ張られた。
「ねぇ、私と踊ってよ」
声をかけてきたのはマイネだった。さっきは勝手に怒って離れていったくせに、ネッツに馴れ馴れしく話しかけてきた。
「俺、ダンスはできないんだけど」
「この曲は自由に踊っていいのよ」
マイネはネッツの手を取って勝手にくるくると回り出した。コーリィとリオードが踊っていた水面を滑るような曲が終わり、明るく軽快なステップの合う曲が始まる。
「あのさ、イルズ・カーンって奴知らない?」
「イルズ・カーン?」
「背の高い、眼鏡かけてる奴」
「知ってるわ」
「教えてくれないか?」
意外な答えにネッツは驚く。まさかこんな小さな少女が奴のことを知っているとは。いや、彼女はマキシカ家の令嬢なのだ。顔が広くても納得である。
「踊ってくれたら、教えてあげる」
「ダンスなんてやったことない」
「見よう見まねでいいわ。楽しむことが大切なの」
確か、コーリィとリオードは向かい合って手を取って、フロアを滑るように舞っていた。そんなにうまくできるだろうか。
そして、女の子と踊るなんて気恥ずかしい。マイネのダンスのお誘いに、ネッツが困っていると、メッコーがやってきた。
メッコーはケーキを頬張ってきたらしく、口の周りをクリームまみれにしてネッツを見下すように笑っている。
マイネがイルズ・カーンのことを知っているというのだから、ネッツは仕方なく踊りの相手をするのだ。少し踊って彼女が満足したら、奴のことを教えてもらうつもりだ。
「ネッツより僕の方がダンスは得意だぞ」
メッコーはマイネに叫んだ。
「私はネッツと踊りたいの!」
マイネはネッツの手を取って、ダンスフロアに向かう。メッコーはそれでも引かない。
「僕と踊ろうぜ。こいつなんて踊りなんか知らないぞ。庶民だからな」
「私はネッツと踊りたいの!」
マイネがきっと睨むと、メッコーは嫌悪感を丸出しにして悔しそうな顔をした。
「行きましょ、ネッツ」
マイネがネッツの手を取ってメッコーから逃れようとダンスフロアへと滑り込む。ぎこちないがマイネもネッツの手を強く引いてくれる。ネッツは恥ずかしさが増してきた。
嫌々ながら、マイネは楽しそうにネッツをフロアに引っ張り、向かい合って手を繋ぐと、マイネがボリュームのあるドレスのスカートを蹴飛ばすようにステップを踏み、くるくると回りはじめた。ネッツはマイネに合わせようとするが、彼女のダンスが不可解すぎて、全く合わない。しかし、小さな令嬢と振り回される少年のダンスは大人たちの暖かい目で見守られているようだった。ネッツにはそれが余計に恥ずかしい。マイネは楽しそうにしており、得意げな笑みだった。
「あのさ」
「曲が終わってからにして」
マイネの薄紅色のドレスが彼女が回るたびにふわりふわりと花びらのように揺れる。マイネは楽しそうにネッツの手を取って好き勝手に踊る。決してネッツの手を離さない。
ネッツはマイネの動きに合わせて手を貸すことしかできなかったが、マイネは楽しそうであった。一曲、マイネとネッツは踊りきった。
「あのさ、イルズ・カーンってやつ」
「喉が渇いたわ」
ネッツはフルーツジュースの入ったグラスを取ってくることになった。
「ありがとう。ネッツ」
マイネは満面の笑みでそれを受け取り、ジュースを口にする。
「あのさ」
「私、メッコーとは仲良くなれないわ。ネッツとは仲良くできそう」
ジュースの入ったグラスを見つめてマイネは呟く。
「そっか、それで・・・」
「イルズ何とかって人でしょ!」
「そう!」
ネッツは期待した。
「私はその人のことを知らないことを知ってるわ」
マイネは得意げな笑みを浮かべた。
「え?」
ネッツは閉口した。
「だから、私はその人を知らない。ということを知っているの。それも情報でしょう?」
満面の笑みでマイネは言った。
「なにぃー!?」
彼女はただ、ネッツと踊りたかったらしい。小さな気の強い女の子だとネッツは侮っていた。マキシカ家の小さなご令嬢はなかなかの策士だった。