第13章 黄色の毛玉
染色マキシカから離れていくとだんだんと染料の黄色い泡が減ってきた。ネッツたちの膝丈くらいの泡の量の通りまで戻ってきた時、染色マキシカが最後に作った大量の泡の中を泳ぐ何かが、コーリィの前を過ぎった。
それはコーリィの目の前で泡の海から飛び出したものだから、コーリィは驚いて泡を撒き散らし、泡の海に沈む。
「コーリィ!?」
黄色い泡の海を泳いでいたのは毛の生えた動物だった。ケルケルの生まれたばかりの赤ちゃんよりも小さく、コーリィの両手に少し余るほど。泡の中からコーリィは立ち上がると、コーリィを飼い主だというように、信頼と親愛の証として、舌を出してそれは飛びついてきた。
ネッツがその光景を惚けて見ていると、コーリィとその毛玉の間でキラリとさっきの逆流性ハンマーの雷がフラッシュバックしたかのように見えた。
眩しい黄色い泡の中で、コーリィはその動物を抱きかかえると、泡の海からやっと抜け出した。コーリィは、その舌を出してまんまるな目を持つその毛玉をじっと見つめる。
「この子、マキシカのせいで迷子だわ。連れて帰らないと」
黙り込んでいたコーリィがいきなりそんな事を言い出したから、ネッツはほっとした。
コーリィが泡の中から抱き上げたのは、黄色の毛が濡れてしんなりした毛玉だった。
コーリィはネッツにその毛玉を抱えさせ、通りに止めておいた自動二輪を押して歩き始める。
ネッツの腕の中で、窮屈そうにしているが、ビー玉のような瞳にちょろりと出した舌、泡と戯れて濡れた毛がしなっとしてはいるが可愛い生き物だ。毛を乾かせば、ふわふわになるだろう。人懐っこいようで、人を怖がらないばかりか、初めて会ったコーリィやネッツに対して既に一緒に暮らしていたかのような身の預け方だ。
「首輪をしているから、飼い主がいるのかな」
長い毛に隠れてはいるが、飾りの石が二つも付いた革の立派な首輪をしている。
「わかってる。でもこの有様じゃ可哀想。連れて帰りましょう」
「飼うのか?」
「いいえ、この辺一帯が片付くまで保護し、飼い主を探さないと」
コーリィはそれ以降再びだんまりを決め込んだ。
なぜ、彼女はその毛玉を拾ったのかわからないが、ネッツを拾った時のような、お嬢様の気紛れかもしれない。ネッツを拾ったのもマキシカの暴走事故に巻き込まれたからだとしたら、この毛玉もネッツと同じ境遇ということになる。
コーリィは何を考えているのか、ネッツには到底わからない。しかし、彼女は暴走したマキシカを止めることだけでなく、それにより被害を受けた人々を見捨てない、そんな独自のルールを守っているのだろう。ネッツだってマキシカの暴走事故の被害者として彼女に拾われた身だ。
二人と一匹は屋敷にたどり着いた。
「お疲れ様でした、マダム・ファニスターがいらしてます」
ナガレは黄色く染まったシャツの二人と黄色の濡れた毛玉を見ていつも細めている目を少しだけ開いた。
二人のシャツは黄色く染まっていた。押して帰ってきた自動二輪も黄色の染色液がついていた。あの染料の泡の中を往復したのだから、仕方がないとはいえ、染物屋よりも染料に塗れた二人の有様にナガレは沈黙した。
「染料で通りが染まってしまうくらいだったの。この子も保護したわ。飼い主を探さないと」
「かしこまりました。まずは、お風呂ですね」
ナガレの後ろからやってきたのは、大きな女性だった。
「御機嫌よう、お仕事ご苦労様ね」
丸い顔に銀髪を巻き貝のように巻き、そこに大きな銀と紫色の花飾りを咲かせる。ぶ厚い唇に真紅の口紅、艶やかな紫色のドレスには銀の糸で幾何学模様と花の刺繍が施されている。
彼女がマダム・ファニスター。コーリィの新しいドレスを作ったデザイナーであり、髪型からアクセサリー、靴まで一式を取り仕切り、化粧まで施す職人である。自らも自身で誂えた服を纏う。奇抜さの中に繊細さ、新鮮味の中に古典的な美を取り入れ、着る人の個性に合わせたデザイン、それが彼女の持論である。
ネッツにはマダム・ファニスターが絵本の中の魔女に見えた。その唇から呪文が飛び出せば、何かが起こっても不思議ではない。
「まぁ、まぁ、まぁ!」
樽のような体に声をよく響かせ、マダム・ファニスターは頭を抑えて、舞台役者のような嘆き悲しむ大振る舞いを見せた。まだネッツの鼻にこびりついて離れない黄色い染料の香りが漂っている。
「お風呂をご用意しています、急いで支度を始めなくては、パーティに間に合いませんな」
コーリィは奥の浴槽のある風呂場へ追い立てられるように向かった。
ネッツも使用人用の浴室へと向かおうとしたところで、ナガレが言った。
「染料が取れないでしょう。今日はパーティゆえ、しっかりと洗い流してきてください」
「わかった!」
沙漠の都市のため、大量の水を使うことになるシャワーは最小限の使用でなくてはならないが、染料を落とすために、いつもより多くの水の使用許可が下りたのはネッツにはありがたかった。
迷い毛玉もネッツについてきた。ネッツは迷い毛玉も洗ってやろうと立派な首輪を外すと、首輪の下の毛は白かった。やはり、白い毛玉が染料の泡海を泳いで毛が染まってしまったのであった。
「それにしても立派な首輪をしているな。実は飼い主は貴族なのか?」
首輪には茶色の革に小さな紅い石がアクセサリーのようについている。飼っている動物に宝石をつけるなんて、どんな貴族なのだろうか。
ネッツはナガレが用意した湯を浴びたが、体を流れていく水を黄色く染めるほどで、ウカカンコンという染料の材料となる植物の強い香りが染み付いてしまっていた。それは染めた布の防虫にもなるというが、それが災いして香りがなかなか取れない。
色止めの薬液に浸していないため、黄色の色素はきれいに落ちた。石鹸で全身を洗ったが、その独特の香りは鼻の奥まで染まってしまったように、まだかすかにつんとした匂いがする。その残り香はあのマキシカの最期の足掻きにも思える。ネッツが機械にかわいそうという感情を持ったのは不思議な感覚であったが、コーリィが大切にしているものであるから不思議なことではないのかもしれない。ヤブとゴワのやり方は暴走マキシカを止める一つの方法であって、間違ってはいないのだが、ボロボロになるまで破壊しつくさなくてはならないのだろうかと、ネッツは納得がいかなかった。
暗い顔をしていたネッツを尻目に、毛玉は跳ねながら、風呂場でネッツと共に水をかぶっては嬉しそうに短い尾を振る。
風呂から上がる頃には、黄色の毛玉と仲良くなったネッツは、ワッカと名前をつけた。なぜなら、首輪のついていた首周りのみ染料を免れて、洗ったとはいえ、淡い黄色に白い輪っか模様になってしまったからだ。
ネッツがタオルで毛を拭くとワッカはブルブルと小さな体を震わせる。
毛が乾いたワッカを見てネッツは思い出した。昨日は、もっと毛はしなっとしていて、灰色がかっていたが、鼻の艶と垂れ目はワッカの特徴だ。洗ったことで、白い毛が淡い黄色に染まってしまい、毛がふかふかに変わった。
「昨日会ったよな?」
ネッツがかつて住んでいた家の前で出会った毛玉のような動物ではないか。重機マキシカが暴走し、あたりは騒然となった。その混乱の中、ワッカはどこかへ行ってしまった。飼い主でないネッツにまとわりつき、誰にでもしっぽを振るような人懐っこいワッカ。飼い主が見つかるといいのだが、しばらくネッツの相棒としていてくれたら嬉しい。コーリィに拾われた同志なのだから。
ワッカは疲れたらしく、ネッツの部屋に連れて行ったところで、ベッドの上に乗ると眠ってしまった。
「シャルテはいるか?」
壊し屋に男が訪ねてくる。ダークブルーのチェックのベストに糊のきいたシャツを合わせている。金縁メガネを鷲鼻に引っ掛けたその男は、壊し屋の女将に会釈した。
「あら、カーンさん。こんにちは」
壊し屋の女将さんが彼に気づいて、シャルテを呼ぶ。
「シャルテ、おいで。カーンさんがいらしたよ」
シャルテは二階の自室からどたばたと降りてきた。
「こ、こんにちは!カーンさん」
シャルテにとって、孤児院を出て働く場所を見つけてくれたのはイルズ・カーンであった。
家族がいない彼女にとって、彼の訪問は親戚が会いにきてくれるかのようだ。元気でやっているか、ここでの生活は楽しいかと心配してくれるのは彼くらいだ。
「やぁ、シャルテ。ワンガは見つかったか?」
シャルテは俯いて、首を横に振った。
カーンはシャルテにワンガを預けていた。シャルテは大切にワンガの世話をしていたが、昨日、ワンガが逃げ出してしまったのだ。
「ワンガはただのペットじゃないんだよ」
彼女を嗜めるようにカーンは言った。
「はい」
カーンがシャルテに預けたワンガは特別な訓練を受けた、マキシカが暴走する前に人に知らせる訓練を行なっている小型の動物である。
人と比べて、ワンガは嗅覚や聴覚は優れていると言われており、マキシカが暴走する前に検知し、人に知らせることを目指している。今は暴走する直前のマキシカに多く引き合わせるせるために、マキシカに関わることの多い壊し屋の少女にワンガは預けられた。
「逃がすために預けたわけじゃないのだが」
イルズ・カーンは苛立ちを隠さなかった。
「はい!ごめんなさい!」
「首輪はしているから、飼われていることはわかるだろうが、なんにせよ、早く見つけださなくては訓練ができない」
訓練とは、カーンが指定したマキシカのもとに、ワンガを連れて行くことだ。ワンガが嗅ぎ分ける暴走しそうなマキシカは、最後の点検の日からの日数が長く、使用頻度の高いもの、そして、よく晴れた気温の高い日に現れる確率が高い。イルズは的確にその暴走しそうなマキシカを指定し、シャルテにワンガとともに向かわせていた。
マキシカのもとにたどり着くと、ワンガによくマキシカの匂いや熱を感じさせるようにする。それを繰り返すうちに、ワンガがマキシカの暴走を察知するようになるとイルズは言う。そして、ワンガが人を信頼するよう、愛情を持って飼育することをシャルテは命じられていた。しかし、ある日、ワンガがつないでおいた紐を引きちぎり、脱走してしまったのだ。ワンガは小さな動物で、最大でも体重は五エル程にしかならない。だから、ワンガの力では引きちぎることはできない丈夫な紐で繋いでおいたのだが、小屋の周りを走り回るワンガが、その紐を小屋の角に擦り付けたために、徐々に紐の繊維が切断され、とうとう千切れてしまったのだろう。鋭利な刃物で切られたのではなく、ぼそぼそとした紐だけが残されている。
シャルテがワンガの脱走に気づいてから、丸三日が経っていた。探しに行ったものの、見つけることができなかった。