第10章 深窓の貴婦人
今朝の目覚めはネッツにはなつかしいものだった。コーリィがナガレに言って、部屋を冷やすヒャリツの風を弱めてくれたのだろうか。寒くなく、少し暑いくらい。そんな孤児院と同じ朝だった。
「暑い。ヒャリツが詰まったのかしら」
コーリィの寝起きの不機嫌な声が部屋の外で聞こえた。
ネッツにはこれがちょうどいい。寒さで目覚めるなんて貴族たちは正反対なことをするのが趣味なのか。コーリィの部屋はヒャリツを弱めなかったはずだ。どうやらヒャリツ、つまり地下洞窟の温度が今朝は高かったようだ。
朝食にはパンとサラダの他にナガレが冷やした果汁入りの炭酸水を用意してくれた。
食事の後、コーリィは屋敷の表側の部屋にある机で新聞を広げて読んでいるのが日課らしい。その部屋はメグリエ鉱物研究社の事業所としている場所で、朝は明るく新聞を読むのに適していそうだ。ネッツは彼女の日課を知ってから、真剣な眼差しで文字ばかりの紙面を読むコーリィの邪魔をしないよう、その時間は店先には行かないことにしようとしたが、今日は違った。コーリィに手招きをされたのである。
ネッツが彼女についていくと、大きな机に広げた新聞をコーリィは指差す。
「ネッツ、これは読める?」
シワひとつない新聞の一面に大きく書かれた見出しをコーリィが細い指で示す。
『ぼうそうマキシカひんぱつ。そのげんいんは』
コーリィは満足げに少しだけ目を細める。コーリィはネッツにクイズを出すことが日に何度かあるようになっていた。今日は新聞からの出題らしい。
世間ではマキシカの暴走事故に関心が寄せられているらしい。確かに、ネッツが巻き込まれたテイラーマキシカの暴走事故の現場は、物が散乱し、人々が逃げ惑い、嵐が来たかのようだった。
「ネッツはマキシカの暴走の原因はなんだと思う?」
ネッツは考えてみる。考える前に動くネッツには、じっくり考えることなんてここに来るまでやったことがなかったから、考えるという行為は、どこか不慣れで脳がむず痒くなる。
「えっと」
お嬢様は厳しい。しかし、ネッツの言葉を待ってくれている。コーリィの顔色を伺いながら、マキシカの事を考える。確か、マキシカは熱で動くと習った。
「毎日暑いから、メグリエ万年機関が熱を吸い込みすぎてあっちっちーってなるから!」
コーリィは眉をひそめた。ネッツの回答が幼稚すぎて不機嫌になったようだった。
「あっちっちーですか、ネッツ坊ちゃんらしいですな」
ナガレが笑いながらやってくる。
「ネッツ、昨日の博物館でメグリエ万年機関、と習ってきたの?」
コーリィはネッツを睨みつけるように見つめる。ネッツはコーリィの何か気に触ることでも言ったのだろうか。
「そう、だけど…メグリエさんって人が発明した万年機関って」
「そう、私の曽祖父のタートス・メグリエが発明したことになっている。でも万年機関ではないし、タートスの姉オリーナルが本当の発明者よ」
「まぁまぁ、お嬢様。世間ではそういうことになっていますから」
ナガレがお嬢様をなだめる。
「その機関ってやつは、ずっとマキシカを動かせるのか?」
彼女を怒らせた原因を少しでも推して図るために、コーリィに質問を投げかけることにした。万年とは、一年でもこんなにたくさんの出来事があって長いのに、それが何十とまとまった長い長い年月だ。それは途轍もなく長く、気の遠くなる話であり、ネッツよりもずっと長く生きているのがマキシカ、としてメグリエ万年機関ということになる。
半信半疑であったが、コーリィはぴしゃりと言った。
「人間が作ったものがそんなに長いこと動くわけないじゃない」
「万年機関じゃないのか?」
「少なくとも一万年なんて無理だわ。だから私たちはメグリエ機関と呼ぶの。万年機関なんて言うのは、人工物を過信しすぎた人たちだけよ」
コーリィの曽祖父タートス・メグリエ、その姉オリーナル・メグリエが作った、太陽熱から熱量を得て、機械を動かす熱量生産機関。ただ永久ではないが、長く動き続けることはできる。
オリーナル・メグリエの名があまり聞こえてこないのは、当時、女性の発明家への風当たりがあったからであった。彼女がメグリエ機関の本当の発明者だと知らない者は多いが、知っている者は彼女のことをメグリエの魔女と呼ぶ。そのくらい、スナバラの歴史を変えた発明であった。
彼女の弟タートスは、メグリエ機関の開発を進める姉の支援をし、メグリエ機関をマキシカ社に売り込みに行ったことで、メグリエ機関で動く頑丈なマキシカの開発が始まった。だから、今日のマキシカには、タートス、オリーナル、そして、ハージ・M・マキシカが誰一人欠けても辿り着けなかったのだ。
「昔は人の寿命も50年でしたからね。それより長いと万年と考えてもおかしくはないのですよ」
1万年もマキシカが動くなんてあり得ない、コーリィはそう言っているのは、メグリエ機関のことを知っているからこそなのだ。彼女は、正しく教えることを業とする博物館が真実を教えないことに怒っている。
「今、暴走しているマキシカは何歳なんだ?」
「古いのは60年は経っているかしら。学園のアグリマキシカはそのくらいだわ」
「そんなに動いていたら壊れるんじゃないのか?」
「えぇ、いくら修理や点検を繰り返してもいつか寿命がくるわ。万年機関だからと甘んじて、メグリエ機関とマキシカの整備をしなかったり、時間外の違法使用、あげくは都市の温暖化のせいだなんて、新聞が書くことかしら?」
コーリィの皮肉めいた言い方から、メグリエ機関を発明した子孫にとってはなんともばかげた話を新聞は書いているのだろう。メグリエ万年機関と記者たちは言いながら、老朽化などという不釣り合いな言葉を載せるあたり、ナンセンスであるのだろうが、ネッツにはその高等な冗談を理解できない。
「よくある話です。しかし、修理屋が緊急停止できる範囲でも暴走は増えていますし、お嬢様が今後も一人で止め続けるには、限界が出るでしょうな。早くフレイザ様が戻られるといいのですが」
メグリエ鉱物研究社のコーリィだけでは都市で起こるマキシカの暴走を全て止めるのは不可能なほど、マキシカの暴走は頻発しているらしい。
クールショット弾の材料を探しに旅に出たというコーリィの父親フレイザ・メグリエが戻ってこなければ、弾を使い切ってしまう日が来る。コーリィは一度の暴走事故で一発しか弾を使わないのはそのためなのだ。
マキシカは日の当たる都市の南側に多くある。あまりその南側の工業地域に足を伸ばさなかったネッツには、知らないことだった。
軽度の暴走は、修理屋が停止させることができるが、それも不可能なくらいの暴走、つまり、人の手では止められないくらい早く動くマキシカは、壊し屋のヤブとゴワが持っていた大きなハンマーで破壊するか、コーリィの持つヘンテコな銃クールショットで鎮めるしかない。
しかし、クールショットはこの沙漠の都市スナバラにたった一丁しかない特別な銃で、弾数も限られているという。
壊し屋は腕に自信のある人たちがチームを組み、複数のチームが所属する複数の支店を軸に、都市内をパトロールをしているため、暴走マキシカへの遭遇率は高い。マキシカの多い南の工業地域に支店もある。
一方でコーリィのメグリエ鉱物研究社はどちらかといえば北の地区にあり、マキシカがあまり多い場所ではない。いくらコーリィが自動二輪を走らせようと、先を越されることもあるかもしれない。
圧倒的に不利の中、コーリィに依頼が来るのは、メグリエ機関を破壊せずにマキシカを止められる術を唯一持っているからだろう。クールショットから撃ち出される特別な弾丸によって停止したマキシカは再び起動が可能なのだ。壊し屋が人の手に負えないマキシカの殺し屋なら、コーリィは暴走したマキシカの頭を冷やして更生させる役目を担っている。
「今は、材料を取りに行ったお父様の帰りを待つしかないわ」
コーリィの父親はあのマキシカにこの氷の花を咲かせる銃の弾丸の材料を取りにいくための旅に出ている。ネッツはその弾丸の材料がどんなものか、想像もつかなかったが、頭のどこかで氷の竜ような滝から作るのだろうと想像していた。弾丸には氷の竜の息が入っていて、命中すると氷の花を咲かせるのだ。だから、コーリィがクールショットに弾丸を充填するとき、その氷の竜の息が少し漏れて白い煙を纏っているのだとネッツはなんとなく想像していた。
「暴走マキシカが出るとは予想外だったわ」
コーリィは険しい顔で溜息をついた。彼女が都市内全ての暴走したマキシカを止めるのは不可能に近い。
「ネッツ、確かに暴走は暑さのせいもある。でも、ここ最近はもう雨季だというのに、暑い毎日だわ。また千日干乾が来るんじゃないかしら!」
「千日干乾なんてきたら、マキシカの暴走どころではありませんね」
「せんにち、カンカン?」
またネッツの知らない言葉が出てくる。
「四十年ほど前の千日に及ぶ乾期のことですよ」
ナガレが遠い目をして話し始めたのは、ネッツには想像のつかない未知なる過酷な一千日、千日干乾の話だった。年に二度ある雨期がほとんど来ず、干ばつと乾燥がスナバラを襲った。その厳しい乾季は三年近く続いた災害として、一千日の干ばつと乾燥という意味で千日干乾と呼ばれている。
ナガレは千日干乾を子ども時代に経験した世代である。それはそれは今では考えられないほどに過酷な時代だという。
「当時、マキシカが普及した頃ですが、千日干乾の時はマキシカだけが生き生きとしていると言われ、飢えと渇き、そして病気も流行ったものです」
確かに、雨期も近いというのに、毎日暑く、雨の気配はないとなると、数十年に一度の干ばつが来たのかと言いたくなるのかもしれない。それが、今朝のヒャリツの温度が高い原因として疑うわけだ。
「さて、ネッツ。マキシカの暴走の仕組みだけれど」
そうだった、コーリィがマキシカの暴走原因を解説してくれていたのだったとネッツは思い出す。
「メグリエ機関はマキシカが稼働したときの熱も利用する。太陽熱で充分なのに、高い気温とマキシカが動くことで出る熱が加わり、マキシカが熱飽和状態に陥って暴走する。暴走すればさらにマキシカが熱を生み出して、より加速するのよ」
「それで冷やすのか!」
ネッツは合点がいった。暑いからマキシカが熱くなる。だから冷やす。ネッツも熱が出た時、冷たいタオルを額に乗せてもらったことがある。
「冷やすのは正解。たいていのマキシカはヒャリツで冷やすように配置されている。マキシカの中には水に弱い部品が入っているから水はかけられないけど、集熱板を冷やせばやがて停止する」
集熱板とは、コーリィがクールショットを打ち込む的のことだ。平たい黒い板である。アグリマキシカを樹上から狙ったのは、集熱板が上に向いて取り付けられているからだとコーリィは言っていた。外部の熱を取り入れる部品を冷やせば、外部からの熱は絶たれるということだ。
コーリィはマキシカやメグリエ機関になるとお喋りだ。ネッツにもわかるように教えてくれる。
コーリィは新聞をめくった。ネッツに次のクイズでも出そうとしているのだ。
「盗まれたですって?」
やっとコーリィの仕事が理解できたネッツを驚かすように、コーリィは声を上げた。
「ど、どうしたんだよ、コーリィ」
コーリィが驚いた顔をしたかと思うと、新聞の一つの記事に釘付けになった。
「メグリエ機関が盗まれた・・・」
「メグリエ機関は――マキシカを動かすやつだな」
ネッツは勉強したのだ。だから、少しだけ賢くなった気がしていた。マキシカを動かしているのはメグリエ機関。コーリィの曽祖父達が生み出した熱から動力を生み出す発明。永久ではないが、長い期間、熱量を熱から生産できるモノ。
「博物館の時計台、小型マキシカのからくり時計のメグリエ機関が盗まれた」
「からくり、時計、あ、あれか。点検中の…」
時刻を知らせる鐘を鳴らしながら、時計台の時計の文字盤が割れて、人形たちが踊り出すという博物館のからくり大時計のことである。雨季の点検中で、時計は動いておらず、そのからくりは見ごたえがあるとショーンが昨日教えてくれたことをネッツは思い出した。
点検のために時計を動かすマキシカを停止し、数日経って点検のために中を開けた際、メグリエ機関がなくなっていたというのだ。
「また、ですかな?」
ナガレは眉をひそめる。
「またってことは前にもあったのか?」
「はい、坊ちゃん。おもちゃ工場の大型マキシカのメグリエ機関が先月盗まれました」
「そんな事できるはずない。メグリエ機関はマキシカによって場所も異なるし、夜、盗み出すにしても、マキシカは夜でも完全に停止してないのよ。いったいどうやって?」
「マキシカは夕方の曲が鳴ったら止めるんじゃないのか?」
マキシカ管理局が夕方に流す夕日の歌の放送は、ネッツにとっては子供が家に帰る時刻を知らせるものだったが、本来はマキシカを止めて仕事を終える合図であった。
「完全に止めると、起動して元どおりの動きの早さに戻るまで半日はかかる。だから、超低速で動かしたままにするのが普通よ。いくら超低速でも動いているマキシカの中に入るなんて、危険すぎるわ。中では複雑な部品たちが蠢いているのよ」
コーリィの言葉に、ネッツはマキシカがまるで贓物の詰まった生き物のように思えた。マキシカは夜は眠っているとはいえ、マキシカの中を覗けば、うっかりマキシカに食べられてしまうのだ。そんな危険な夜のマキシカからどうやってメグリエ機関を盗み出したのか。お嬢様にもその謎はすぐには解けなかった。
その日の昼下がり、コーリィは出かけて行った。
やっと空気は雨期らしく、午後からは空に厚い雲が広がった。気温もあまり上がらない日だったため、マキシカの暴走の確率も低いと見込んでのお嬢様の外出らしい。
しかし、彼女はクールショットガンを持って出かけた。いつ何時でも、街で暴走マキシカに出くわしたら、それを使って仕留めるためだという。
ネッツは雇い主である彼女が一人でどこに出かけたのか気になって、こっそりつけることにした。コーリィにはバレなかったが、出かけるときにナガレに見つかった。
「どこに出かけられるのですか?」
「えっと、その」
「お嬢様についてお出かけですか?」
「うん、そんなとこ、かな」
「いってらっしゃいませ。気をつけてくださいね。マキシカには近づいてはダメですよ」
「わかった」
ナガレはネッツを心配しているのだろう。またマキシカの暴走に巻き込まれることのないようにだ。ネッツは、テイラーマキシカの動きに惹かれて、ぼうっと見ていたから、暴走事故に巻き込まれたのだ。マキシカに近づかなければまた危険な目には合わない。
店を出た彼女は、街の東のほうへと向かった。彼女はひらひらとした布のワンピースを着て、真っ白な帽子を被って出掛ける。それをネッツは追った。ナガレにはコーリィと出かけると言ったが、ネッツはコーリィには声をかけずにこのまま彼女がどこに出かけたのか探るつもりだ。
途中、彼女は市場で果物を買った。雨季前になると出回る青い実のプーだ。一口で皮ごと食べられ、中に半球の種が2つ入っている。
袋に入った果物を手に、彼女は足取り軽く、どこかに向かう。
ネッツがコーリィを追いかけ、たどり着いたのは公立病院だった。スナバラの中では最も大きな病院で、白いレンガの建物は、三階建ての近代的な建物でもある。
院内に入ったコーリィの足取りから、何度も来ているらしく、迷うことなく何処かに向かって歩いている。
彼女はどこか悪いのか、医者にかかりにきたにしては少しばかり明るい表情だった。
ネッツはコーリィに気づかれないよう、そして周りの人々に怪しまれぬよう、胸を張って歩いた。ミセス・トッドマリーが言っていたように、清潔にして、堂々としていれば、誰かに笑われることはない。その言葉を信じる。
コーリィが医者にかかりに来たわけではないようで、彼女は入院病棟へと向かって行く。コーリィはある部屋の中に入って行った。
ネッツはすかさず部屋の前を通るふりをして、その部屋に入院している人物が誰か、部屋の前に掲げられた名前を見る。
「ミマ・ファン・メグリエ?」
その名からコーリィの家族だろう。
部屋の入り口にはカーテンがかけられている。カーテンが風で靡くその隙間からネッツは覗き込む。ちらりとコーリィとベッドの上で上体を起こして話す女性が見えた。
ネッツが見たのは一瞬だが、コーリィと同じ金の髪の優しそうな眼差しの女性だった。色白だが、それが顔色を悪く見せ、入院せざるを得ない病気を抱えているように見えた。きっと、この人がコーリィの母親だ。
コーリィの母親である彼女は目尻に皺を作って、嬉しそうな顔をしていた。コーリィが笑ったら、あんな笑顔が見られるのだろうか。もしかしたら、母親に向けているコーリィの顔は、ネッツからは見えないが、嬉しそうに笑っているのかもしれない。
コーリィは執事のナガレと住み、メイドのマァレットが週に何度かやってくるだけで、家族とは暮らしていない。血の繋がった家族といえば、三ヶ月前に旅に出たという父親の話しか聞いていなかった。
コーリィの母親については聞いていないが、屋敷に住んでいない理由としては、ここにいるからだろう。
母親は病気のために、入院しているのだ。コーリィだって、母親と一緒の時間が欲しいのではないか。
コーリィが大人になったら、母親そっくりなあんな女性になるのだろうか。空想の中のいつかの未来のコーリィが笑顔でネッツに笑いかけたが、どこか違った。彼女が無邪気に笑うのはどんな時だろう。
暴走したマキシカが存在しなければ、年相応のフリルのついたドレスを着た貴族の娘は、なんの心配もせずにただ無邪気に笑っていたのかもしれない。
コーリィの母親が入院する部屋入り口からネッツが覗き見るのに夢中で、向こうから大きな体の白髪の混じった老人がのしのしと歩いてきたことに気がつかなかった。その老人は、少年に声をかけた。
「何をのぞいているんだね?」
ネッツはびくりとした。
ネッツに声をかけてきたのは、見知らぬ老いた男だった。なんでも知っているかのような出来事を長く見つめてきた眼と、長年、色々な表情を浮かべたことでついた皺のある顔。歳を重ねた白髪と明るい茶髪が混ざって金髪のように見える。特徴的なのは、右腕が直角に曲げたまま不自然に固定されたかのようだったこと。老人なのだが、体が大きく、低い声にも張りがあって、大木のようだ。
「いや、別に」
ネッツはばつが悪い気がして、素っ気無く答えた。知らない人物に声を掛けられ、内心、驚いている。
「メグリエ夫人のお嬢さんを見ていたんだね」
コーリィのことだ。老人はニヤリと笑った。
「まぁ、そうだけど」
隠してもしょうがないとネッツは答える。
「あの子は母親に似て美人になるだろうね。君はお目が高いが、メグリエのお嬢さんを射止めるのは骨が折れるぞ」
単なる冷やかしのようだ。しかし、その男が発した続く言葉に、ネッツは耳を疑った。
「お嬢さんも大変なこった。母親を人質に取られているようなものだからな。君は彼女の全てを支えられるような立派な男にならないとな」
「え?」
「こっちで話そう、薬が貰えるまで少し時間があるんだ」
老人はネッツを左手で手招きする。右手はやはり不自然に固定されたまま動かない。
病院の待合室の長椅子に座った老人の隣に、ネッツは少し間を開けて座った。
「なんでコーリィの母さんが人質なんだ?」
右手が不自由なその老人は乾いた笑い声をあげた。
「それは言葉の綾さ。メグリエの家の者は都市から出てはならないと議会と約束したんだよ。母親は病院から出られないんじゃあ、家族でスナバラから出てくこともできないだろう?」
「変な約束だな」
ルールやしきたり、礼儀やらなにやらと、ネッツにはわからない何かにコーリィやメグリエ家は捕らわれている。コーリィの母親が入院しているのも、その何かに捕らわれているからだということだろうか。
「メグリエ機関という大発明を都市の外に持ち出されては大変だからね」
「みんなで使えばいいじゃん」
「そうも行かないのさ」
老人はふふっと笑う。ネッツに声をかけてきた気まぐれで話し好きな人物なのだろうか。
「病院に来たのは薬をもらいにきたのか?」
ネッツは老人のことを少し探ってみる。
「あぁ、子供の時にかかった病気で右腕が麻痺してね。痺れが出てくると薬がいるんだ」
右腕が麻痺しているから、右手は不自然なくらいにぴったりと直角に曲がったまま動かない。右手の手の平は緩く丸まり、こわばったかのように肘が曲がっている。一部の部品だけ壊れて固まったマキシカのようだ。それが老人の右腕だった。
ネッツは憐れんだ目で彼の右腕を見たからか、老人は笑顔を見せる。
「左手で字もかけるし、タイプライターだったら問題ない。原稿も難なく書けるさ」
「原稿?」
彼の職業は小説家かなにかだろうか。
「マキシカの危険性を訴える記事さ。新聞や雑誌に載せるための」
「記事を書くのが仕事なのか?」
「いや、議員さ」
「議員!?」
議員とは都市議会議員のことで、都市スナバラのことを話し合って決める偉い人たちだとネッツも学校で習った。そんな議員の一人がネッツの隣に座っている。
「ジンリー・リックだ。よくマキシカ反対派と一括りにされるが、私は慎重派の議員さ。ああいう、大きい機械は危険と隣り合わせだろう。先日も子供が巻き込まれて亡くなった」
「あぁ、それ知ってる!」
ネッツは生きているのに、新聞には死んだと書かれている。だから、真実を知らない人は、ネッツは暴走マキシカ事故で死んだかわいそうな孤児ということになっている。
「なんとも痛ましい事故だ」
「その子は生きてる」
ネッツは力強く言った。ネッツが生きているとなれば、混乱する人もいるからと口止めされていたが、ネッツは思わず口にした。
「だといいね」
「それ、俺のことなんだ」
議員と名乗った老人は驚いてネッツの顔をまじまじと見た。
誰も信じてはくれないだろうが、ネッツはテイラーマキシカの事故で死んでなんていない。
「はっはっはっ。なんとしてもマキシカを悪者にしないために、死んだ子供の身代わりをやらせているとは。マキシカの家に雇われたのか?それともメグリエの家か?」
「信じられないだろうけど、俺は生きてる。誰も死んでない」
「教育が行き届いているな。まぁいい。マキシカが危険であることは皆が認める明確な事実となった」
「でも、コーリィや壊し屋がいるし、マキシカも点検したり、時間を守って使えば大丈夫なんだって」
ネッツは少し苛立っていた。勝手に決めつける議員なんて頭の固い大人には変わらない。
その議員の名を看護師が呼んだ。
「リック様、ジンリー・リック様!お薬の準備ができました!」
「さて、呼ばれたようだ。またな、少年。マキシカは古くなっている。気を付けるんだ」
ジンリー・リック議員はのっそりと立ち上がり、名を呼ばれた方にその麻痺して動かない右腕をかばいながら歩いて行った。
ネッツはそっと病院を後にした。彼の名は新聞に載っていた。マキシカを批判していた人物だ。ネッツがネッツであることを信じない大人。
ネッツを死んだ子供の代わりに連れてこられた、メグリエやマキシカの家に雇われた子供だと。ネッツは死んでないことを証明するのは一筋縄にはいかないのかもしれない。今はコーリィの言うとおりに、ネッツ・ワマールとしてふるまい、ことが明らかになるまで機を待つしかないのがなんとももどかしい。