ローザリア・リンデル侯爵令嬢 (前)
連載を再開しました。
皆様どうぞよろしくお願い致します<m(__)m>
7年ぶりの祖国。
昼夜を問わず絵筆を走らせ完成した絵を師匠と共に最終の確認をし、運び出された後のがらんとした小部屋を見渡してほっと肩の力が抜けた。
北向きの大きな窓からは王宮に隣接した中央礼拝堂の鐘楼が見える。
その鐘楼から単調に4度鳴らされる大鐘の音を合図に、寄る辺ない無辜の乙女の清らかな祈りにのみ開かれる女神の扉。
今夜、召される聖女のためにその扉を開く大役を仰せつかり、かつての日々を思い出す。
■■■
夢中で駆け込んだ礼拝堂の重い扉がいつも案内してくれているシスターの手で固く閉ざされたことに安堵すると、傷だらけになった裸足で神聖な場所に踏み入れてしまったことに気付き、祭壇の前へ進むことを躊躇してしまった。
(マエへ オススミクダサイ)
目の前の祭壇から微かに聞こえる声にハッとし、胸に下げた印章の指輪を服の上から握りしめて足を踏み出し、促されるまま一歩足を踏み出した。
◇◇◇
エリアごとに意匠を凝らして完璧に整えられた王族専用の庭園では、盛りを迎えた花々が美しく咲き誇っている。緩やかに盛り上がった斜面の上、腰までの高さに整えられた灌木で仕切られた国王陛下専用の一角で、お名前を冠した花を背に長椅子にゆったり座る第三側妃アナベル様と、臨月を迎えた新たな妃の体を気遣うように寄り添う国王陛下の肖像画の仕上げのため、私はお二人に向かい合う位置で絵筆をとっている。
アナベル様は間もなく王妃として即位する事が決まっているため、その記念の肖像画を依頼されたのだ。
眼下に広がる庭園を一望できるこのエリアは、丘の下に位置する庭園側からは見えないように設計されている。
キャンバス越しに目を向けると、国王陛下の視線は庭園の中央にある東屋へ向けられていた。
噴水の煌めきを楽しめるように作られた東屋のアーチ壁には、王妃の名を冠した大輪のバラが沿わされ、ひと際美しく整えられている。
その中では現在、婚約者である王太子ブルーノ殿下が私の侍女の腰を抱き吐息がかかる程の距離で囁き合っている。
ブルーノ殿下の耳に顔を寄せてなにやら楽しげに囁いているマノン・アッシュベル伯爵令嬢は、父のアスランが再婚したリリア・アッシュベル元伯爵夫人の連れ子である。
妃教育のために2年前から王宮に部屋を与えられて暮らしている私の元へ、なんの連絡も相談もなく父アスランの推薦状と共に侍女として押しかけて来たのだ。
私が王太子ブルーノ殿下の婚約者である事と、リンデル侯爵家の令嬢であり、かつ母方のセントルー侯爵家と共に、二大侯爵家の後ろ盾を持つ事は社交界で知らぬものはない。
父アスランが侯爵代理としてリンデル邸に入ったことは事前に知らせを受けていた。
同時に半年前に未亡人となったリリア・アッシュベル元伯爵夫人と再婚したことも、その娘のマノン・アッシュベル伯爵令嬢と共に侯爵邸に迎え入れたことも報告を受けていた。
侯爵邸に迎えたリリア夫人からマノン嬢は実は父の娘なのだと涙ながらに告白された父アスランは、マノン嬢を自分の籍に入れようとしていた。
しかしこの国では同じ家から妃を二人挙げられない事を知ったリリア夫人は、マノン嬢をアッシュベル伯爵令嬢のままにしておくように父のアスランに懇願したらしい。
二人の愛の結晶のマノン嬢が王族になる輝かしい未来を語られ、リリア夫人の言いなりにマノン嬢を王宮に送り込んできたのだ。
しかしマノン嬢は最低限の淑女教育は受けているようだったが、侍女として働く事はとても無理な令嬢だった。王宮に来てやったことと言えば、伯爵令嬢とは仮の身分で実際は侯爵令嬢であり未来の王妃の義姉だと触れ回ったことと、王太子殿下と側近の令息たちとの活発な交流のみだった。
きっかけは些細な事に思えた。
侍女の仕事を始めた初日、教え方が厳しいと訴えて廊下で俯き動こうとしないマノン嬢に忙しい王宮侍女たちはいつまでも付き合ってはいられず、仕方なくすぐに戻ると伝えて置いていく形になってしまったそうだ。
そこへ通りかかった王太子殿下の側近の一人が、俯いて一人で立ち尽くす儚げなその様子を見かねて声を掛けると、いじめられていると訴えて彼の胸に縋ってすすり泣きはじめた。
ちょうど戻って来て二人の適切とは言い難い状況を目にした侍女たちの内、マノン嬢を抱えるような状態となっている令息の婚約者から距離が近すぎる事をやんわりと指摘されると、皆が居る前で目に涙を浮かべて至らない事を大きな声で謝罪しはじめたのだ。
泣きながら怯えるように謝罪を繰り返すマノン嬢を令息が庇い、騒ぎを聞きつけてやって来た王太子殿下や他の令息たちも口々に慰めの言葉を掛けている。
その様子を唖然と見つめる侍女たちに、ブルーノ殿下は、『慣れないうちは優しくするように』と言い置いて、マノン嬢の手を取りその場から連れ去って行ったのだという。
そうしたやり取りが毎日のように繰り返されるうち、ブルーノ殿下は側近の令息たちと共にマノン嬢を守るように取り囲むようになり、その振る舞いを出来るだけ優しく窘める私や侍女として仕えてくれている彼らの婚約者の令嬢たちを咎めるようになっていった。
どちらに何を言っても悪循環にしかならない状態を見て取った私たちがマノン嬢を構わなくなると、今度は人目のある所で突然涙を浮かべて震えながら悲痛な声で謝罪を始めた。驚いて声を掛けるとびくりと肩を揺らして悲鳴のような泣き声を上げて蹲り、騒ぎを聞いて側近の令息たちと共に駆け付けたブルーノ殿下を見つけるとその腕の中に飛び込み、胸に顔を埋めて涙ながらに何やら訴えている。
あまりの事に私たちは呆然と眺める事しかできなかった。
一体何を囁かれたのか、ブルーノ殿下と令息たちは私と侍女たちをきつく睨みつけると、マノン嬢に醜い嫉妬を向けるなと口々に責め立て、震えるマノン嬢の肩を抱いてその場を去って行ったのだ。
それ以来、マノン嬢は毎日人目のある場所で突然悲鳴のような泣き声を上げては虐げられる悲劇のヒロインを演じ続けた。
名目上は侍女であるため私たちは行動を共にせざるを得ず、疲弊した侍女たちが距離を置くと、今度は置き去りにされたと泣きながら王宮中を歩き回る。
そんな毎日が繰り返され、醜悪な婚約者の令嬢たちから花のように可憐なマノン嬢を守るナイト気取りの彼らの行動は次第にエスカレートして行き、たった二か月ほどでそれぞれの婚約者へ憎しみの表情さえ向けるようにさえなってしまった。
王太子殿下とその側近たちの態度を受け、周囲からも私たちがマノン嬢を虐げていると誤解をして同情するものが増え、私や彼らの婚約者たちを諫める人々さえ現われるようになってきた。
私は国王と、前王妃陛下と第一側妃の病死に伴い、第二側妃から繰り上がった新王妃陛下の希望で、彼女の実子である二つ年上のブルーノ殿下の婚約者に選ばれた。
共に侯爵夫人であった両家の祖母たちの社交界への強い影響力と潤沢な資産を有する両侯爵家の後ろ盾も相俟って、父親の醜聞はあれども表立って異を唱える者もいなかった。
そんな中、ブルーノ殿下の実母である王妃陛下は無理を押して高齢出産に臨み、第四王子コーネリアス殿下の出産後に体調が戻らないまま儚くなってしまわれた。
そして私が王宮に上がった次の年、領地の災害で両侯爵家の祖父母を亡くした私は、一度に社交界での露払いを失ってしまった。
それでも二大侯爵家を主家とした最大派閥であったため両家の擁する多くの貴族家や令夫人・令嬢たちに支えられて社交界での地位は揺るがないと思われていた。
マノン嬢がやってくるまでのブルーノ殿下と私の関係は比較的良好で、互いに敬愛の情はあったと思う。
同じ時期に共に大切な人をなくしてしまった事もあり、互いに慰め、労わり合う事も出来ていた。
未来の国王としてどうあるべきか考え、尊敬する父王を手本として努力を重ねるブルーノ殿下は心から尊敬できたし、国を想う彼を支えるためと思えば妃教育も自ら進んで深く広く学ぶ程には慕っていたのだ。
加えて、国王陛下の年の離れた異母弟である王弟マークス殿下は、ブルーノ殿下とは7歳違いで、叔父というより頼りになる兄のような存在として子供のころからとても慕っていた。
王族教育や公務で顔を合わせる事も多かった私たち三人は、交流の度に国の発展のために自分たちに何が出来るかと話し合い、互いを信頼し合っていると信じていたのだ。
幼い頃から絵が得意だった私は、両侯爵家が定期的に隣国のエーヴェル王国から招いて風景画を依頼していた高名な画家である元女伯の手ほどきを受けていた事もあり、このコルアイユ王国内では高い評価を得ていた。
私的なものではあったが国王王妃両陛下の肖像画を描いた事をきっかけに、正式に肖像画の依頼が来るようになった。未来の王妃に阿る貴族家からの依頼が一定数ある事は否定できないが、純粋に私を慕ってくれる令嬢たちからの肖像画の依頼は嬉しいものだった。
ブルーノ殿下とマークス殿下が語り合う側で絵を描く私の姿は王宮の皆から微笑ましく見守られていたのだが、ある日マノン嬢が顔を背けてぽつりと零した『なんて汚い手なの』という言葉がきっかけだったと思う。
マノン嬢の手は、多くの貴族令嬢の中でも群を抜いて美しいと評判だった。
抜けるような色白の肌を持つ彼女の手は肌と同じく白く透明感があり、力を入れて握れば折れてしまいそうな程細い指の先に続くほっそりとした爪は手入れされて宝石のように輝いている。差し出された繊細で美しい手は女性であっても見惚れる程だった。
その呟きに、一番美しく見える角度で口元に翳したマノン嬢の手と私の手を視線だけで見比べたブルーノ殿下の表情が胸に刺さって忘れられない。
それ以来ブルーノ殿下は絵を描く私の手を見るたびに眉を顰めるようになり、手が汚れる事を厭わずに絵を描く私を次第に蔑むようになっていったように思う。
マノン嬢は毎日のようにブルーノ殿下一行を目の端に捉える度に発作の様に突然謝罪を始め、手を差し伸べるブルーノ殿下の胸に縋り涙を浮かべて何かを囁く。
その度にブルーノ殿下は私をきつく睨むと、マノン嬢の手をそっと握ると私から隠すように抱きかかえて立ち去ってしまう。
見かねたマークス殿下は噂を耳にする度に打ち消し、ブルーノ殿下を度々諫めていたのだが、その言葉も次第に届かくなり、今ではマークス殿下さえも遠ざけるようになってしまった。
今ではブルーノ殿下とマノン嬢を側近の令息たちが取り巻き、更にはより有利な方に阿る宮廷貴族たちが挙って取り囲むようになったことで、私やマークス殿下の言葉はもはや何一つ届く事は無くなった。
ブルーノ殿下に遠ざけられるようになった私からはまるで潮が引くように人々が離れていった。
それから半年、派閥の貴族たちは変わらず私を護る為に噂を否定し続けてくれるものの、一度立った噂は完全に消える事なく熾火の様に燻り続けている。
それ以来、私はほとんど外に出る事も人にも会う事もせず、その時の為に身の回りのものを少しずつ処分しながらひっそりと過ごした。




