それぞれの報い(ローレンス)
アルト伯爵は自室に届けられた報告書に目を通す。
そこには三日前にコテージから姿を消したマリアが見つかったことが記載されていた。駆け落ちの相手は伯爵家からの依頼で週に二度、食料や日用品を届けている出入りの商会の次男だった。
ローレンスとマリアと元妻に領地の端にある小さなコテージを与え、そこで生活を始めてから間もなく二年。一月前に元妻がはやり病で亡くなり、葬儀や埋葬が終ってひと段落した矢先の事だった。
平民の彼がローレンスとマリア夫婦のここに至る経緯をどれだけ知っていたかはわからないが、姑と折り合いが悪く夫に蔑ろにされる辛い境遇の元伯爵令の涙ながらの身の上話は、年下の彼にとってはさぞ哀れを誘ったことだろう。
ここでの生活はもう耐えられないとさめざめと泣くマリアに絆されたのか、誑かされたというべきか。
せめてきちんと筋を通して離婚をしてから出て行ったのであればまだ良かった。
国王陛下直々に認められた婚姻は貴族であれば離婚は出来ないが、平民となった彼らには何の縛りもなかったのだ。
自分の行いを悔い改めてローレンスを献身的に支える姿勢を見せていれば、ほとぼりが冷めた頃には自由の身になる事を許すのも吝かではなかったのだが、領地へ送られて以来姑といがみ合う事しかせず不貞の挙句に出奔したマリアに我がアルト家が手を差し伸べる義理はない。
出入りの商会へは、次男を連れて直接謝罪に来れば今回の件は不問にすると伝えてあった。
出奔してたった三日で連れ戻されたのは、アルト伯爵家の温情に報いるべく商会が血眼になって探し出した結果だ。商会から明日には次男を伴って謝罪に伺いたいとの先触れに承諾の返事をさせた。
商会の人間に見つかって次男が連れ戻され、一人残されたマリアは、ローレンスが気付いていないのを良い事に恐らく何食わぬ顔で戻って来るつもりだろう。
しかしそんな事は許さない。知らせを受けた直後に衰弱しきっていたローレンスは本邸に移しており、コテージそのものもその日のうちに打ち壊す指示を出している。こっそり戻って来たとしても既にコテージは跡形もない。平民の生活を知らぬマリアが、衣食住を不足なく与えられていたここでの暮らしがいかに恵まれていたかを身をもって知った時には何もかもが後の祭りだ。
領内では元妻とマリアがビノシュ嬢を陥れたことも、もちろん欺かれていたとはいえ事実上不貞を犯したローレンス自身が婚約者だったビノシュ嬢を衆人環視の中、冤罪で断罪したこともその結果、無辜のビノシュ嬢が聖女として女神に召されてしまったことも隅々まで伝わっている。
そのせいでローレンスが深い後悔に苛まれて心を壊したことも自業自得と噂されたが、小さなころから次期伯爵として親しんで来たローレンスが、見る影もなく窶れ果てて行く様子を目の当たりにした領民からは同情の声も寄せられるようになっていた。
そんな矢先のスキャンダルだった。
商会の者や侯爵邸の者が絵姿を持って捜索に当たっていたため、ローレンスを裏切って駆け落ちしたマリアの所行と顔は既に領都を中心に知れ渡っている。
一人になって行き場を失った元貴族令嬢のマリアを恰好の餌食として手を差し伸べる人間はたくさんいる。その手を取り、見返りを求められた彼女が何を差し出すのかは想像に難くない。
なに、男を手玉に取る手管を存分に生かせばまた贅沢な生活は可能だ。
そして、報告書と共に届けられたクローバーの印章で封をされた手紙を手に取った。
それは、かつてローレンスの婚約者だったビノシュ伯爵令嬢が女神の下へ召された、あの王都の中央礼拝堂からの物だった。
毎月送っている寄付と、贖罪のミサに対するいつもの礼状だと思っていたのだが、そこには思いもよらぬ申し出が書かれていた。
(今月も聖女マーガレットへの贖罪のミサを滞りなく終えました。アルト伯爵家からの変わらぬお心遣いとご寄付に対し深く感謝申し上げます。
あの日から二年に渡り、今なおローレンス殿は深い後悔の闇に沈んでおられるご様子と伝え聞いております。もしもローレンス殿ご自身が聖女マーガレットへの贖罪を望まれるなら、中央礼拝堂は司祭見習いとしていつでも受け入れるご用意がございます)
慈悲深い申し出に心から感謝すると共に、ぜひ前向きに検討させて頂きたいと返事をした。
この事をローレンスにいつ伝えるか、また彼自身が判断できる状態になるまでの治療に就いても専属医師と相談しなければならない。
体が癒え心を持ち直せたとしても、ローレンスをマーガレット嬢の眠る場所に送り出す事がどの様な影響を及ぼすかはわからない。しかし、もしもそこで立ち直れたなら、アルト領の司祭として教区を任せる未来に希望が見出だせる。
甘いと言われればそう見えるかもしれない。しかし私には産み育てた責任があり、アルト領の評判を著しく落としたローレンスには領民へ贖罪の義務がある。ローレンスが生涯をかけて領民に尽くす事が出来たなら、私もローレンスもいずれ天に召された時にマーガレット嬢に改めて赦しを請う事が出来るかもしれない。
母が亡くなった。
いつも耳を押さえて蹲り、聞こえないようにしていた母とマリアの罵り合う声が聞こえなくなって数日が過ぎた頃、やって来た父の執事に抱えられるようにして教会に赴き、葬儀と埋葬を終えてコテージに戻った。
その日以来、日に一度気が付くとテーブルに置かれていたパンと果物の食事も水さえも届かなくなり、意識が朦朧としていた私を呼ぶ声が聞こえた。
父の声に似ていると思ったがそんなはずはない。最期を迎える私への神の慈悲かもしれないと感謝を口にし、意識を手放した。
私にはかつて婚約者がいた。
その名の通り繊細で清楚、慎ましく美しいマーガレット・ビノシュ伯爵令嬢は、王家にも認められるほどに美しい手跡を身に付けた教養溢れる令嬢だった。
私が遠征に赴いている一年間一日も欠かすことなく礼拝堂に赴いて無事の帰還を祈り、その祈りを込めたクローバーの押し花と共に流麗な文字で愛の籠った手紙を送り続けてくれた素晴らしい令嬢だ。
愛し愛される幸福に包まれ、私は幸せな日々を送っていた。
しかし、ある日届いた一通の手紙でそれまでの記憶が蘇り、一気に現実に引き戻された私を、身を引き裂かれるほどの慙愧の念と後悔が襲った。
私は、マーガレット嬢に一体何をした?
信じていた母と、その言葉を信じて愛を捧げ妻に望んだマリアが、マーガレット嬢を虐げ、嘘の噂を流し不貞の冤罪を掛けた事を互いに擦り付けて目の前で罵り合っている。
全てが嘘だった。
しかし欺かれていたとはいえ、それと気づかず怒りに任せて真偽を確かめる事もせず話も聞かずに彼女の愛情と献身を無視し、ひたすら彼女から目を背け続けて手酷く裏切り、ついには貴族が一堂に会する夜会で彼女の心も体面も取り返しのつかない程深く傷つけて失意の中でこの世を捨てさせたのは私自身だ。
彼女の告げた、私の無事の帰還を祈り私だけを慕っていたという最期の言葉が何度も脳裏に木霊し、ここまでの仕打ちをした私を責める言葉でもなく恨む言葉でもなかったことが殊更に心を抉り、血を流し続ける。
はっと目覚めて目に入った自室の見慣れた寝台の天蓋に、今までの事は全て夢だったのかと安堵し掛けた時、あのコテージに定期的に診察に訪れていた専属医師に脈を取られている事に気付き、やはり全てが現実だった事に落胆した。
皆の話し声から、どうやら私は衰弱死の危機だったらしい。
医師の後ろに立つ父とアルト領の騎士団長を務める叔父、叔父の長男で従兄のクリストフや執事を始め、子供のころから仕えてくれた使用人たちも一様に安堵の表情を浮かべているのが目に入った。
皆の顔を見て、こんなにも私を心配してくれている人たちが居る事に胸が熱くなり涙が浮かんだ。
掠れた声でマーガレット嬢に取り返しのつかない事をしてしまった事と、一族の名誉に泥を塗ってしまった事を譫言の様に詫び続けた。
次の日、父から次のアルト伯爵はクリストフを指名している事と、マリアが駆け落ちの末行方が分からない事とそれを理由に離婚が成立した事を聞かされた。
アルト伯爵家の後継者がクリストフである事には何ら異存はなく、寧ろこのような醜聞を背負わせてしまった事を詫びようとすると、先ずは体を癒す事を優先しろ、謝罪も贖罪もそれからだと叱られた。
マリアに対する思いは複雑で、まだ気持ちの整理はついていないが、離婚できた事には心から安堵した。
起き上がる事すら一人ではままならない状態だった私は、使用人に世話をしてもらいながら体を癒しつつ、アルト邸で過ごしたマーガレット嬢の様子を教えて貰った。
優しく穏やかなマーガレット嬢は使用人皆に好かれていた。字の美しさは周知の事だが、刺繍もとても得意だったそうだ。皆マーガレット嬢がアルト家の女主人になる事を楽しみにしていて、母の理不尽な扱いを心配していたものも多かった。
そんなマーガレット嬢のかつての様子を聞きながら、体が癒えていくにつれて心の痛みは日増しに大きくなっていったのだった。
一年が過ぎ、邸の中を歩き回れるまでに回復した頃、父の執務室に呼ばれて渡された一通の手紙の印章が目に入った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。
それはマーガレット嬢が聖女として眠る場所であり、かつて毎朝私のために祈りを捧げていた中央礼拝堂からのものだった。
心臓が早鐘のように脈打ち速くなる呼吸を何とか整えて震える手で手紙を開くと、そこには毎月のマーガレット嬢への贖罪のミサと寄付金の礼と共に、私を司祭見習いとして受け入れる用意があると綴られていた。
父はあれから三年余り、毎月マーガレット嬢への贖罪のミサを開き寄付金の手配をしてくれていた。その事に礼を言うと、これは義父となる身でありながら配慮が足りず助けられなかった自身のマーガレット嬢への贖罪であると返された。
これからは私自身がマーガレット嬢へ贖罪をしていかなければならない。
マーガレット嬢の側でそれが許されるのであれば願ってもない事だ。
私は自ら礼拝堂へ手紙を書き、申し出をありがたくお受けしたい事、受け入れてもらえる事への感謝を伝えた。
それから私は王都へ立つ日まで、領地の教区の司祭を務める大叔父の住む司祭館へ居を移して見習いをさせてもらうことにした。
そうして身の回りの事を自分で一通りできるようになると、王都の中央礼拝堂へ旅立った。
到着した礼拝堂で、私は他の人と同じく下働きから始め、漸く司祭見習いとして働く事が決まると、一人のシスターから早朝の祈りの補助をするように伝えられた。
次の朝、女神さまへの祈りを終えて下ろうとした時、参加していた一人の男性が祭壇を離れて聖女像の前に一輪の白い花を供えて祈りを捧げる姿が目に留り、その顔を見て目を瞠った。
その人はヴィクター・ビノシュ伯爵令息、マーガレット嬢の兄だった。
しかしどう見ても平民にしか見えず、差支えが無ければとシスターに尋ねると、彼は数年前にご尊父のビノシュ前伯爵が亡くなると同時に爵位を返上し、整理した財産のほとんどをこの礼拝堂に寄付して平民となり、この近くで代書業を営んでいると聞かされた。
。
そしてかつてマーガレット嬢がしていた様に、あの日から欠かさず早朝の礼拝に合わせて参拝しているという。平民となってからは自ら育てた白いマーガレットを聖女像に一輪供えて祈りを捧げているのだと告げられた。
ここにも一人、彼女を幸せに出来る立場でありながらそれを放棄したことを深く後悔している人がた。
それ以来、私は名乗る事も近づく事もせず、彼と共に毎朝の礼拝を欠かさなかった。
◇◇◇
月日は巡り、あの日から十年が経ったある日、礼拝を終えたヴィクター氏が懺悔室に入っていくのを目にした。すると年配のシスターが私の側にやってきて共に聴罪室に入るように言われたのだ。
そこで初めて聞くマーガレット嬢の生い立ちは想像を絶するものだった。
家族に存在を疎まれ頼ることさえ願い得ず、夫となるはずの私には手酷く裏切られ傷つけられた彼女の絶望がどれほど深かったことか。
あの夜会で、一人立ち向かった彼女の凛とした姿を思い浮かべて言葉を失った。
その日、私は懺悔室に入り自らの過ちを包み隠さず全て告白し、そして許しを請う事はせず、これからの人生をマーガレット嬢への贖罪と祈りに費やすと誓った。
すると聴罪室から、あのシスターの密やかな声が聞こえた。
「私はあなたを追い詰めるつもりで彼の懺悔を聞かせたのではありませんよ。今のあなたならきっと受け止められると思ったのです。あなたのした事をマーガレット嬢以外が赦すと言う事は出来ませんが、これ以上自分を責める事なく今まで通り真摯に向き合い、彼女の安寧を祈って行けば良いのではないでしょうか。そして、これから生まれて来る彼女の甥か姪の幸せも祈ってあげて下さい。」
そう諭され、その言葉を噛み締めながら祈り過ごしていると、ヴィクター氏と彼の妻のメアリーが、ヴィクター氏にそっくりの女の子を連れて洗礼を受ける為にやって来た。
女の子の名前はマギー。
私は司祭として洗礼式を取り仕切り、心から彼ら家族の幸せを祈った。
死の淵を彷徨った私は白髪で、こけた頬も戻る事はなかったためにヴィクター氏には私だと分からなかったらしい。
それで良い。誰かに認めてもらうためにここにいるわけではないのだから。
◇◇◇
程なくして父の残された時間が少ない事を知らされ、私は八年ぶりに領地に戻った。
叔父と従兄のクリストフに迎え入れられ、父の部屋に通された。
父は私の立ち直った姿を嬉し気に眺め、再会を喜んでくれた。
帰郷から父と過ごせたのは二日ほどしかなかったが、ずっと側に居て離れていた時間を埋めるように語り合う事が出来た。
そして司祭として告解を聴き、最期を看取った後は遺言通り私が父の葬儀を取り仕切った。
伯爵位を引き継ぎアルト伯爵となったクリストフから、アルト領の教区を纏める司祭に任命された私は、中央礼拝堂の司祭を辞すべく王都に戻った。
皆に挨拶を済ませ、出立の朝の最後の礼拝でヴィクターとメアリー夫妻と、最近歩けるようになった娘のマギーの姿を目に焼き付けた。
参拝者たちを送り出し、自身も長年過ごした中央礼拝堂の扉を潜った所であのシスターに呼び止められ、餞別として渡された包みにはマーガレットの押し花が添えられていた。
お世話になったお礼と心遣いに感謝を告げて礼拝堂を後にした。
アルト領の司祭館に入り、荷物の片付けもいち段落したところでシスターから餞別として渡された包みを開けて見た。
それは小さいながら立派な背表紙の祈祷書だった。
表紙を開いて目に飛び込んできたのは見慣れた美しい飾り文字だった。
見間違うことなど絶対にない。今でも大切に保管してある彼女からの大切な手紙と同じ手跡だ。
とめどなく流れる涙をぬぐう事も忘れ、祈祷書をめくり続ける。
流麗な文字にそれに似合いの美しい挿絵に彩られた祈祷書の最期にサインがあった。
絵:ルイス・ルクセル
文字:マルグリット・ルクセル
生きていてくれた。
これほどの作品を共に生み出す伴侶を得、そして二人からこの本を贈られた。
もうそれだけで私は報われる。
◇◇◇
肌身離さず持ち歩くため今やトレードマークとなった祈祷書を小脇に抱え、早朝の礼拝の為に小さな礼拝堂の扉を開放する。領民の朝は早く、仕事の前に立ち寄る者たちの為に朝の祈りの時間に誰でも礼拝堂に入れるようにしている。
庭に目をやれば、司祭館で勉強を教えている近隣の子供たちが花の手入れをしてくれている。皆、勉強のお礼だと言って何かと手伝いに来てくれているのだ。
今日も子どもたちの笑い声が響く庭には、白いマーガレットが今を盛りと咲き誇っている。
微かに揺れる華奢なその花の様子に、かつて愛おしく思った少女の笑顔が重なる。
彼女の人生に 幸あれかし。