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マーガレット・ビノシュ伯爵令嬢   (中)

◇◇◇

鐘の音が私に冤罪の加害者となった現実を突きつけている。

お前は王の器ではないと。


動揺を隠せない先王第二王子ヘンリーは、玉座の国王マークスの刺すような視線を受けて己の未来を悟った。


今回の式典の取り仕切りを任され、有頂天になった自分は華々しい演出で次期国王としての慈悲深さを知らしめようとした。それがまさか冤罪だったとは。


既定路線だと信じて疑いもしなかった輝かしい未来が、乾いた砂のようにさらさらと指の間から零れ落ちていった。



◇◇◇

鐘の音が私の愚かさを嘲笑している。

あの場で婚約期間中の不誠実を責められるべきはお前だったのだと。


「貴方たちが常々私や周囲に話していたビノシュ伯爵令嬢の恋人とやらは一体誰なのですか。」


問いかけた私に周囲の視線が私の母と、つい先ほど自身が請い王の許しを得て妻と決まったマリアに集中した。

二人の無言がその答えだ。


もうマーガレットと呼ぶことは許されないが、婚約者として家にやって来た彼女はつつましくて愛らしく、私は好ましく思っていた。

母からは、淑女教育が不足している事を理由に許可なく会う事を許されていなかったが、会えば彼女との会話は穏やかで心地よく、ずっと大切にしようと思っていた。


学園に入学したころ、母の親友の娘だと紹介されたマリアとは年も学園のクラスも同じ事もあり家族ぐるみで親交を深めていった。

母とマリアからマーガレットが恋人と駆け落ちを計画していると聞かされた時には裏切られたと酷く落ち込み、怒りに任せて周囲の勧めるまま彼女と話し合いの時間すら持たずに拒否し続けた。マリアに献身的に支えられやがて互いに愛を確かめ合った私は、真実の愛を見せつけて手酷く切り捨てる事が裏切り者の彼女に似合いの報いだと信じて疑わなかったのだ。


噂だけを信じて事実を確かめもせず、歩み寄ろうとする彼女を疎み話すら聞かずに不誠実な態度を取り続けていた私に、いまさら気づいたと騙されていたと傷ついた顔で言い訳をする資格はない。

周囲の刺すような冷たい視線に晒され、晴れやかな気分で臨んだ式典会場は一転、針の筵だった。私は間もなく地位も名誉をも失うだろう。

信頼も愛情も向けられなくなった母とマリアとのこれからの生活が明るいとは思えなくとも、自身が請い得た未来を嘆くことなど許されはしない。

伯爵家の体面を重んじ、醜聞を何よりも嫌う父は私と母を絶対に許さない。

領地の片隅に追いやられ、三人でひっそりと暮らす将来をぼんやりと考えながら式典会場を後にした。


お互いに気まずいままマリアをルードル伯爵邸へ送り届け、王宮から戻った私の部屋に積まれていたのは、母の下に留め置かれて遠征先に届けられることのなかったマーガレットから毎日送られた手紙だった。

式典の前日、昨日の最後の手紙まで全てに礼拝堂で願掛けの祈りの後に渡されるクローバーの押し花が同封され、ため息が出るほどに美しい手跡で無事の帰還を祈る言葉に添えて優しい愛の言葉が綴られていた。

どの手紙を手に取っても同じ言葉は一つもなく、毎日心を込めて選んだであろうあふれるほどの愛の言葉が見事な手跡で綴られている。

彼女は王宮を去る前に、あれほど不誠実だった私をそれでも慕っていたと言った。無事の帰還を願い毎日祈りを捧げていたとも言っていた。

鐘によって証明され嘘ではないとわかったつもりだったその言葉が、揺るぎない真実として目の前に広がっていた。

思わず手紙を抱きしめ嗚咽を堪える私に、耳に残るあの鐘の音が木霊する。

真実の愛を捧げてくれた贖罪すべき彼女は、もうこの世にはいないのだと。


ローレンスは父のアルト伯爵により即座に廃嫡され除籍された。自ら王に請い許可を与えられ婚姻を結んだマリアと共に平民となり、アルト領の端にある小さなコテージを与えられ、離縁され実家へ戻ることも拒まれて行き場のない母親と三人で暮らしている。

当初、女二人は互いに責任を擦り付け毎日罵り合っていたが、家事を教えるために短期間だけ雇われていた下働きのメイドが来なくなると、全ての家事を自分たちで行わなければならない生活に疲弊し次第に罵り合う気力も失っていった。

逃げ場も助けも希望もなく、いがみ合いながらここで一生を終えるのだ。


その一方、ローレンスは今日も自室の壁一面に飾ったクローバーの押し花を愛し気に眺め、恍惚とした表情でもうボロボロになった手紙を読んでは返事を書いている。

夢の世界の住人となった彼は、愛し愛される婚約者と幸福な人生を歩んでいた。


しかしある日突然ローレンスの幸福な時間は終わりを告げる。

愛の手紙の間に挟まれた、マーガレットからの最後の手紙を目にした彼は驚愕のあまり叫び声をあげた。震える手でマーガレットの遺品として届いたブローチを握りしめ、驚いて部屋に入って来た母と妻に憎悪の眼差しを向けると、そのまま深い暗闇の中に沈み込んでいった。いつ終わるとも知れぬ慙愧の情と共に。





◇◇◇

鐘の音が娘を、妹を、永遠に失ったと告げている。

信頼もなく家族の情すら示さなかったお前たちを、マーガレットは捨てたのだと。


聖女として召された寄る辺ない者の体は礼拝堂の納骨堂に納められる。そして、嘆きの碑と呼ばれる聖女像に刻まれ語り継がれるその名に家名はない。


マーガレットを出産して間もなく亡くなった最愛の妻を悼むあまり、私も息子のヴィクターもマーガレットを慈しむことが出来ず、私たち親子はマーガレットとほとんど交流をしなかった。

厄介払いとばかりに早々に婚約を結んだアルト伯爵家にマーガレットの教育を任せてほしいと言われた事は、まさに渡りに船であった。

アルト伯爵夫人からマーガレットの不出来を報告される度に疎ましく思っていたある日、マーガレットに恋人がいて駆け落ちを画策していると報告された時には仰天した。

そのため、ローレンス卿の心が離れて新たな婚約を水面下で進めていると知らされ、婚約破棄の慰謝料を請求しない代わりに婚約破棄の事実を公表する時期や方法全てに目を瞑れと言われて了承した。

腹立たしさが頂点を迎えた私は、駆け落ちを実行したら直ちに除籍すると決め、それ以降はヴィクターも共に、マーガレットが何を言おうと一切応じる事をしなかったのだった。


そして迎えた今日、断罪に巻き込まれる事を厭ってエスコートも付き添いもせずに離れた場所で事の次第を見守っていた私とヴィクターは、衆目を集める中、毅然とした態度で身の潔白を宣言したマーガレットの姿が、二人が愛して止まない女性の生前の姿と重なり息を呑んだ。


あぁ、こんなにも似ていたのか。


屋敷を飾る妻の肖像画のどれを思い浮かべても瓜二つだと認めざるを得ず、どれほどマーガレットから目を背けていたのか、いまさらながらその事実を突きつけられた気がした。


会場を去るマーガレットを追いかけようと人々をかき分け進みながら、ヴィクターはその背中に向けて何度も名を呼んだが、マーガレットが振り返る事はなかった。

なんとか会場を出た時にはもうマーガレットの姿はどこにもなく、毎日祈りを捧げていたという礼拝堂にたどり着いた時、突如鐘の音が響き渡った。


固く閉ざされたこの扉の向こうで、マーガレットが失意の中一人で旅立ったと鐘は告げた。

お前たちは妻が、母が、命と引き換えにこの世に残しその幸せを願った守るべき存在を捨て置きこの世を捨てさせた。お前たちに家族と名乗る資格はあるのかと。


どんなに訪いを入れても礼拝堂の扉が開く事はなく、その日の訪問を諦めた私たちは、一度屋敷に戻り、明日改めて訪れる事にした。

馬車の中で、私はヴィクターの言葉に愕然とした。


「マーガレットは僕の声に気付かなかったんだろうと思う。僕は、今夜始めてマーガレットの名を呼んだんだ。」


そう言う自分も、マーガレットの名を呼んだことはあっただろうか。

食事も一緒に取ったことが無く、用事があるときは執務室に呼びつけ、用が済んだら無言で手を振り追い払う。

屋敷の中で話しかけた事も呼び止めた事すらない。

もうすぐ妻の命日だ。その日はマーガレットの生まれた日でもあるとふと思い出した。命日には邸中で喪に服すと決めていて、そもそも誕生日などと言葉にした事すらない。

そういえばアルト家からも誕生パーティーや贈り物の相談を受けたこともなかった。

マーガレットは誕生日を祝われたことがあるのだろうかとぽつりと漏らした私の言葉に、ヴィクターは声を震わせながら話し始めた。


まだ幼かった頃、喪に服していて静かな屋敷の中、マーガレットの部屋のドアが少し空いていて、ままごと用の椅子に人形やぬいぐるみが座り、テーブルにはおもちゃのティーセットやお菓子がたくさん並べられているのが見えた。

そして、こちらに背を向け、おもちゃのテーブルを前にしたマーガレットが囲う様に座らせた人形やぬいぐるみに内緒話をするように声を潜め、それでもどこか楽しそうに囁いた。


「今日は私のお誕生日よ」


その言葉を聞いた瞬間、扉を乱暴に開けて部屋の中に入り、人形やぬいぐるみを蹴散らし、テーブルをひっくり返して怒鳴りつけてしまったと。


「今日はお母様の命日だ!お前が生まれたことを祝う人間なんてこの世にはいない!

お前が死ねば良かったんだ!」


そう言って顔を覆って俯き、私も言葉を掛ける事も出来ずに二人沈黙のまま邸に到着した。

馬車が到着し、扉を開けた執事長が顔色を失っていた。

邸中の妻の絵がすり替えられたというのだ。

馬車寄せから足早に屋敷に向かいながら、今日一日屋敷の中は通常通り無人になる事などもなかった事、誰も仕事をおろそかにはしていない事を報告し、執事長は何者かの侵入に全く気付かなかったと深く謝罪している。

駆け込むように入った玄関ホールで、絵の中でいつも優しい微笑みを向けて迎えてくれていたはずの妻が、背を向けて立っている。同じドレスに同じ背景、絵の中で自分の意思で背を向けたとしか思えないような絵だった。

急ぎ確認したその他の肖像画も、全て妻は同じようにこちらに背を向けている。

いくら名を呼んでも振り返ってはくれない。その後ろ姿が、王宮を後にした時のマーガレットと重なった。


次の日の早朝、私とヴィクターは礼拝堂を訪れ、聖女像に新しく刻まれたマーガレットの名を見つけてその場に頽れた。わかってはいた事だが、一縷の望みを捨てられなかった。

せめてその体を渡してはもらえないか、我が家の霊廟で、母親の隣に眠らせたいと懇願したが、聖女として召された者の体は礼拝堂の納骨堂に納められる事が決まっていると一蹴された。

それでもと食い下がる私に、本人の最期の意思でもあるのだと退けられた。

毎日通っていたここで懺悔の折、もしもアルト小伯爵と婚約破棄になれば、家の恥になった自分はきっと幽閉され捨て置かれて程なくそのまま亡くなることになるだろう。たとえ魂のない体だけになろうとも、顔も知らない母親の隣で、やがて捨て置かれて冷遇された父と兄に囲まれて永遠にそこに在らねばならないと思うと恐ろしくて堪らない。

その時には自ら神の御許へ旅立つことを許してほしい。そしてどうかここの共同墓地に埋葬して欲しいと涙ながらに願い、その時に作成したという遺言書を見せられて絶句した。

そこには、流麗な手跡に似合わぬ悲壮な懇願が綴られていた。


この国では貴族家の霊廟に空の棺を納める事もそこに安置されていないものの名を刻む事も許されない。

嫁ぐためや養子などで籍を離れた事のない者が、亡くなったとしても霊廟に安置されることがない場合、その家の記録からは抹消されその家に存在しなかったことになる。

マーガレットは聖女として迎え入れられずとも、自らそれを望んでいた。

あの鐘の音が耳元で木霊する。

お前たちの望んだとおり、娘など初めからいなかったのだと。


程なくビノシュ伯爵は子息のヴィクターに爵位を譲ると、背を向けた妻の肖像画と共に離れに居を移した。その頃から時折届く見舞いの手紙を読んでは落ち込み、なぜか時には屈辱的だと憤慨したり、周囲からは不安定な状態と噂され、次第に訪問するものもなくなり、手紙も届かなくなっていった。


ヴィクターは伯爵位を継いだものの、今までの妹への仕打ちが広く知れ渡った社交界にもはや居場所はなく、不安定な父と共にひっそりと息を潜めるように過ごしていた。


抜け殻のようになった父がこの世を去り、屋敷を手放すために整理をしていた時、かつてマーガレットの私室だった壁に小さな隠し扉があるのに気が付いた。

扉を開けると、そこには幼い頃に見覚えのある光景が広がっていた。

ままごと用の椅子に人形やぬいぐるみが座り、テーブルにはおもちゃのティーセットやお菓子がたくさん並べられている。

そしてこちらに背を向けた、もう誰も座ることのない空の主役の席。

脳裏に蘇ったかつての自分の行動と叫んだ言葉が、後悔に苛まれて敏感になった心を容赦なく抉る。急激に速まった鼓動と呼吸を整えるうち、壁際に不自然に置かれた櫃に目が留まった。

開けて見るとそこにはあれほど探し続けても見つからなかった母の肖像画が丁寧に納められていた。


その後、ヴィクターは屋敷を手放すと同時に爵位と領地を返上し、これからの生活に必要な額を取り分けると、残りの財産を全て中央礼拝堂へ寄付する手続きに訪れた。

もう読んでくれる人はいないけれど、と言いながら渡された手紙の文字はマーガレットの字によく似ていた。


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