約束させられたホームラン
「伊達、おい伊達。何してる? お前の出番だろ」
とある野球場。
自分の名前を呼ばれた彼は怯えた小動物のようにビクッと体を震わせた。
彼の名は伊達。プロ野球選手。そして四番バッター。
新人ではあるがチームの要。子供たちの憧れ。
そう、憧れ。それ故に彼は今、窮地に陥っていた。
遡ること、数日前。テレビ局が特集を組みたいとのことで、伊達に密着取材を始めた。
伊達は緊張しながらも愛想よく振る舞い、順調に事は進んでいたが
何でも会ってほしい人がいるとのことで伊達は何も知らないまま車に乗せられた。
着いた場所は病院。
どこか落ち着かない気持ちのまま案内された病室、そこにいた人物に彼はこう言われた。
「ぼく、今度の試合、伊達選手がホームラン打ってくれたら……手術、受ける!」
少年はキラキラした顔で伊達を見つめた。
……ふざけるな。お前が手術受けるのは当然だろう。
お前の命でしかも手術代はお前の両親の金だろう。俺に何の関係がある。
百歩譲って手術を渋るお前を見て、俺が言い出すのはいい。
何でお前が俺に約束させるんだ。
まさかそんなこと言えるはずがない。
彼は基本、人当たりがいい人物。
何より、少年の母親が涙ぐみ、よろしくお願いしますと頭を下げてきた。
テレビ局関係者も目に涙をためている。
異様な空間に寒気を感じつつ、伊達は少年と握手を交わした。
悪魔と契約した気分だった。
「おい伊達! ほら、行けよ!」
「……はい」
「おいおい、何だその顔。具合悪いのか? でもまあ、最終回だ。
しかもツーアウト。お前がホームランを打てばって聞いているのか?」
「……はい先輩」
「はぁ、ほら、お前のやる気が出るようなこと言ってやるよ」
「……え?」
「ホームラン。約束したんだろ? きっと病室で――」
「オゥエオロロロロロロロ」
「おい、大丈夫か! 何か悪いものでも食ったか!?」
「伊達! さっさとしろ!」
「行けるか? 監督が急かしているぞ」
伊達は口を袖でぬぐい、ベンチからバッターボックスへ向かう。
まるで敗残兵のような足取り。
どこか他人事のような、歩く自分をテレビの前で見ているような
そんな不思議な感覚に陥った。
そのテレビのスピーカーから声が聞こえた。
大観衆の中からどこか聞き覚えのある声が。
「伊達選手ー! 頑張ってくださーい! ヒトシくんも見てますよー!」
伊達はその声の方を向いた。
あのテレビ番組の関係者、タレント気取りの女性アナウンサーだった。
殺す殺す殺す殺す殺すお前らのせいだ殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……。
伊達はバットを握り締め日本刀のように構えた。それを見た大観衆が活気づく。
実況席もまた同様。
『いやー、この試合。ここまで伊達選手はいいところなし!
しかし、彼はまだ諦めていない!
と、言うのも何でも手術を控えた子供とホームランを打つ約束をしたとか!
これは見逃せませんねぇ!』
この声は歓声に掻き消され、選手たち、つまり伊達には届いていない。
だが、伊達には大体どんなことを言っているか想像はついていた。いや、それより酷い。
聞こえないからこそ余計、質の悪い想像をしてしまうものだ。
伊達は重く圧し掛かるプレッシャーにガクン、と膝が曲がった。
それでも、ゆっくりとではあるが歩き、そして口から呪詛を垂れ流す。
クソガキクソガキクソガキクソガキが……。
幸いなことにその声も歓声に掻き消される。
そしてその歓声に背を押され、とうとうバッターボックスに立った。
伊達は意外にも僅かではあるが落ち着きを取り戻した。
小学生時代から何度も立った場所。
そう、ここはピッチャーとバッター、一対一の勝負の場。
余計な事など頭の隅に足で押しやろう。
伊達は握りしめたバッドを構えた。
「伊達選手ー! ホームラン宣言してー!」
女性アナウンサーの声に伊達はキッと睨んだ。
黙れクソ共。元々お前らがこんな話を持って来なければ
俺がこんな思いをすることはなかったんだ。
ホームラン宣言だ? 最初の出番でやっただろうが!
お前らに! 催促されて! それで三振!
「ストラーイク!」
スコアボードに黄色い丸が一つ点いた。
『おーっと伊達選手。何やら美人女子アナに気を取られていた様子!
彼女いいですねぇー! でも口説くのは試合後にしたからにしてほしいというもの!』
スコアボードの二つの赤いアウトカウントのように、伊達の目が血走った。
唇がわなわなと震えている。
キャッチャーは念仏のようなものを耳にした。
それは伊達の口から漏れ出る「無理だ」という呟き。
連なる列車が走行音を立てるように絶え間なく放たれている。
二球目。
これはボール。
ホッとしたものの伊達の背中に薄氷を滑らされたような悪寒が走る。
もしフォアボールなら?
俺の責任か? いやいや仕方ない……とはならない。
ここまでチャンスはあったが塁に出ることさえできなかったんだ。
お前がさっさと打っていれば問題なかった、不甲斐ない、嘘つきと罵られるだろう。
クソクソクソクソ頼むぞピッチャー……
三球目、四球目、ともにボール。
あばばばばばばばば!
ああああああああ!
伊達は一度バッターボックスから離れ、天を仰いだ。
この日までに自己啓発本を読んだ。宗教本まで手を出した。
だが、神の存在は感じられない。
夜空にはまるで今の自分の心を象徴するような分厚い雲が鎮座しているだけだ。
だが、本の中の落ち着くための呼吸法。
それを思い出し、実践。気を引き締めて五球目。
「伊達ー! 約束したんだろー! 打てえええええ!」
ストライク。キャッチャーはボールを投げ返した後、チラッと空を見た。
雨を気にしたのだ。たった今バッターボックスの土を濡らしたのが
空から落ちた雫と思ったのだ。
しかし、それは伊達の半開きになった口から落ちた涎だった。
チームメイトの熱い応援ももはや凶器。
黒ひげ危機一髪のように連中は伊達を取り囲み、ナイフを突き刺す。
『さぁー伊達選手! 追い込まれました!
このままチームは敗北してしまうのか! おっと! これは!』
会場の声援が一つになった。川の合流。そして大河に。敵も味方もない。
この日、この瞬間だけは全員が伊達をそしてその先の少年を応援していた。
その声援を体に浴び、伊達は再びバットを構えた。
その形相は聖歌隊から讃美歌を聞かされる悪魔。
そしてそれが鎮魂歌に変わることを伊達は恐れた。
今、ピッチャーの手から、指からボールが放れた。
静かだった。
全てがゆっくりに。
伊達は自分の奥歯が折れた音を聞いた。
そして……求めていたあの打撃音も。
『う、打ったー! 伊達選手! 打ちました!
だが、これは届かずそして無念の……おっと!
落としました! 外野手ここにきてエラー!』
伊達は走った。一陣の風の如く。
今しがた吹き、外野手のエラーを誘った神風にも劣らぬ勢い。
そして一塁ベースを通過、もはやボールの行方など気にはしていなかった。
ただあるのはホームへ走るという事。つまりはホームラン。
二塁。
通過と同時にボールが二塁手のグローブの中に。
チームからの止まれとの指示も、アイツ、何故止まらないんだという困惑も
目に入らず伊達は走った。
二塁手が三塁に向けてボールを投げた。
アキレスを殺す死の矢。
そうなるはずだった。
三塁手。その視界にあるのは迫るボールの他にもう一つ。
伊達の形相。それは伊達にとって死相であるが他者から見れば恐怖そのもの。
裂けんばかりに開かれた口からは舌が伸びきり
見開かれた目は絶え間なく動き、顔色は青黒かった。
『あーっと! 三塁手もエラー!
この隙に伊達選手、おっーと! まさかホームを狙うのかあああー!?』
伊達の気迫に押されたものの気を持ち直し、使命を果たさんと三塁手の必死の追撃。
放たれたボールが伊達の顔の横を通過する。
キャッチャーも三塁手と同様に伊達の顔を見た。
しかし、キャッチャーマスク。その視野の悪さが救いとなった。
見据えるはボールのみ。確実にグローブの中に収める、それだけだ。
審判が目を光らせる。伊達に告げられるは死刑宣告か。
その時
伊達は飛んだ。
そして……
「……セエェェェフゥ!」
ベンチから雪崩のようにチームメイトが伊達の方に押し寄せた。
観客の歓声の渦は伊達を飲み込み、伊達は呼吸することさえ忘れた。
その酸欠の脳内に浮かぶは安堵の二文字。
全てが終わった。やり遂げた……。
「あ、ファァァァァァアアアアアアル!」
……え?
『さー、伊達選手が打った球はああっと、ギリギリでしたねぇ
ファウルゾーンで外野手に触れ、そしてフェアゾーンに落ちました。
これはファールです。ファール。ええ、ファール。ベンチと観客の落胆も大きいです。
しかし! 伊達選手の気迫溢れるあの走り! 力が漲っている様子!
これは期待できそうです! さあ、伊達選手。仲間に起こされ、バッターボックスへ。
んん? 大丈夫でしょうか、放心状態のようにも……おっと、ここで!
なんと! 皆様! 球場のモニターをご覧ください!
少年です! 伊達選手とホームランを約束した少年が球場に!
車椅子に乗り、最前列へ! 声を上げています! なんて健気!
応援しに来てくれたのでしょう! 何か言っています!
「ここまで届けて」でしょうか!? いやー素晴らしい! 感動的!
これは伊達選手、是非、ホームランをおおお!? 伊達選手! 血を噴いた!
先程のヘッドスライディングで口の中を切っていたのでしょうか!?
しかし、それがバットにかかり、そう、まるで侍が刀に酒を吹きかけるように!
そうです! 伊達! 彼は侍! さあ、構えて、必ずホームランを! あの少年のもとに!
ランニングではなく、正真正銘のホームランを! あ、打った! 打ったああああああ!
打球は! 少年の方へ! あ、お、入るか! どうだ!? 届くか!?
あ、あ、ああああああっと! 少年! 身を乗り出してキャッチ!
これはボールデッドですね。観客の妨害行為により
審判員の判断で伊達選手に進塁が与えられます。
さあ、ホームランか、それとも……ああっと二塁! 二塁ですね!
しかし、いやこれは仕方ないですねぇ、少年も逸る気持ちを抑えられなかったのでしょう!
伊達選手ももう少し、はははっ余裕のあるホームランをね、打てればと、伊達選手?
ピッチャーマウンドを越え、二塁を……越え! どこへいくのでしょう!
あ、少年のもとへでしょうか! きっと応援の感謝
そして来るならば次の打席で必ず打つという改めてのホームランの約束!
ボールにサインをしてあげるつもりでしょうかねぇ、試合中ですが味方と敵
両チーム暖かく見守っています! 伊達選手も気持ちを抑えきれないのでしょう!
バットを持ったまま……』