霞草
「ただいま」
玄関に入って気付いた、いつもと違う家の匂い。
その正体は、靴箱の上に飾られた花だとすぐに分かった。
花瓶に挿してある数種類の花の中、僕の意識はその花だけに集中していた。
――――――――
その日は何となく、いつもと違う道で帰ろう、そう思ったんだ。
ペダルを漕いで数分。
赤信号の横断歩道でのことだった。
僕のいる向かい側。
真っ白い花束を大事そうに抱える彼女のその表情を見て僕は……
ハッとした、ドキッとした、衝撃を受けた……
あの瞬間を何て表現すれば良いのか、語彙力のない僕には分からない。
信号が青になって彼女が歩き出して。
こちらに向かってくる彼女から僕は視線を外した。
僕は自然体を装って何でもない顔をして。
でも、彼女をずっと意識して彼女とすれ違った。
鼻歌を歌いながら家へと向かう自分に。
いつもよりスピードを出して風を感じる自分に。
ああ、一目惚れしたんだと自覚した。
その日から彼女にまた会いたくて、学校の行きも帰りもその道を通るようになった。
あの横断歩道が近づくと自転車を押して歩いた。
でも、一目惚れをしたあの日から彼女を見掛けることはなかった。
――――――――
そして今日。あの日から何日経っただろう。
僕はさっき彼女を見掛けたんだ。
場所はあの日と同じ横断歩道だった。
自分の心臓が波打ったのが分かった。
彼女は赤ちゃんを抱っこしていたんだ。
隣には旦那さんだろう格好いい人がいて。
その人と目を合わせて笑ったり、赤ちゃんに何か話し掛けては物凄く優しい表情をしたり。
とにかく、その様子がとっても幸せそうで温かかった。
――――――――
「あら帰っていたの。おかえり」
母さんの言葉に我に返った。
「うん。ただいま」
「長電話していて気が付かなかったわ。ごめんね」
「いいよ。いつものことだし」
そう返せば母さんは、それもそうねと明るく笑った。
「あ、そうそう。その花なんだけどね」
「えっ。あ、うん何?」
突然花の話題になってドキッとしたけれど、話の続きを促した。
「隣の奥さんから頂いたのよ。ほら、フラワー教室の先生でしょう? お手本として作っていたものをくださったの」
「へえ。そうなんだ」
「いつも頂いている野菜のお礼ですって。嬉しいわよね」
「良かったじゃん」
「母さんも習ってみようかしら」
「できんの? 不器用じゃん」
「……花は好きよ? ほら! 例えばこの花。カスミソウ」
「あ……」
カスミソウ……カスミソウって言うんだ。
母さんが指を差したのは、あの、彼女が大事そうに抱えていた花だった。
母さんは、カスミソウの花言葉を何個か教えてくれた。
僕はそれを彼女にぴったりだと思いながら聞いた。
母さんの話は続く。
「英語ではね、ベイビーズブレスって言ってね。日本でもよく出産祝いにも使われるお花なのよ。あとね……」
母さんが得意気に次の花の説明を始めようとしたものだから、僕はごめんごめんと謝った。
「母さんが花が大好きなのは分かったから。いいと思うよ。教室」
そう言った僕の言葉に満足したのか、母さんはリビングへと向かった。
――――――――
「……そっか」
一人になった玄関で呟いた。
じゃあ、あの日。
僕が一目惚れした時にはもう……
人差し指の指先でカスミソウを触る。
ポロっと一つ落ちてしまった。
……叶うわけがなかったんだ。
ポロっと一つ。
ポロっと二つ。
それは落ちてくる。
考えていなかった訳ではなかった。
大切な人からプレゼントされたのかな?
それとも大切な人に渡すのかな?
だって……
一目惚れするぐらい、彼女は素敵な表情をしていたのだから。
「……おめでとうございます」
ポロっと一つまたそれは落ちていた。
(完)