輝石と竜(5)
(自由、か……)
鞘を持って元気に走り去る友人を見て、ファナ=ノアは独りごちた。
その言葉を聞くと、三週間前のことが思い出される。
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「──の郷に人間からの使者が来たってよ」
執務室の扉の支えにもたれかかって腕を組み、メグリが口を開いた。
小人は十歳から三十歳くらいまではずっと若々しいが、三十歳を超えると老け始め、五十歳になる前に寿命を迎える。彼はもう三十六歳なので、壮年というとぴったりな年格好だ。
そして、身に纏うのは白い道着──彼はいわゆる『白き衣の司祭』……ファナ=ノアの十二人の同志の一人である。
「……使者?」
「文書を持って来た。エンリが訳してくれたのがこれだ」
メグリから紙を受け取る。
目を通した後、それを補佐役である司祭ソリティにも渡した。
「……ソリティ、どう見る?」
「そうだね……罠だと思う」
「だな。私に必ず来い、など、殺してやると言っているようなものだ」
「でも、ファナ=ノアは行くんでしょ?」
「……正式な人間の領主からの働きかけだから、無視するのは得策じゃない。ただ、会談の場は荒野の鉱山都市としてもらう」
荒野を出れば術が使えないから、それだけは譲れない。
向こうも何にせよファナ=ノアを引き摺り出したいのだから、これくらいは呑むだろう。
会談の日程についての返書は、またメグリが持って来てくれた。
「俺も行くぞ。護衛役はどうせ一人は要るだろ」
「ファナ=ノア。クシナも連れて行った方がいいよ。商いは彼女の領分だし」
ソリティが帳簿から顔を上げて言った。教団の財布はソリティが握っているが、商人の支援など経済政策はクシナという女性がまとめている。彼女はちょうどその日、商隊の同行から帰ってきていた。
「今回は危険なんだ──彼女に何かあったら、影響が大きいから、知恵だけでいい」
「ファナ=ノアがいれば、絶対大丈夫なのです」
クシナがふんわりと笑った。おっとりとして見えるが、行動力が半端ない彼女は、一度行くと言ったら荷に隠れてでもついてくる。
そんな彼女ももう三十二歳だが、美容に気をつけているらしく見た目は若々しい。というか雰囲気がふわふわしているので、成人したばかりと言っても通用しそうだ。
彼女の羽織りも白──かけがえのない同志の一人である。
ファナ=ノアは嘆息した。
「クシナ……お前それ、ファナ=ノアのプレッシャー増やしてるだけだぞ?」
メグリが呆れたように言った。
「当然です! ファナ=ノアには存分にプレッシャーを感じてもらわないと。重ければ重いほど、成し遂げる子ですものー」
うふふと笑うクシナに、ウィリが詰め寄る。
「もう! このサド女!」
このやりとりはいつものことなのでみんな笑ってスルーだ。
「真面目な話、今動けるのはメグリとクシナだけだから、一番手厚い人選だと思うよ」
ソリティが笑みを収めてそう言った。
何が起こっても、ファナ=ノアなら近づかれる前に気がついて風で飛んで逃げられる。相手が多いので反撃は考えない。それなら、人数は少ない方がいい。
誰もがそう思っていた。
──あるいはもしも、いざとなれば見捨てる壁代りの護衛を多数伴う発想があれば、その後ファナ=ノアが人質となる事態だけは防ぐことができただろうか。
会談に向かう道で、ファナ=ノアはメグリに問いかけた。
「メグリ、君はシヴィを継がないのか?」
「そんなの、タブリス爺に任せといたらいいんだよ」
面倒そうにメグリは言った。
「ファナ=ノアはノアを継いだから自由を得たんだろうけど、普通は逆なんだぞ?」
「そうじゃなくて、シヴィの長も含めて皆が君を推しているだろう?」
「ほんと勘弁してほしいな! 俺には向いてない。俺はさ、あっちこっちフラフラしてる方が向いてるんだ。長として皆をまとめるのはノイの方が向いてるよ」
本当は誰よりも同胞を思い遣り、最善の判断をしてきたからこそ誰もが彼を認めているのだが、本人にはそれが迷惑らしい。
「フラフラ、か……」
「世の中にはさ、すっげー周りを大事にする愛情豊かなやつと、自由で自己中なやつと、両方必要なんだよ。ファナ=ノアは周りのために自分の全部を犠牲にするようなタイプだから、俺やクシナみたいな自由人がついてる方がバランスがとれる」
「あらあ、同じにしないでくださいな」
クシナがぷう、と頬を膨らませた。
メグリとクシナは年長だけあって、時々ファナ=ノアに人生観を語る。
そういう時、ファナ=ノアは静かに耳を傾けた。
(私は自分が不自由だと思ったことなどないが、それは彼らの考える『自由』という発想がないだけだ)
広い世界を見て回りたい、いろいろな経験をしてみたい、楽しいと思うことを突き詰めたい、そんな想いはファナ=ノアの心の中心にはない。
──例えば彼らが手を引いて、新しい景色を見せてくれれば、とても素敵だと思うけれども、側にいるのが誰か大切な人だからこそ、自分は嬉しく思うのだ。
──彼らが自分を楽しませてくれるから、初めて人生が楽しくなる。
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(愛と自由でバランスがとれる、か……何か足りない気もするが)
炭の灯りを見つめながら思い出に浸っていると、シャルグリートが起き上がって伸びをした。
「おはようございます、シャルグリート殿」
「ふあーあ。××××……」
彼は少し悔しそうに何事かぼやく。
「?」
「ああ、早起きでラズに負けタ、デス」
また小さなことで勝ち負けを競っている。そんなに他者と比較して優越感が欲しいというのも、興味深くて不思議なことだ、とファナ=ノアは思った。
† † †
数時間後、ファナ=ノアの道案内でラズたちは鉱山にできた大きな谷にたどりついた。
そこには、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
覚悟していたよりは小さいが、壁や天井にもれたような黒い跡が付いている。
「ギリギリ通ってるって感じかな」
「中にいるときに急に出てきたら、おそらく逃げ場がないな」
「横穴を開けたらやり過ごせるよ。方向転換が難しいだろうから、その前にこの入り口を塞いで、別のところから出れば逃げられるかな」
狭い道で戦って長期戦になれば生き埋めになる可能性もある。この通路でかち合ったなら、逃げて体勢を立て直すしかない。
「この黒いの、何か分かるか?」
「鱗が削れた後みたいだね。ほとんど硬質化したタンパク質だけど、黒いのはケイ素と結びついた炭素かな」
物質や元素の名前にについてはよく分からないらしく、ファナ=ノアは瞬きした。
「生物が体内で生成するなんてまず有り得ないはずだけど、結晶化するとすごく硬くなるんだ。岩で削れる程度の脆さならいいんだけど……」
ラズは黒い痕跡から目を離し、辺りを見回した。
ウィリは少しだけ穴の中に入ったところで立っている。
『ウィリ、どうしたの?』
『この空気、毒気がある』
『なるほど』
ウィリの隣に立つと、ラズにもその正体が分かった。卵が腐ったような臭いが立ち込めているのを感じる。
「火山ガス……でも、自然なものじゃない。変な気配がする」
谷の國の近く……と言っても山に入って二日ほどかかる場所に、生き物が入るだけで死んでいく地帯があったのを思い出す。
『濃いのを吸ったら一息でも命が危ない』
この辺りはそれほどの濃度ではないが、中はもっと濃いかもしれない。
ウィリは解毒を試みながら困った顔をした。
『自分やすぐ近くなら解毒できるけど、離れたところは阻害されてしまうわ……』
『解毒ができる範囲はどれくらい?』
『あの辺まで』
ウィリが指し示した距離は、それでもラズの術が届く範囲より少し広い。
小人は細かい操作を要する術が苦手な代わりに、術の影響範囲が広いのだ。
ファナ=ノアもふわりとウィリに近づいた。
「この毒の中に入ったら、もう相手には気付かれてるはずだ」
それでも出てこないのは、満腹で今は餌に興味がないのか、脱皮したばかりで動けないからか。
(……実は竜じゃなかったりして)
戦わずに済むと一番いいのだが。
『シャルグリート殿は毒の分解ができるんだろうか』
『無理だと思う』
ラズが首を振ると、ウィリは気乗りしない様子でシャルグリートを見た。
『……なら、とりあえず、アイツの解毒は私がやるわ。ファナ=ノアは力を温存して』
『助かる。解毒はウィリの方が得意だから、頼りにしてるよ』
『……ふふ、乗せるのが上手いんだから。でも、任せて』
褒められてウィリは嬉しそうに笑った。
入り口で分かることはもうなさそうだ。出てこないなら入るしかない。
「じゃあ、レノさん。怪馬たちをよろしくお願いします」
「ええ、ご武運を」
† † †
───また来た!
それは、歓喜に震えた。
ようやく乾ききった黒い鱗を舐めると、しゅうっと小気味良い音がした。
──あちらから来るのなら、ここで待てばいい。
──……?
餌の中に白いシルエットを認めて、それは首を傾げた。
──なぜだろうか、見覚えがある気がする。
おかしい。
それが産まれて二週間、記憶にはないはずだが。
だというのに、恐ろしさと、息苦しさが同時に湧き上がって、がちがちと奥歯が鳴った。
──あれがいなくなれば、この訳が分からない気持ちは消えてなくなるのだろうか。
だらだらと溢れる涎が、足元のキラキラした石に落ち、じゅう、と音を立てた。




