平原の国(27)……越境
裾野上空に一頭の巨大な青い怪物が浮かび上がり、公爵軍を睥睨している。
平地から見上げれば、澄んだ空に濃い青をぽたりと一滴落としたかのようだ。兵士たちは警戒することを忘れたように、棒立ちでこの怪物を見上げていた。
『<爪の竜>!!!』
くるんと大きな目が一点に定められる。
公爵軍の陣中のど真ん中、ありったけの声で叫んでよろけたラズを、ピアニーが支えた。
ラズの格好は襟のある薄手の黒シャツで、肘まで捲ってチェーン付きのボタンで留めてある。腕の裂傷はじくじくして見えて痛々しいが、袖で覆うと蒸れるから致し方ない。
胸元に銀糸で型取られた刺繍は蔦と鳥、肩の細工から伸びる銀の細いチェーンが上空の竜が羽ばたく度に涼しげな音を立てた。腰のベルトには飾り帯のついた短剣が一振りだけ。青灰色のスラックスは普段暖色を選ぶことの多いラズからするとなんだか落ち着かない。
この礼装は、何か正式な場面で使えるようにと荒野の仕立て屋夫妻があつらえてくれたものだ。成長期のラズのために一回り大きくあつらえられていて、なんだか着られている感がある。
一方ピアニーは女性騎士のような出立ちだ。華やかなドレスは嵩張るため、持ってきていない。足元はロングブーツ、深い青色の膝丈のスカートに、上着は薄手のキッチリして見えるものを着用している。各所にフリルやレースをあしらい、胸元にはディーズリーの家紋である剣と竜のブローチ。腰にはレイピアを差している。
緩く結いあげた髪をまとめる濃紺色の布飾りはまるで牡丹の花のようだ。唇に薄く紅をひき、胸を張ればその立ち振る舞いに溢れる気品だけで立派な貴族令嬢に見えた。
ラズの呼びかけに応じて、青竜はばさりと羽ばたく。よく通る、女の子のような高い声が砦に響いた。
『なぁに〜? どしたの? 予定変更?』
目をぱちぱちさせ、鼻の上に皺を集める。
『血のニオイ。きみ────怪我したの?』
『大丈夫だよ。想定してた中で最悪のパターンだけど』
『今から全員皆殺しにしてもいいんだよ?』
『相変わらず怖いこと言うなあ……』
幅の狭い壁上通路には降りられず、宙に留まったまま、<爪の竜>はくるくると喉を鳴らした。笑っているのだろうか。ガラス玉のような紫の目は愛らしいようでどこか不気味だ。
壁上にラズを見つけて集まってきていた兵士たちは羽ばたく度に豪風を起こす巨大な怪物から散り散りに逃げていく。
ラズは声を張ったまま、青竜を見上げた。
『まだ諦めない。ただちょっと、出方を変える。族長さんを連れてきてもらえないかな』
『えー。イ・ヤ』
青竜は短い首を回してラズ……と側に立つピアニーを見下ろした。
『腕なんか組んじゃって、なんかムカつく』
『こっ、これは輝石がないから仕方ないんだよっ!!』
「ラズ……?」
言葉が分からないピアニーが心配そうに首を傾げる。その左手はエスコートを求めるようにラズの右腕に軽く回されていた。彼女は誰にでも気安く触れるから特別な意味など考えるだけ無駄である。
青竜は拗ねたように舌を見せた後、ちらりと視線を動かした。
外壁の上を人波と反対方向に近づいてくる人間の一団がある。混乱を意に介さず、堂々とした足取りで、地位を感じさせる鎧に身を包んだ──あれは。
青竜が真っ赤な口を広げた。にたり、と笑う。
『あの人間を殺せば、終わりなんじゃないの?』
『まあまあ』
ラズは竜に向かって取りなすように笑いかけ、その人物と向かい合った。
豪奢な甲冑に身を包んだ先頭の貴人が、足を止める。
宿場町で身に纏っていた地味なフルプレートメイルと違い、顔が見えるようなデザイン。すっきりと動き易そうな形状に、幅広のマント、金と赤の飾りがあちこちに付いていて、一目で大将と分かる。晴天の下鎧がギラギラと陽光を反射して眩しい。手には背丈より長い矛が握られている。間違いなく、公爵本人だ。
そして、その後ろの近衛兵に囲まれるように、叔母……リンドウが歩かされている。特に拘束されている訳でも剣を突きつけられている訳でもないが、その表情は固い。ラズを見て何か言いたそうにしたが、難しい顔のまま口を噤んだ。通り過ぎるだけのはずの国境で、こんな危ないことに巻き込んでしまったなと、改めて後悔する。
────もう、何かを偽る必要はないし、するべきではない。
ラズは敵意がないことを示すように両手を広げ、ゆっくり息を吐いた。
「リターンマッチといきましょう。レインドール=アル=ローランド公爵殿下」
公爵は走って十秒程の位置だ。怒っている訳でも、怖がっている訳でもない様子で<爪の竜>の目線を受け止め、それから口を開く。
「それが国を滅ぼす怪物か」
「ええ。山地に三体しかいない、神竜です」
人間の言葉を介さない<爪の竜>の代わりにラズが答える。青竜はゆっくりと瞬きした。今にも手を出しそうな雰囲気に、身振りで必死に宥めすかす。
『君が居ると話しにくいから──族長を連れてきてって』
『……仕方ないなぁ』
器用にため息をついて、巨竜は一際強く飛膜を打った。ばっさばっさと上昇し、裾野の方角に消える。
羽音が消えて静かになった後、公爵は皮肉げに口角を上げた。
「そしてお前は思ったより元気そうだな?」
「殿下こそ。叔母上に感謝しなければ」
腰を曲げると傷に障るので左手を胸に当て軽く会釈する。胡乱げな視線を受け止めて一呼吸置き、ラズははっきりと告げた。
「改めて、谷の國の首長フェリクスの次男、ラズと申します。荒野の<聖教国ノア>では、外交役をしています」
「…………な」
公爵の目が点になった。
どうやら予想だにしていなかったらしい。
「はぁ? ちょっと待て」
動揺を取り繕うようにガシャリと籠手のまま腕を組み、眉間を抑える。……というか、リンドウから聞いていなかったのか。
「こうや……こうや……って荒野──? 広野?」
「それじゃただの原っぱですよ」
半眼でつっこむとピアニーが添えた指先でちょっと腕をつねってきた。冗談を言ってはいけなかったようだ。
「荒野です。大渓谷の手前の」
もう少し補足してもいいのかもしれないが、聖教国やラズ自身のことについて詳しく話すのは後でいい。
落ち着いて息を吸い、目を白黒させたままのレインドール公爵を見据える。
「今回の竜人への協力は私の独断であったので……陣中で人道支援をしている叔母リンドウやこちらのフレイピアラ嬢に危険が及ばないようにと、先程は偽りました。非礼を、お詫びいたします」
「…………」
レインドールは険しい表情でラズを睨んだ。
荒野の小人が軍を退け主権を要求している件はさすがに耳に届いているはずだ。その立役者の話も。こんな地方でわざわざ騙るような名ではない。いかに突拍子ないとはいえ、さっきの戦闘で使った錬金術のことを考えれば疑う余地はないはず。
正面から向かい合ったまま沈黙で続きを促され、ラズは居心地の悪さを感じながら口を開く。
「今回のアクシデントがなければ、きちんとご挨拶に伺うつもりでした。あなたに会うべきだと言っていたのは、もともとはフレイピアラ嬢ですが」
その言葉に、公爵の目線がラズの半歩後ろにいる騎士姿の少女……ピアニーに移った。
その目はラズに対するものより幾分か柔らかだ。──まあたしかに、宿場町でピアニーとは何か取引をしたようだし、憎からず思っていてもおかしくない。とはいえ、彼女は今ラズを庇っている訳だから差し引いてややマイナス、という印象だろうか?
「大山脈の小國に、荒野……次は、どこの国の貴族だというんだ? 貴女は」
その問いかけに応じ、ピアニーはラズの手を取る形で前に出て優雅に一礼した。
「ディーズリー侯爵家が主ブレイズの娘、フレイピアラと申します」
「ッ──────!? ……待て待て待て!」
レインドールの顔色が、途端に変わる。
「あのオヤジの娘がこんな別嬪な訳がないだろう!!」
今度はラズの目が点になった。
そういえばフリッツ邸でブレイズと公爵が面識あるようなことは話していたが──オヤジ呼ばわり?
なんだかイメージと随分違う。
宿場町で会った時は残酷で抜け目のない人物という印象だった。さっき使者として話をした時は、好悪が激しく、盾突く隙が無さそうだと思った。しかし今のこの反応……案外気さくで親しみやすい人だったり?
────ついさっき殺し合いをした間柄ではあるが、もしかするとこのまま和解できるんじゃないか、という希望がもたげてくる。……本当に、最初から包み隠さず話をしていれば良かった。
ピアニーはにっこりと微笑んだ。
「よく言われますわ。実は髪の生え際がそっくりなのですよ」
「!?」
(……知らなかった)
ブレイズの頭髪は後退気味じゃなかったか。ピアニーは前髪を下ろしているが実はおでこが広かったりするのかも──って今考えることではない。ラズの表情を盗み見て、ピアニーはくすくす笑っている。……後で覚えてろよ。
「……ブレイズ殿が謀反を企てたという話は聞いているが、本当なのか」
「まさか。ですが奸計に甘んじたのは当家の落ち度です。そして少なくとも、私は今回のことを王家に訴えるつもりはありません」
その答えに、公爵は表情を険しくする。
「自ら爵位を捨てると?」
「あら」
ピアニーはにこにこ微笑んだまま、優雅に手を広げる。
「過日の晩、お話しいたしましたでしょう? 西部を呑み込むであろう国の話を。ありていに言えば、当家は乗り換えたのです」
柔らかな微笑みと鈴を転がすような声で彼女は続ける。
「今日は上空に舞う竜と竜人について、ご提案をしに参ったのですわ。……私たちは傍観することもできます。レインドール殿下に恨みはございませんけれど、この地に思い入れもございません。──ただ、良心が痛むと申しましょうか……皆が血を流すのは見たくないのです」
言いながら、彼女は憂げに白いハンカチを目元に当てる。わざとらしいが声音は深く澄んでいて、本気で悲しいと思っていること、しかしそれを弱味と感じさせない、威厳が込もっている。──ラズにはこんな振る舞いはできないだろう。
「……そなたの提案により、問題が解決すると?」
「公王様にはきっと私たちの助けは要らないですわ。ですが、解決すれば、聖教国の価値をお認めくださいますか?」
「……」
頬の側でハンカチを握りしめ、ピアニーはまた笑った。普段見せるのとは違う、含みのある笑い方。
あえて『公王』と呼んだのは、平原の国に阿らず聖教国に力を貸せ──そうすれば問題はこちらで解決してやるぞ、という意味だろうか。フリッツ家で話をしていたとき、レインドール公爵……第六王子と王家には確執があるなんて言っていた気がするから、その辺りも踏まえているのかもしれない。
公爵はぐっと言葉に詰まったように考え込んで、やがて観念したように頷いた。
「────……結果次第だ」
「結構ですわ」
ピアニーは優雅に口元に手を添えてくすりと微笑む。
公爵が、話し合いに応じた。それは、さっきのことを思えば大きな進歩だ。ラズは安堵と、彼女への尊敬を感じながら、次の言葉を待つ。
「ではまず、竜人についてですが……仮に、彼らによって公国が滅ぼされることがあれば、海の国はどう動きます?」
「戦後の領土交渉で幅をきかせ、ゆくゆくは平原の国を吸収しようと目論むだろうな」
「ええ。平原の国にとって竜人の侵略を食い止めることは最重要事項ということですね。この土地を奪われては前線の補給にも支障がありますし」
ピアニーはラズに目配せした。
(……なるほどなぁ)
公爵側が引くに引けない理由。竜人が大人しく暮らしているだけでも迷惑なのだ。今朝のラズの主張だけでは、青竜の力も信じられないし、突っぱねるのは当然だったのかもしれない。──それにしたっていきなり首を刎ねようとするのはあんまりだが。
ラズは深呼吸した。ここからはラズが話す必要がある。
さっき、ピアニーは一つカマをかけた。爵位や王子としての敬称ではなく、リューン公国の主として『公王』と呼んだ。彼がこれに答えたということは、平原の国王家に対して思うところがあるということのはず。
竜人の動きが、リューン公国に利するものなら──それが平原の国にはデメリットでも──交渉の余地はあるかもしれない。竜人が人間の戦争に手を貸すことはないが、ほかにできそうなこと────
「…………戦争しているフリをしませんか。今回は竜人は引き、また砦を奪いに来ます。公国が有利に見えれば本国や海の国から圧力をかけられないでしょう。この戦争のために前線への補給物資を送れなくなってきている、という話にすれば、戦争の出費を抑えて国力を蓄えられるはずですよね?」
「────! フリ……だと?」
突然公爵の目が鋭くなって内心でぎくりとする。──なんとなくだが、ラズに対してはなんだか当たりが厳しくないだろうか。
上空に竜の羽音が戻ってくるのをちらりと見て、とにかく話を続ける。
「<聖教国>は竜人<牙の民>と友好関係を結んでいます。あなた方が我々の手をとるなら、竜人もその程度の演技は協力してくれるでしょう。というか、してもらいます」
「その言葉が嘘でないことをどうやって証明する?」
「…………」
実のところ、竜人はそんな小細工、どんなメリットがあろうとやりたがらないだろう。シャルグリートの兄のように他種族に友好を持ちかけるような者は歴史の中で初めてらしい。ちなみに強者を罠に嵌める悪人はぽつぽつといるらしいが、ほとんどが死刑になるそうだ。
ラズが答える前に、上空で一際大きな羽ばたきが聞こえた。<爪の竜>が戻ってきたのだ。
見上げると、モモンガのような丸い巨竜が飛膜を広げて降りてくる。人間をひと飲みにできるくらいの巨躯の背に、いくつもの人影が見えた。
どしん、と壁の外側に着地する。
草むらに身軽に降り立ったのは女族長カリューン。艶やかな朱で彩られた鋭い爪。竜人の女性はみんな人間の成人男性並の身長ですらりとしている。赤い平紐を編み込んだ細い三つ編みを後ろで一つにまとめていて、耳には竜の爪のようなイヤリング。なめし皮の衣服は布の面積が少なくて妖艶な雰囲気である。後に続く男女はいずれも<爪の民>の上位陣だ。
彼らの表情は──
(怒って、る?)
友好的とは言えない気配に、ラズは胸騒ぎを覚えた。
<爪の竜>が鼻をムズムズさせながら何でもないように説明する。
『もー、ぴりぴりしちゃってさぁ! 人間に子どもを殺されたからって大げさだよねぇ』




