平原の国(25)……爪の竜 + 閑話
たっぷり五秒沈黙したあと、ラズはきっぱり断言した。
「いや、絶対にない」
「あのなぁ……お兄サンのささやかな冗談、真面目に返すなよ」
リゼルは眉間を押さえて苦笑いする。
「だってリン姉の好みは年上で男臭くないタイプだよ? 真逆だろ」
「なんで自信満々なんだ? お前……」
呆れ半分に笑う金髪騎士の横で、ピアニーが首を傾げた。
「理由はどうあれ、リゼル様はリンドウが自分から公爵様のところに行った、と言いたい訳ね?」
「ああ。大火傷したって聞いて隠れてた部屋から飛び出してったんだと」
その話を聞いて、ラズはただでさえ血が足りないのにさらに体温が下がった気がした。血濡れた矛を手に冷たく笑う公爵の姿がまざまざと脳裏に浮かぶ。リンドウの首筋に刃が突き立てられる有様を想像してラズはゆるゆると頭を振った。そんなラズを落ち着かせるようにピアニーがフォローを入れる。
「リンドウは砦の水の毒を究明した功労者だもの。易々と害したりしないはずよ」
「……そうだったんだ」
通りで要塞の兵士たちが思ってたより元気な訳だ。
彼女の言葉に俄かに安堵する。緊張が解けると抗い難い眠気を感じた。
「ラズはもう少し休んでいて」
リゼルたちが来てから離れていた左手……翡翠の指輪がはめられた柔らかな手のひらが、ふらつく身体を支えてくれる。ピアニーとリゼルたちの話す声が遠くなっていく中で──その温かさをもう離したくないな、と、思った。
† † †
「寝ちまったな」
「普通、起きていられる怪我ではないものね」
額を撫でながらピアニーはひとりごちるように答えた。
草で茶に染めた髪の根元には黒が残っている。つんつん跳ねる割に細く柔らかな髪は、染料のせいでところどころ傷んでひきつれていた。
仲直り、できたのだろうか。あれだけのことをしたピアニーにラズが怒っていないのは変な感じがするが、彼はもともと家族の仇すら憐れむ性分だ。ピアニーが深く反省したのであればもういいと、そう思ってくれたのかもしれない。
……それにしても。
気持ちをからかわれた時はひどく取り乱してしまった。彼にいたずら好きな一面があることは知っていたが、矛先にされるとむず痒い。うっかり本音を出さないように気をつけなければ────。
ピアニーは輝石の指輪をそっと外し、眠ったままのラズの手に握らせた。これがないとピアニーも辛いけれども、もともと十一年それで過ごしてきたのだから一日くらい耐えられるはず。
「……目が覚める前に戻るわ」
レインドール公爵と決着をつけるには彼がいないと始まらない。それまでに、ビライシェンと竜人の件を少しでも良い流れに向けなければ。
布で仕切って個室を作ってもらい、血がついた街娘の服から薬師見習いの少年の衣装に着替えながら、深呼吸する。
そこにいるという銀髪の竜人は、無事だろうか。
† † †
昼の陽光を受けて赤銅色に透けて輝く虹彩に、一通の書面が映っている。
教本のような綺麗な字体だが、ところどころの止め跳ねに女性らしさが感じられる筆跡……署名はフレイピアラ=ディーズリーとある。
ビライシェンはふぅ、とため息をついた。最西端にあるリーサス領の重役、鋼務卿エンデイズ男爵の跡取り息子……であるが、書き置きもせず出奔してきたのでその肩書きは最近よちよち歩きができるようになった三男に回っていることだろう。
幼い頃に<虚の王>の気配にあてられ、使えるようになった力は電磁波……可視光はどうしてか作り出せないのだが、調整して使えば水を加熱したり長波で情報を読み取ったりと生活に便利であったりする。そして、負の感情が昂ると無意識に生命を害する高周波を発してしまう。その力はかつて作り上げた組織では<死の仮面>としてあだ名される原因となっていた。
余談であるが機械いじりが唯一の趣味で、持ち前の電磁波との組み合わせで無線機なんかを作り出す技術者でもある。ただしここリューン公国では手に入る材料が今ひとつであるため、リーサス領で作らせたような盗聴器は再現できていない。
背丈は女性と変わらず、可愛らしいとすら言われる童顔の持ち主。表向きにこやかに振る舞い、商談を無難にまとめる技術は全て、彼を目の敵にして虐待する父親から逃れるために身につけた。臆病で思い詰めやすい性格なのだ、本当は。そして二年前、愛した女性を父親に寝取られ挙句殺されてから、憎悪に蝕まれ、気に入らないものをどうやって屈服させることばかり考えるようになった。彼や彼の妻を貶めた者が、自分の上に立っていることが許せないのだ。泣いて命乞いするなら殺して楽にしてやってもいい……そうやって周囲の弱味を握ろうとする様が実に父親譲りだということを、彼は自覚していない。
ブレイズ=ディーズリーから深い傷を負わされ、砂漠の街道を逃げ延び妻の実家を頼って四ヶ月。ビライシェンは麻酔薬の闇商人と仮面の殺し屋の二つの顔を使い分けながら、裏社会で資金と人脈を少しずつ積み上げていた。彼は上に立ち誉めそやされたい訳ではない。ただ、壊して踏みつけ見返したいだけだ。平原の国の裏社会を握れば今度こそきっとリーサス領と父親に復讐ができるだろう。前回失敗したのは、組織がまだ小さすぎたのだ。
この国境へは、公爵レインドールの暗殺依頼を遂行するためにやってきた。とはいえ、今は表の顔を使ってここにいるから、まだ怪しまれるようなことはできない。商人として用心棒を雇ってはいるが以前のような腕利きは手に入らなかった。もしこの補給部隊が戦闘に巻き込まれたら、逃げ隠れるしかないだろう。
木漏れ日の落ちる森の街道を、長い隊列が粛々と進む様を馬車の小窓から遠目に眺めて、ビライシェンは息をついた。
(竜人は残虐ではあるが弑逆趣向では無いらしいな)
特殊な力に並外れた身体能力、好戦的で人間を見下す人ならざる人。距離があれば電磁波で殺せるかもしれないが、近づかれたらひとたまりもないだろう。ビライシェンの力には、そもそも相手の物理攻撃を防ぐ手段がないからだ。怯えて引いてくれればいいが、捨て身で飛びかかられる可能性もある。
未だに治りきらない腹の傷跡がズキズキと疼いた。
<錬金術師の少年>ラズが同じリューンの都にいただけでも驚いたのに、この傷を作った侯爵の娘、ピアニーまで来ているとは。あの娘そのものはどうでもいいし、殺すなら侯爵の目の前……生きているならだが……つまり、今ではない。それより問題は、十中八九彼女と行動を共にしているであろう錬金術師、ラズの方だ。
ビライシェン=エンデイズにとってラズはどうにも苦手な相手だった。人質をとれば途端に弱くなるような、御し易い相手。しかしあの少年のためにリーサス領では失敗した。今回また敵に回るかどうかまでは分からないが、どのみち目障りな存在に違いはない。
(……だけど今、ラズと対立するのは避けたい)
それが彼が置かれた状況から導き出した正直な答えだった。ビライシェンには現状ラズを直接傷つける手段もなければ、ラズの仲間を陥れるといった策を錬るほどの情報も、それを集めるのにかけられる労力もないと思われた。無理に敵に回して自滅するほど愚かではない。
そしてピアニーからの書状には、こう書かれていた。
『望むものは用意いたしますから、一度お話できませんか』
まさか公爵の暗殺に来たことまで見透かされている訳ではあるまいが──なぜ、軍に随伴しているこのタイミングで。しかも場所はもうすぐ到着する予定の臨時要塞の北西にある滝壺だという。
手紙を畳んで鞄の書類の隅に差し込んだとき、馬車が止まった。
車輪がぬかるみにでもはまったのだろうかと顔を上げる。
(なんだ……?)
間もなく、前方から悲鳴が上がった。
少ない護衛の兵士たちが馬で伝令し合っている。
────竜人だ、と。
次回は、ビライシェンとシャルグリートのお話になります。
少々本筋の展開から離れる、閑話の位置付けです。




