平原の国(22)……爪の竜
ラズが国境の村で一悶着していたのとちょうど同じ時刻、目指す三つ目の砦に、ピアニーとリンドウ、リゼルの姿があった。
そこは診療所とは名ばかりの、布で仕切り、ゴザを敷いただけの簡易なテントだった。普通の宿なら六人部屋くらいの間取りに、怪我人病人が集まってじっと処置を待っている。
順番通りにひっきりなしに──今日一日で、患者の数は軽く百を超えていた。
砦内にももちろん医師はいる。ただし、下っ端兵士は順番が後回しなので臨時雇いの薬師にも役割が回ってくる……というかその美貌を見ようとむしろ人が殺到してくる有様だった。
竜人に攻め落とされた近くの砦から退却してきた兵士たちは、手足の打撲骨折や切り傷。重傷者もいるらしいが死者が見当たらないのが幸いだ。
一方、病人で多いのは吐き下し……軽度のものは要塞のほとんどの人間が訴えていた。
「……この水」
「なあに、リンドウ先生」
ピアニーは低めの声で答えて、しかめっ面で陶器の椀を目の高さに持ち上げるリンドウの手元を覗き込む。
ピアニーの目にはそれはただの水に見えた。錬金術で<理解>をすると、金属らしい元素が多めに溶けていることは分かるが、それの何がいけないのかまでは知識が追いつかない。
今、リンドウは『この近くの街から従軍を希望した薬師』、ピアニーは『その助手の少年』という設定だ。一方金髪騎士リゼルは生家から公爵に密書を届けに来た騎士爵で、偶然会った薬師に同行した、ということになっていて、実際の理由にかなり近い。
リンドウが薬師の立場を利用する提案を出したとき、ピアニーは最初危険だと首を振った。しかし、ピアニーが軍にいる間、リンドウ一人でラズを探す訳にもいかない。そして周辺の街で待つのも軍に紛れるのも大して変わらないだろうというのが彼女の言い分だった。ピアニーとしては心強いのでその言葉に甘えている。……しかし彼女の悪い癖が、出なければいいが。
心配するピアニーをよそに、椀の中の水を眺めながら、リンドウはぶつぶつ言っている。
「──細菌でもウイルスでもないなら、刺激性の下剤? 違う、それならもっと即効性があるはず。それに、この水はただの硬水に見える、でも鎂イオン濃度がここまで上がるのは自然じゃありえない……山地に苦土の層があった? だとしてもこんなに濃度が上がるもの……?」
「リンドウ先生、心の声が丸聞こえ」
「はっ! ご、ごめん」
リンドウは悪びれずにちょろっと舌を出してみせた。
新しい植物や鉱物を見つけた時のリンドウはだいたいこうだ。ちょっと不気味なくらい目を輝かせて、熱中するのである。
彼女はおもちゃを見つけた子どものようにそわそわを隠せていない。
「あのさ……」
「水源を調べに行ったほうがいいのね?」
「そうそう。信用を得るのにも動くのがいいでしょ」
リンドウはさも当然そうに頷く。ピアニーは苦笑いした。言い訳しつつ好奇心を満たそうとするところが誰かさんとそっくりだ。
結局、しばらくしてから顔を出したリゼルに相談して、飲み水の調査隊を組んでもらうこととなった。
砦の医師も含めた十数人で連れ立って近くの泉に向かう。陽が暮れた後の川の土手はぬかるんでいて歩きにくい。
道すがら、兵士たちの噂話が聞こえてきて、ピアニーは内心ため息をついた。近くの基地を襲ったという、人間の言葉を操る『竜人の少年』の話だ。
(……今度は、『おかしな竜人』扱いなのね)
組織的な作戦行動をする竜人なんて前例がないらしいし、聞けば聞くほど疑念は確信に変わっていく。──絶対ラズだ。なんとなく彼が『黒髪の小人』と誤認されていた頃を思い出してしまって、懐かしいやら心配やら複雑な気分である。……今度は竜人を助けようとしている、ということなのだろうか。
荒野において小人族は酷い扱いを受けていた哀れな種族だったが、ここの竜人たちは違う。人間を簡単に傷つける危険な種族であり、守る必要もなければ、加担するイコール悪だ。リンドウの顔をちらりと窺うと、思い悩むような表情をしていた。よほどラズのことが心配なのだろう。
五分ほど歩いたところで、林の中に小さな滝壺が現れた。
打って変わって嬉しそうに調べて回るリンドウを尻目に、ピアニーはぐっと伸びをした。
実はこの二ヶ月の間に、身長よりも胸が成長してしまったから今のように男装していると息苦しい。夏だから、あまり着込んで体型を隠すことができないのも困りどころだ。
(……さてと)
ちらりと振り向くと、こちらを見つめる一人の青年と目が合った。
にこり、と微笑んで見せる。
豪奢な鎧を身に纏った十代後半の青年。眉目秀麗、王子様然とした気品を兼ね備えながら、纏う雰囲気は猛虎のように鋭い。名はスレイン=リューン、この国の子爵だと聞いている。……そして、四日前の宿場町での森の国のゲリラ兵掃討を指揮していた人物。
今は金髪騎士リゼルが、営業スマイルで話しかけている真っ只中だ。内容は、珍しい花があるから見に行きませんかと…………要するに個人的に話をしたい、というお願いである。
手際よく話をつけて手招きするリゼルの元にピアニーは駆け寄った。
調査団から離れ側近のみとなったところで、顔を隠していた丸眼鏡と帽子をとる。ふわりとウェーブがかった茶髪が背中に流れた。
「またお会いできて光栄ですわ、リューン子爵様」
華やかに、笑んでみせる。以前、ディーズリー家当主補佐のゲイルから恐ろしい笑顔だ、と評されたことがある。とても愛らしくて、思わずなんでも『はい』と言いたくなるのだとかなんとか。
青年は一瞬惚けたように見えたが、すぐに持ち前らしい余裕のある堂々とした笑みで応えた。
「……公爵に用があるなら四日前にそう言えば良かったのだ」
「御無礼をお許しくださいませ。公爵様と『リューン家』には確執があると聞いておりましたもので」
前知識として、リューン公国は一枚岩ではない。取り入りたい公爵……レインドール王子には、製敵がいる。それが目の前の青年……『リューン子爵』のはずだ。
いきさつを紐解くならば、王子がその地位に就くために、元々のリューン公王家は降格させられたことが発端らしい。リューンの姓を持つ者は、現公爵を恨んでいると言う訳だ。
細かい話はさておいて、要するに四日前には、公爵閣下と敵対する者と思って立場を明かさなかった。
なのにこの場所で、この子爵に再会したのは、正直言って想定外だった。この公爵軍には、リューン家の者……つまり彼はいないだろうと踏んでいたからだ。このままでは、こちらの正体がよくない形でばれるかもしれない。
だったら、逆にこちらから仕掛けて、状況を動かした方がいいだろう。この子爵とやらとの再会を、チャンスにしたい。
ピアニーの申し訳なさそうな上目遣いの視線に対して、子爵は表情に鋭い光を宿して見つめ返す。
「なぜ薬師などと周りくどい真似をして潜り込んでいるのか、答える気があるんだろうな?」
「公爵様に、暗殺の手が迫っていることをお伝えしたかったのです」
「……何?」
彼は眉を顰めた。ピアニーは構わず続ける。
「最近平原の国の裏社会を賑わす、疫病を扱う暗殺者……その人物が、すぐ側まで来ています。子爵様はご存知ありませんか?」
「……存在は知っているが」
公爵のおそらく敵一族である目の前の人物は、依頼主側である可能性が十分にある。──ならば、彼への働きかけ次第で依頼を取り下げてもらうこともできるかもしれない。
そんなことを考えながら、感情のこもった声で畳み掛ける。
「疫病の術は従軍するあなたにも降りかかるかもしれません。それがどういう意味か、お分かりでしょうか」
「…………」
暗殺者ビライシェン=エンデイズがこの青年を狙わないといった密約を既に交わしているならばこの話はかなり危うい。しかし、逆に青年が何も知らないなら、リューン家から見放されていることになる訳で、付け込む余地はあるように思えた。──つまり、巻き添えになりたくなければ、公爵側につき、暗殺を止める手助けをしろと言っているのだ。
青年は落ち着いた威厳のある笑みを崩さないまま、あっさりと首肯した。
「俺がここにいる意味を分かって言っているんだろう? 答えは当然イエスだ、フレイピアラ嬢。……とはいえ、俺に依頼撤回を求める権限はない」
「……」
悠然と構える獅子のような雰囲気は、若い子爵とは思えない気迫がある。
しかし気圧されてなるものか。
ピアニーは負けじと微笑んでみせた。
「でしたら、明日到着する補給部隊には、公爵様の位置が漏れないようにご手配なさいませ。……それから、私はこれから暗殺者の懐柔を試みますけれど、何分辺境から参りましたもので、即金の用意は難しいのです」
「そんなこと。特殊能力持ちを味方に引き込むためならいくらでも出すさ。……ただ」
青年はふっと表情を緩めた。ここまで毅然としていた精悍な目に優しさが宿る。
「うら若いご令嬢が、暗殺者を直接対処する? 何か手立てがあるから言っているのだろうが、せめて接触する前に俺を頼れ」
「──!」
その言葉に、ピアニーはなんだか落ち着かない気分にかられた。
──なんだろう。『俺を頼れ』……リーサス領に残してきた部下アイビスも似たようなセリフをよく言うが。アイビスはもともと兄貴肌でいつも無理をする年下のリーダーを心配してくれていただけだ。でもこの『子爵』は、そうではなさそうな…………どうしてこの人は、自分にこんな優しい言葉をかけるんだろう。
ぎこちなく笑い返す。
「…………嬉しい限りでございますわ、スレイン様」
「あー、いや。……レインだ」
「え?」
「その名で呼ばれるのは慣れない。レインと呼ばれたほうがまだましだ」
心なしかムスッとした口調。
貴族男性が、未婚女性に自らを愛称で呼ぶことを乞うなんて珍しいことである。慣れないなんて理由で許すものではない。
(え……えええ?)
さすがに意図するところを察したピアニーはなんだか顔が火照るのを感じた。
子爵の傍にいる単眼鏡の側近が顔を背け歯を食いしばって笑いを堪えている。ピアニーの後ろに立つ金髪騎士はどんな表情をしているんだろうか。……失礼がないといいが。
──こういう好意を向けられる経験は初めてではない。言及しないがむしろ多い方だと思う。とはいえ、慣れるなんてことはなく。
(──なおさら今はいつも通り令嬢として満点の振る舞いに徹さなければ!)
ピアニーはにっこりと微笑んだ。
「──承知いたしました、レイン様。では私のことも、ピアニーとお呼びくださいませ」
「ああ、よろしく、ピアニー。……ところで」
緩み気味の表情を苦労しながら引き締め直して、その青年……レインは最後に胃が重たくなる質問を投げかけてきた。
「そなたの護衛に特殊な力を持った黒髪の少年と、銀髪の男がいただろう。一緒ではないのか」
「…………二人もすぐ側におりますわ。だって、薬師に護衛が何人もおりましたら、変でしょう」
彼がそれに納得したかは不明だが、滝壺から発見された毒の木の引き揚げが終わったと伝令が走ってきて、話はそこで開きとなった。
† † †
『本当にその数で砦を落とすなんてねぇ〜〜恐れ入ったよ』
青い体躯の丸っこい竜が、ごろごろしながら人語を発する。朝陽を受けて背の突起周りの鱗がキラキラ光った。
『最後は水に細工をしただけだけどね』
ラズは愛馬の背中にもたれながら、疲れた表情で息を吐いた。一つ誤算があるとすれば、公爵軍が水源を汚染されたままのはずの臨時要塞を放棄しなかったことだ。通り過ぎて裾野の手前まで来るかと思ったが、攻めにくい砦に陣をはられてしまった。
そしてこの要塞には、他二つの砦から退却してきた公国軍も合流している。その規模は延べ二万人はいようか。
都のものとよく似た長城……大人の身長の三倍くらいある土と岩の壁の上には、移動式の弩砲が通れるくらいの幅がある。中には指揮官用と思われる煉瓦造りの館があり、それを取り囲むように木造の平屋が立ち並んでいる。有事の際には屋根に上がれるような平たい作りだ。元々の砦のキャパシティを超えているのか、そのほかにも水源に沿って林の中に天幕がいくつも張られている。
(あのどこかに、リン姉やピアニーたちがいる)
<犬>と会ったのは昨日。話はそろそろ伝わっただろうか。
ラズが彼らと仲間だということを知るのは例の商人たちと、宿場町を守った子爵とやらと、都の検問官……とにかく、疑われることがあれば勘違いで通さないといけない。そうしないと、彼女らに危険が及んでしまう。
(でもこの交渉ができるのは言葉が分かるシャルか、僕しかいない)
覚悟を決めて、深呼吸する。
空は快晴、今日も暑くなりそうだ。
『──<爪の竜>、よろしく』
『はいはーい♪』
ばさり、と<爪の竜>が翼を打つ。高く飛翔するのを見送って、ラズは愛馬の背中に跳び乗った。
いつもお読みくださりありがとうございます。
この話、ややこしいんですが、お目当ての王子様が変装して目の前にいることに、ピアニーはまだ気づいてません。という話です。