平原の国(19)……爪の竜
公国の都は、突如として現れた青い怪物の噂で持ちきりだった。
『城壁に立った二人が怪物を喚んだ』という説が有力だが、目的が分からず憶測を呼び、何か凶事の前兆ではないかと騒ぐ人々もいた。
「──あのね! どうしてそんなに落ち着いてんの!?」
昼食後の紅茶を上品に口にするピアニーに痺れを切らして、リンドウが卓を叩く。
頭の横でお団子に結わえた綺麗な黒髪は少し乱れ、彼女が朝からどれだけ気を揉んだのかを物語っている。
「リンドウ、気持ちはとっっても分かるから」
ピアニーはじっとカップの波紋を見つめた。
都の人々には遠目で誰だか分からないとしても、毎日会っている仲間がそれを見間違える訳がない。耳に残る必死な声──そして真っ赤な、大きい顎。指先が震えそうになるのをじっと堪える。
落ち着いてなどいないのだが、取り乱してもいない。……努めて平静に振る舞うよう心がけていただけだ。
リンドウの不機嫌にはもう一つ理由がある。
実は、彼女は朝からお菓子を作っていた。これは気持ちが落ち着かない時のジンクス……生地と一緒に考えがまとまるような気がするからかのだが、リンドウからしてみればさぞ理解に苦しむことだろう。
爛々と睨んでくる吊り目とは視線を合わせず、静かに息を吐く。
「……ラズなら無事よ」
あの時、ラズは反応が鈍かった。……まるで降下してくる丸い怪物を待つように。歯を立てたようには見えなかったし、人語を操るような生き物が、容易く対話相手を食べるだろうか。
とはいえ、事態は芳しくない。
だって、彼があんな目立つことをするなんて、それほどあの怪物と対話しないといけない理由があったはずなのだ。あれは多分、竜人の言葉……だったらあの巨大な怪物は噂に聞く『竜』だろう。
リューン公爵軍は竜人征伐に出ている。
そして都に現れた竜と、攫われたラズ。
繋げるのは早計かもしれないが、竜と竜人はやはり切り離しては考えられない。
公爵軍と竜人の交戦が始まるとすれば、おそらくは明後日。もしそれに、ラズが巻き込まれたなら?
(今から怪馬で追えば、間に合うかもしれない──)
リンドウは剣呑な声色でさらに言い募る。
「あんた、ラズと喧嘩してるからって、探しに行く気すらない訳?」
「……気づいていたの?」
「見てたら分かるよ、そりゃ」
ピアニーは肩をすくめた。
今朝もピアニーはいつも通り振る舞っていたつもりだが、ラズとは一度も目が合わなかった。それに気づきつつも、子どもの喧嘩だと今まで触れないでいてくれたのだろう。
「……喧嘩しているかどうかなんて関係ないわ────ここまで来て、ラズを見捨てるなんてありえないもの。だけど、もう少し待って」
「待つって……どういう」
「お嬢様」
音もなくテーブルについた犬面の女性に、リンドウがぶっとお茶を吹いた。
「突然現れないでよ!! いつもいつも」
特に今日のリンドウは余裕がない。
その女性……<犬>はボソボソとごめんなさい、と呟いてから、午前中調べてきたらしい情報を口にした。
曰く、あの怪物は戦場の上空にはこれまでたびたび現れていて、山地に消えていくことから一部では竜人の使い魔だと言われていること。──そして。
「レインドール殿下暗殺の依頼を仮面の青年が請けていたとのことです」
「……だから、表向きは医療薬の商人として補給部隊に同行している訳ね」
リンドウがはっとしたように前のめりになった。
「そ、それなら……ビライシェンってやつが公国軍を倒してくれて、竜人のところにいるラズは戦いに巻き込まれない?」
「そうかもしれないけれど────それでは根本的な解決にはならないし、そろそろビライシェンを止めないと。それにこれは、公爵様に恩を売るチャンスだわ」
ピアニーはにっこり笑って立ち上がった。
「行きましょうか──国境に」
† † †
雑木林に囲まれた空き地に、焚き火の煙がいくつも上がっている。
小高い崖の上でそれを見下ろしながら、ラズは骨つき肉を頬張った。今日の夕食はこれだけだ。育ち盛りには物足りない。
土砂崩れに遭った竜人たちが平地に降りて約二日の間、近隣の農村から食糧を奪っていたらそうだ。百人近い人数を養うためにどうやっていたか……はあまり考えたくない。
朝からずっと、この辺りで食べられる木の実の見分け方や野生動物の調理方法などを伝え、今日は自分たちで狩りや採集をしてもらった。総出で作業したおかげで三日分ほどの食糧は確保できたはずだ。
ちなみに、シャルグリートの属する竜人<牙の民>の総人口は三千人くらいだったが、この<爪の民>のもともとの人口は六千人を超えるらしい。竜と族長の傘下に残ったのはそのうち二千人。大規模な土砂崩れにより六百人ほどが生死不明となった。生き残りのほとんどはデイドレッドとやらが勧誘して吸収してしまったため、ここにいるのは百人ほどなのだそうだ。
序列がはっきりしていて殺伐とした社会ではあるが、食事風景は穏やかである。下位の竜人ほど労働に対して食事が少ないが、文句が言えないのでトラブルにならないだけなのかもしれない。同年代の子どもも何人か見かけたが、避けられてしまって何も話せなかった。
(……みんなは、どうしてるかな)
あんな風に姿を消したから、心配していることだろう。帰らなければ、という気持ちもあるが、竜人たちの問題を解決する方が先だ。
肉が無くなった骨を錬金術で脆くし、気合いに任せてガリ、とかじったとき、ばさり、と羽音が耳を打った。ラズはぱっと立ち上がって身構える。
『──あれ、気付かれちゃったあ?』
『そう何度も術中にはまるかっての』
<爪の竜>クレイテンスが操るのは空気中の窒素…………知らぬ間に酸欠状態にされてしまうからたちが悪い。昼間にはこの友好的な口ぶりに騙されて、危うく食べられてしまうところだった。──もう絶対に油断してなるものか。
モモンガのような飛膜を畳んで草の上に降り立った巨大な青い竜は、紫に煌めく大きな瞳をぱちぱちさせた。
『ねえねえそれで、策って何? そろそろ教えてよお』
『──……ああ、うん』
ラズは今日は動きっぱなしでほとんど休憩していないし、もう少し考える時間が欲しい。だって日中は延々と竜人たちに食糧収集の講釈を垂れていたのだし。
丘に女族長やシャルグリートたちが集まってくる。
注目されるのを感じて、疲労感を振り切るように頭を振ってなんとか気持ちを切り替える。
『……結論から言うと』
ラズが続けた言葉に、青竜たちは目を点にした。
『公国と交渉をして、この土地一帯を竜人に分けてもらおうと思ってる』
『『『……』』』
『はいー??』
青竜だけが、甲高い声をあげて首をこてんと傾けた。
人間と交渉など、ありえない、と言いたげだ。何十年、ひょっとすると何百年も相容れなかった両種族が、土地を分け合うなど考えられるだろうか……しかも、この紛争地帯で。
『ラズくん、実は頭悪い子?』
『最後まで聞いて欲しいな。……この地域に、公国軍の砦が三箇所ある。それを、今晩から明後日夜半で全部制圧するんだ』
ラズは構わず考えたことを口にする。
ぴっと立てた三本指に、何人かが呆れた顔をした。
移動を考慮に入れると、交戦に使える時間はわずか数時間。いくら竜人といえど、百人足らずで軍事拠点をそんな短時間で落とすなど無茶もいいところ。
それでも急ぐ理由は、公国軍が間近に来ているためだ。交戦が始まる前に、交渉材料を集める必要がある。
『砦の返還は、土地の譲渡の条件の一つとして使える』
青竜はめんどくさそうに後ろ足で首を掻く。
『もうさー、公爵食べちゃえばいいじゃん。そんで脅すっ』
『食べ……いや、権力のある人にきちんと命令してもらうことに意味があるんだよ』
『わざわざ砦を落とす理由はー?』
『その気になれば全部奪えるってところを示したほうが効果があるだろ』
『でもあとで要らないって人間に返すんなら、統治能力はないって言ってるようなもんじゃなーい?』
『ま……まあ、理由はそれだけじゃないし!』
口には出さないが、公国軍に荒らされた森の国の住民を一時的にでも解放したいのだ。そもそも、この国境付近では公国兵の搾取に反発や暴動が絶えないと聞いている。実情を確かめて、できることなら助けになりたい。
『──で、竜人が国境を占領するのは大悪党シャルグリートの命令で、穏健派のお姉さんたちはそんなの望んでないってお芝居をする』
『お、おい! なんで俺がっ!』
急に話を振られたシャルグリートが泡を食ったように喚く。
『だって悪役はこの地を去る人がやんないと。代わりに交渉してくれるんなら、僕がやってもいいけどさ』
『うっ……! ねぇよ!! でも俺より弱い奴に倒されるフリなんて俺には無理だぁぁっ!!!』
『そっちかよ。だったら大丈夫、<爪の竜>さんにぷちっと踏んでもらうから』
『竜にヤられるなんざもっと嫌に決まってんだろ!!??』
『ちぇ。分かったって……なんか考えとく。──で、』
顔を背けてシャルグリートの追求を振り切り、ラズは今度は族長の女性に向き直った。
『目の前の公国軍は<爪の竜>さんとシャルに任せて、砦は僕が落としてこようと思ってる。五十人くらい手伝ってもらえると嬉しいんだけど』
『はぁ? いくらアタシの命令でも、人間についてく腑抜けはいないよ』
族長は話にならない、というように肩を竦める。彼女から命令を出してもらっても、その竜人たちがラズを上位だと思っていなければ、ラズの言う通りに動いてはもらえない、ということだ。
『……まあ、そう言われると思ってた。戦って力を示せってことだよな』
疲れたため息を吐いて、ラズは背の高い竜人たちを見上げた。
白黒つければいいなら話は単純だ。今のラズに彼らを倒せるかどうかは分からないが。
ラズの後ろで<爪の竜>が髭をざわざわと揺らした。すごく文句言いたげだ。
『待ってよー! ボクのお気に入りに怪我させたら族長でも許さないよおっ!』
『<爪の竜>っ……! あんた本当にその人間を選んだっていうの!?』
『ぶぶー! ボクがきみたちを見捨てなかったのはきみのお爺ちゃんとの義理であって、きみ自身の為じゃないんだよ? もう新しいオモチャを見つけちゃったから、おしまいなの〜』
肉球のある後ろ足で耳の後ろを掻きながら、<爪の竜>は瞳孔をきゅうっと細くして竜人たちを見回した。愛くるしい見た目に秘められた、底知れない恐ろしさに竜人たちは息を呑む。
一方ラズは珍しく不機嫌丸出しの口調で<爪の竜>をつっぱねた。
『僕はぜぇっっっっったいに、<爪の竜>のオモチャにはならない』
『ええ〜〜……君にとってもいい話じゃなぁい』
『<牙の竜>の方がまだまし』
『あんな堅物のどこがいいのさぁ』
『まだ硬派な方が信用できるっていうか』
『なんつー話してんだお前ら……』
完全に話題が逸れてしまった。
とにかく、竜人の戦力を得る為にはラズが力を示す必要がある。族長に勝たなくとも、中堅くらいに食い込めばそれより下位の指揮権は得られるはずだ。とはいえ、<爪の竜>の手前戦って消耗し、隙を突かれるのも避けたい。……まだこの竜に対しては油断できない。
青竜を一瞥して女族長と再び向かい合う。そして強気ににっと笑ってみせた。
『戦いから逃げるヘタレだと思われたまま、作戦がうまくいくとも思えない。だから、ゲームしよう』
宣言しながら手近な木の皮をひっぺがす。ラズの<波動>に包まれたそれはぞぞ、と形状を変えて、徐々に丸く型取られていく。
『籠球は竜人の共通競技だよね? 一対一、三点先取した方が勝ちでどうかな』
竜人たちは顔を見合わせた。
◆スピンオフあります◆
喧嘩して不機嫌なラズが竜に食べられそうになる話(R15)
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