平原の国(16)……爪の竜
すっかり明るくなった、石造りの豪奢な宮殿の、主専用の勝手口。
馬から颯爽と降りた甲冑の男に執事姿の家人が並び恭しく礼をとった。
「おかえりなさいませ、レインドール様」
「留守の間、変わりは?」
「明朝の報せで、国境で小競り合いが始まっているとのことです」
「またか……分かった、ご苦労」
重い鎧の留め具を外し、隙間から入っていた雨水を拭って正装に着替える。
どこか気品のある鋭い目つきに、整った顔立ち。癖のない深い鳶色の髪には、ところどころ金色のメッシュが入っている。後頭部で雑に結っているから、ちょうど縞模様になって、獰猛な虎のような印象だ。
執務室に入ると単眼鏡の補佐が振り返った。朝の挨拶をしてから、尋ねてくる。
「何か、機嫌がよろしいようですね? お疲れのはずでしょうに」
「そうか? ああ──そういえば」
主人の口元が緩むのを見て、補佐は驚いた顔をした。
昨晩会った少女……辺境の男爵家の養女と名乗った彼女が、仲間の少年たちの異能を見逃す条件として差し出したのは、一冊の本だった。聖書、と言っていたか。
そして彼女は言葉巧みに一つの情報を彼に売った。西方の民衆の間で密かに広まっている信仰、そして教主たる全能の存在について。夢物語かと思わせる内容であったが、それが西方で実際に起きていることならば、荒野に興った<聖教国>とやらが呑み込むのはおそらくリーサス領どころではないだろう。
聡く、美しい娘だった。そして彼を前にして一歩も怯まず、艶やかに微笑んでみせたのだ。
(「あら、ささやかな御礼ですと最初に申し上げましたわ。思慮深きリューン子爵様」)
傍に控える金髪の青年を義兄だと紹介したが、青年の振舞いは完璧に従者だった。男爵家出身の腕の良い騎士を従える良家の子女……ということは家格は子爵以上。正体は分からないが、下手に手出しすれば家同士の抗争を引き起こしてしまう。あの言葉は、『リューン公国の重役として、軽率なことはしませんよね?』という牽制のつもりだったのだろう。
「フレイピアラ、という名の貴族令嬢が──いや、なんでもない」
それすら偽名かもしれない。あれほどの人物が、なぜ身分を隠しこの領にいる──目的はなんなのか。
「珍しいですね、レインドール様の口から女性の名前が出るなんて」
「……そんなことはないだろう」
──気になるのは別に女性だからではないのだが。とはいえ、雨に濡れた艶っぽい姿を見ていなければ、ここまで執着心が芽生えることは無かったかもしれない。……また、相見えたいなどと。
「公妃くらいはご自身でお選びになっても、父王陛下はお許しくださるのでは?」
「話を飛躍させ過ぎだ、阿保め」
チッと舌打ちして執務室の豪奢な椅子にどかりと座る。単眼鏡の補佐は主人の顔色を窺いながら、口を開いた。
「ところで、国境の件、竜人が関与しているようです」
「何──」
「また、青い竜の目撃情報もございます。いかがいたしましょう──レインドール殿下」
† † †
雨上がり。大山脈にかかっていた大きな虹も消え、日輪も天頂を越えた頃。
ラズたち五人の姿は都の中にあった。ちなみに三頭の怪馬は都の西の郊外にある農家の倉庫に隠してある。この農家は<犬>が事前に買収してくれて、都にいる間は怪馬たちを匿ってもらうことになっていた。
商人たちとは、朝に一旦別れた。報酬の受け取りを兼ねて、後ほど都にある彼らの商店を訪ねる予定だ。
リューン領の都は、円状の長城に守られている。長城の東が本丸で、南北と西側にも高い塔。さらに東側と西側は川が天然の堀となっていて、死角のないよく出来た城だ。ちなみに昨日の大雨で街道は増水し泥水が溢れていたが、東側の国境の低地に向かって流れているらしく、都市自体は冠水した様子がない。
戦時中のはずだが街の雰囲気は落ち着いていて、子どもの笑い声も聞こえる。ただ、住民の生活は質素だ。開戦して約半年、生活に必要な物以外は戦争のために使われている……ということなのだろう。
実のところ、都に入るのも苦労した。森の国の兵があちこちでテロを起こしているため、どこから来たのか分からない傭兵では通せないとさえ言われた。結局リゼルが見せた騎士爵の身分証と、武器の持ち込みは禁止という条件のもと、多額の交通料を支払いようやく中に入ることが許された。
宿を決めてから領主城に行ってみたのだが、城内は慌ただしい雰囲気で、フリッツ家の紹介状を出したものの、お目当ての公爵には会えそうになかった。
「出征なされた?」
「ええ、国境の小競り合いを治めるために、つい今しがた」
「……そうですか」
「ええ、お戻りになられたら連絡しますので宿にてお待ちください」
都から国境まで馬で飛ばしても三日かかる。往復を見込むとおそらく一週間以上……そんなに長い間都に留まれば怪馬が運動不足によるストレスで大暴れしてしまう。どうしたものか。
夕方まで自由行動と決めた後のこと──何にしても情報を集めたくて、兵舎の方に足を向けたラズを、ピアニーが呼び止めた。ラズの腕を引き、耳に口を近づけ、小声で囁く。
「ちょっと、軍事施設に忍び込んだりして、バレたら一発で死刑よ!?」
「そんなヘマしないよ」
彼女の手をやんわり振り解いて、ラズは目を逸らした。
今朝から事務的な会話しかしていない。──いつもどうやって返事していたっけ。
「捕まれば一緒に検問に通った全員ただじゃすまない……だろ。分かってるよ」
「分かってないっ……誰かじゃなくてあなたのことを心配しているのに!」
ピアニーはなお、感情のこもった目で訴えかけてくる。
いつものラズなら、それを嬉しいと思ったはずだった。
──そうやって心を許して、手放しに信用して。彼女の本当の考えを見抜けなかった。
「────それって、演技?」
「……え?」
なおも伸ばされた手首を掴んで押し戻し、低く囁き返す。
「僕が余計なことを知って、想定外な動きをすると困るから?」
「──違っ……」
彼女は泣きそうな顔で俯いた。
「……っ」
これではラズが虐めているみたいだ。こんな顔をさせたくない──この子の力になりたい、ずっとそう思ってきたはずなのに。
長いまつ毛を伏せたままの彼女の声は嗚咽を堪えるように震えていた。
「…………離して。もう引き止めないから」
「──あっ」
後ろの壁に押し付けるような体勢になってしまっていたことに気づいて、慌てて身体を離す。
「ごめん、言い過ぎた」
ぶっきらぼうな言い方しかできなかった。
そそくさと踵を返す。背中ごしに、切れ切れに小さな声が届いたのを、ラズは聞こえなかったふりをした。
いきなり訓練場の塀を越えるほど無謀でもなく、近くの通りをぶらつく。
この辺りは職人の工房だろうか。武器も薬も軍需のためか店頭には何も売り物がない。お金に変えるために作っていた貴金属類は検問で徴収されたから、買い物するでもなく見て回っていた時、見覚えのある赤銅色の煌めきが人並みにチラついた。
(あれは──)
勘違いかもしれないが、見失わないようさりげなく後を追う。
女性と変わらない背丈に、愛嬌のある童顔、さらりと一房背中に流した髪。
その人物は金物屋の看板が下がった建物に入って何かを加工する話をしている。声を聞けば、疑念は確信に変わった。
和やかな雰囲気で言葉を交わす姿は、四ヶ月前に領の転覆を企んだ仮面の組長とは結びつかない。どちらかといえば、初めて鉱山都市で会った時のような気の弱い青年のようだった。
商談を終えた青年の後を追う。
そして馬車の通りで立ち止まった隙に、そっと近づいて脇に立ち、声をかけてみた。
「少し、話せないかな。できれば穏便に」
「────!!」
全く気づいていなかったのだろう、青年は棒立ちになって視線だけでラズを見下ろす──と言っても身長差は指一本分くらいだが。
ラズは今髪を染めているし声もまた少し低くなった。とはいえ、顔立ちからさすがに誰か分かるだろう。
「どうして──ここに」
「僕個人の用事で。そっちが色々やってることは噂で聞いてるよ。────なんで?」
行き交う馬車、道を渡る人々が立ち止まったままの二人を怪訝な顔で一瞥していく。
「……オレが君と仲良く話すとでも?」
青年の声は低く、固い。さっきと打って変わって武装組織の首領らしい迫力があった。
話すことなどない、と言いたげな言葉に、ラズはさらりと返答する。
「仮にあなたが僕の破滅を望んでるんなら、今は休戦でいいんじゃないかな」
「どういう……意味だい」
「僕は今、故郷に向かってるんだ。森の国の、巨人のところ」
喋り過ぎだろうか。しかし目的を聞き出すには警戒心を解く必要がある。ピアニーの予想通り彼の狙いが平原の国の転覆ならば、ラズが森の国出身と聞けば敵対視しなくなるかもしれない。……ラズ個人を目の敵にしていなければ。
「だから?」
冷たい声色に、内心歯噛みする。これしきではビライシェンから情報を引き出せないようだ。諦めるしかないか。
「……ちぇ。言ってみただけだよ。都はすぐ出るし、もう会うことはないかもね────あ」
もうひとつ、確認しておくことがあったことを思い出す。
「ユウちゃんは元気だよ。ついてきたがったんだけど、さすがに危ないからまだ荒野に居てもらってる。……それでいいのかな」
「……」
青年は石畳に目線を落としてしばらく黙っていたが、やがて答えないまま通りを横切り歩き出した。
ラズは立ち止まったまま、その背を見送る。
赤銅色に光る髪と目。小人の少女ユウとは色味が違うが、赤系統であることは共通している。決めつけるのは早計かもしれないが、血縁だとすれば、ユウの異常な術の才能の説明がつくように思うのだ。ファナ=ノアと同じ、混血だからなのではないかと。
あの青年が関係を否定するなら、それはそれで構わない。ユウ自身も分からないと言っていたし、無理に引き合わせる必要はないだろう。
(あんなに動揺してたのにな──)
ラズは愛のある親子関係しか知らない。叶うなら……今だって両親に会いたい。わずか五歳あまりの女の子を、捨てるように極寒の荒野に追い出して、何を考えているのか全く分からない。
雑踏にその気配がなくなる前に、尾行を再開する。あの人物が危険であることには変わりないし、もう少し、動向を掴んでおこう。
ラズくん。ひとはそれを壁ドンというのだよ。
(落書きあります↓)
https://twitter.com/azure_kitten/status/1481241328004464641?s=21