平原の国(15)……旅路
深夜に関係なくわんわん泣く赤子をあやしながら、ラズは重いため息をついた。故郷で短期間ベビーシッターしていた経験があるのでやり方は知っているが、剣を振り人死にをたくさん見た直後にこれは、心がひりつく。
騎士たちのいる場から遠ざかってから、全然納得いっていなかったラズはこっそり宿まで戻ってきたのだった。そして、現在に至る。
赤子の母親やリンドウは疲労に白旗を掲げ隣の部屋で居眠り状態。商隊の護衛二人は荷の確認に出ているから、同じ部屋にいて起きているのは商人だけだ。
「……みんな無事だというのに、顔色が冴えないな」
「…………今、宿の外ではきっと後片付けをしているんだ」
ささやくように低く返すと商人は黙って首を振った。
時折、不穏な悲鳴や金属音が薄い木窓の向こうから聞こえてくる。
商人は気にするなと言いたげだが、胃の底で澱む想いを吐き出さずにはいられない。
「捕縛できる人数なんて知れてる……僕が倒した人たちのほとんどは、きっと殺される」
「……君のせいじゃないさ」
「そうだね。森の国の兵士たちも、僕に助けられたいとは思ってないだろうし……けど、僕は止めたかったんだ」
腕のぐずぐずと泣く赤子を見つめながら暗澹とした気持ちを溢す。
「僕にだって何かできることがあるはずだと思ってた。けど、また……だめだった。殺し合いなんて嫌だ、何にも楽しくない。おじさんはそう、思わない?」
「私は……」
商人が何か言いかけた時、カチャリ、と鍵の音がして、開いた扉からリゼルが顔を出した。
濡れてぺしゃんこになった金髪を後ろに流し、寒そうに身震いする。
「戻ってたのか。……ああ、嬢は隣の部屋だぜ」
「話せるのかな」
「そーだなぁ」
リゼルは濡れた上着を脱ぎながら壁をトントン、と叩く。赤子の泣き声が響く中、微かになあに、と少女の声がした。
「ラズが話したいってよ?」
「──……」
少しの沈黙の後、壁の向こうから「着替えるから待って」とだけ返事があった。
商人の腕の中に戻った赤子が泣き止んだ頃、部屋のドアをノックする音がした。
ゆっくりとドアを開け、入ってきたピアニーは、リゼルが勧めた椅子に座ってから口を開く。
「あの騎士は、公王に仕える子爵だそうよ。取引は上手く行ったから、もう隠れなくて大丈夫」
「何もされなかった?」
「……? ええ、何も」
思わず口をついた質問に、彼女はきょとんとして首を捻った。後ろでリゼルが引き攣り笑いする。
「まさか……あれが天然」
「リゼル様?」
本当に意味が分からない顔で彼女はリゼルの顔を見上げる。しかし事情を全て知っていて説明する気がなさそうな従兄の様子に、すぐに表情を元に戻した。
「……それで、さっき謝ってたのはなんだったんだよ」
ラズが問うと、彼女はゆっくりと話し始めた。
「…………今晩この宿場町を狙って襲撃があることは、<犬>さんが掴んでいたの。民間人に犠牲が出て、私たちでは手に負えないことになる……。だから、公国兵に情報を流したの」
「え? 待って──いやそれ、おかしくない?」
さっきから、胃の辺りがひりついて落ち着かない。
──掴んでた、って、いつ、どの時点で。
しかし仮に、ピアニーが事前に知っていたのなら、あんな無防備な格好と細剣一振りで雨に打たれていただろうか。
ラズがそう言うと、彼女は目を逸らした。
「最初は、あなたの目も誤魔化すつもりだったから。……だけど、結果を目の当たりにして思ったわ、私は間違っていたのだって」
「…………」
「結果的に、あなたを苦しめることになってしまったこと……本当にごめんなさい」
「…………」
ピアニーが深く頭を下げる。
ラズはどんな顔をしたらいいか分からなかった。
彼女は今日もいつも通りで、そんな重大な隠し事をしている素振りなんて少しもなかった。だけど演技が上手い彼女のことだから────ラズは単に騙されていただけなのかもしれない。事前に分かっていたはずの重大なことも知らされず。……そこまで信頼されていなかったことが、少なからずショックだった。
それに、多分──
(…………他にも、隠していることがあるはず────)
それは直感だったが、口に出すのは憚られた。訊いたところでその答えが嘘か本当か、見分ける自信がなかったからだ。
「…………僕が、……頼りないせい、だろ」
今自分がどんな表情をしているのかよく分からない。彼女の表情も。
目を合わせることなくじっと考えた後、彼女は首を振った。
「私の考えが甘かったのよ。本当に、ごめんなさい」
耳を塞ぎたい衝動をじっと我慢して、ラズは顔だけ背けた。────謝られたら、赦さないといけないじゃないか。
「もういいよ、分かったから──。こんな時間に悪かった。スイのところに戻るよ」
喉から漏れた低い声は、どこまでも平坦だった。
† † †
女性陣の部屋に戻ったピアニーを出迎えたのは、顔の半分を犬の面で隠した女性だった。
薄暗いランプの灯りに半身を照らされ、表情が分からないのになんとなく陰鬱な印象を受ける。
「……なあに? そんなところに突っ立って」
その前を素通りして寝台に腰掛けてから、ピアニーは尋ねる。
「故郷に帰っていいのよ、って言ったでしょう?」
にっこりと笑ったつもりだったが、面の女性……<犬>はびくりと肩を震わせた。
「……わ、わたしは」
小さな声を震わせて、跪く。彼女は近くで寝息を立てている若い母親より少し上……二十歳になると以前聞いた。
「お嬢様に雇われた、隠密です」
「だけど、森の国が憎いのでしょう? 私に内緒で密告して、皆殺しにしたかったくらいに」
彼女は良かれと思ってそうしたのかもしれない。
しかし、<犬>が潜伏している兵のことを直接ピアニーに報告してくれれば、こちらから仕掛けることもできたし、ラズの理想を叶えられたかもしれないのだ。
しかし彼女は、わざわざ遠回りして都に通報した上で、襲撃の直前に戻ってきた。
「でも……! お嬢様は──どうしてさっき、ラズ殿に本当のことを言わなかったんですか」
彼女の悲痛な問いかけに、ピアニーはああそうか、と納得する。さっきもしピアニーがラズに<犬>のしたことを言っていれば、彼女は今頃身を隠していたかもしれない。
ピアニーは表情を歪めた。
「お友達のことを告げ口して、悪く言いたくないのは普通じゃない? ……後は、支えてくれる人の不始末は自分の不始末と考えただけ」
<犬>の責を問い、仲間の前で自白させてもよかった。しかし、あがり症の彼女にとってそれは最も恐ろしいことだろう。夜襲があることを騎士に通報しただけにしては、過ぎた罰だと思う。
犬面の奥の目は暗がりで見えない。彼女は素顔を見られるのを極端に嫌う。その瞳がどんな色をしているのかすら、ピアニーは知らない。
彼女は面を床に擦り付けて深く頭を垂れた。
「森の国に恨みがあるというのは誤解です……。だって犯罪者が、のうのうと母国に帰って幸せに暮らすなんて、そんな話あっていいと思いますか?」
「……」
ピアニーはじっと<犬>を見下ろした。
彼女は、ラズに賛同していない──町を襲って民間人を害する兵士たちなんて死んで当然だ、だから通報した、とそう言ったのだ。
ピアニーだってその考え方が理解できないこともない。数ヶ月前までこの国の侯爵家であったし、地方は違えど自国民を思う気持ちや他国に対する排斥感情も持ち合わせている。
(だけど……そんな固定観念では、ラズの側にいられないし)
彼にとっては敵も味方もなく、等しく自由に生きる権利があると、きっと本気で考えている。そんな価値観に憧れて、ついていきたいと思ったのだ。
ラズの心の奥底にあるのは、博愛の精神でもなければ、大層な正義感でもない。たぶん、行き場のない罪悪感……それが故國を離れた理由であり、小人たちを助けた理由ではないだろうか。
その暗い感情が、<犬>の面の奥にも揺らいでいるように、ピアニーには思えた。
「聞き返して申し訳ないのだけれど、あなたはどちらなのかしら。被害者? それとも──加害者?」
「…………」
長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと唇を動かした。
その言葉に、ピアニーは深く息を吐く。
そして、寝台から降りて<犬>の肩を抱きしめた。
「犯罪者が幸せに暮らすなんてあっていいのか、と訊いたわね。……本来、刑は正しく執行されるべきだわ。けれど、量刑なんて執政者次第でいくらでも変わるのよ? だったら、何を罪として、何を罰とするのが妥当かしら?」
自分より大きな背中をあやすように撫でながら、ピアニーは続ける。
「──自分で決められないというなら、私に尋ねなさい。自分で決めたルールが私と違うと思うなら、さっきみたいに正々堂々ぶつかってきなさいよ。それができない限り、私はあなたを信用できないわ。……二度目は無いわよ」
「……お嬢様」
ぽたぽたと、犬面を伝って涙がこぼれ落ちた。
そのことに、内心驚く。──まさか、泣き出すとは思わなかった。この隠密の女性には、ピアニーからの解雇の言葉が何よりショックで、免罪の言葉が何より嬉しかったのかもしれない。
一度なくした信用を、その態度一つで許せる訳ではない。でも、歳の離れた友人として、彼女のことを突き放しきれなかった。
困ったような笑みを浮かべて、ピアニーは<犬>の手を引いて立たせる。
「とりあえず、朝まであと少しだけれど……一緒に寝る?」
「────! は、はい゛……。あれ、お嬢様、泣いて……?」
顔を上げた<犬>が鼻声で尋ねてくる。
「え……?」
──泣いている?
つう、と頬に水分が流れていくのをピアニーは慌てて指で拭った。──本当だ。
「……もらい泣き、してしまったみたい」
目頭が熱い。
どんよりとした気持ちの正体に気づくのにそう時間はかからなかった。
「…………ねえ、どうしよう──ラズに嫌われちゃった」
口にした途端、さっきまで堪えていた何かが溢れた。ぱたぱた、と水滴が落ちて木の床にしみを作る。
去り際の彼の感情のない目。『もういい』……ピアニーの言葉などもう露程も信用できない、そんな深い拒絶。
思い返すほど、決壊した涙腺から、止めどなく涙が流れ出してくる。
<犬>はひどく慌ててピアニーの肩を引き寄せた。
「お嬢様っ……、ごめんなさい……ごめんなさい………!!」
「う……ひっく、も……だめかも……ぐすっ」
頭を撫でてくれる手の恨めしさより、彼が見せた暗い瞳に対する悲しさの方が大きい。失った信頼を取り戻すのは、生半可なことではない予感がした。
ザアザアと降る雨が、嗚咽が掻き消す。
結局その日、ピアニーは一睡も出来なかった。




